古田武彦講演会 万葉学と神話学の誕生
99年6月27日  天満研修センター 五階

以上で総論を終わり、時間の許す限りそれぞれの歌について、論証してゆきたい。

雄略の歌について

 まず『万葉集』一番目の雄略天皇の歌。この歌は九九年一月に述べましたので、簡単にポイントだけを申させて頂きます。この場合従来読まれていた読み方には重要な原文改訂が行われていた。

我れこそ居れ しきなべて
吾許曽居 師<吉>名倍手

われこそ居(お)りしか 告名経て
吾許會居師 告名倍手
私は居ました。 名前も名乗り終わりました。

校異 告 -> 吉 [玉小琴]

「こそ~しか」は 已然形の係り結びと理解。

 まず「師吉名倍手 しきなべて」と書いてあるが、実はこういう表現は、いかなる写本にも一切ない。『万葉集』は写本に恵まれており、元暦校本などたくさん有りますが、写本には「吉(き)」という文字は一切ない。どういう文字があるかというと、「告(つげる)」である。それを「吉」と書き直した。誰が書き直したかというと本居宣長である。宣長が書き直して、それを「師吉名倍手 しきなべて」と読んだ。こう読めば対句になって、「おしなべて 我れこそ居れ しきなべて・・・」と対句になって、いかにも調子がよいので騙されて皆こう読んできた。
 しかしこの読みは良く考えるとおかしいことだらけだ。なぜならば菜を摘んでいる娘さんに対して「あなたの名前と家を教えて下さい。」というところ、これそのものは良い。恋の手初めは、相手の家と名前を聞くことから始まる。『万葉集』でも、たくさん例が出てきます。ところがその場合、雄略とされている人物の言うことがおかしい。(私は)大和を全部支配している人間だ。だから名を言え。なんかこれ、嫌らしいと思いませんか。そんなこと言わなくとも「美しいあなたの名前と家を教えて下さい。」と言えばよい。他の『万葉集』の恋の歌は全部そうだ。さらにこの場合、私は大和(奈良県)、この辺りを全部支配している統治者だから名前を言えというのでは、恋の歌としては興ざめだ。さらにこの名乗りは中途半端だ。威張るならば、ついでにこの大八島、全部を私が支配していると言えばよい。奈良県の大和にこだわる必要はない。なぜ奈良県しか支配していないのか。京都府は支配していないようだ。なぜそこを遠慮する必要があるのか。また逆に、そこで大和というよりも、言いたいのなら「この丘を支配している。」と言えばそれでよい。「娘さん、この丘は私の土地だから、あなたはこの丘で菜を摘んでいるが、咎(とが)めるわけではないが、あなたの家と名前を名乗りなさい。」と言えばよい。これなら余り良い感じではないけれども、筋道としてまあ理解することが出来る。この丘を支配しているのではなく、大和を支配している。大八島全部を支配しているでもなければ、大和だけを支配している。実に中途半端だ。中途半端と書いてある注釈がありましたか。無いでしょうが、しかし私は第三者的な目から見ると実に中途半端だ。かつ嫌らしい。しかも中途半端であっても嫌(いやら)しくても事実なら、事実としては仕方がない。ところが原文に全く無いものを、本居宣長が作り替えている。実はここは「告」である。それではどう読むかと言いますと「告」を、後の「名」と併せて「告名(のりな)」という用法がある。素直に「名を告(の)べて ー名を名乗ってー」と読んでも良いが、一応「告名経て のりなへて ー名を名乗り終わってー」と読む。こう読むと原文を直さず、全写本に一致している。
 「師(し)」は、前の「吾許曽居」と合わせて、「吾許曽居師 われこそ居(お)りしか 私は居ました。」と読む。宣長までは大体前に付けて読んでいた。

 「告名経て のりなへて ー名を名乗り終わってー」では、「私は名前を名乗り終わりました。今度はあなたがお名乗り下さい。」と言っている。すると、この人物は自分の名前を名乗り終わった非常に礼儀正しい人物になる。そうするとこの前に、この人物の名前が名乗り終わっていなければならない。そうすると正にそれがある。

