古田武彦・古代史コレクション9 『古代は沈黙せず』 ミネルヴァ書房 2012年1月刊行 中刷

 


第二篇「法華義疏」の史料批判

その史料科学的研究

第二章

   一

 次に問題にすべきは、「冒頭二行文」である。それは左のようだ。
  ________________________________________________________
 |                 国      |
 |             大委上宮王私   |
 |   法華義疏第一      此是    |
 |                 集非海彼本 |
  ________________________________________________________|

 この筆跡は従来、“八世紀半ば(天平期)の法隆寺の僧による加筆”とされてきた。(23)この見解には、しかしながら、大きな疑問がある。左に列挙しよう。

第一、「集」の問題。
従来説では、この「集」字について、「撰述」の意と解してきた。「上宮王私集」の一句を“聖徳太子の私的な撰述”の意とする以上、当然である。
 しかし、たとえば六世紀初頭、梁の昭明太子の「文撰」の冒頭に太子自身の序文があり、その中に、この「集」字が二回使用されている。

A今之所集亦所不取。
(今の集むる所、亦取らざる所なり。)
B事出於沈思、義帰乎翰藻。故与夫篇什、雑而集之。遠自周室迄聖代、都為三十巻。名曰文選云耳。
(事は沈思に出で、義は翰藻に帰す。故に夫の篇什と与に雑えて之を集む。遠く周室より聖代に迄り、都て三十巻と為す。名づけて文選と云うのみ。)

 いずれも「文撰」の面目たる、“周代より聖代(梁期、現代の意)までの名詩・名文を採集した”の意であり、決して“昭明太子自身が書いた”文章の載録を意味するものではない。わたしたちが現在使っている “あつめる”の義と大異ない用法である。
 この点、「万葉集」「古今集」などという場合も、本来 “他の人の歌を採録したもの”の義の「集」であって、“自分がこれらの歌を作った”の義でない。これも、右の「文撰」の場合と同一である。
 これら、六世紀初頭と八世紀以降の「集」の用法から見ると、中間の七世紀前半に当たるとされる、この文のみ、「撰述」の意とするのは、不審である。
 この「義疏」中には、中国の注釈家(法雲等)の注釈は引用されているけれど、その大多数は、法雲の「法華義記」によっており、決して “幾多の注釈家の注釈を採録する”を目途したもの、とは言いにくい。まして先にあげたように、この「著者自身の強烈な主張」も、容赦なくもりこんでいる、立派な「選述」なのであるから、これを先の「文撰」などと同日に論ずることは不適当である。

  要するに、これは「上宮王が書いた」の意でなく、「上宮王が(自家の書架に)収蔵した」の意ではあるまいか。

 

   二

 第二、「私」の問題。
 従来説では、“公的(オフィシャル)な著作ではなく、私的(プライベート)な著作”の意とされていた。しかし、このような公・私、二領域の活動をそれぞれ「肯定」するような見解が、果たして当時(天平年時)存在したであろうか。
 先ず、聖徳太子の作とされる、十七条憲法を見よう。

十五に曰く、私に背き公に向うは、是れ臣の道なり。凡そ人、私有れば必ず恨み有り。憾み有れば必ず同に非ず、同に非れば私を以て公を妨ぐ。〈「日本書紀、推古十二年夏四月」〉

 右では、「私」は一貫して “悪徳”である。むしろ、“悪の淵源のごとき観があろう。とても “「私」も正当な一領域”といった見地とは、全く一致しないのである。これを“天平期の法隆寺内の一僧侶の筆”とすれば、彼が、その敬慕する聖徳太子の使用法と全く異なる「私」の使用法を行うものであろうか。不審だ。

次に、「法華義疏」中の用例を見よう。(ページ数は岩波本)。
 1. 私に懐うには、今は弥勒の為めには……〈上巻、五一ページ〉
 2. 但だ私に懐うには、衆上の一心の上に……〈上巻、一二三ページ〉
 3. 但し、私に懐うには、「異の方使」とは……〈上巻、一三〇ページ〉
 4. 《第一の寂滅を知る》とは、 『本義』は、亦た明かさず。但し、私に懐うには……〈上巻、一三三ページ〉
 5. 私に釈して名づけて「擬宣する所を定む」と為したれども、 『本義』は……〈上巻、一九四ページ〉
 6. 但し、私に懐うには、或は是れ機の中に……〈上巻、二〇五ページ〉
 7. 然れども、此は是れ私の意なり。『本釈』は、少しく異なる。〈下巻、一七九〜八〇ページ〉
 8. 而れども、私意は少しく安らかならず。〈下巻、一九〇ページ〉

