『古代に真実を求めて』第五集


辛酉革命と甲子革令の王朝

九州年号と十七条憲法の史料批判

古賀達也

一 辛酉年改元の淵源

 平安時代の文章博士、三善清行(みよしつらゆき 八四九~九一八)による『革命勘文』の上申以来(昌泰四年、九〇一)、わが国では辛酉の年に改元することが慣例とされてきた。それは、戦国時代末と江戸初期の二回(一五六一、一六二一)を除き、明治からの一世一代の元号制度が成立するまで、千年の永きに亘り続けられた。こうした辛酉年改元の慣習は、年号の母国、中国に於いても見られず、皇帝の死去などにより、たまたま辛酉年に改元されることはあっても、制度あるいは慣習として辛酉年全てが改元されたことはないようである。(注1) 従って、辛酉年改元はわが国で発生した独自の制度あるいは慣習と見なされるのである。
 この辛酉の年に改元するという慣習は、中国の辛酉革命という讖緯(しんい)説の思想に基づいているとされ、それは干支が一巡する六十年毎の辛酉の年に革命が起こるというもので、特に一元(六十年)の二一倍にあたる一蔀(いちほう 一二六〇年)ごとの辛酉の年には国家的大変革があるとされる。『革命勘文』によれば、辛酉革命の典拠を次のように記している。

 「易緯に云ふ、辛酉を革命となし、甲子を革令となす、と。」
 「詩緯に云ふ、十周して参聚し、気神明を生ず。戊午運を革め、辛酉命を革め、甲子政を革む、と。」
  ※訳は日本思想大系『古代政治社会思想』(岩波書店)所収「革命勘文」による。以下、同じ。

 辛酉革命の典拠として易緯と詩緯の二緯書をあげ、具体的には神武天皇即位と天智天皇即位が辛酉年であることなどを例挙し、「遠くは太祖神武の遺蹤を履み、近くは中宗天智の基業を襲ひて、当にこの更始を創はじめ、かの中興を期し、元号を鳳暦に建て、作解を雷声に施すべし。」と、辛酉にあたる年内での改元を主張している。(注2) その結果、『革命勘文』上申日の昌泰四年二月二二日より五ヶ月後の七月十五日に延喜と改元された。そしてその後、辛酉年改元はさまざまな論議を起こしながらも、わが国での慣習となったことは、既に述べた通りである。
 しかしながら、三善清行が挙げた両緯書の辛酉革命の文言は、残存する各種易緯詩緯には見ることが出来ず、平安末期には辛酉革命が記された両緯書は早くも逸亡していたらしい。(注3)
 それでは、この辛酉革命という思想は改元とは別の問題であり、直接には改元を促すものではないことから、革命を改元に結び付けるというアイデアは、三善清行のものだったのであろうか。少なくとも、中国での先例を見ないことから、日本列島で考え出されたアイデアであることは間違いないと思われる。そこで、注目されるのが九州王朝が制定した九州年号群である。
 現存する九州年号群史料中最も古く信頼性の高い史料が、平安時代に成立した『二中歴』所収の「年代歴」である。それには各九州年号の元年干支が記されており、そこには継体元年(五一七)から大化六年(七〇〇)までの百八十四年間に三一代の年号が見える。その間、辛酉の年は三回あり、いずれも改元されていることがわかる。次の通りだ。

 「明要十一年 元辛酉 文書始出来結縄刻木止畢」(五四一)
 「願轉四年  辛酉」(六〇一)
 「白鳳廿三年 辛酉 対馬銀採観世音寺東院造」(六六一)
 ※( )内は古賀注。

