YouTube動画2026年4月11日古田史学・リモート研究会
『孔子は倭人を知っていた -- 周代四夷の史料批判』 古賀達也
講演PDFはこちらから取得できます。

古賀達也の「洛中洛外ノート」「二倍年暦」関係より
〖266〗周代の史料批判「夏商周断代工程」の顛末
〖265〗孔子は倭人を知っていた周代「四夷」の史料状況

『邪馬一国への道標』第1章縄文の謎の扉を開く古田武彦より
(01)縄文人が周王朝に貢献した -- 『論衡』をめぐって
(02)殷の箕子は倭人を知っていた -- 『史記』『漢書』をめぐって,(03)class="s7"> 孔子は倭人を知っていた -- 『論語』『漢書』をめぐって


2026.08.08

孔子は倭人を知っていた

-- 周代四夷の史料批判

古賀達也

要約・講演記録

 講演の文字起こしとして字幕を校正したYouTube動画講演PDFを生成AI Gemini Notebookにてまとめました。それを生成AI Geminiから全文要約用Gemにてテキストの誤字・脱字等を修正・整形した上で、文脈や背景知識(古田史学的アプローチや古代史の史料批判・地理認識)を補足しながら分かりやすくでまとめました。校正は横田がおこないました。
(YouTube動画の字幕の校正・講演記録作成も横田がおこないました。)
 結果として古賀達也氏の、『孔子は倭人を知っていた -- 周代四夷の史料状況』(東京古田会ニュースNo.228 May.2026)の要約です。

 

1. 國枝浩氏「『夷狄』考」からの提起と批判のポイント

國枝説の主張

國枝浩氏の論文「『夷狄』考」における主な主張は以下の通りです。

『論語』の記述:『論語』には「夷狄」という言葉はあるが、「東夷」「北狄」のように東西南北の方角と直接結びつけられてはいない。
孔子時代の認識:周代春秋期(孔子の時代)における「夷狄」とは、単に「周辺の未開異民族」程度の認識に留まっていた。
方位の結合と『史記』の影響:四夷(夷狄戎蛮)と四方(東西南北)が正式に結びつくのは、前漢代の司馬遷『史記』や、その影響を受けた後代の解釈書からである。
結論:『論語』を根拠に「孔子が『東夷』としての倭国(日本列島)を知っていた」とする古田武彦説は、『史記』の観念に幻惑されたものであり成立しない。

國枝説に対する方法論上の疑問

この批判に対し、本発表者(古賀氏)は結論の前に「論証の方法論上の不備」を指摘します。

1.「無かった」ことの証明にはならない:前漢の『史記』に方位と四夷の結合が書かれているという史料事実は「前漢代にその認識があった」証拠にはなるが、「周代に無かった」ことの証明にはならない。
2. 『論語』単体に依存する限界:『論語』は地理書・史書ではないため、『論語』に書かれていないことだけを理由に「周代全体でその認識がなかった」とするのは論理の飛躍である。孔子や周代の「四夷認識」を正確に検証するには、同時代(春秋期)あるいは直後(戦国期)の周代史料全体を広く参照・批判する必要がある。

 

2. 周代史料に見る「四夷認識」と「倭人朝貢」の検証

文献史学および科学的分析に基づき、周代・後漢代の各種史料を再検証します。

① 王充『論衡』に見る周代の倭人朝貢伝承

古田武彦氏の『邪馬一国への道標』でも論じられている通り、後漢の王充が著した『論衡』には「周の成王の時代、天下太平にして倭人が暢草(ちょうそう:香草)を朝貢した」という記述があります。

 歴史的文脈の補足:現代の通説では「周代(日本は縄文時代)に日本列島の倭人が中国へ朝貢したはずがない」として大陸内の異民族と解釈されがちです。しかし、後漢の官僚であった王充は、同時代に光武帝が倭人(志賀島金印の授与対象)と交流した事実を知っています。
 後漢の天子や官僚層は、「周代に朝貢してきた倭人」と「自時代に金印を与えた日本列島の倭人」を同一の存在として疑わずに認識していたことが読み取れます。

