古田武彦講演会 二〇〇〇年十二月三日
於:東京文京区公会堂

日本の歴史の真相

  さて前半でもう一つ万葉で私が何年間か悩んでいました問題について、一つの結論が出ましたので報告させていただきます。


壬申の年の乱平定すぬる以後(のち)の歌二首
四千二百六十番
おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都

右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり

四千二百六十一番
おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ
(作者未詳らかならず)
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

右の件の二首は天平勝寶四年二月二日に聞きて 即ち茲(ここ)に載す。

 この歌に関しては、「多元的古代・関東の会」の会長の高田かつ子さんが数年前電話をかけてこられて、この歌に歌われている「タイ」は、邪馬台国の「タイ」と同じで湿地帯の意味の「タイ」でしょうか。そのように電話をかけてこられた。
(「タイ」については、『失われた日本』原書房 をご覧ください。)
 そのとき私がお答えしたのは、二番目の歌については九州に間違いありませんとお答えしました。「水鳥のすだく水沼」の「水沼」というのはこの日本列島の中で九州の一角に久留米にしかありません。『日本書紀』では水沼(みぬま)の君が天照大神の三人の娘と共に出てくるのは大変有名な記事です。
 しかも水沼(みぬま)は福岡県三潴(みづま)郡に属しています。「三潴(みづま)」は、このように変わった字を書きます。このようなおもしろい漢字を書く理由が分かれば、漢字そのものについて面白い問題が解けるかも知れません。
 ともかくこの歌は三潴(みづま)郡水沼(みぬま)をバックにして歌われていることは間違いがありません。しかも「都」と読んでいますが、原文は「皇都」と書いてあります。「皇都」とあれば天子の都であって大王の都ではない。しかも不思議なことは先頭は「大王」である。「大王」は「大君(おおきみ)」と呼んでよいとおもいますが、大王は天子ではない。天子になれば大王ではなくなる。つまり有名な『隋書』イ妥国伝の毎字多利思北孤(アマ タリシホコ)は、天子を名乗りましたから大王ではない。以前から天子を称したわけではない。大王が新しく天子を名乗った。その理由ははっきりしていて、倭国の御主人格であった中国南朝が五九一年滅亡した。だからだれにも遠慮する必要はない。それで中国北朝系の隋に対抗して自分も天子だと名乗った。そうであれば、この歌がピッタリ合う。しかも現地伝承で九州久留米市の大善寺玉垂宮では、多利思北孤の先代にあたる玉垂命(タマダレノミコト)が九州年号の端正(端政)元年(五八九年)が亡くなられた。その玉垂命は、亡くなる前は天子ではなくて大王だった。その方がお亡くなりになり神様になられた。仏教では亡くなれば仏様になるように、神道では神様になる。亡くなれたら○○命と神様になる。現実には多利思北孤です。その亡くなられた○○命の御威徳によって、この水沼(久留米)を天子の都にして頂いた。皇都になったのは亡くなられた玉垂命の御威徳によるものである。こういう使い方をしています。この歌の地名と、大王と天子の矛盾が、この歌で解ける。ですからこの歌は九州王朝で作られた歌であると解くことが出来た。
 ところが問題は初めの歌である。これがどうにも解けない。高田さんや福永氏のアイディアを頂いて、私も一度解釈をおこなってみたこともあります。「赤駒の腹這ふ田居」とは、埴輪のことではないか。そうすれば石人石馬の埴輪の埴輪が九州にありますから。それから最古の三種の神器が出た福岡市早良区吉武高木遺跡の近くに「田(タ)」という字地名がある。そこではないか。いろいろ考えたが、どうも落ちつきが悪い。
 それが近日中に解けてきた。私としては落ちつきが悪いのは、今まで下の歌と同様、九州のどこかと考えてきたからではないか。この歌を九州ではなくて、大和で作られた歌と考えたらどうなるか。この場合御注意頂きたいのは、上と下では作者が違う。下の方は「作者未詳」という変な注がある。百年たらず前の壬申の乱の後で作ったと言いながら、作者が分からなくなった。ところが上の歌ははっきり作者が書いてある。冒頭の「右大臣大伴卿」については、岩波古典大系(巻十九P357)の八番の注釈では、「孝徳天皇時代の、右大臣大伴長徳の子。大伴安麿の兄。御行のこと。壬申の乱で天武方について戦功有り。持統・文武朝に大納言として仕え、大宝元年(七百一)正月没。同右大臣。」と書いてある。というわけで、やけに作者がはっきりしている。これは上の歌と下の歌を同列にあつかうことはやはり無理ではないか。