そらみつ 大和の國は おしなとで われこそ居(お)りしか 告名経て
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居師 告名倍手
そらみつ大和の国の者です。押奈(あふな)戸手(とで)と言います。私は大和に居ました。名を名乗り終わりました。(今度はあなたがお名乗り下さい。)

「戸手(とで)」は当時に非常にありやすい名前で、関東に「韋提(いでい)」もあるように、名前として非常にふさわしい。
 次に「押奈」の理解は、この前に言いました理解より少し前進したと思いますが、「押名 あふな」は、「合那 あふな」であろうと思います。
 指紋押捺の「押」、有名な大国主命と同じだといわれている大穴牟貴(おうなむち、あふなむち)と同じ「押(あふ、おふ)」ではないか。「名(な)」というのは「那の津」の「那」で水辺の土地が「那 な」である。かつ「合 あふ」は川が集中するところであり、川の複合する川辺りの土地の地形名詞が「合那 あふな」だと考えております。
その「合那 あふな」と呼ばれる地形の所に居るから、土地の名前を自分の姓にした。そこに居るから「押奈 戸手 あふな とで」で有る。だから自分の姓名を名乗っている。そして「われこそ居(お)らし」と言っている。どこに居たかというと、私、押奈 戸手(あふな とで)は「そらみつ 大和の国」、昔奈良県(大和)に居た人間です。現在は大和の国にいない。この丘で菜を摘んでいるお嬢さんに、声を掛けたときはこの人は奈良県にいない。大和以外のX(エッキス)という所で声を掛けた。私は(そらみつ)大和出身の人間です。こう言っている。全然おかしく無いですね。威張っても居ない。
 もう一度繰り返すと、私は(そらみつ)大和から来た人間です。名前は「押奈 戸手 あふな とで」と言います。それで「告名経て 名を名乗り終わって」となる。

 それで最後の所に行きます。

われにこそは 告(の)らめ 家も名も
我許(者)背歯  告目 家呼毛名雄母

 「われにこそは 我許背歯」と宣長以来、現在こう読んでいる。私はこの読みが強引だと思う。生意気を言って宣長に申し訳ないが、背中の「背」を「そ」と読んでいる。「背」を「そ」と読むのは不自然で、これは無理です。何故かというと、「背」を「せ」と読むのが普通だ。「そ」だったら前に出てきている「曽」という字を使うのが当然だ。(二回も出てくる。)そうすると、どう読むか。「背 せ」と読めば「我 許者背歯  吾こわせば 私がお願い致しますので」となる。ここも威張っては全然居ない。

吾こわせば 告(の)らめ 家も名も
我許(者)背歯  告目 家呼毛名雄母
私がお願い致しますので、あなたの家と名を教えて下さい。

注)者は西本願寺本にあるだけです。一種の注釈だと理解しています。

 この人は全然威張ってはいない。非常にスムースである。それをなぜ宣長が無茶苦茶な読みにし、傲慢無礼な権力者の歌にしてしまったかというと、やはり前書きの「雄略の歌」ということに騙された。あの前書きに合わせて内容を変えてしまった。
 私はそれはいけない。私は歌というのは歌自身が第一史料、前書きは編集者がこう思わせたいという第二史料・第三史料である。『日本書紀』に景行天皇の歌や、『古事記』に倭健(ヤマトタケル)の歌と書いてあるから、間違いのない景行天皇や、間違いのない倭健の歌だと言えば混乱します。同じ歌を景行天皇や倭健が歌っています。両方本当だと誰も思っていないし、『日本書紀』や『古事記』の編者がこの人の歌にしたいから、そうしている。『日本書紀』や『古事記』に書いてあるから間違いないではない。そういうことは『日本書紀』や『古事記』を読む場合は常識になっている。そうすると『日本書紀』や『古事記』と同じ時期に、八世紀前半に『万葉集』は作られている。それ以後も作られている。それを『万葉集』の場合だけ、誰それの歌とあったら全部それを信用して、そこから考えて、歌が合わないと歌の字を一切写本にはない字と取り替えて、無理やり合わせてしまう。そういうやり方を国学者たちは行ってきた。国学はそれで良いでしょう。実証というよりもイデオロギーが優先ですから。しかし私は、その立場ではない。反天皇、親天皇というところから出発しない。イデオロギーから出発しない。あくまでも、ありのままに実証的に第一史料を理解する。それに終始する。そうすると前書きや後書きの立場は必ずしも承服出来ない。そういう立場に立つ。そう考えれば、ここは押奈 戸手(あふな とで)さんの歌である。非常に礼儀正しい。
 作られた場所は、おそらく籠(この)神社辺りではないかと思っています。関西の方は良くご存知ですが、京都府舞鶴の辺りではないかと思っている。最初に籠(こ)とあるでしょう。我々は今まで籠(こ かご)の事だと思っていたが、万葉は地名と対応させるのが得意ですから、地名を背景にしながら歌っている。我々は今まで大和の歌だと思っていたが、籠(この)は地名を背景にしているとすると、京都府の丹波・丹後の方ですから、当然大和ではない。「私は大和から来た者で、あやしいものではありません。」そう言っている。

