万葉集四千二百六十番と四千二百六十一の歌があり、近江で近畿天皇家のために作られたと言われています。
壬申の年の乱平定しぬる以後(のち)の歌二首
四千二百六十番
おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり
四千二百六十一番
おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ
(作者未詳らかならず)
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通
右の件の二首は天平勝寶四年二月二日に聞きて 即ち茲(ここ)に載す。
1、これらの歌が壬申の乱の後歌われたと言う題詞は、数々の疑問をもたれています。それぞれの歌は矛盾した言葉を使っています。
一番目は万葉集の四千二百六十番の歌は、「大王(大君)」とは書かれていない。事実全ての古写
本は「皇(スメロギ)」と書かれています。皇(スメロギ)という言葉は、生きていた個人に対して彼の死後、高貴な存在として敬意を込めて祭る言葉で、普通
は生きている個人には使用しません。
二番目に、四千二百六十番の歌は「都」とは書かれていない。事実全ての古写本は「京師」と書かれています。京師は大きな宮殿の存在するところです。
3番目にまた万葉集の四千二百六十一番の歌も、「都」とは書かれていない。事実全ての古写
本は「皇都」と書かれています。大王と皇都とは両立しない。大王が居るところを皇都とは言わない。加えて水沼という地名は日本書紀に存在する。
ですから皇(スメロギ)と京師 、大王と皇都とはお互いに矛盾した言葉です。それゆえ、これらの歌が近江で、壬申の乱の後歌われたと考える理由はない。
2、「大王」と「皇都」が並び立たない矛盾した言葉ならば、私たちはこの歌を評価する考えを持たなければならない。なぜなら実際に古写本にはその通り書かれています。これらの歌の形は複雑であっても、これらの理解は単純であると思います。
最初に四千二百六十番の歌それ自身について、新しい理解を考えてみます。歴代の大王はタイ(台 田井)と呼ばれる湿地帯を馬で耕した。そしてそこに宮殿を建てた。その後歴代の大王の死後、人々はそのような歴代の大王を敬って皇(スメロギ)として礼拝した。
この四千二百六十番の新しい理解は皇(スメロギ)と京師(宮殿)をうまく並べて理解できる。加えてもしこの歌が大和で作られてなら、田井・赤尾などの字地名とも一致し、壬申の乱で活躍した大伴氏とも一致します。
図一はありません。(歌の英文です。)
図二大和平野南部地図(飛鳥地図) |
図三赤尾と田井 |
次に四千二百六十一番の歌も同じプロセスを適用します。四千二百六十一番の歌それ自身は亡くなられた大王のおかげで皇都になったという考えに基づいています。彼は水沼に宮殿を作り、亡くなった。そして彼の死後、彼の息子は中国の天子と同じ称号を名乗った。それゆえ筑紫の水沼は皇都に成った。この新しい解釈は、言葉を越えた四千二百六十一番の理解です。
このような理解は、歌の皇(スメロギ)と京師、大王と皇都が、明らかに調和して説明される。
3、上の節で述べた理由が正しければ、とりわけ四千二百六十一番に適合する事実が必要です。
中国の歴史書によれば、倭王は宋書の倭の五王のように中国南朝の支配下にありました。
しかし西暦五八九年南朝陳は北朝隋に征服された。それゆえ隋書によれば西暦六〇〇年、天毎
多利思北孤は天子を名乗った。また彼は隋書によれば海西の菩薩天子と称した。それに隋書によれば、隋の外交使節団は隋から倭国の首都に到着した。そしてその記録によれば、首都の位
置は筑紫であると考えられる。筑紫が首都である明確な証拠は使節団は九州の阿蘇山の噴火を観てます。
4、九州筑後水沼(三瀦)が皇都であることは、これらの事実が支える。この見方は八件存在します。
1)天の長者伝説の存在である。彼は日田から三沼の筑後川流域を支配した。彼らの子孫そのものは一二〇〇年以後の平家落人伝説を持っています。しかし一二〇〇年以後のみならず七〇一年から、すべての筑後川流域を支配した人は誰一人存在しない。古賀は、天の長者は九州王朝の天子として筑後川流域を直轄支配していたと考えています。
2)久留米の筑後国府跡に存在する天子の遊びである曲水の宴の存在である。一般的には、いわゆる国司が遊んだものと言われている。しかし曲水の宴は唯一天子の遊びである。加えて曲水の宴跡は七百一年以前には、宮城県仙台多賀城と福岡県筑後久留米にしか存在しない。倭国の首都が筑後にあり、蝦夷国の首都が仙台にある。これらの事実は、中国の歴史書に書かれていることに対応しています。唐の時代の記録に、蝦夷国の使者が倭国の使者に伴われて唐に朝貢を行っています。
3)筑後国交替実録帳にある竹野郡(現 田主丸町)の正院の存在である。正院は寺院のような壁に囲まれた二重の石垣で構成された宮城大垣の中に存在していました。その正院は法皇の居るところを意味します。現在まで平安時代末期の大和朝廷の法皇でここに居た人物は誰一人存在しない。また、いわゆる崇道天皇はここに来たことはない。それにも関わらず古いお寺の字地名が多数存在する。お寺はほとんど存在しないにも関わらず、石垣、踏石、礎石があります。加えて筑後随一の井の丸長者井戸が知られています。法皇が居たことはたぶん確実です。
