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「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌 解説として

古田武彦著作集 第一巻
 『神の運命』13宗教の壁と人間の未来(序説)解説

弥生の土笛と出雲王朝4 質問2 骨偶・旧石器について

この問題は発展において、『なかったー真実の歴史学』(ミネルバァ書房)で論じられています。


市民の古代第12集 1990年 市民の古代研究会編
  古田武彦講演録2

「人」話の誕生

古田武彦

射日神話

 次は、「播磨」ということではなくて、もっと地球的にスケールの大きな話になってまいります。これは私にとっては今後のライフワークにしたいと、こう思っているテーマを、皆さまにお聞きいただきたいわけでございます。
 この問題に気がつきはじめましたのは、五年近い前で、大阪の民族学博物館で民俗学シンポジウムが行われました。私がその傍聴をさせてもらったわけですね。今の館長梅棹忠夫さん、副館長の佐々木高明さんにお願いして傍聴させていただきました。そこで出たテーマの一つが、射日神話でした。
 これは、荻原真子(おぎはら しんこ)さん、この方は、東京国際大学の助教授をしておられる女性の方ですけれども、ロシア語が堪能であって、ソ連の沿海州、そこのオロチ族、オロチョン族、そういうような原住民に伝わっている説話を、ソ連の学者がロシア語で採集したのを訳して報告をなさったんですね。いわゆる沿海州における射日神話の問題の報告でした。
 射日神話というのはご存知の方も多いかと思うんですが、多くは、空に二つ、三つの太陽が出ていたということから話が始まるわけです。そこで暑くてしょうがなかった。それはそうでしょうね、太陽が三つもあったら暑いでしょね。それで困っていたら、神様が出て来て弓矢で太陽を落として下さった。まだ暑い。もう一つ落して下さった。最後は一つになる。必ず最後は一つ。零にはなりません。零になったら困るんですね。最後は一つになってこんな住みよい世の中になった。めでたし、めでたし、という形で終わるのが射日神話でございます。
 ところがですね。その学会の席上で論争といいますか、意見の対立があったわけてす。吉田敦彦さん ーー有名な民俗学者、神話学者てすがーー この方なんかは、中国の雲南省にやはり射日神話がある。神様が出て来て弓矢で太陽を落す。これが非常に古いんだ。その理由は、ここでは神話の壮大な体系が出来ていて、その始まりになっている。これに対して、沿海州の場合は大変素朴、あるいは断片的である。それは恐らく、「断片」がそちらに伝播したものであろうと、こういうお考えのようであります。ところが真子さんの方は逆でして、沿海州の素朴な話の方が元で、後、雲南省あたりへいってそれが大きな体系になったんだろうと。もっとも、真子さんのお考えでは、沿海州の人達は、元山東半島付近にいたのが、漢民族に追われて沿海州へ移ったんだろうという話が入るんですが、ともかく、沿海州の説話の方が古いだろう、こういうようなお考えなのですね。
 私は京都の家へ帰って ーーその時すでに東京の学校(昭和薬科大学)に行っていましたけれどーー 京都の家へ帰って考えたんですが、どうも今日の話に関して意見の対立があるようだけれども、また非常に共通な点もある。対立した人達の間に何が共通しているかというと、射日神話というのは地球上のどこかで、「オギャー」と誕生した。一カ所で。それが他のところへどんどん伝播していった。地球の上を伝播して移っていったと、こう考える。こういう考え方においては全員一致。日本だけじゃなくて、その時は国際的な学者がたくさん来ておりましたが、皆、異論はないようでありまして、問題は、本家は何処だ、最初の誕生地は何処か、という点についての対立というか、片方は雲南省、片方は沿海州ということであったように、私の耳には聞こえたわけです。
 これは ーー私は、今非常に短絡したような表現をさせていただきますが、ーー 農耕社会の考え方ではなかろうかと。そう考えたのです。いきなり「農耕社会」という言葉が出てきたので、皆さん怪訝に思われるかも知れませんが、その理由は次のようです。
 つまり農耕社会では、太陽の神様というのは大変高い位置にある。一番いい典型が天照大神で主神である。たとえ主神にならなくても、かなりいい、代表的な位置をしめる神様であることには間違いはない。その太陽のおかげで農業がうまくいくということですから、その太陽の神の御神徳を宣伝するのが常である。だから、私なんか子供の時分から、そういう太陽を射落すなんていうことは思ったこともないし、天照大神を射殺してやろうなんて思ったこともない。やはり「天照大神のおかげで」という教育で育っているんですね。つまりなぜそんなことを言うのかというと、そういう頭の中にいる人は皆、世界中の学者は全部そうだと思うんです。農耕社会以後の社会に住んていますからね。だからーー太陽を射落すなんていう突拍子もない、バカか天才かというような、余ほどの風底りな者でないとそんなことは思いもつかない。これはもう論ずるまでもなく当り前のことだと思うわけです。だから誰か、“バカか天才”がいて、そういうことを考えついた。その後、面白い、面白いと、まねして「伝播」していった。こう考えまして、では、その本家は何処だろうという、「本家さがし」が学界の仕事になっている、というふうに、わたしという第三者の目にはみえました。
 ところが私、考えたんですが、「農耕社会」が始まる前は、「狩猟社会」という時代であった。これは皆さんもご存知の通りですね。この時代は弓矢で鳥や獣を落すということは、人間の重要な生産手段であった。まあどんぐりや木の実を拾うという能力も大事だったんでしょうけれども。男は朝、弓矢を担いで外に出る。それで夕方までに鳥や獣をなるべくたくさん持って帰って妻や子に食べさせる。妻や子だけでなくて、種族全体か知りませんけど食べさせる。それでうろついている時、昔ですから銃もないし、たいした建物もないし自動車も走ってないし空には太陽が輝いている。標的みたいな丸い顔してますよね、太陽は。だから、あれを射落せるだけの能力があればどんなにいいだろう。つまりそういう時代には、人間最大の能力は、最も遠くへ、最もコントロールよく弓矢を射る能力というのが、人間の最大の能力だった、と思うんです。それが出来る人間が英雄なんです。「あの太陽が射落せたら、どんなにいいだろう」と思わなかった男は一人もいなかっただろうと思うんです。女でもいいですよ。しかし同時に「ああ、それはとても無理だ」という絶望をも、皆味わったであろう。
 ということは、つまり「狩猟社会」の時間帯では、太陽を射落すというアイデアは、大変平凡なアイデア、誰れでも一回は思ったことがあるようなアイデアだったんではないだろうか。ということは、何かというと、さっき言ったように、“こんな突拍子もない話を思いつくのは、バカか天才か誰か一人に決っている。あとは模倣だ”ということを自明であると考えられて、そういうことは議論にさえなっていないような、共通の土俵なのです。しかしこういうアイデアは、多元的に地球上に生れて然るべきではないか。つまり、「ご本家探し」自身意味がないのではないか、というふうに私は考えたのです。