  右のいずれも、「私=自称(第一人称)」の用法だ。例外はない。巻頭二行文の筆者が「法隆寺の天平僧」であるとすれば、当然この本文(法華義疏)を見ていると考えざるをえないであろう。とすれば、その本文中の全用例に反する「私」の使用法をしめすとは考えがたいのではあるまいか。

 その上、もっとも緊密に、この本文と巻頭二行文の筆者との文法的「関係」を立証するのは、右の 7. の用例である。

然此是私意、本釈少異。〈「法華義疏」、巻第四。大正新修大蔵経、第五十六巻、続経疏部一、一一八ページ上段四行〉

 これを、冒頭二行文の、

此是大委国上宮王私集

 という文体と比較すれば、「此是……私」という文脈を共有していることが知られよう。

 そしてこの「法華義疏」の 7. の文中の「私」が「自称(第一人称)」の用法であることは明白である。とすれば、これと同じ文形の(おそらく右の影響をうけたと思われる)巻頭二行文中の「私」も、同じ用法、すなわち「自称(第一人称)」と見なすこと、当然ではあるまいか。

 

   三

 第三、自称様式の問題。

 右の「私」の問題は、論理的に次の一事をさししめす。──「この巻頭二行文の筆者は『上宮王』その人である」と。

 従来の見地からは、あまりにも意外な事態であるけれども、「『私』=自称」問題の指すところ、これ以外の帰結はありえないのである。

 そこで必然的に生ずべきは、次の問題であろう。“上宮王自身が、自分のことを「上宮王」と呼びうるか”このテーマだ。

 この問いに答えることのできる史料がある。それは、長屋王をめぐる経典書写文書である。(根津美術館所蔵)。

A藤原宮御禹 天皇、以慶雲四年六月十五日登遐、三光惨然、四海遏密、長屋殿下地極天倫、・・・和銅五年歳次壬子十一月十五月庚辰竟、
   用紙一十七張       北宮〈大般若波羅密多経巻二三、序文〉

B神亀五年歳次戊辰五月十五月、仏弟子長王、至誠発願、奉写大般若経一部六百巻、・・・〈大般若波羅密多経巻二六七〉(寧楽遺文、所収)

 右のAは、他(長屋王以外)の筆者の文であるが、その文意を“認承”する形で、長屋王が「北宮」と自署名を行っている。その居した宮殿名をもって、“自名”に代えているのである。
 次のBでは、長屋王自身の手になる文章が跋文として、末尾に記されている。そこでは自己のことを「仏弟子、長王」と表記している。天皇家内部の王子たちが、自分のことを「〜王」と自称していたことが知られる。

 以上の史料から見ると、“上宮王が自分のことを「上宮王」と自記する”可能性が十分存することが知られよう。もちろん、これらは八世紀中葉の事例であるから、「七世紀前半」から見れば、百年以上も、のちの史料であるけれど、このような使用慣例は七〜八世紀を通ずるもの、そのように見なしても、大過ないのではあるまいか。

 

第四、重複表現の問題

 従来説には、大きな矛盾がある。それは、文旨上、前半の「大委国上宮王私集」を“聖徳太子の私的な著作“の意にとる以上、後半の「非海彼本」は、全くの蛇足となろう。なぜなら、すでに「聖徳太子著作」を断言しているのだから、それが「海彼本」すなわち、中国大陸や朝鮮半島の学僧による著作である可能性は、全く存在しないからである。“言わずもがな”の冗舌というほかはない。
 これに対し、わたしの理解の場合、前半は、“わたし(上宮王)が自家(書架)に収蔵したもの”といっているのであり、後半で、“わたしの収蔵したこの本は、中国・朝鮮側の人々の手に成るものではない”といっているのであるから、全く文意において重複するところはないのである。
 一つの文章の、後半分(字数の比率では二割五分)が完全な蛇足と化するような読解、それは果して原作者の意にかなうものであろうか。大いなる疑問、といわざるをえない。わたしにはそのように思われる。

   四

 第五、位置の問題。

 従来説には、文書様式上、重大な矛盾がある。
 巻頭二行文の位置が、「右下」という、下方に書かれてあることである。
 なぜなら、もしこれが“天平期の法隆寺内の僧”によるものであったとするならば、「上宮王」と呼ばれた聖徳太子は、(釈尊を除いて)最高の、敬慕すべき存在である、 と称しても過言ではないであろう。その「上宮王」の名を記すのならば、「法華義疏第一」 の位置と並ぶ、あるいはさらにややその「右上」気味の位置に置かれてこそ、十分の敬意の表現とすべきだからである。この点、文書様式上、きわめて不適正の位置といわねばならない。

