古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編3 『わたしひとりの親鸞』 明石書店

4 死について 衰退と新生
 来世のウソ わたしの実験 人類と宗教

これも旧版 『わたしひとりの親鸞』(毎日新聞社)です。
第一部 わたしひとりの親鸞


第三章 死について

 来世のウソ

  このテーマをさらに次なる局面へとおしすすめる前に、再び最初のテーマにたちかえらせていただきます。
 いわゆる「来世」の問題も、先にあげたわたしの根本方針、つまり格率から見ると明白です。わたしは来世などに行ったこともなく、それを自分の手で自分の掌ににぎりしめたことがないのですから、そんなものを本当だと見なすことはできないのです。
  "いや、それはお前が生きているからだ。死んでみればわかる。" そう、言う人があったら、その人に言い返しましょう。 "あなたは死んでみたのですか。" と。
 その人も、知らないくせに知ったかぶりをしている。わたしにはそれを疑うとができません。たとえ "その人" が親鸞であっても、イエスであっても。わたしには何ら変わりはありません。
 わたしは今は、彼等(イエスや親鸞たち)を "後光(ごこう)のさした" 永遠の超能力者として見ているのではなく、また「歴史上の人物」として "理解" しようとしているのでもありまぜん。ただ、わたしと同じ、この大地に生まれ、そして死んでいった、ひとりの人間として見ているのです。ですから、その彼等が、生きているうちに「来世がある。」「天国がある。」などと言ったら、彼等はやはり "見てきたような顔をして" 真赤なウソをついているのです。
 わたしは彼等を愛していますが、にもかかわらず、いや、限りなく愛すればこそ、こう、言うほかないのです。
 わたしが彼等を愛するとは、彼等が生きながら来世の秘密をのぞいて帰ってきたような、異能の超能力者だからではありません。従って彼等が「死後に浄土がある。」「必ず天国がある。」など言ったとしても、わたしには全くそれを信ずることはできないのです。
 もし、「いや、ほかならぬ、あの親鸞が.言うのだから。」「イエスの言うことなら、わたしは。」などと言う人があれば、それはその人の勝手ですが、わたしにはそれは、学問研究の場合、「あれほどの有名大学の教授が言うのだから。」という発想で考える、肩書主義者と変わらぬものと見えるのです。
 また、ある宗教学の大家がいて、「お前はまちがっている。三国志や親鸞文献の解釈なら、お前の方針でも、それはそれで意味があろう。しかしそんな文献解釈のときのやり方を、『来世』といった、信仰の重大事にあてはめるのが心得ちがいだ。」そう言うかもしれません。
 しかし、これに対するわたしの態度は簡明です。 "何かしらないが、あの人はえらい人だから、きっとすばらしいことを、言っているのだろう。" こういったうけとり方を、わたしはすでに捨てました。
 それはわたしの人生に対する態度そのものに根ざしています。わたしは決して文献に対する専門家ではありません。古代史に対しても親鸞に対しても、人間として当然の、平明な方法、 "なっとくできるものだけをなっとくする。" そういう姿勢を貫いてきたのです。ですから人生に対してだけ態度を変える。そんな器用なことは、わたしにはできません。
 ことに生死の問題についてこそ、万人平等です。特別 "うまい死に方" を心得た専門家がいるわけではありません。どんな「名士」でも「大家」でも「有徳者」でも、わたしのように平凡かつ愚劣な人間と、全く同じように冷たい一塊の死塊になってゆく。この対等な "ぶざま" な姿ほど、この人の世においてすばらしい事実はありません。「人間はみな対等だ。」そんな百のお説法をしなくても、この一個の事実がすべてを簡明に語っているのです。一国の権威あふれた王者であれ、輝かしい革命社会の元勲であれ、いかに全国家の荘厳な儀式や芸術的な装飾や科学的な保存術で、その屍体(したい)を美々しくよそおうとも、しょせん "隠しおおせぬ" 、これは根本の事実です。
 そしていかなる宗教学の大家にも、高僧にも、「死後を予見する」超能力は与えられていない。この与えられていないという一事こそ、人間同士の根本の対等を、残るくまなく証明するものではないでしょうか。
 従って「文献とはちがって信仰の事実は。」などと、荘厳なこけおどしをのべられても、わたしはその人の顔を黙って見つめ返すだけです。