蜃気楼と太陽

 もう一つ、その時思い出しました話があるんです。それはかつて、古代史のツアーの講師をたのまれて、北陸の白山(ハクサン)へ行ったことがある。白山比[口羊](シラヤマヒメ)神社、これは縄文時代にさかのぼる信仰と思われる白山比[口羊]という神さんがいますが、この白山へ行った。夜旅館へ泊った時に、ある方、その当時五十歳近くの方だったと思いますが、話されたのに「自分はかつて少年時代に、白山に登りました。十四、五の時、十七、八の兄さんといっしょに二人で登りました。ところが山で道に迷って山上近くの洞窟で一夜を明しました。朝目が覚めてみると、洞窟の外に太陽が二つ出ていました。本当に二つ見えたんですよ。」とこう言われるんです。私はその顔を見て「ああこの人は本当に二つ見たんだろうな。」と思ったんです。真面目な顔をして言っておられましたから。

[口羊]は、口編に羊、JIS第三水準、ユニコード番号54A9

 その話を想い起しますと、これは恐らく「唇気楼」を見られたのではないか。もしこの方が、二人の少年が、素早く洞窟の外に出て然るべき位置に立てば、もう一つ、太陽が見えたのではないか。本当の太陽をね。つまり本当の太陽があって、宇宙のプリズム、光の屈折率で二つに ーー蛋気楼というのは両側に二つに分れる場合が多いてすからーー 出ている、その二つを洞窟から見たのてはないか。だから本物の見える位置に立てば、合わせて三つ見えたのではないか、と私は思ったんです。この点は後で東京へ帰って荻原真子さんに詳しい資料を送っていただきますと、はたしてそうだった。というのは、ある沿海州の話の最後は、「だから今でも霧の深い日には太陽が三つ見えるのです。」という結びになっている話がありまして、ああやはり、沿海州は富山のお向いさんですからね。霧が深そうですから、やはり太陽が今でも三つ見える時があるのだなあ、とわかったわけです。