② 『春秋左氏伝』・『孟子』に見る方位と「夷」

『春秋左氏伝』(戦国期成立):諸侯が「四夷」に勝った功績を周王に報告する記事や、「東夷」という具体的な表記が複数回登場します。
『孟子』(戦国期成立):聖人である「舜」を「東夷の人」、「文王(周王朝の父)」を「西夷の人」と表現しています。ここでの「夷」は単なる東・西の辺境出身(中華の中原から見た端)を指しており、必ずしも後世のような差別的蔑称のみで使われていたわけではないことが分かります。

③ 精華簡『繋年』における「西戎」の同時代証拠

北京の精華大学が所蔵する竹簡「精華簡(せいかかん)」のうち、編年体史書である『繋年』には、西周最後の王・幽王の時代に「西戎(せいじゅう)」が周を攻め滅ぼした記述があります。

 科学的絶対年代:放射性炭素(C14)年代測定により紀元前305年±30年(戦国期後半)の物理的同時代史料であることが証明されています。この発見により、前漢の『史記』を待つまでもなく、周代の戦国期時点で「方位(西)+戎」という概念・表記が明確に存在していたことが実証されます。

3. 古代中国の世界地理認識と『山海経』の「倭」

『爾雅』と古代中国の世界観

戦国期成立の地理・言語書『爾雅(じが)』には、東西南北の極限(四極・四荒)と、それを取り囲む「四海(九夷・八狄・七戎・六蛮)」が定義されています。

 東の太平と「仁」:『爾雅』では「東に至ると日は出るところ(大平)となり、大平の人は仁なり」と記されています。東方の海(九夷)には、儒教の最高徳目である「仁」を備えた人々が住むという認識が存在していました。
 古代中国の世界概念図(四海総図)では、中央の中原(天子)の周囲に海が広がり、その外縁(東夷・北狄・西戎・南蛮)に朝貢国や遠方の国々が存在すると描かれています。

『山海経』における地理・政治認識

 中国最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』(周代戦国期成立)の「海内北経」には、最も古い「倭」の記述が存在します。

> 「蓋国は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」

 地理的位置:大国「燕(北京周辺〜朝鮮半島北部)」の南に「蓋国(朝鮮半島)」があり、その南(朝鮮半島南岸から日本列島にかけて)に「倭」が存在するという地理認識です。
 政治的文脈(古田説の解釈):「燕に属す」とは単なる位置関係ではなく、「倭人が燕を通じて周の天子に貢献物を持参していた(政治的属関係)」ことを意味します。これこそが『論衡』に記された周代の倭人朝貢の物理的裏付けとなります。

4. 『論語』の再批判と孔子が語った「海の向こうの仁の国」

これら周代史料の文脈を踏まえ、あらためて『論語』の記述を分析します。

① 『論語』における「九夷」

 『論語』子罕(しかん)第9に、孔子が「九夷(きゅうい)に居らんと欲す」(東方の九夷の地で暮らしたい)と願う有名な場面があります。

 『爾雅』の定義通り、「九夷」は東方を指します。孔子は東方の「九夷」という領域・概念を明確に認知していました。

 

② 『論語』公冶長(こうやちょう)編と「桴(いかだ)に乗って海に浮かばん」

 『論語』公冶長第5において、孔子は熱血な弟子・子路(しろ)に対してこう語ります。

「道行われず、桴に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由(子路)か」
(今の中華では正義・道が行われない。いかだに乗って海を渡り、向こうの国へ行こうと思う。ついてくるのは子路くらいか)

文脈と地理認識の解釈:
1. 大陸国家である中国において、陸路ではなく「あえて危険な海路(いかだ)」を選択しているのは、大陸の西・南北ではなく「東の海の向こう」を目指しているからです。
2. 中華の道徳が乱れたため、「海の向こう(東方)には、未だ仁義や道徳が残されている国がある」という前提で会話が成り立っています。
3. この「東の海にある仁の国」こそが、『論語』子罕編で憧れた「九夷」であり、『爾雅』で「東の大平の人は仁なり」と記された地域であり、『山海経』で蓋国の南(東の海中)に位置づけられた「倭(倭人・日本列島)」を指していると解釈するのが極めて自然です。