わたしの実験

 古来、「来世」は、いつも人々にとって熱い関心の的(まと)となってきたようです。これは「来世」を知りえない人間の性格から見て、当然とも言えましょう。そこでこのニーズ(需要)に答えて、歴史上いれかわりたちかわり、「来世」に関する "情報屋" が登場してきました。
 卑弥呼のような古代の宗教的権威者は、「鬼道(きどう)を以(もっ)て衆を惑わした」と言われています。これもおそらく民衆の中に "わたしたちとはちがって、あの方なら、それを見通しておられるにちがいない。" という共同の幻想をふきこむことに成功していたからでしょう。その点、現代も東北にある「オソレ山」のイタコ(巫女)は、卑弥呼のささやかな後裔たちともいえましょう。
 いや、それどころか、テレビという近代的装置でも、しばしばこの種の番組を日本列島の上に流しつづけています。
 これも "こわいもの見たさ" という無邪気な好奇心と共に、右の二ーズが古えから今まで底流において決しておとろえていないことをしめしているのだと思います。そこでは、東北だけではない、日本の各地にその道の専門家がいて、「わたしこそ来世からのおとずれを知る者だ。」と称して人々の関心をひきつづけているのです。今、わたしがこういった文章を書くと、すぐ「いや、お前はまちがっている。現にわたしは来世の人と交信した。」といった類の「反論」が、これまた郵便局という近代装置を通して、わたしのもとへとどけられること、おそらく疑いないところと思います。
 けれども、わたしは幸いにもそのような虚報にまよわされることはありません。なぜなら、幼年時代、一つの実験をおこなったからです。
 わたしは子供の頃、おばあさんの手もとでいつも可愛がられていました。父の母、つまり祖母に当たる人です。神経痛に悩まされていて、自分で自由にふるまうことができない。そこで孫のわたしに命じて所要のものを買いにやらせたり、他(ひと)にものを持たせたり、便利に "使って" いたようで、その代わり、といっては何ですが、とても可愛がってくれたのです。
 わたしが泥だらけで飛ひまわり、けがなどして帰ってくると、小さな鉄の棒(独鈷ーどくこーの類)、真言宗のおまじないの道具ですが、それを自分のひきだしからとり出して、「何とか、かんとか、ソワカ」といった幻妙な呪文をとなえてくれました。そうすると、わたしは今までけがが痛くてたまらなかったのに、何かスーツとその痛みがひいてしまうように感じられたものです。
 祖母と孫との日常会話。これほど平和で "安全無害" なものは、世にありますまい。そのある日、わたしは真剣な顔をして言いました。「おばあちゃん。お願いがあるで。聞いてくれる。」「何ぞね。言うてみ。」「おばあちゃんが死んで、もし本当にあの世があったら、僕に知らしてほしいんじゃ。」「?」「幽霊になったらええじゃろ。」「幽霊いうもんが本当にあるんなら、どうしても僕に出てきてほしいんじゃ。」「・・・よし。出てきてやるよ。」「きっとやぜ。出てこんかったら、やっぱり幽霊はないんじゃ、思うけん。」「ええわ。幽霊いうもんがあったら、どうしても出てきてやる。まちがいない。」
 かくして両者の間に荘厳な契約が成立しました。普段の冗談口ではなしに、わたしはじーっと祖母の目を見つめ、そのほそい手をにぎりしめて言いました。祖母も、話の途中から、わたしの、普段とちがう態度に気づいて、真剣に答えをかえしてくれたのです。
 そしてまもなく祖母は死にました。しかしそれ以来、全くわたしの前に、祖母の幽霊など出てきませんでした。幼いわたしが期待と緊張にみちた日々をすごしていたのにもかかわらず。
 このような次第ですから、わたしは祖母との約束を信じ、「幽霊」などという、 "来世からの通信者" の存在しないことを確信できるのです。
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第四章 衰退と新生

