古田武彦講演会 一九九九年六月二十七日(日) 
於:大阪天満研修センター

3 第三歌は、舒明の歌ではない

万葉学と歴史学の誕生

・・・・・・・・

第三歌 舒明天皇の歌

『万葉集』巻一の三番と四番の歌(岩波古典文学大系に準拠)

(読み下し文)
天皇、宇智の野に、遊猟(みかり)したまふ時、中皇命の使間人連老をして獻らしめたまふ歌

やすみしし,わごおほきみの,あしたには,とりなでたまひ,
             ゆふべには,いよりたたしし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり,
あさがりに,いまたたすらし,
ゆふがりに,いまたたすらし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり
たまきはる,うちのおほのに,うまなめて,あさふますらむ,そのくさふかの

やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ
           夕にはい寄り立たしし
御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり
朝猟に今立たすらし 夕猟に 今立たすらし
御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

(原文)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃音為奈里

反歌
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

校異
加奈(吉永登氏説)->奈加
梓能 -> 能梓 [元]
尅 (塙)(楓) 剋


 天皇、この天皇は舒明天皇ですが、この歌の「中皇命(なかのすめらみこと)」が従来どうにも分からなかった。そういう人物はいない。候補者が十人ぐらい上げられ、取り替えて言われてきた。
 ところが私は歌自身も非常におかしいところがあると、そう感じていた。
 まず最初「やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし」、ここがおかしいですね。なぜかというと、この大王なる人物が弓矢が好きらしい。だから朝に弓矢を撫でる。これはふさわしく良いとしても、「夜には弓矢に寄り添う。」、これが問題だ。これは男性のやることではない。なぜか私には女性のしぐさに見える。そう見えませんか。「弓矢に寄りそう。」と言うのは、結局弓矢を持っている人に寄り添うということであって、何か弓矢が一人で立っているわけではない。誰かが、弓矢を持っている。その人に寄り添う。どう見ても私には、寄り添うのが女性で弓矢を持っている人が男性に見える。ところが従来の解釈では一人芝居で、一人で男性役をやったり女性役をやったりしている。舒明天皇は苦労します。この当たりの考え方がおかしいと私は考えていた。
 更に今回気が付きましたのは、原文を見て頂きますと「八隅知之 我大王乃 朝庭(やすみしし わご大君の 朝には)・・」のところです。「わが大王」とあり、次に「朝庭」と書いてある。「朝庭 朝(あした)には」と読んでいる。字面はどう見ても「朝庭」。「朝庭」は「みかど」と読むことが出来、天子が居る所が朝廷である。大王の居る所は朝廷にはなれない。天子の配下に王がたくさん居て、王の中の有力な王が「大王」である。大王は朝廷の有力な並び大名である。大王が居るところを「朝廷(みかど)」と言いだしたら大変なことになる。日本列島の各所に「朝廷」がなければならない。言葉の根本の道理から少しおかしいと感じていた。私は『人麻呂の運命』で「ありかよう、とおの・・」で論じたことがあるが、「大王の朝廷」では、どうも言葉が矛盾しているなと感じた。「大王」が居るところを「朝廷」とは呼ばない。
 それで考えているうちに、ここは「大王にとっての朝廷」と理解すべきではないか。
 ですからこの「朝庭」を「みかどには」と読むべきではないか。この「朝庭」という言葉は出来上がった熟語である。「あしたには(朝庭)」とは読めないことはないけれども、他の字も書けるではないか。わざわざ東アジアでは天子の絶対用語になっている「朝廷」という、その言葉を持ってきて、単なる時間の朝を示す「あしたには」と読むのはおかしい。この字がそんな重要な言葉とは私は知りませんでした。「あしたには(朝庭)」と読めると思ってうっかり書きました。そんなことは私には考えられない。容認できない。やはり「朝庭(ちょうてい)」とは最高の概念だと知らずに書いたとは考えられない。そうすると「朝庭(みかど)には」と読むと、問題は「夕庭」のほうであり、どう読むかである。私は断崖を飛び降りるつもりで考えてみた。「朝庭(みかど)・帝」は一般には男性である。これを「朝庭」として、奥さんの ことを「夕庭(きさき)・后」と読んでみたらどうか。つまり洒落(しゃれ)てそういう表現になっている。つまり男性の帝の方を「朝庭(みかど)」と 書き、女性の后の方を「夕庭(きさき)」と書いて、しゃれてそう表現した。今のところ私のアイデアに過ぎませんけれども、このアイデアに立って考えてみると非常に分かり易い。

八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之
やすみしし 我が大君の 朝庭には 取り撫でたまひ 夕庭には寄り立たしし

 やすみしし大王にとっての朝廷では、「帝は(弓矢を)撫でて大事にして おられる。」すると今度は「后は(弓矢を撫でて大事にしておられる)帝に 寄り添っておられる。」と解釈する。つまり夫婦仲睦まじい状態を表している。別に一人が女役・男役の、二役を演じる必要がない。分担が決まっている。