幻の太陽

 ついでながら私が、また想い出した一つの話がありました。それは少年時代のの終わり、十代の終わり頃ですが夢中になったのに、シューベルトの「冬の旅」という歌曲、リードがありました。ドイツリードですね。その終わりから二番目に“幻の太陽”という曲がありました。あれは全編失恋の青年の歌なんですが、終わりに近いところで、「天空に三つの太陽が輝いている。ああ私の運命はもう終わりだ。さあ、私の生涯もすでに破滅に向かっている。そこへ行こう」というような、絶望的な、デスペレートな歌なんです。ところが、私にはよくわからなかった。三つの太陽が空に浮んでいるというが、この人は精神錯乱に陥ったのではないか。しかもそれが出てきたら、なんで自分の恋が駄目になるのか。全然理屈が合わないではないかと思って、旧制高校(広島)ではドイツ語の文乙でしたから、(その時は大学に入っていましたが)ドイツ語の原文を見たけれども、やはりそう書いてある。書いてあるのは間違いないが、意味がわからない。「わからない」というので、四十年余り、頭の中に「?」が残っていたんですね。それを想い出しまして、やはりヨーロッパでも太陽が三つ、実際に出るのではないか、と思いました。
 この点、幸いにも、確められました。難波さんという京大の宇宙物理を出られた、いわゆる「流出頭脳」ですが私と同年の方です。ドイツの大学やオランダの大学で宇宙物理学の講義をしておられる。天文台におられます。そういう優秀な学者がいらっしゃるんですが、その方がなぜか私のファンです。たまたま弟さんから送ってもらった私の本にとりつかれて、非常に熱心に読んでいただいています。今でも、忘れないのは『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』あたりだったと思うんですが、質問を書いて下さった。それが自然科学の人が使う大きなレポート用紙にびっしりと三十カ条ぐらい番号をつけてズラリと質問が並んでいるんですよ。こっちはそれに答えるのに一カ月ぐらい、朝から晩までかかって一生懸命、学生が答案を書くみたいに書いたことを覚えています。正確に言うと二十日ぐらいかかりましてね。朝から晩までかかってすごい質問に答えた覚えがあります。この方がたまたま日本へ帰って来られて、岡山と京都にお父さんお母さんがいらっしゃるのでお元気なうちに会っておきたい、ということで帰って来られて、それで私に連絡されましたので、直ちに私が神田のホテルに訪ねてお会いしました。その時に、私はそのことに夢中になっていたので早速お話ししたら、難波さんいわく「ああ、私も三つの太陽を見ましたよ」、ご自分の自宅からオランダの天文台へ行く霧の深い朝、太陽が三つ出ていた。急いで学校に行ってオランダ人の助手の方に「今太陽が三つ出ている。早く写真をとってきて下さい」と。急いでその青年が行ったらまだ出ていて、首尾よくカメラに収められたそうです。これはもう、物理学の方でいえば理論的には何も不思議な話ではないわけです。しかし理論的に不思議はないけれど実際に見るのは、そうないわけですから、急いでカメラに収められたという話なんです。だからやはり、オランダとドイツは近いですから、ドイツでも、三つの太陽が出るのでしょうね。
 それで今の、運命ーー恋愛は終わりだというのは、恐らくゲルマンの神話が一族滅亡の神話ですから、三つの太陽が出たのが一族滅亡の前兆だったという話が恐らくあるんだろうと思う。そういう教養を持った青年だから、三つの太陽が出たら自分の運命の終わり、つまり今恋に夢中になっているから、もう私の失恋は決まった、と思ったんですね。だから、そういう背景を持たないこっちは全然わからなかった、という仕掛けなんです。このことは、ちょっと横道でございます。
