寄稿 一士官候補生の戦後の体験 難波 收

 本稿筆者の難波收氏は私どもの友人で、オランダ・ユトレヒト市在住の天文学者である。本稿は去る六月二九日、オランダのナイケルクという町で開催された、戦争中の日蘭関係を考える会「日蘭対話の会」第五回の集会にて、難波氏が講演された邦文要旨である(講演は英語)。難波氏の了承を得て、インターネットに掲載させていただいた。
 なお、難波氏の講演は当地で反響を呼び、英文要旨のコピー配布の希望が参加者より寄せられたという。また、「日本人からこんなはっきりした意見を聞くのは初めてだ。」という声も聞こえたとのこと。


寄稿

一士官候補生の戦後の体験

オランダ・ユトレヒト市 難波 收

 私は大正十五(一九二六)年五月の生れです。この年十二月二五日に大正天皇は亡くなり、皇太子・裕仁が即位して年号は昭和となりました。天皇裕仁の治世は六二年続き、私は長い間昭和と共に生きてきました。といっても、私は昭和三五年、一九六〇年にオランダに来てからここに住んでいるので、昭和後半の日本のことはよく知りません。


 私は昔の典型的な軍国少年で、昭和十五年、中学一年を終えると共に広島陸軍幼年学校に入校しました。将校となるための学科や訓練を三年間受け、次いで陸軍予科士官学校(いわゆる陸士)へ、さらに陸軍航空士官学校に進みました。当時は現人神・天皇への絶対的忠節の時代でした。戦況が次第に不利になっても、大抵の日本人は神国の最後の勝利を信じていました。我々士官候補生は誰もが天皇陛下と御国のために身を捧げる覚悟でした。だから、一九四五年八月十五日の正午に天皇陛下の終戦のお声を聴いたときには、非常なショックを受けました。あゝ大日本帝国は史上初めて降伏したのか、何たる屈辱ぞ! 私達が整備訓練を受けていた戦闘第一戦隊の大きな飛行場で、私は暫く呆然と立っていました。


 私達は直ぐ学校に戻りました。航空士官学校は二週間後に解散となり、候補生は帰郷させられました。私達は数ヶ月後に少尉任官を控えていたのですが、今や目的は消え、少年時代は失われました。敵に対して一発の弾を撃つこともなく戦いは終わり、五年と五ヶ月の真剣な勉強と訓練は一体何のためだったのか。これから何をなすべきか。戦後の数ヶ月の間は、私には真っ暗な洞窟の中で手探りで出口を求めているような感じでした。可笑しいでしょうが、私の第一の人生は一九四五年の夏に終わった、そんな思いが今でもするのです。


 幸いなことに、一九四五年の末に、陸軍士官学校と海軍兵学校の修業者は私達の期まで大学受験の資格が与えられ、私は一九四六〜一九五〇年の間、京都大学で宇宙物理学を勉強することができました。その間に日本は連合軍に占領され、完全にマックアーサー元帥の総司令部GHQに支配されました。そして日本は軍国主義から忽ちアメリカ民主主義に変えられました。当時は生活も極めて苦しい状態でしたが、終戦はやはり解放でした。とは言え、政治的、社会的、そして特に思想的な急変が、人々の間に大きな混乱を生じました。昨日まで天皇中心主義を唱えていた人が今日はもうデモクラシーを説く、という例も少なからず見られました。戦争中の「真相」が続々と暴露され、ヒロヒトの責任も公然と論議されるようになりました。私も結局、天皇には、大日本帝国の統治者ならびに帝国陸海軍の統率者として、戦争および戦争犠牲者に対して大きな責任がある、と確信するに至りました。私には「君が代」は歌えません。

 戦後の日本の最も重要な変化は新憲法の制定である、と私は思います。その

  第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

は特に有名です。武器をもたない日本の安全は米国との条約によって保証されることになりました。ところがこの条文は、一九五〇年に朝鮮戦争が勃発し、GHQの強要によって警察予備隊が編成されるとともに、早くも破られました。この組織はやがて自衛隊に成長し、今や二〇万以上の兵員を有し世界第二の軍事費を使う軍隊に成長しました。自民党の支配する日本政府は常にアメリカに追随し、なし崩しに第九条をサボタージュしてきました。憲法前文で我々の希求するような、独立し中立で平和な国となる真剣な努力を、日本はしてきたでしょうか。