 人類と宗教

  再び筆を転じ、人間が宗教と今までどのようなかかわりをもってきたか。この問題について考えてみたいと思います。
 大きく、三段階の変転をへてきた、わたしにはそう思われます。
 まず第一は、アニミズムの時代。木や山や石に神聖な霊の存在を認め、これを尊崇していたと言われる時代です。ギリシャ神話で、西風の神ゼピュロスや太陽の神二ーエリオス、雷の神ゼウスなど、自然物がひとつひとつ神格化されて語られているのも、その名残でしょう。
いや、そんなエーゲ海の彼方まで行かなくても、この日本列島にもそのあとかたはどの地方にでも残っています。巨石信仰と一言で呼ばれていますが、今見たところ、ただの石塊ながら、何かかっては深い由緒を帯びていた。そんな石を見出すのは、そうむずかしいことではありません。
 また大和路へとたどった人は、三輪神社という由緒ある古社があり、ここでは三輪山という山そのものが神体としてまつられていることは、有名な話です。これもはるか古えのアニミズム信仰が後代の時の流れにさらされながらも、今にその片鱗(へんりん)を残存させている姿、と言えましょう。
 何千年か何万年かつづいた、このような時期ののち、第二の部族宗教の時代がやってきます。自然物ならぬ一部族の長が神の権威をになうのです。彼は、あるいは神との媒介者であったり、あるいは時として神そのものであったりします。その神聖なる権威によって、その部族の全員を一体化し、統合するのです。
 このような新しい信仰は、旧来のアニミズムに安んじていた人々の精神の平和に大きな亀裂を投じるものだったでしょう。 "あの、物言わず亡びることのない、神秘の石や神聖な山なら、われわれ亡びやすいへ間にとって、全身全霊の崇敬に値いしょうが、何であんな、うつろいやすい人間、必ず亡び去る人間そのものを神聖視できようか。" こう言って眉をひそめ、占い信仰に固執しようとした、当代の老人たちも必ず多かったにちがいありません。
 しかし、意志的・意欲的な、この新しい信仰形態は、新時代の若者たちをひきつけたことでしょう。この部族信仰を中核とした新しい集団、これは部族の戦闘員たちに、宗教的権威にみちた王者のためにいのちをささげて悔いぬ気風を生み出し、その炎のような勢いで新しい時代の強烈な勢力を築いていったことと思われます。部族信仰の英雄時代です。
 そのさい、古い信仰との調和もまた、はかられたようです。たとえば先の巨石信仰など、この新しい部族信仰のシンボルに用いられた可能性が十分あります。今、わたしたちの眼前にする巨石信仰は、すなわち、それを信じ、それを集団統合の中核的シンボルとしていた、その遺跡なのではないでしょうか。
 三輪山信仰の場合も同じです。のちに九州から入ってきたと自称し、これを伝承として伝えさせた、天皇家が、反面、この在来からの古き三輪山信仰と深い再結合をしめしていったのは、古事記などの説話群の語るとおりです。
 もはや新しい時代(わたしたちが普通「古代史」と呼んでいる時期ですが)には、三輪山信仰は、単なるアニスム風の信仰形態ではなく、新しい部族信仰の統合中心圏の中に再び位置づけし直されてきたのです。
 また、あの卑弥呼は、先代の男王の死後、歴年(れきねん 十年弱くらい)におよぶ戦乱のあと、「共立」されて女王となったといいます。(彼女は、わたしが『「邪馬台国」はなかった』や『邪馬一国への道標』で論証したように、博多湾岸の王者です。)。その宮殿は、銅矛や木の弓や矢で守衛されていたといいます。太陽信仰の道具としての銅鏡、死者のための甕棺(みかかん)。それらを小道具、もしくは大道具とし、それらの背景のもとに、この神秘的・宗教的祭司の風貌をそなえた大女王は君臨し、その大女王の統率下に戦乱によって分裂した倭国を "再結集" させようとしたのです。
 ですからこの時点の三世紀は、もはやこの "やり口" の創始時代や英雄時代ではありませんでした。かえって、かつてその倭国の歴史上、 "輝ける、巫女(みこ)的女王のもとで原初の倭国は平和だった。" こういった「共同幻想」がすでにあった。そこでその民族的記憶・伝承をたよりに、卑弥呼を新たにかっぎ出した "知恵者" がいたわけです。
 そして三国志の-伝えるところ、この "策謀" は功を奏したようです。けれども次の一与(いちよ 壹與)という後継者のあと、急速にこの女王形式は衰滅してゆくようです。三一六年の西晋の滅亡によって朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡の衰退、政治的・軍事的空白化をめぐって東アジアは大規模かつ激烈な大戦乱時代に突入しました。おそらくその新たな情勢と関係があることと思われます。これらのことは、すでに書きました(『失われた九州王朝』)ので、今ははぶきますが、要するに、わたしたちの日本列島でも、確実にこの部族信仰の時代は誕生し、中興し、衰退した、その歴史をもっていたのです。
 いや、それだけではありません。明治維新を実行したあと、やはり "知恵者" がいて、この部族信仰の「再興」を企てました。それは昨日のことです。
 おわかりでしょう。わたしの青年時代のはじめ、友人たちは次々と戦場に身を投じてゆきました "天皇陛下のため、いのちを惜しむな。" との時代の声の大波にのみこまれつつ。わたしの小学時代(広島県の北、十日市小学校)の無二の親友(石野くん)もまた、フィリピンへ向う途次、海底に沈みました。

 退廃と新生

 この部族信仰について、貴重な記録の集大成となっているのが、旧約聖書です。ユダヤ人が部族神エホバの名のもとに、あるいは栄光の時代、あるいは屈辱の時代を経験したことが美しい詩的な韻律をもって語られています。
 ところが、前一世紀になってこの部族信仰は重大なピンチをむかえたようです。
 地中海中央部のイタリア半島の一画から拡大しはじめたローマ。その侵入者がイスラエルの地を占領しました。そして昨日の敵国の統治者と提携して統治していたのが、先にものべた総督ピラドです。
 この新事態は、一般の民衆や在野の宗教的伝道者(預言者)たちに、重大な不信と混乱をまきおこしたものと思われます。なぜなら、かつての日ユダヤ王は、宗教的なユダヤ国粋主義のシンボルであり、外敵たるローマ軍と闘うとき、 "青年よ、死を恐れるな。神の敵と闘って死んだ者の魂は、エホバの神によって永遠に嘉(よみ)されよう。" そう「宣言」しつづけていた人々だったからです。
 その当の人々が一転して、ローマ軍と握手し、総督という名の占領軍の首領、ローマの手先と並び統治する。それを見たユダヤ人たちはどのような感慨をもったでしょら。おびただしい青年たちを、エホバの神の名のもとに、戦場で死なせてしまったユダヤの母たち、姉たちは。
 このような一種言いがたい、歴史の「皮肉」は、 "幸いにも" わたしたちには、大変理解しやすいものです。そう、一九四〇年代後半の経験です。イエスはこのような環境の中で青年期をむかえました。かつては熱烈に支持された部族信仰にポッカリあいた空洞の中で、彼の若々しい精神は育っていったのです。
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制作 古田史学の会