 ここに見える「明要十一年 元辛酉」という表記は、明要という年号は十一年続き、その元年は辛酉であることを意味し、他の二例も同様である。このように、大和朝廷に先だって年号を公布していた九州王朝(倭国)において、辛酉の年全てが改元されていることは偶然とは考えにくく、従って讖緯説に基づく辛酉改元という慣習は、その先例と淵源を九州王朝に持つと考えられるのである。ちなみに、辛酉以外の他の干支ではこうした「全改元」のケースは九州年号には見られない。このことも、辛酉年全改元が偶然では起こり得ないことを示唆するものと言えよう。
 また、九州王朝が臣従した中国南朝においても、このような辛酉年全改元という例は見当たらず、辛酉革命説に基づく改元というアイデアは九州王朝内で創案されたものと言わざるを得ない(別表「中国・日本辛酉年改元表」参照)。
 そうすると三善清行はこうした九州王朝の辛酉年改元や改元上申史料を知っていて、それを「盗用」したのではないかという疑問が生じるのである。彼が文章博士として天皇家内の蔵書を比較的容易に閲覧できる立場にあったことを考えると、こうした疑いも案外正鵠を射ているのではあるまいか。大和朝廷が九州王朝の史料を「禁書」として没収していたことは、古田武彦氏が既に指摘されているところでもあり、それら「禁書」が平安時代にも伝存していたであろうことは、『二中歴』の九州年号群史料の存在を見ても疑えない。

二 甲子年革令の淵源

 辛酉革命と共に讖緯説のもう一つのキーワードが甲子革令(詩緯では革政)である。『革命勘文』が上申され、九六四年からは甲子の年も頻繁に改元されるようになるが、同書では甲子革令の具体例として次の事例が記されている。

 「謹みて日本紀を案ずるに、神武天皇はこれ本朝人皇の首(はじめ)なり。然らば則ちこの辛酉は、一蔀(いちほう)革命の首となすべし。また本朝の畤(じ)を立て、詔を下すの初めは、また同天皇四年甲子の年にあり、宜(よろ)しく革令の証となすべきなり。」
 「(推古)十二年甲子春正月、始めて冠位を賜ひ各差あり。徳・仁・義・礼・智・信あり、大小合せて十二階なり。夏四月、皇太子肇めて憲法十七条を制す云々〈この年隋の文帝崩ず〉。然らば則ち本朝の冠位・法令を制するは、推古天皇の甲子の年に始まる。あに甲子革令の験にあらずや。」
 「(天智)三年甲子春二月、詔して冠位の階を換へ、更(あらた)めて廿六階となす。」
  ※( )内は古賀注。〈 〉内は本文細注。

 このように、『革命勘文』では甲子革令の例として、初代神武の詔勅や推古朝での冠位・十七条憲法制定、天智紀の冠位更新が挙げられており、辛酉革命の改元に対して、甲子革令では法制度改革が事例とされている。革令あるいは革政の字義に照らせば、一応もっもとな事例と思われるが、『革命勘文』以後しばらくして、天皇家では甲子の年も改元されることになった。この点、辛酉改元の先例であった九州年号では甲子の年は全く改元されておらず、後例たる近畿天皇家の改元慣習とは異なっていることが注目されよう。
 三善清行自身は甲子年の改元までも主張したのかと言えば、そうではなさそうである。何故ならば『革命勘文』上申直後の甲子の年、延喜四年(九〇四)は改元されておらず、この史実は革令と改元を結び付けては理解されていなかった反映ではあるまいか。そうであれば、九州年号と同様に辛酉年のみの改元を主張していたこととなり、ますます三善清行が九州年号の改元慣習を知っていた疑いが深まるのである。
 他方、推古紀十二年条(六〇四、甲子)に見える十七条憲法は聖徳太子が制定したものではなく、本来は九州王朝による制定であり、『日本書紀』編纂にあたり盗用されたものとする論証を古田武彦が発表されている。(注4) そうすると、十七憲法が制定された甲子の年は、甲子革令という讖緯説に立つ九州王朝が制定するにふさわしいタイミングであり、この面からも十七条憲法を九州王朝制定とした古田説を支持するのである。
 更に、辛酉革命(改元)と甲子革令(法令公布)が九州王朝の政治思想であるとすれば、『革命勘文』で甲子革令の事例として挙げられた天智紀の冠位制度更新も、本来は九州王朝によるものだったのではあるまいか。この点、今後の研究課題としたい。