 これに対し、わたしの立場、すなわちこの二行文を「上宮王自身の自記」とした場合、この位置こそ適正であり、何等不自然ではない。逆に、「法華義疏第一」の右横や右上方に書いたとすれば、極めて不自然となろう。“みずからの高位を他に誇る”形となるからである。
 以上、一見微妙な、心理上の問題ながら、文書様式上、決して看破し能わぬ問題点であると、わたしには思われる。しかしながら、従来説の論者はこの一点を吟味することが欠如していたようである。

  第六、書法の問題

 この二行文中、「国」の字は、細字で、“あとから”記入された形をしめしている。二行文全体と同一筆跡であることは疑いないから、最初「国」字を除く形で書かれ、書き終わって、(あるいは途中で)それに気づき、この一字を追記したものと思われる。
 このような状況は、わたしたちが日常しばしば体験する事態である。ことに “とり急ぎ”したためるとき、おこりやすものであろう。
 ところが従来説の場合、“法隆寺内の僧侶が、聖徳太子の真筆作品に対して記入する”という状況設定である。このようなさいは、
〈その一〉先ず、手もとに「下書き」を行うこと、
〈その二〉本番のさいは、「謹書」すること、
 この二点は、およそ不可欠のたしなみ、むしろ自然の執筆姿勢というべきであろう。

 しかるに、この二行文の筆者は、一切右の注意をはらわず、いきなり「原二行文(「国」を欠く)」を書き下し、あとで“あわてて”「国」字の追記を行なっているのである。右の状況設定においては、不可解という他はない。
 これに反し、わたしの場合のように、この二行文を「上宮王」自身の自記とした場合、何の矛盾も生じない。なぜなら、当人自身が自家収蔵の書籍に対して“書き付け”を行うさい、右のような状況はきわめてありやすい事態だからである。決して“下書き”や”“謹書”を不可欠としないのである。
 このような書法上の観察も、従来説の場合、意外にも十分には行われていなかったようである。
 この点も、従来説の非を証するのである。

 

   五

 この問題について、さらに不可欠の考察点がある。それはこの二行文の「書風」の問題である。この筆跡が「欧陽詢の書風」をもつことは、すでに学界既知のところといえよう。たとえば、花山信勝氏は次のようにのべておられる。

「御物本法華義疏に於ける巻首撰号の二行十四字並に題号に関しては、法隆寺大鏡の解説(大正八年二月発行)以来、奈良朝を降らざる古代に於ける追書であるとの説が一般に行われて来たが、予が昭和七年一月に中村不折先生を訪ねて御高見を仰いだ節、先生は御熟覧の上遂に他筆であることを確信せられ、 殊に『官』『此』『本』の三字並びに『法』の旁『去』が全然欧陽詢の書法を習った人の筆であることを証明せられた。随って、予は前年出版の『法華義疏』校訳上巻の註記第一に『大体御真筆と見てよかろう』として置いたが、今茲に意見を改めることを付記しておく。」
〈『聖徳太子御製、法華義疏の研究』一六三ページ、一五〉
「最初の撰号に、『大倭国上宮王の私に集むるところ』とあるのは、欧陽詢の書法が加わっているから、奈良朝中頃の文字と見られるが、……」〈「法華義疏」、下巻、岩波文庫本。解説、三九二ページ〉

 右に紹介された中村鑑定のごとく、確かにこの二行文の筆跡には、欧陽詢の筆風の影響が濃厚に残されている様子が看取される。有名な 王羲之の優美・繊細な書風が一世を風靡したあと、欧陽詢が隋代に現われてより、書風を一変せしめ、鋭利・秀抜の書跡をもって一世を驚倒せしめたことは、中国の書道史上、著名の “事件”である。二行文は明らかに後者の影響を深く蔵しているのである。
 とすれば、この「欧風」が日本側の書跡に現われるのは天平時代 (23) とするのが、日本書道史上の通軌であるから、右のような“欧風の存在”という鑑定が、すなわち 「この二行文の筆跡は天平期の記入」という推断に至るべきことも、当然ともいえよう。右の花山氏の「奈良朝中頃の文字」という表現は、その帰結をしめすものであろう。