結論

1. 國枝氏の「『論語』に方角と夷狄の組み合わせがないから周代には存在しなかった」という主張は、『論語』1書のみに頼った不十分な史料批判であり、説得力を欠きます。
2. 『春秋左氏伝』『孟子』、科学的に年代判定された出土竹簡『繋年』、地理書『山海経』『爾雅』などの周代同時代・近現代史料を統合的に検証すると、周代において「方位と結合した四夷認識」および「東の海の向こうに存在する倭人」の概念が存在していたことは確実です。
3. したがって、『論語』の背景にある周代の地理・思想概念を踏まえた「孔子は(東夷の国としての)倭人を知っていた」とする古田武彦説は、優れた史料批判と論証に基づく極めて有力な学説であると結論付けられます。

 


字幕の校正時、文字起こしにより語調は整え講演記録を作成。(横田)

参考 YouTube動画の字幕の校正による講演記録

 『孔子は倭人を知っていた』ということで、周代の「四夷の 史料批判という発表をさせていただきます。
 國枝さんが、『夷狄』考という 東京古田会のニュースで発表された内容が非常に。言われたらなるほどと思った ご指摘だったんです。
 その論旨は、詳しくは申しませんが、論語の中には「夷狄」の語は見えるけど、「東夷」「北狄」という言葉と、「東西南北」という方角とリンクされていない。 このことから孔子の時代では「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
 「夷狄戎蛮」と「東西南北」の方角が結びつけられるのは 司馬遷の『史記』。いわゆる前漢末から、『史記』もしくはその影響を受けた後代の『論語』解説書による。 したがって『論語』や『論語』公冶長(こうやちょう)を根拠として孔子が「東夷」の国としての倭国、 日本列島の存在を知っていたとする古田説は、『史記』に幻惑されたもので成立しない。という感じ なんです。
だからエビデンスは、やはり『論語』に、そういう記述がないから 『論語』 公冶長を根拠にして孔子が倭人を知ってたという古田説は成立しないと、 こういうご批判です。

 私はそれに対して、その結論 その是非を問う前に、方法論上に不備があるという風に思ったわけです。一つは、その前漢代に成立した『史記』などに「夷狄」と「東西南北」の方角を結びつける記事がある。これは 史料事実としてあるわけですね。『史記』には。
 だから後代の影響を受けたんで 孔子の時代にはなかったんだと。言う根拠にはならないでしょうと。 あくまでも前漢代の『史記』に、「夷狄戒蛮」と、「東西南北」の方角とがセットで記述されて認識されるという、 その根拠に『史記』は使えるけど、それは『史記』にそう書いてあるのが 最初だということには言えないと。
 周代に、そうした認識がなかったという、 根拠にはできませんよと。したがって、その孔子の時代に、周代の 春秋期の時代に、この「四夷」認識、その東西南北をどのように認識していたかというのを調べるためには、『論語』だけではやっぱり不十分である。そもそも『論語』は 地理のことを書いた史書ではありませんから。
 だから『論語』にないから、 その時代なかったんだというのは、ちょっと論理の飛躍であって、それは無理です。だから そう言いたければ『論語』だけじゃなくて同時代の史書、春秋期もしくはその直後の戦国期いわゆる周代資料、全部見たけど、なかったと言うんであれば、まだ説得力ありますが、 『論語』だけ、『論語』にないから、なかったんだと。そう言うのは、ちょっと学問の方法論上、おかしいと。 これが言うたら、私の結論部分なんです。ただ、それだけだと、方法論上の 論理学的批判に留まりますので、もう一度勉強し直そうと、いうことでございます。