図四はなし
図八 築後国交替実録帳 |
4)築後国交替実録帳にある浮羽町の正倉院の存在である。我々がよく知っている奈良の正倉院は二番目である。一番目は筑後にあります。加えて、いわゆる崇道天皇がここに来たことはない。事実において七百一年以後書かれた正倉院文書築後国正税帳によれば、たくさんの宝物を近畿天皇家に献上させている。大和朝廷はここの宝物の一部を奈良の正倉院に持って行った。
たとえばa) 天子の遊びである鷹狩りのための一五匹の御鷹犬と三〇匹の鷹。
b) たぶん東大寺の大仏を作るための多くの鋳造師・ろくろ・木地師。
c)一一三個の白玉(真珠)七〇一個の碧玉(紺玉?サファイア)、九三三個の縹玉
(ガラス玉)四セットの赤勾玉(ルビー)その他管玉(竹玉)、縹玉、 勾玉。
これらのものは天子しか所有できない。
5)田主丸町を中心にした条里制の存在です。これらの条里制はいわゆる国司が施行したと言われています。しかし明確な記録がない。
6)四・五世紀の三〇〇基を越える古墳の存在です。(明治時代までは一〇〇〇基近くありました。)有名な古墳では御塚・権現塚、珍敷塚(めずらしつか)古墳などが有ります。
7)久留米と太宰府を含む筑紫をとりまく神護石式山城と朝鮮式山城と呼ばれる一連の古代要塞の存在です。これらの山城は大和朝廷を護るために造られたと言われているけれども、しかしながらそれでは何の目的で筑紫をとりまいているか不明である。
図九 九州の古代要塞配置図 |
図十 神護石山城 |
図十一 朝鮮式山城 |
8)、上の節で述べた理由が正しければ、放射性炭素式年代測定法と年輪年代測定法という考古学的科学技術が加勢します。
たとえば太宰府の防衛のための水城では、前の堀から出た木樋の十四炭素年代測定は紀元400年ー40年が検出されました。また対馬の金田城の十四炭素年代測定は紀元540ー640、紀元590ー650が検出されました。同様に博多湾に存在した外交使節を迎えるための鴻臚館の木樋では、紀元385ー475、紀元465ー555、紀元515ー605、紀元565ー655が検出されました。放射性炭素式年代測定法は年輪年代測定法に比べて測定精度は良くないですが、ほとんど全てが白村江の前です。明確なのは年輪年代測定法では土器などの考古学編年では百年に渡り編年が繰り上がることです。たとえば弥生時代中期は西暦紀元前100年ー紀元100年が西暦紀元前200年ー紀元1年に移動する。同様に郡衙時代
が6世紀から7世紀になります。
上に述べたことは太宰府を防衛するために六世紀に水城が構築されたことが明らかに成りました。同様に白村江の戦いの前の六世紀に壱岐と対馬の狼煙を揚げる要塞の構築された年代が明確になりました。これらの理由から曲水の宴、条里制、神護石式山城と朝鮮式山城が確実に白村江の戦いの前の七世紀以前に成りました。
これらの分析は筑紫における九州王朝の存在を明らかにした。
5、以上の解釈に基づき、これらの歌が別々に作られたことが明らかになった。四千二百六十番の歌は大和明日香付近で作られ、四千二百六十一番の歌の筑紫水沼で作られたことが明らかになった。これらの歌の分析の上での再提示は、これらの歌の理解の水準を高めることを助け、順次広く適用されます。
四千二百六十番
すめろぎは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ
皇は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり
四千二百六十一番
おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ
大王は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都と成しつ
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通
(英訳 横田幸男)
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岩波古典文学大系に準拠 『日本書紀』巻第一 P111
日本書紀 神代上 第6段(一書第三)
すなわち日神の生(あ)れませる三の女神を以ては、葦原中國の宇佐嶋に降り居(ま)さしむ。今、海の北の道に在(ま)す。号けて道主貴と申す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是なり。
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以下英文を参照のこと
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