 ところが、この射日神話はその辺でまだ驚いてはいけなかったので、さらに夜考えてみると、「ああこれは、えらいことだぞ。」と思った。なぜかと言うと、すでに今までの話でもかなりえらいことだといえるのは、だいたい「農耕社会」以前の「狩猟社会」に誕生した説話が二十世紀の沿海州に伝わっていて、それをソ連の学者が採集したというんですね。だいたい現代の常識では、現在に伝わっている神話や説話は、だいたい江戸時代中期、古くても室町ぐらいに発生したのがせいぜいですよと。それ以前はとても無理ですよというのが、だいたい民俗学の常識らしくて、その時のシンポジウムの報告でも、そういう常識で報告された学者もあったようなんです。討論でも、その点格別の異議も出ませんでした。私もそんな趣旨を本で読んだことがあります。
 ところが、今の私の分析が正しければ室町どころではない。今の「農耕社会」どころではない。「狩猟社会」に誕生した説話が二十世紀に伝わっているというテーマになってくる。非常に、わたしとしても怖いテーマなんです。ところがこんなに怖がっていたのではいけなかったのです。昼休みに私は荻原真子さんをつかまえて問いつづけました ーーシンポジウムの最中は、私はたった一人の“純粋な”「傍聴者」でしたから、質問の権利はなかった(学者の「つきそい」の人々が若干おられたようです)。その代わりに、昼休みに一生懸命質問したんです。そうすると真子さんいわく「だって、沿海州には石を投げて太陽を落す話があるんですよ。素朴でしょう」。こうおっしゃんたんです。「へえー」とその時はだだうなずきつつ、聞いていたんですが、帰ってから気がついた。ーー 「これはえらいこっちゃ」とね。
 なぜかと言えば、だいたい狩猟といえば、私なんかは「昔から狩猟はあった」という頭で考えてきた。弥生、縄文どれを扱ってもそういう頭で扱っていて、べつに不自由はしなかったんです。ところがじつは、その「狩猟時代」というのも上限があるのではないか。つまりそれ以前には、「狩猟なき何十万年」が、「弓矢なき何十万年」が流れていたのではないか。私の表現では「投石社会」です。そして弓矢を発明して或る日 ーー「或る日」というのは短絡ですがーー 弓矢を発明してにわかに威張りはじめた。それまでは動物の中で人間という動物は、たいした動物ではなかったと思うんです。だって、走る力だって跳ぶ力だって叫ぶ力だって遠くを見る力だって、人間よりずっとすぐれた動物がゴマンとおるではないですか。一番 ーー「一番」というのは大袈裟かも知れませんがーー たいへんみすぼらしい存在が人間ではなかったか。身を細くして地球をとぼとぼ歩いていたのではないかと思うのてすが、ところが、弓矢を発明して ーーパチンコみたいなのから入ったと思うのですがーー 弓矢を発明してにわかに他の動物に対して強さを発揮しはじめた。頭の知恵の力でね。と考えてあまり誤りではないのではないか。その証拠に簡単な証明があります。今の動物園へ行ってお猿さんを見ますと、お猿さんは石を投げているけれど、弓矢を使っているお猿さんというのを見たことないですね。動物園だけではない、大自然の中でもないではないですか。あったらたいへんな発見ですけれどね。だからお猿さんというのは、まだ弓矢発明以前の時間帯に存在しているのではないか、広い意味で、お猿さんの一員であるわれわれは、すでに弓矢発明以後の時間帯に入っている。それだけのことですね。