 けれども、 今、 欧陽詢の経歴を精査してみよう。彼は随及び唐初(五五七〜六四一)の書家である。彼に関して次のような説話が旧唐書中に記せられている。

随に仕えて太上博士為り。高祖、微なる時、引かれて賓客為り。即位に及び、累遷して給事中に遷る。
 詢、初め王羲之の書を学び、後更に漸く其の体を変う。筆力、険勁、一時之絶為り。人、其の尺牘文字を得、威(みな)以て楷範と為す。
 高麗甚だ其の書を重んじ、 嘗て使を遣わして之を求む。高祖嘆じて曰く、「意(おも)わざりき、詢の書名、遠く夷狄に播(ひろ)がり、彼、其の跡を観んとは。固(まこと)に、其の形(あら)わるること魁梧(かいご)なり、と謂(い)わんか。」と。〈「旧唐書」、儒学上、欧陽詢伝〉

 陽詢の父は陳の広州の刺史であったが、謀反の罪で誅せられた、という。陳が滅亡し、隋が南北統一したとき(開皇九年、五八九)、彼は三十代初頭であった。そして隋の太常博士として顕位にあった。隋滅亡時(義寧二年、六一八)は、すでに六十代初頭、彼の盛年は「隋代」にあったことが知られる。
 初唐の頃、高麗の国王が欧陽詢の書を求めてわざわざ遣使し来り、唐の高祖が驚倒した逸話が、右に記せられている。いかに東アジア世界全体に彼の盛名がとどろき、近隣諸国で書を学ぶ者がいかに彼の書風に “学ばん”としたかが知られよう。
 唐の高祖は、隋代より彼と友好の間柄にあり、ために八十五歳の死に至るまで、彼の書風は甚大な影響を与えつづけてきた。

以上のような彼の経歴に対し、七世紀前半の[イ妥]国(及び倭国)の状況を見よう。
A隋書[イ妥]国伝
 1. 開皇二十年(六〇〇)第一回遣使。窟王、多利思北孤。──欧陽詢、四十三歳。
 2. 大業三年(六〇七)第二回遣使。同右。「沙門数十人、来って仏法を学ぶ」──欧陽詢、 五十歳。
 3. 大業四年(六〇八)文林郎輩世清、来使。帰朝時、窟国使を伴う。──欧陽詢、五十一歳。

[イ妥](たい)国の[イ妥]は、人偏に妥

B日本書紀(推古紀)
 1. 推古十五年七月(六〇七。「十二年の誤差」問題よりすれば、六一九、初唐)推古天皇、聖徳太子。第一回、小野妹子を「大唐」に派遣。──欧陽詢、五十もしくは六十二歳。
 2. 推古十六年(六〇八。もしくは六二〇)夏四月、小野妹子、「大唐」の使人、輩世清を伴い帰る。
 3. 推古十六年九月、輩世清の帰朝と共に、第二回の小野妹子派遣。福因等八人の学生を遣わす。──欧陽詢、五十一歳もしくは六十三歳。

 右のいずれをとっても、今問題の欧陽詢の活躍期、盛名の響きわたった時期に当たっているのである。従って、これらの遣隋使もしくは遣唐使の持ち帰った経典・文書類の中には、「欧風の書跡」のものの存在したこと、これをわたしたちは疑うことができないのである。
 その上、高麗王の「欧跡所望遣使」の逸話のしめすように、同じ「夷蛮」の周辺国たる、日本列島の王者たちもまた、この「欧風」にあこがれ、“学ばん”としたことは、必然であり、わたしたちはこれを否むことができないのである。
以上の論証によって、「欧風の所在」をもって、直ちにこれを「天平期の法隆寺僧」の手跡と見なしたことの「早断」に過ぎたことが知られよう。やはり慎重に「七世紀前半(隋期)以降の手跡」として、その上限を設定すべきだったのである。

 すなわち、七世紀前半の「上宮王」自身の手跡に「欧風」の現れていることは、何等の矛盾とすべきでないものではないことが知られよう。

 

(23)たとえば「奈良朝を降らざる古代に於ける追書」(法隆寺大鏡の解説、大正八年三月)、「欧陽詢の筆法が加わっているから、奈良朝中頃の文字と見られるが」(岩波文庫本、解説、 花山信勝氏)、 「奈良時代の書らしい文章であるが」(坂本太郎氏『聖徳太子』一七四ページ)等。
(24)飯島太久磨氏の御教示をえた。(東京、神田小川町、書芸文化新社)。


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