 これは古田先生の『邪馬一国への道標』に、この問題が詳しく載ってまして、後漢の王充(おうじゅう)という人が 『論衡(ろんこう)』という有名な本を書いてます。
 その中に、倭人が周代に朝貢したと。 「周の時、天下太平、越裳、雉を獻じ、倭人鬯艸(ちょうそ う)を貢す」と。こういう有名な記事です。だから周代ですと縄文時代になるわけですね。だから縄文 時代に倭人が、中国まで行くっていうのは、今の学会の通説では、 これは歴史事実じゃないというのが通説です。
 だからこの倭人っていうのは、 日本列島の倭人じゃなくて、中国大陸のどっかに、その倭人と呼ばれる人たちが いたんだろうと云う、そういう解釈になっているわけです。今の通説です。ところが少なくとも、 その『論衡(ろんこう)』を書いた王充はですね、後漢の光武帝に仕えた官僚ですから、光武帝が志賀島の倭人に金印を与えています。これ知ってるわけですね、自分と同じ時代。 だから、少なくともこの後漢の時代の歴史官僚王充初めその官僚たちは、『論語』で書かれた 倭人は志賀島の金印をもらった倭人であると。そう認識していたいうことは間違いない。
 で、そういうことで周代の史料で有名なのが『春秋左氏伝』。 これはあの孔子が書いた『春秋』の解説書を、左氏という人が解説した『春秋左氏伝』。 『春秋』の解説書は、三つあるんですけど、
その中で、一番有名である。 これをずらっと、えびすの「夷(イ)」の字が使われているかどうか、あるいは あるいは「夷狄戎蛮」、そういう「夷、戎」の字が使っている箇所をずらっと調べてみました。 「東夷」とか、東の「夷」というのが、結構あります。しがっていわゆる周代にその「夷狄戎蛮」と 「東西南北」のセットはないと、組み合わせはないというのは、ちょっと言えない。 こういう「東夷」という例がありますので。それはちょっと言えないんじゃないかなと思いました。

 次に、『孟子』は春秋期の次の戦国期の人で、孔子の孫弟子ぐらいに当たる と言われてます。『孟子』の中をずっと読んでいたら「東夷の人」とか 「西夷の人」とか、こういう記述があります。これは文章とか内容を見たら、中国の「中原」、中華の真ん中ですね。 その中華という真ん中の東の端(はし)、西の端のことを指してるようです。「東夷」と「西夷」は。 「東夷の舜」、堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)の舜。有名な舜ですね。それと西夷の文王、 これ周を建国した部王のお父さん。だから聖人の二人(ふたり)なんですね。だから、 その聖人が「東夷」と「西夷」から出てると。云うことで。そういう風に考えますと、この「東夷」の夷(イ)と 字は、そういう差別的な意味を持つ字ではない。と云うのが、伺えます。
 で、さらに、やはり同時代史料をやっぱり探したいと。今言った史料は周代の 史料だけれども、ずっと書き継がれたり書写が続きますので。その書き継ぎ段階で、 新しい時代の認識が紛れ込む。
この可能性がありますので、 やはり同時代の資料を探しました。そうしたら、うまい具合にありまして、中国の精華大学にです。精華簡という竹簡が大量にあります。 まだ全部が、あのオープンにはなってませんけど、ここ十年ぐらいかな、 そういうのが一つ(ひとつ)ずつ、学会に発表されています。 で、これはもう絶対年代が、ありがたいことに分かるんですね。竹ですから、 C14の年代測定やったら大体、紀元前305年±30年という 数字が出てます。だから、これ間違いなく周代の戦国期の後半の竹簡であるのは間違いない。 文字通り同時代史料。科学的に年代が確定できる。 ここにですね、この西の戎(えびす)、「西戎(セイジュウ)」てのがあるんですね。だから こういう同時代竹簡に、「西戎」というのが書いてますから、「東西南北」という方角と、 「夷狄戎蛮」という、いわゆる差別的な言葉とセットで使われてる。これも 間違いないと、云う風に言えると思います。
 だから前漢の司馬遷の『史記』を待つ までもなく、方位「東西南北」とセットで表記される例が、周代史料にも 間違いなくあると。
 この精華大学の竹簡、全部で2388点あって、 そのうち138点から、編年体の書があったんです。ずっと同じ編年体で歴史が書いて あるのが見つかって、それを『繋年(けいねん)』と。これは、現在の人が名付けたそうです。 だから精華簡『繋年』と言われています。
 ありがたいことに日本の人がこの精華簡『繋年』 の全部の漢字の訳を発表していますのでネットで読むことができます。精華簡だけ見てもですね、いわゆる漢字よりも、 前の「小篆(しょうてん)」とか、そういう文字ですから、もう読めないんですね。私の学力では。 ところが、それを漢字に全部直してくれている、というのがあります。 先ほどの精華簡『繋年』に「西戎」が、出てくるわけです。
 で、その時の王様が幽王(ゆうおう)、 周朝第十二代の王様のこと、この記事の中に、そういう「西戎(セイジュウ)」(にしのえびす)が出てくる わけです。これ西周最後の王様ですね。