射日神話の淵源

 というふうに考えてみますと、先程の石を投げて太陽を落すという話は、弓矢発明以前の時間帯、いわば「投石社会」に生み出された説話ではないか。その説話は私の大好きな説話ですので、次をご覧下さい。

 ウリチ族
 一人の男と一人の女がいた。三つの太陽があり、大地はなかった。その当時は、草で小舎を立てた。魚が(水から)跳ね出ると焼け焦げて死んだものだ。草は燃え、そして、小舎も燃えてしまった。男は戻って来て、新しい小舎をつくって待った。太陽が現われたので、彼はそれを殺した。残ったのは二つの太陽だった。彼は小舎から石を投げつけて、もう一つの太陽を殺した。それで残ったのは一つの太陽となった。

 もう簡潔で、これ以上も以下もいらないというような、説話の中の説話という感じが私、するんですがどうでしょう。ここでは弓矢を使っていない。石を投げて太陽を落すという説話になっている。こんな説話を、もうすでに弓矢が出来て後の時間帯に作ったら本当に笑いものですよ。“石を投げて太陽を落すより、弓矢で落したらどう?”と言われるに決ってますよ。ところがまだ弓矢発明以前の時間帯の社会なら、こういう形になるよりしょうがないですね。ということで、これは「狩猟社会」という上限を突破してそれ以前の時間帯に誕生した説話が二十世紀に伝わっているのではないかという、今までの民俗学、神話学などの概念をむちゃくちゃにこわすようなところへ、私は論理的に導かれて行ったんです。しかし、まだこれぐらいで問題は終わらなかった。
 というのは、私がこの大阪の民族学博物館へ行って帰ってですね。あれは、確か二月か三月頃でしたが、四月の授業の時、早速文化史の授業でしゃべったんです。その時、聴講生て若い青年の方が来ておられてコンピューター関係の仕事を持った方なのですが、比較的時間が自由になるということで私の授業を聴かせてほしいと来られたのです。その方が私を追っかけて来られて、授業が済んでね、「先生、今の、石を投げてという時には、神様はいなかったんですか」こう聞かれたんです。「ああ、それはいいご質間です。ちょっとおいで下さい」といって研究室へご案内してお話したんですが、要するにその方が疑問にされたのは、今の話には神様が登場しない。一人の男と一人の女しか登場しない。神様はどうなったんでしょうというご質問だったんです。それで私はですね「恐らく、神様はまだ生れていなかったのであろうと思います」と。
 つまり、「男と女」というのは人類始まったと同時にわかっていたと思うんです。そうでしょう、見ればわかるんです、男と女というのは。しかし「神様」というのは、見えないけれど、いるんだというんでしょう、もうこんな高尚な話ってないわけです。誰も見えないけれど神様というのはいるんだぞ、というんですから、こんな考え方が人類発生と同時に始まったはずはないんです。もう、人間の能力が、たいへん抽象化が進んでいってそのあげくの果てに到達した、すごい概念。概念の発見というか、発明というか、概念とすれば発明、一つの事物と考えれば発見ですがね。
 これも簡単に証明出来るんですよね。なぜかというと、さっきのように、もう一回動物園へ行ったらよろしい。祭壇を築いて拝んでいるお猿さんを見たことはありますか。あったらトップニュースですよ。どの新聞でも、世界にこのニュースを流せばよろしいんですね。
 しかし、恐らく動物園のみならず、自然の山野でも、お猿さんが祭壇を築いているという話を私は聞いたことがない。そのことは、やはりお猿さんはまだ神を発見以前の時間帯にいらっしゃるのではないでしょうか。とすれは、人間というお猿さんは、 ーー広い意味でーー 人間というお猿さんは、ある日、 ーーこれも短絡した言い方をしますとーー ある日神を発見したことによって、あるいは、神という概念を発明したことによって、人間の精神的な能力は一新し、深さと広さを急速に拡大するに到ったのではないか。こう考えて私は大きく誤ってはいないと思う。念のために言っておきますが、いろんな皆さんご信仰をもっていらっしゃる、クリスチャンであるとか、いろいろその他ご信仰をもっている方がいらっしゃると思うんですが、そういう信仰の立場から見ると、けしからんと言われるかも知れませんが、今言っているのは、信仰の問題ではなくて歴史の問題だ。人間の歴史の問題でございますから、そのつもりで勘弁していただき、信仰とは別個にお聞きいただければ幸いであると思うんですがね。
 さて、こういう立場から今のように、ある段階で神様を発見した。それ以後作られたのが神話です。つまり神様がさっきのように登場して来て弓矢で太陽を落すという活躍を演じられるのは、その社会 ーーお話を聞く「社会」がなければお話が出来ないわけです。その社会の人々が、「神様」という概念を共通して共有しているから、そういう話が成り立つのてす。「神様」ーー 「え?何?」「そんなの、知らないよ」。というのではお話にならない。だから神という発見があって、以後はじめて神様は説話の中で活躍を演じられるのであって、その「発見以前」には神様の活躍の場はない。当り前のことですね。