 国家主義者たちはもう長い間、日本国憲法を改正せよ、変更せよと主張してきました。あれは日本の文化や伝統を無視したGHQに押しつけられたものだ、というのが理由です。あの憲法の草案がGHQによって作られたのは事実です。だが新憲法は我が国会議員の圧倒的大多数により、自由な意志で熱狂的に採択されたものです。反対もできました。私の記憶では、現に衆議院で八人、貴族院で三人の反対者がありました。改憲論者たちはこの「事実」を敢えて無視し、日本を軍隊をもった「普通の国」に変えようとしています。

 二年前、天皇・皇后訪蘭の一ヶ月後、森首相は「日本は天皇を中心とした神の国」だと言い問題を起こしました。私も直ちに批判の一文を朝日新聞に書きました。

 今の小泉首相は、政治改革や経済の回復など彼が約束したやるべき事をやらず、すべきではない事ばかりに精出しています。例えば、昨年九月十一日の自爆テロの後、いち早く自衛隊の出動を法律化し、ブッシュの戦争を支援しています。国会で過半数を占める保守政党どもは、十分な議論もしないまま、小泉を支持しました。

 そして今、緊急事となっているのが「有事法案」です。もしこれが国会を通過したら、日本の戦争遂行への道が開かれることになります。例えば、アメリカがイラクを攻撃すれば、日本はそれに加担しなければならず、その際一般国民の生活や財産も蹂躙されかねません。国民が軍隊への協力を断れば、処罰を受けます。また政府が浅はかな判断で緊急事態だと発表すれば、自衛隊は直ちに展開できることになり、しかもその場所は日本の領域とは限りません。先日、福田官房長官は、日本が核兵器を持っても違法ではない、とさえ言いました。本日予定されていたスピーカーの信太さんが来られないのは、この法案を阻止する運動で大変だからだと、私は伺いました。


 皆さんお気づきのように、日本は又もや危険な道を歩みつつあります。それは政治だけではありません。私は昨年中学生向けの『新しい歴史教科書』(扶桑社、市版本)を購入したのですが、誤った記述が多いのに驚きました。今その一例だけを挙げます。それは七世紀の日本と中国との外交関係です。日本の最初の正史は西暦七二〇年に編纂された『日本書紀』ですが、隣の大国中国では、歴史は古くは漢の時代から新しくは清の時代まで連綿と書き続けられてきました。しかも一王朝の歴史は通常次の王朝によって編集されたので、その情報はかなり同時代的なものです。だから、永い中国歴史書の記録から、日本の史書には見られない古代の日本並びに日本人に関する貴重なニュースが見出されるわけです。

 この教科書は書いています。女帝・推古天皇の摂政である聖徳太子は六〇七年に隋の煬帝に国書を送り、そこに「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書いて、日本の対等の立場を強調した、と。この一節が『日本書紀』には無く、『隋書』(五八一〜六一八年)からの引用であることは、よく知られた事実です。ところが、現実に『隋書』に載っている話は教科書の記述とは全く異なり、この文を送ったのは男王で、姓は阿毎(アマ)、名は多利思北孤(タリシホコ)という。彼には妻と太子がある。その国には「阿蘇山あり。その石故なく、火起こりて天に接する」のです。阿蘇という活火山があるのは九州のど真ん中に決まっています。つまり、隋の皇帝に対して自らを「天子」と称したのは九州の王者なのです。実際、古田武彦氏の厳密かつ大胆な論証によると、中国人が西暦紀元前から七世紀終わり頃まで日本について記録しているのは(倭国・倭人として)、「九州王朝」のことであって、大和に位置する天皇家のことではないのです(『失われた九州王朝』朝日新聞社、一九七三年、のちに朝日文庫、その他の著書参照)。つまりこの教科書は、ここで真っ赤な大嘘を書いているわけです(私が昔々学んだ通り)。そしてこの嘘は他の歴史教科書にも共通です。

 言うまでもなく、あらゆる教科書は文部科学省の検定を受けています。この例については、歴史家は誰でも知っている事柄です。では何故、歴史家、教授・教師、そしてマスメディアは、これやその他の公然たる嘘偽りに対して文部科学省に大声で抗議をしないのか。何故正直な歴史を子供たちに教えようとしないのか。ここにも亦、可怪しな日本の一面がさらけ出されています。私は日本の将来について大きな危惧を抱いています。

(2002-06-29)


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