三 十七条憲法と九州王朝の構造改革

 十七条憲法を九州王朝の多利思北孤が制定したとする古田氏の主たる論拠は、同憲法の三条に見える次の記事によるものだ。

 「三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。」

 天地に例えられたこの君臣関係は天子と臣下の場合に最もふさわしく、従って、当時大王であった近畿天皇家ではなく、日出ずる処の天子を称していた九州王朝の多利思北孤によるものとされたのである。古田氏が指摘された通り、第二条で「篤く三宝を敬え。」と仏法尊重を宣揚し、第三条や第十二条の「国に二君非ず。民に両主無し。率土の兆民は、王を以て主とす。所任(よさせ)る官司は、皆是王の臣なり。」により列島を代表する天子であることを内外に宣言し、列島内の他勢力、たとえば近畿天皇家に対して臣従を命じるというのが、十七条憲法制定の基本思想をなすものと見て間違いないであろう。同時に、十七条憲法は九州王朝内部への構造改革宣言ともいうべき性格を併せ持つのではないか。この点について、最後に触れてみたい。
 第八条に次のような文言が見える。

 「八に曰はく、群卿百寮、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事監*靡(いとな)し。終日に盡(つく)し難し。是を以て、遲く朝(まい)るときは急(すむやけ)きに逮(およ)ばず。早く退(まか)づるときは必ず事盡きず。」
     監*靡(いとな)の監*は、一の代わりに古。JIS第4水準ユニコード76EC

 官僚は朝早く出仕し、遅く帰れという、いわば服務規律のような条項であるが、仏法尊重の理念や、君臣関係の秩序、徳目などが記された他の条項と比べるとき、いささか異質な内容と言わざるを得ないのである。しかしながら、兄弟統治(注5)という九州王朝独特の統治形態を記録した『隋書』イ妥*国伝の次の記述を見たとき、この第八条には重要な問題が含まれていることに気付く。

 「開皇二十年(六〇〇)、イ妥*王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩の鷄*彌(きみ)と号す。使を遣わし闕(けつ)に詣でる。上(文帝)、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う、『イ妥*王は天を以て兄と爲し、日を以て弟と爲す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺かふして坐し、日出ずれば便すなわち理務を停め、云う我が弟に委ねん』と。高祖曰く、『此れ大いに義理無し』と。是に於いて訓えて之を改めしむ。」  ※( )内は古賀注。
     鷄*彌(きみ)の鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
     イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
  

 『隋書』のこの記事によれば、イ妥*王(兄)は夜間政治を司り、昼間は弟に委ねているとある。とすれば、先の第八条のように、官僚が早朝出仕し、昼間だけ仕事をせよということは、イ妥*王たる兄が夜間政治をする時に官僚はいないことになり、これでは「政を聴く」ことなど不可能である。したがって、兄が夜、弟が昼という兄弟統治をやめ、これからは中国のように昼間にイ妥*王が一元的に政治を行うという、第八条は九州王朝の構造改革とも言うべき「行政通達」なのではあるまいか。
 『隋書』によれぱ、兄弟で昼と夜を分割統治する制度を、文帝は「大いに義理無し」としてやめさせたとある。この開皇二十年は六〇〇年に当たり、その翌年(辛酉の年)にイ妥*国は願転と改元して、更にその三年後の甲子の年(六〇四)に十七条憲法が制定されていることから、文帝の指示により、イ妥*国は伝統ある兄弟統治に終止符を打ったと思われるのである。そして、大業三年(六〇七)には、それまで夜の統治者であった多利思北孤は、唯一かつ昼間の統治者としての称号、日出ずる処の天子として煬帝に国書を出すに至ったのである。
 こうした視点から十七条憲法の各条文を読み直したとき、たとえば第十二条の「国に二君無し」とは兄弟統治をやめ、多利思北孤が唯一の統治者であることの宣言のようにも思われるし、第三条の「君をば天とす」も阿輩の鷄*彌である多利思北孤を天子とする、という寓意も含まれているのではあるまいか。
 以上、十七条憲法が九州王朝の構造改革宣言(兄弟統治の停止)という性格をも帯びているとする仮説を提起し、読者のご叱正を賜りたいと思う。