こう考えれば私は良く理解できる。それを万葉集の先頭からねじ曲げた、雄略の歌として注釈を付けた歌集ということになって、現在の学者までもが、これに荷担して雄略の歌として、いろいろ述べています。史料事実としてはそういうことでは全くない。そういうことで御座います。

追加

99年6月27日 講演会 天満研修センター 五階 懇談会

それでは質問に答えておきます。

 「そらみつ」の解釈の件ですが、岩波古典文学大系の注釈では「空がいっぱい有る。」と書いてある。空がいっぱい有るなら別に大和でなくとも良い。
(写本の書き込みがあるように)神武東征以前の饒速日(にぎはやひ)の神話伝承がありますね。
 饒速日(にぎはやひ)は弥生時代の人物だと思いますが、それ以前の巨石信仰があります。たとえばこの間訪れた磐船神社には、岩に囲まれた川があって巨大な磐や磐倉があります。そういうところには神社があり、古事記・日本書紀に登場しない神様の名前がたくさん伝えられています。神武が大和に侵入以前の神々の系譜だと思います。

 そこからは私の想像というか現時点での解釈ですが、「そらみつ」の「み 御」は敬語で、「つ 津」は港である。船がいっぱい港に来る。つまり船が港に集まって来るのをなぞらえて、それを結局空に船が連なっていると神話的なイメージを描いて「そらみつ」と表現した言葉ではないか。それの出発地が「そらみつ」ではないか。
(編集者追加 弥生前期・縄文時代は大和盆地は湖沼です。)
 今度はギリシャ神話で、空を戦車で飛ぶという話がありますが、なぜあのような重たいものが空を飛べると思うのですが、おそらく地上を戦車で駆けめぐっていた種族がいたと思う。それの主神が太陽の神であるアポロではないか。地上で戦車を駆けめぐっていた人々は、空も戦車を駆けるという、地上の自分たちの戦車を空に置いて、主神のアポロを頂いて、戦車を空を飛ばした。
 同じように、海洋を船で駆けめぐっていた人々が、海を船で渡るように、空をも船を飛ばし駆け抜ける。そういうイメージというか神話の痕跡が「そらみつ」だと今のところ考えている。それを一つの仮説として、そう考えている。もちろん絶対ではない。もっと良い考えが浮かべば再考したい。そういう「そらみつ」のイメージが、大和の懸かり言葉になったのではないか。
 それから「磐船」は頑丈な船と解釈されていますが、しかし前に申したかも知れませんが、江戸時代の蜜柑船と言っても、ミカンで出来た船ではない。ミカンを運ぶ船である。それを「蜜柑船」と言っている。同じく「磐船」と言っても、磐で出来た船ではない。同様に磐を運んだ船ではないか。瀬戸内海を岩を運ぶ船は「岩船」と言っていた。だから「磐船」をギリシャ神話と同じように、空を飛ばす形に改編して、伝承が伝わったものが「磐船伝承」ではないか。


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