これをもう一度大和明日香で調べはじめた。それで角川『地名大事典』を調べようとしたが、なぜか福岡県と奈良県はない。それで奈良県生駒市に住んでおられ、高等学校の先生を退職されて古代史に没頭されておられる伊東さんに奈良県明日香近辺の地名を次々調べていただいた。初めは天武の明日香浄見ケ原近辺の地名を送っていただいた。高麗(コウライ)、そして少し離れていますが駒(コマ)という字地名が見つかりました。さらに今度は藤原宮近辺の字地名も送っていただいた。そうしてみますと有りました。湿地帯の橿原市田井(タイ)。その側の西隣大和高田市にも田井中がある。それで九州にはなかなか無かった「タイ」が大和には存在する。さらに東隣の桜井市にも高麗と書いたコマ。その近所には赤尾(アカオ)があります。「赤」が付いた字地名も、ありそうですがなかなかありません。
これでまず間違いがなく大和で作った歌であると考えております。
 それと歌の読み方ですが、どの歌でも、「皇」・「王」・「大王」をかまわず「大君(おほきみ)」と呼んでおりますが、私はこれは正しくないと考える。大王(だいおう)」は「大君(おほきみ)」で良いと思いますが、ここは読みが違っていると思います。この歌では皇室の「皇(こう すめろぎ)」となっており、暦年の代々の王や大王の総称として「皇(すめろぎ)」という呼び方をするのだと思います。ここは「皇」ですから、原文とおり「皇(すめろぎ)」と読むべきです。広く言えば天照大神(アマテルオオカミ)からと言えないことはありませんが、この地は崇神天皇や雄略天皇の都があったところですから、それらを総称して代々の大王の方々は死んで神様になって居られる呼び方としての「皇(すめろぎ)」である。
 次の「腹這う田居」は、岩波古典大系の注釈では、「馬が腹這いながら歩いていく。」と書いてありますが、そんな器用なことが出来るのですか。これは馬の専門家である田島さんに聞きたいと思いますが、私の理解では、「腹這う」は馬が休息している様(さま)を表したものと考えます。
昔馬が休息しているような低湿地であったこの地が、見事に都になった。実際には都になったのは持統天皇のときですが、しかしそれは広く言えば崇神天皇や雄略天皇という方々のおかげで、この地が都になった。
もしかしたらこの大伴さんは子供の頃など若いときに、馬が休息し寝そべっている様(さま)を見たのかもしれない。その地が今や見事な都になりました。そういう感動、感慨を表している。これは「おべっか」と言えば言えないこともないが、嫌らしい「おべっか」でもない。支配者の満足の悦びを表現した歌である。とくに天武天皇が『古事記』を作らせた。近畿天皇家一元の歴史書を作らせた。そういう時代の雰囲気を伝えているうたであると思う。
(追加)
 これらの歌について追加させていただきますと、このように一番目の歌と二番目の歌では、場所も時代帯もぜんぜん違う。二番目の歌は九州、しかも七世紀の前半。九州王朝が天子を称した時代に作られた歌である。そうしますとあの柿本人麻呂の歌。「皇は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも」は、代々の九州王朝の天子は死んで神様になって居られる。雷山には雲ノ宮、天ノ宮という社(やしろ)があり、その社を庵(いおり)のようにして雷山に居られる。しかし白村江の戦いの後では、為政者の誤りにより筑紫の民の庵は荒れ果ててしまった。荘重にして荘厳なこの歌は、二番目の歌より後になります。さらにもう一つ「皇は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも」。この歌は福永さんの素晴らしい示唆によりまして、「海を成す」ではなく、「海成=海鳴り」ということが分かり、さらに道がひらけ理解が深まってきた。要するに人麻呂は九州雷山で海鳴りを聞いた。海鳴りはしばしば暴風雨の前兆となる。転じて海鳴りは死者の亡霊が未来を予告する声である。この世の破滅、九州王朝の破滅を予告して居られる。そのような世界でも例を見ないような見事な替え歌を作った。
これは本歌が二番目の歌である。人麻呂の二つの歌より二番目の歌の方が古い。逆に言いますと人麻呂は二番目の歌を元にして、白村江の戦いの前九州王朝が栄えているときの歌を元にして、それを元にして「雷山の歌」と「海鳴りの歌」を、白村江の戦いの後作った。その後人麻呂より後、近畿天皇家が没落する九州王朝に代わって日本を支配した。その時代に、近畿天皇家が栄えて京師を大和藤原宮に持ってときの姿が、一番目の歌である。
「・・・・は神にしませば・・」の歌は少なくとも三段階の形を持っている。そういう全体的な編年が存在することをつけ加えさせていただきます。


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