              (二〇〇二年三月十日記す)

(注)
1 中国歴代王朝において、隋(五八一~六一八)と金(一一一五~一二三四)のみ、その治世期間全ての辛酉年に改元している。ただし、隋は仁寿(六〇一)の一回、金は皇統(一一四一)と泰和(一二〇一)の二回であり、この回数では制度・慣習として改元したのか、偶然の改元なのか判断は困難である。今後の研究に委ねたい。

2 神武即位年を辛酉とした『日本書紀』は讖緯説に基づいて編纂されたものとする説は江戸時代から唱えられている(伴信友「日本紀年暦考」)。天智の即位年は『日本書紀』によれば辛酉年(六六一)ではなく、称制七年戊辰(六六八)である。

3 日本思想大系『古代政治社会思想』(岩波書店)所収「革命勘文」の補注解説による。

4 古田武彦『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房、一九九三年刊。

5 卑弥呼とその弟による統治(魏志倭人伝)などに見られるように、倭国は兄弟統治の伝統を持っていたことを古田武彦氏は指摘された。九州年号に「兄弟」(五五八)という年号があるが、これもその痕跡と思われる。
 古田武彦『失われた九州王朝』一九七三年、朝日新聞社刊。現、朝日文庫。

 

中国・日本辛酉年改元表

西暦 中国 日本 備考
BC 180

漢  文帝即位*

 

*年号なし

BC 120 漢  元狩3年    
BC 60 漢  神爵2年    
AD   1 漢  元始元年*   *前年の哀帝没による改元
61

後漢 永平4年    
121 後漢 建光元年    
181 後漢 光和4年    
241 魏  正始2年   蜀、呉も改元していない
301 西晋 永寧元年*   *この頃、毎年の様に改元
361 東晋 升平5年    
421 宋  永初2年   北方諸国も改元なし
481 齊  建元3年   北魏、改元なし
541 梁  大同7年 倭国 明要元年(九州年号)

西魏・東魏も改元なし
601 隋  仁壽元年 倭国 願転元年(九州年号)  
661 唐  龍朔元年 倭国 白鳳元年(九州年号)  
721
唐  開元9年

日本国 養老5年

 
781
唐  建中2年 日本国 天応元年* *翌年8月に延暦に改元
841 唐  會昌元年* 日本国 承和8年 *前年の文宗没による改元
901
唐  天復元年 日本国 延喜元年* *三善清行、革命勘文上申
961 宋  建隆2年 日本国 応和元年  
1021

宋  天禧5年 日本国 治安元年  
1081 宋  元豊4年 日本国 永保元年  
1141 南宋 紹興11年 日本国 永治元年 金、皇統元年
1201

南宋 嘉泰元年 日本国 建仁元年 金、泰和元年
1261 南宋 景定2年 日本国 弘長元年 元、中統2年
1321 元  至治元年 日本国 元亨元年  
1381 明  洪武14年 *南朝  弘和元年 *北朝、永徳元年
1441

明  正統6年 日本国 嘉吉元年  
1501 明  弘治14年 日本国 文亀元年  
1561 明  嘉靖40年 日本国 永禄4年  
1621
明  天啓元年* 日本国 元和7年 *前年の光宗没による改元
1681 清  康熙20年 日本国 天和元年  
1741

清  乾隆6年 日本国 寛保元年  
1801 清  嘉慶6年 日本国 享和元年  
1861 清  咸豊11年 日本国 文久元年  
1921
中華民国10年 日本国 大正10年  
AD1981 中華人民共和国 日本国 昭和56年 中華民国70年

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