古田武彦・古代史コレクション9 『古代は沈黙せず』 ミネルヴァ書房 2012年1月刊行 中刷


第二篇「法華義疏」の史料批判

その史料科学的研究

第三章

   一

 新たに問題とすべきは、本文の「奥書」の有無である。
 先述のように、本文が「聖徳太子」の著述に非ず、巻頭二行文が「上宮王」自身の“自家への収蔵” を意味する行文であるとすれば、本文の「真の作者そして執筆者」は不明、そのように帰結する他はない。しかし、この本文の“真の作者”、最初から全く記せられていなかったのであろうか。
 右のような問いを新たに発するのは、他でもない。現存の御物本が、実は「原形」に非ず、「再装本」の姿をしめしているからである。すなわち、先頭や末尾等を切り貼りして現存の「四巻本」の形が構成されており、これが本来の形であったとは必ずしも断じえぬ、そういう形態をもっているのである。

 この問題を考える上で、注目すべき点を左にあげよう。

 第一に、正倉院文書によれば、「法華義疏」の書写文書中、「三巻」のものと「四巻」のものとの二種類が存在する。

A三巻本
1. 天平十九年六月四日経疏検定帳
法華経義疏三巻 常欠第二巻 上宮皇子撰(九ー三八四)
2. 天平二十年八月四日宮一切経散帳
法華経疏三巻 上宮王(一〇ー三三〇)
3. 天平勝宝元年十二月二十二日本経疏奉請帳
法華経疏二部 一部九巻撰者不知 一部三巻上宮王撰(一一ー一〇)
4. 天平勝宝八年五月八日宮一切経散帳
法華経疏三巻 上宮王(一〇ー三二六)

B四巻本
1. 天平十九年六月七日写疏所解
法華経疏四巻 上宮聖徳皇子撰(九ー三八八)
2. 天平勝宝三年九月二十日写書布施勘定帳
法華経疏四巻 上宮王撰(一二ー五二ー三)
3. 天平勝宝五年二月一九日経疏出納帳
法華経疏四巻 上宮王撰 第二巻欠(四ー九三)
4. 神護慶雲二年造東大寺司移
法花経疏四巻 欠第二上宮王(一七ー一四三)
5. 写本写大乗経論疏目録(天平勝宝五年五月七日に類従)
法華経疏一帙四巻 上宮王撰(二四ー三九八ー九)
6. 奉写章疏集伝目録(天平勝宝五年五月七日に類従)
法華経疏四巻 大倭国上宮王私集 百五十三帳欠第二巻(一二ー五一三ー六)
7.法華経疏四巻 大倭国上宮王私集 百五十三帳欠第二巻(一二ー五二二ー五)(25)

 右のAの三巻本について、 1. の場合、「常欠第二巻」 の句があるから、“四巻本”の一部分としての「三巻本」であることが判明する。しかし、 2. 〜 4. の場合、そのような注記がないから、

〈その一〉右の注記を省略したに過ぎぬ。(すなわち、これも、「四巻本の一部分」と見なす。ーーこれが従来の通解のようである。)。
〈その二〉本来、「三巻本」である(四巻の再装本〈御物本〉の原形型と見なす)。
 
 右の二つの可能性が考えられよう。

 第二に、右の二つの内、真相が〈その二〉にあると思わせる微証が現存の御物本の中に存在する。それは、第四巻の末尾に、別筆で

 法華疏 下巻

  という文字が大書きされている、という事実である。

「下巻」という表記が出現しうるのは、

1. 〈二巻本〉上巻・下巻
2. 〈三巻本〉上巻・中巻・下巻

 の二つのケースに限られよう。ところが、正倉院文書では「三巻本」と「四巻本」の二つしかないから、右の 1. の 〈二巻本〉のケースは除外しえよう。すなわち、本文は本来、〈三巻本〉であり、それが現存のような「四巻本」に“再装”された。ーーこの帰結である。
 そうでなければ、本来「四巻本」であるものに、わざわざ「欠本」たる〈三巻本〉の末尾を“貼布”すべき必要など、毛頭存在しないからである。
 しかも、ここには、「法華疏、上巻」と「法華疏、中巻」の部分は“除去”されてしまっている。本来の〈三巻本〉と現存の〈四巻本〉との間には、かなり大きな径庭のあることがうかがわれよう。