 そうしますと、先の雲南省の神様が弓矢で太陽を射たという話は、当然神が発見されて以後、の話である。ところが沿海州の太陽を殺す話は、神様が全然出て来ないでしょう、確かにこんな地球の始まりの第一番目みたいな話だから、神様は出て来ていいはずだと思われて、その青年は私に質問されたんです。その通りです。ところが出て来ないということは、まだ神様は地球上に「誕生」していなかった。だからこの説話には神様は登場の場はなかったんだと。たいへん簡単な答になっていかざるをえないわけでございます。
 そして、この考え方が認められますと、私はここから今までまだ人類にない新しい学問が誕生すると思うのです。なぜかと言えば、地球上の神々の話、神話とかそういうものを全部集めて、全部カード化してそれをコンピューターに入れていくわけです。そして前後関係をつけるのです。たとえば、アイヌの神話にあります、何か小人の神様なんかおりまして、いない、いないとさがし回ったら、何か葉っぱの陰にかくれて見つからないのを楽しんでいた、などという、本当にいたずら少年のような神様がいますね。あのような神様は、たいへん由緒古い、まだ人類の中で最初に生れたような時期の神様ではないでしょうか。
 それに対して天照大神。『古事記』『日本書紀』に出て来ますのは天岩戸、あそこでせっかく須佐之男命の乱暴を避けて天岩戸に閉じ籠ったのに、外でどんちゃん騒ぎをやっている。「どうしたの」と聞くと「いや、あなたよりもっとすばらしい神さんが出て来たので皆んな大喜びをしているところです。」嫉妬心にかられてそっと開けて見たら、手力男の神がぱっと引き開けたという。だから嫉妬心に満ちた女性という点では、現代の女性と似たか寄ったかの性格をもった神様である。その上、岩の向うも見通せぬ。つまり「超能力」をもたないのです。人間と非常によく似た神様である。こういう神様もある。さらに今度は、バイブルの神様というのは万能の神様。宇宙を造ったと称する万能の神様。あれは私の分析の立場から見れば一番“新参の”神様。このようなことを言って、クリスチャンの方、怒らないで下さいよ。つまり人類の歴史の中で、必ずしも嘘ではないでしょう。恐らく、もっと新しいのが回教の神さんです。バイブルを“参考”にしながら、もっと「抽象化」した万能の神を造りあげたわけです。こういう万能の神というのは、人類史の中で一番“最近”に造られた概念である。こう考えざるをえないわけです。
 そうしますとさっき言いましたように、こういう神々を考古学の土器の編年のように、ずーとその前後関係をつけていくわけです。そうするとその前後関係の編年体系は、すなわち「人類の精神の発達史」の映し絵である。こういう学問というのはまだないんです。なぜないかと言うと、結局ヨーロッパ、アメリカというのはキリスト教社会、だからわたしが、こんなに大口をたたいてしゃべっていますけれども、もしこれがニューヨークかなんかであれば、もう今晩は帰りが危ない。いつ、狂信的な人たちに、“ガン”とやられるかも知れない。だから、ヨーロッパ、アメリカでは、そういうことを「思った」にしても、公然と言うわけにはいかない、書くわけにはいかない。ちょうど戦前の時に、天皇制批判を公然と書けなかったのと同じ事ですね。一方、ソ連や中国というのは、今度はマルクスに従って、「宗教は阿片である」と頭から軽蔑していますから、今のような研究はしない。というのは私は信仰の人達にちょっとご勘弁下さい、とは言いましたけれど、べつに私はバイブルや各宗教の神をバカにしているのではない。むしろ人類が各段階で生み出した貴重な遺産というか文化遺産、精神の遺産。文化遺産というより精神の遺産ですね。というものとして、尊敬しているのです。ですから今のように宗教は阿片だ。神様はいんちきだとこう決めてかかる、その思想が絶対的に支配する世界では、やはりこういう研究は育たない。そういう点、日本という国は、だらしのないところはたいへんありますけれど、しかしプラス面としては「自由」な面もあります。私がこんなことを言っても、恐らく今晩、まだ無事に京都の家に帰れるだろうという社会なんですね。だから日本とは限りませんがフィリッピンでも台湾でもどこでもいいんですが、キリスト教やマルキシズムの専制社会でないところで発生します。そして未来は、確実にこの学問にあると思う。神を絶対化して、絶対にプラスに結論を決めておいたり、逆に、絶対にマイナスに結論を決めておいたり、そういう社会では発達しにくい。あくまで相対的に、客観的に扱える場においてこれは成立する学問です。それがやはり従来のヨーロッパ、アメリカ、ソ連、中国を含んだ世界より、次の未来に属する学問の世界である。私はそう思うわけでございます。