 次に行きます。

御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里

み執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

 それで上の「金弭(かなはず)」という言葉が原文に一切ない。分かりにくいでしょうから、帰って岩波古典大系をご覧になればお分かりになると思いますが、(注 原文は「奈加弭乃」と成っています。)『万葉集』の第一歌は本居宣長、ここは現代の万葉学者である吉永登さんが勝手に考えて「金弭(かなはず)」と直した。どれを直したかというと、原文は当然「奈加弭乃(なかはずの)」と読まなければならない。全ての写本が一致して、平安末の元暦校本、鎌倉末の西本願寺本、その他全ての写本が一致して「奈加」である。「加奈」ではない。当然ここは「奈加弭乃 なかはずの」と読まなければならない。ところがそう読むと困る。何故困るかというと弓の 両端を「ハズ」と言います。「かたハズ」なら良いけれども、「なかハズ」では意味が通らない。それで困ってさんが吉永さんが妙案を考えた。「奈加弭(なかはず)」は何かの間違いだろう。「奈加弭」をひっくり返して、「加奈弭乃 金弭(かなハズ)」とした。金属製の「金弭(かなハズ)」なら 有るだろう。それが良いということになり、みんな賛成して決まった。しかしやはり全写本にないものを、「学者のアイデアで無い物を作り出す。」というのは、私から見れば駄目である。学者の権威でそのような改変はいけない。
 そうすると、これは何か。非常に簡単である。まず朝廷という言葉ですが、九州福岡県に太宰府という所がありまが。その太宰府の奧の所に「字紫宸殿」という所があり、私の本では何回も出てきます。最近ではここが「紫宸殿」であることを、これを裏付ける色々な史料が出てきました。「字内裏(だいり)跡」もある。これも大変な字地名です。
 同じような例として京都市向日市長岡京を挙げると、長岡京に字大極殿が 有る。土地はゴボウが良く取れる畑と薮にまたがった所だ。土地の所有者に「なぜ字大極殿と呼ぶのか。」と聞いても、「知らん。うちの親父もお爺さんも大極殿と言ってきたから、わしもそう言っているだけだ。」そう言っていた。ところが中山氏が長岡京を発掘したときに掘り進んで、最後の中心点として発掘したところが大極殿であり、「字大極殿」の所だった。中心点は初めから「字大極殿」の所であり、初めから分かっていた。これは有名な話だが、初めは誰も信用していなかった。しかし、これもある意味では当然ではないか。ある大洞吹きの人がいて、私の畑を「大極殿」と呼びたいから賛成してくれと言ってみても、他の人がそう呼んでくれるわけではない。やはりみんなの共通の認識として大極殿が建っていたから「字大極殿」とみんながそう呼んだ。奈良市の「大極の芝」の場合もそうである。
 同じことで、やはり太宰府の近くに「字紫宸殿」と呼ばれる所がある。そこの持ち主が「字紫宸殿」と呼びたいからとそう言ったとしても、そんな名前が残るはずがない。そこはやはり紫宸殿・内裏跡があったという共通の認識があるから「字紫宸殿」と呼んだ。私は何回もそれを言っているが、知らん顔をしている。天子の直轄領である「九州」という用語と「紫宸殿」という用語は、「天子」とワンセットの名前である。私の理解では、ここに朝廷があったから「紫宸殿」と字(あざ)がある。簡単明瞭なことである。いつまで隠し通せるか、それだけの話である。そういう考えに立つと朝廷とは太宰府の「字紫宸殿」のことである。そこではないか。そうしますと太宰府の直ぐ裏に、東の裏山に「字(あざ)宇智野 うちの」がある。「筑前宇智野」というJRの駅がある。奈良県には「宇智 うち」という所はある。そこだろうという 注釈があるが、「宇智野 うちの」はない。それから「大野」もある。大野城の所にも、大野があり、内野の北側にも大野がある。それで一番のキーポイントは、「那珂 中 なか」である。有名な那珂川があり、字地名にも那珂町があり、もちろん那珂もある。「中」は地名である。すると「中」出身の人物なら「中皇命」である。そう考えると筋が通る。「皇命 こうめい」とはたいへんな言葉でして、「皇」とは皇帝のことである。最高の人物でないと「皇命」とは言えない。「命 みこと」は日本語で尊称である。「皇女 こうじょ」といえば最高の人物の娘となる。「皇 こう」とは中国語で最高の尊称である。「皇命 こうめい」とは中国語と日本語が重なった最高の人物のことである。つまり朝廷の第一主人公が「皇命」で、彼の出身地が「中 なか」で ある。あれだけ色々な解釈が結論が出なかったのが、今のような考えに立つと直ぐ解ける。
 しかもこの歌の解釈がおかしいのは、「まえがき」に書いてある中皇命に役割がない。ただ歌を作らせたのが中皇命の役目である。歌を作らせただけの役割では出しゃばる必要はない。舒明天皇が作れと命令すれば、それで終わりである。変な役割「役割がない。」という形で歌に登場している。しかし実は、中皇命こそが第一の主人公である。那珂出身の帝(皇命)で弓矢を愛している人物で、そこに后が寄り添っている。舒明天皇は近畿からやってきた大王として立ち会っても居る。この場合理屈を言えば、舒明天皇で有っても無かっても良い。とにかく大王が、この場面に立ち会っている。私はこの歌を作ったのは近畿の人物ではないかと考えている。歌の前書きにある「間人 はしひと」と書く同一の漢字地名が、京都府舞鶴の方の地名にある。「間人」をタイザと読む。こういう読み方を知らない方は意外に思うが、そういう地名がある。普通はこのように読めない。とにかく「間人 タイザ」という地名が舞鶴にある。ここの出身の人が読んだ歌なら近畿の人物である。だから舒明天皇がここで 読んでも不思議はない。しかしこの場合天子としてではなく、大王としてこの場に、臨んだことになる。
 以上万葉学者が寄ってたかって歌を様々に解釈し、各種各説を唱えていたのが簡単に解ける。こういう経験をした。つまり九州王朝の天子中心の歌を、 舒明天皇中心の歌に置き換えて載せられている。


これは舒明に奉られた歌ではない に戻る

ホームページ


Created & Maintaince by "Yukio Yokota"