 第三に、この本文のように、かなり長大な内容である上、著作者自身にとって辛苦の力作であるものに対して、「著述年時、著述者の自書名、著述者の著述経緯や学問上・修道上の恩師への感謝の辞」等をふくむ「奥書」を書くことは、きわめて自然である。
 ことにこの著者は、八回も「私」の表記を自記している。この「私」という自称は「代名詞」であるから、その指すべき主体、その固有名詞の存在すべきことは、当然である。だからこそ、巻頭二行文の場合も、「上宮王」という「私」の指すべき主体が書かれていたのである。

 このように省察してみれば、詳・略のいかんを問わず、本文執筆者の自署名をふくむ「奥書」の存在した可能性は、決して少なしとはしないのである。

 

   二

 昭和四十六年四月十一日に発行された「コロタイプ本、法華義疏」(編者、財団法人、聖徳太子奉賛会、発行所、株式会社 吉川弘文館)を熟視すると、第四巻冒頭の右端下方部に、“二個の異様な墨点”の左端部が現れている。これについて考察しよう。(当該部写真、参照)。

(A).右の墨汚点部の本体部は、 右方にひろがっており、その大部分が切り取られ、左方の白紙部が「再装本」中に “活用”された。その残欠としての墨汚点と見られる。
(B).現存四巻本全体を精視しても、右のような墨汚点の生ずるような、本文墨部の “切れ目” は存在していない。
(C).また、本文墨部を本体とする場合、右のような二点のみの墨汚点は生じにくい。
(D).けれども、「奥書」の左端部を切り取った場合は、右のような二点の残欠部たる墨汚点は生じやすく、形態上自然である。

 以上のような判断にわたしは到達したのであるけれども、これ以上は「コロタイプ本」をもとにしては探求しえず、現存御物本そのものの史料科学的検証を行う他に道はない。ーーこれが不可避の帰結であった。


   三

 昭和六十一年十月十七日、京都御所において現存御物本に直接した。同僚(昭和薬科大学、生物学助教授)の中村卓造氏に同道していただいた。氏は顕微鏡写真・電子顕微鏡写真撮影による自然科学的研究者として、多年にわたる斯界の専門家である。
 その所見は、左のようであった。

(一)右の二点の墨汚点部を検証したところ、 現存御物本には、そのような部分が一切検出できなかった。
(二)なお当該部を顕微鏡で精視したところ、当部分の繊維が「削除」されている事実が発見された。
(三)類似の「繊維除去部分」は他にも発見され、それらには、除去跡に「胡分」が白く塗りこめられているのもあった。
(四)以上の所見からすれば、こちらは表具師による“美化のための作業”かと思われる。
(五)コロタイプ版の製作された、昭和四十六年の前年、宮内庁は表具師を委嘱したようであるから、右のコロタイプ版作製後、右のような “美化のための施工”が実行されたもののようである。
(六)そのため、現コロタイプ版は、右の原状況を遺存する、貴重な史料状況を提供するものとなった。
(七)これに対し、原状況の事実を現存御物本から探究することは、永遠に不可能となったのである。

以上が所見結果であった。

 