 次に『爾雅』 。これも周代戦国期の成立という『爾雅(じが)』。これは周代史料の有名な史料です。
 これも全部、「東西南北」とか「夷狄戎蠻」 を全部ピックアップしたら、こういう面白い記事が出てきました。 ちょっと時間の関係もあり、読みませんけど、その「東西南北」と それぞれの地名をずらっと書いてます。さらにまた、その東西南北に、この「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」 これを「四海」と言うと。上の「東西南北」は「四極」と。これは、あの中国の 世界観というか世界認識を表すことです。 東西南北に、「四極」という名前をつけると。
 ここで面白いのが、 「東は日が出るところ(に至り)を大平と為し」、「西は日が入る(沈む)ところを大蒙と為す」。 「東の大 平の人は仁」。この東にいる太平の人は仁とある。
 この仁というのは、あの儒教の一番目の徳目。 儒教の中の一番トップの字なわけです。だから東にいる日出るところの人たちは、 非常に人徳のある、非常に素晴らしい人なんだと。そういうことがこの『爾雅』に 書いてあるわけでございます。
 だから「東西南北」と、こういう(四海)を セットにするというのは、周代にあったというのは間違いなかろうと思います。 ちなみにこの「九夷」は、東側です。「八狄」、これは北です 「七戎」は西、「六蛮」が南です。これ「九夷」は、中国の史書にいろいろと出てきます。

 次に、これが古代中国の世界認識です。右側の図に、 真ん中に中原という、中国の大陸があって、その周りに東西南北に海があると、こう考えている。 海のさらに端に、このようにずっと地面がある。こういう、認識ですね。 世界認識。これは『四海総図』ということです。あと(左側の図で、) 政治的には中央に天子がいて、その周りを内臣外臣、朝貢国の「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」 これ政治的な認識ですね。この図そのものは割と新しい図ですので、周代までぜんぜん遡る、 そういうことでありませんが、古代中国の世界認識を表しております。
 次に『山海経』。これ中国最古の知理書です。これ周代戦国期の成立とされています。 この中に、これも有名ですけど『山海経』の 海内北経。海内の北側の国。 蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。これ倭国が出る。倭が出る最も 古い史料です。有名です。
 鉅燕という大きな国の南に、蓋國はあります。 この蓋國は倭の北にあります。こういうことを言っているわけです。鉅燕は どこにあるかといったら、同じく『山海経』の海内北経の中に、鉅燕は東北の隅(くま、すみ)にあると。 いわゆる中国大陸の東北の隅に、あの鉅燕というのがある。この鉅燕の南に蓋國があって、蓋國の南に倭がある。そういう知理認識です。ですから蓋國は、朝鮮半島の国々であろうと。 その朝鮮半島の蓋國の南に倭がある。これが周代の『山海経』の 地理認識です。だから割と正確な認識のような気がいたします。

 で、これは古田先生がおっしゃってることですけど、政治的な従属を意味すると。単なる地理的に属するというのでは、 意味が通らない。
 「燕に属する」というのは、政治的に属するわけですから、当然倭人はこの燕を通じて、周の天子のもとに朝貢したであろうと。燕は周の天子のもとの 一つ(ひとつ)の国ですから。だからそこに属するというのは、その上の周の天子に当然 倭人は属してる。だからその証として貢献物を持っていったということになる。 それが王充の『論衡』に示された倭人の
朝貢記事であると。そういう風に、古田先生は、理解されたわけです。これ『邪馬一国への道標』に、詳しく書いて あります。

 次に、『論語』ですね。これを根拠に 國枝さんが周の時代には、まだ「東西南北」と「夷狄戎蛮」は、セットじゃなかったんだ。 現に論語にはそういう記事はないということで。「夷狄戎蛮」を全部この字を使ってるやつを全部 ピックアックしました。ただこの「戎」の字は、人名とか、また動詞にも この「戎」の字を使ってますので、そういうのは外しました。それ以外に その「夷狄戎蛮」というのをどういう風に使ってるのかと。で、❶〜❺まで ずっとピックアップしました。 
 ちなみにこの❹ですね。「子路 第十三」のこの 「戎」はいわゆる周辺の異民族の「戎」という意味じゃなくて、これは「武器とか戦う」とか、 そういう意味の「戎」です。そういう意味でも、これは使われてます。こういうのがありました。