   四

 右の検証作業中、副産物として、意外な事実が検出された。それは左のようである。

(八)第一巻の右端部右下部に、長方形の繊維削除部分の存在することが発見された。鋭利な刃物で、重ね合わされた繊維の表層部に「切れ目」を入れ、右の「長方形部」を “切り取った”ものである。
(九)その“切り取られた長方形部”には、墨の文字が書かれていたもののごとく、その残存の墨が、切り残された“当該底部”になお点々と残存している。
(十)すなわち、この「削除」は、先にあげた、近年の表具師による“美化のための作業”とは全く異なり、「眼前に書かれていた文字を除く」という、きわめて有意、かつ故意の作業であったことは、これを疑わんとしても困難である。
(十一)第二巻・第三巻の、ほぼ同じ個所には「法隆寺」という文字が明記されている。
(十二)したがって第一巻の場合、「法隆寺以前の、旧所蔵者」の名前が記されていた可能性が高い。
(十三)この旧蔵者の名前を抹消し、新所蔵者が“はじめから自家の所蔵であった”かに見せようとして、しばしば行われる作業、これが第一巻の当該部の史料状況のしめすところである。中・近世文書には往々検出される事態である。
(十四)顕微鏡写真によって、刃物で長方形の繊維部分が“切り取られた”さい、その部分を引き抜くとき、境位部に生じた“けばけば”が明確に撮影され、右の所見事実を明確に裏付けることとなったのである。

以上によって、当該文書には、重大な「改ざん」の存在したことを確認することとなったのである。

 

   五

コロタイプ版の解説では、当該個所について次のように記せられている。
「問題2 巻一の見返である。其の右下に竪一寸二分横六部の貼紙があり、そこに何やら墨書してあるが、それは読みとれない。貼紙の位置は第二第三巻の法隆寺朱印が貼ってあるところに似るが、それとは全く異質の貼紙と思われる。墨書して貼紙する以上、何かの必要があったものと思われるが、それを知る方法がないだろうか、気に懸かることである。」〈装[水黄]、石田茂作氏〉

装[水黄](そうえん)の[水黄]は、三水編に黄

 右のように、御物本の実状況と相異した「解説」は、いかにして生じたのであろうか。
 思うに、事情は左のようだったのではないかと思われる。

〈その一〉石田茂作氏は、いったんは現本(御物本)を実見されたであろうけれども、実際に「解説」を書くときは、“現本を見つつ”書かれたものではなかったであろう。
〈その二〉代って、写真版もしくはコロタイプ版を見つつ、書かれたのではあるまいか。
〈その三〉そしてこの個所に、「長方形の変質個所」のあるのを見られた。
〈その四〉しかし、まさか、「削除のための切断」といった異常事の発生していることには想到しえなかった(写真所見からでは、当然であろう)。
〈その五〉そこで、“より穏当な想定”として、これを「貼紙」と判断されたのである。
〈その六〉けれども、その“異常な状況”から、「気に懸る」 云々の発言が生まれたものと思われる。

この点、今回、顕微鏡による熟視と、顕微鏡写真の撮影により、事の真実を明らかにしえたのだった。

 

   六

 現本の用紙に対し、顕微鏡及び電子顕微鏡写真による撮影を行った。その所見を左に記する。

(一)第一巻の冒頭の空白部(長方形削除をもつ部分)と本文部分とは、ともに「中国産の苧麻」と見られ、同じ紙である。
(二)巻頭二行文の紙は「大麻」であり、国産とも見られる。したがって右の部分とは全く異質の紙であり、この部位に「貼布」されたものである。
(三)これに対し、第四巻末尾の「法華疏、下巻」の文字をもつ部分は、一見して“真っ白”であり、直前の本文部分の“茶色”と全く色合いを異にしている。しかし、顕微鏡所見によれば、意外にも、両者は同質の紙(中国産の苧麻)であることが認識された。
(四)第四巻の冒頭の空白部の紙と本文の紙とは、類似しているものの、いまだ「全く同一」とは確認できなかった。

 以上である。この所見中、重大な事実は、問題の巻頭二行文が本文とは全く異質の紙であるという一点である。その上、筆跡も、両者(二行文と本文)異なっている。
 しかも、前者(二行文)は、後者(本文)の中に“貼り付けられ”ている。
 したがって、両者を「共通の土俵」で扱うことは、はなはだ危険である。ーーそういう帰結がわたしたちにしめされたのである。
 以上がわたしたちが実地に臨んで観察し、また顕微鏡及び電子顕微鏡によって撮影しえた、その所見であった。

 

(25) 小倉豊文氏論文(たとえば「奈良朝を降らざる古代に於ける追書」(法隆寺大鏡の解説、大正八年三月)

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