 ここで注目されるのが、子罕第九の 「九夷」。で、これが あるわけです。この「九夷」は、『爾雅じが』にも、この「九夷」が、ありました。 だから『爾雅』よりも『論語』が先に成立していますから、この『爾雅』の「九夷」の先例が、『論語』にあったわけです。要するに孔子が「九夷」なり国名を、領域名を 『論語』に書いてるわけです。
 この「九夷」っていうのは、『爾雅』の説明で 言えば、「東西南北」の東に当たります。ということになりますから、孔子が 「九夷」を知ってるということは、『爾雅』の東にある「九夷」と。そう理解していることが 分かるんじゃないか。これは古田先生が、そういう風な趣旨で、ずっと論じておられますし、 私も今回調べたらそれと同じことが、あったわけです。 東の海「九夷」というのは、『山海経』にその「倭」が、載っているわけですから。これも 周代の史料に、すでに東に登場するわけですから、孔子は、「東夷」の倭人というのを知っていた とする古田説は成立すると。決してその司馬遷の『史記』に幻惑されて間違った説ではないと。そう言っていいと思います。少なくとも司馬遷の『史記』に 幻惑されたというのは、これはまずない。先生はもっと史料全部調べた上で おっしゃってますからね。だから、それはなかろうと思います。

 で、これWikipedia(ウィキメディア)ではね、本来の四夷をどういう風に説明してるかと いうと。これ正しいかどうかは別です。あくまでもウィキメディアがいろんな 人の説の中で比較的有力だと思う説が、このウィキメディア に採用されています。 ただまあ面白いなと思った。
 いわゆる東方に広がる、そのデルタ地帯に 住んでるのが「夷 イ」なんだと。これ「夷」は、低いとか、底と同じく 「低地人」という意味があると。だから東方の住人なんで「東夷」と言ったんだと。 これ、多分誰かの説だと思います。
 北方は狩猟民ですね。狩猟民のことを「狄(テキ)」と 言ったと。だから「狄」は、あの交 易の「易」と同じ意味で、北方の住民なんで「北狄」と言ったんだ。 こういう説です。
 西の方は狩猟民で、羊毛を、羊ですね。羊の毛を持ってやって来た。だから「戎(ジュウ)」と言った。 「戎」は「絨」と同じく絨緞(じゅうたん)と一緒なんだという説です。だから「西戎」と言ったんだと。おもしろい説です。
 南方は、山岳地帯に焼き畑を耕す農耕民が住んでいた。彼らを「蛮バン」 と言ったから「南蛮」と言ったんだという説です。
 だから、これは多分いろんな説がある中の 比較的有力だという説がWikipedia(ウィキメディア)で、採用されたんだろう と思います。参考にはできますけど。ちょっと史料根拠とか、論証が成立しているかどうか分かりませんので、参考にとどめます。

次に、これが『論語』公冶長(こうやちょう)。『論語』の中で非常に有名で、孔子とその弟子の あの子路の問答です。孔門に十二人の弟子がおりますが、この子路は 『論語』の中で一番たくさん出てくる弟子です。あのう非常に血の毛の多い 弟子なんだけど、孔子は非常に可愛がったと。云うのがあると思います。 「子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う 者は、それ由か」と、これ 子路のことですね。これを聞きて喜ぶ。「子曰く、由は勇を好むこと我に 過ぎたり。 材を取る所なからん。」ということで先生が言われたと。
 今の中華では道が行なわれない。桴に乗って海に浮かぼうと。で海の向こうの国に行こうかと。
 で、私についてくるものは由であろうかと。 で、子路はそれを聞いて喜んだと。で、先生は言われた由は武勇を好むことは私以上だ、しかし 桴(いかだ)の材料を得る才能はないなと。ここは有名
な『論語』の一説です。当然 桴に乗って海に浮かぼうと思ったら、もう中国大陸では、東側しか海がありませんから、基本的に東側。 だから東の方の海に行こうと。
 それは東にある、中国では仁は行われなくなった。 道が行われなくなったけど、東の方には、まだそういう徳目を持った 国があるので、そこへ行こうというのだから、いわゆる東の国、「東夷」の国であると。 そうすると、その最有力候補は倭人であろうというのが、古田先生の理解な わけです。通説では、そんな風には全然理解はしませんけど、この説は。公冶長の、有名な記事でございます。

 で、これ、子路の生涯を書いてますので、また読んでおいてください。 質実剛健たるという人物でね、面白い人物ですね。孔子よりも先に亡くなったんで、孔子が 非常に悲しんだと。孔子の弟子の中であの、顔回(がんかい)という弟子ですね。 顔淵(がんえん)とも言いますが、それがやっぱし、孔子の中で一番優秀な弟子だったそうです。 でも非常に若い、若くして死んだんでやっぱし、孔子も泣いた。これも 『論語』の中にありますね。顔淵が死亡して「天我を滅ぼせり」と孔子が慟哭したという記事が『論語』にあります。だから孔子が可愛がった、あるいは最も優れた弟子であった顔淵、それと可愛がった子路が、自分より先に死んでる。そういうことが分かります。

 先ほどの繰り返しになりますが、先ほどの 孔子と子路の対話には、孔子の二つの認識が示されてます。一つは中国の中原の 諸国に仁義を説いた孔子をして「道を行われず」と
嘆く中華の状況、だから非常に 国が乱れたっていうか、人心が乱れたと。従って「桴に乗りて海に浮かばん」とあるように、そういう海の先の国にはまだその仁義が残ってる。道が残ってるというのが前提 にあっで、会話が整理してるわけです。
 で、そうしますと 東のある海中の国が、あの東方の海中にある「九夷」であると。 『論語』の中に、この「九夷」てのが、ありますから。『論語』❷「子罕 第九」で、孔子「九夷」で暮らしたいと願った、と言ってるわけだから、海の向こうに桴(いかだ)に 乗っていきたいと言っているところは、「九夷」のことなんです。この『論語』の中では言ったという記事はここだけですからね。やっぱり「九夷」に。 いわゆる野蛮な国だと言われてたところに行きたいと、願ったと云うことであります。
 先ほども言いましたようにこの「九夷」。『爾雅』 に 載っていた東方の「九夷」。すなわち「東夷」の国ですと。「(東は)日が出るところを大平 と為し」、「大平の人は仁」なりと。いうことでその「九夷」がある 東の太平には儒教の最高の徳目を表す仁の国とされてる。それこそが孔子が 桴(いかだ)で行きたいと願った仁の国である

 ということで『論語』 公冶長とか 子罕編とかこの『爾雅』 の「九夷」。こういう周代の資料を全部読んで、全体を理解すればやはり孔子は海の東の海の向こうに仁を持った徳が残った国がある。 としたら、そこは何があるとしたら、『山海経』に朝鮮半島の南に倭がある としたら日本列島の倭人とする理解が最有力であると。これが古田先生の理解なわけです。したがって結論としては、この『論語』 公冶長の孔子の言葉を、子罕や 周代資料に基づいた理解すれば、 古田先生が「孔子は倭人を知っていた」としたのは、 優れた論証に基づく有力説であるいうことが、明らかに なったということが結論で、ございます。

 ということで國枝さんの、非常にその 古田先生、間違ってるという風に、バーンと言われて。言ってる内容も 一応『論語』を根拠にされてますからね。非常に一瞬私もドキッとするような説でありましたで。 じゃあ一度、先生の説が正しいのかどうか、國枝さんが言ってることが当たってるか、 どうかを調べようということでやった研究が、今日今回の発表です。
 実は私は先生から、あの周代資料を、きちんと研究しなさいと。特に周の二倍 年暦の研究をやった時に、『論語の』用語ですね、孔子がどういう用語でどんな意味 で使ったかというのを、きちんと調べて一冊の本にしなさい、と先生から言われて おりました。忙しくてできないということと、私自身、先生から そう言われた時は、とてもその周代資料なんか、
理解できるだけの、勉強をしていませんでした。 そういうこともあって、ずっとやってこなかったですけれども、今回國枝さんから、非常に挑戦的な論文を書いていただきました。 それをきっかけに、勉強することができたということで、これを機会に 周代資料をですね、もうちょっとしっかり勉強しようと思っております。ということで、 國枝さんの意見には同意できないけれども感謝したいという風に思っております。
 以上でございます。


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