神生み神話

 ところが私は、意外な問題にぶつかりました。じつは『日本書紀』の中に、これと同じテーマが存在することに気がついたわけでございます。私は「神生み神話」という名前を考えた。「国生み神話」ということばは皆さんよくご存知。ところが『古事記』『日本書紀』の「国生み神話」の前に、神さんが次々生まれるという神話があるんですね。これは名前がないから、仮に「神生み神話」とこうつけさせていただきました。この神の生れるタイプは三つのタイプにわかれている。三つしかタイプはないんです。一つは神様が一柱生れたというタイプ。これは(第五)一書で、終りから二つ目のところにございます。

一書に曰はく、天地未(いま)だ生らざる時に、譬(たと)へば海上に浮べる雲の根係(かか)る所無きが猶(ごと)し。其の中に一物(ひとつのもの)(な)れり。葦牙(あしかび)の初めて[泥/土](ひぢ)の中に生(おひい)でたるが如し。便(すなは)ち人と化為(な)る。國常立尊と號(まう)す。

[泥/土](ひぢ)は、泥の下に土、JIS第3水準、ユニコード番号57FF

 これは国常立が一神現われたという、このスタイル一つだけ。次は二神が現われたというタイプが二つございます。一つは(第三)一書、これも読んでみます。

一書に曰はく、天地(あめつち)(まうか)れ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と號す。次に國底立尊(くにのそこたちのみこと)。彦舅、此をば比古尼(ひこぢ)と云ふ。

 これは二神が現われたというタイプ。もう一つ(第四)一書も二神が現われたというタイプ。あとは三神タイプが全部。本文がそうです。それから(第一)一書、(第二)一書、(第四)一書の方は二つに分かれてその後半、『古事記』もこれと同型です。それで(第六)一書、みんな三神が現われている。神さんの名前は違うが三神が現われたというタイプ。この三種類しかない。四神・五神が現われたというタイプはないんです、「最初に現われた」という形では、ですよ。
 この三つのタイプの中で、どれが古くてどれが新しいかと考えてみると、私はやはり、一神タイプが最初で、次に二神タイプ、次に三神タイプという発展をとげて来たのではないかと考えました。これは本居宣長とは逆です。本居宣長は『古事記』を非常に尊重しました。『古事記』は三神タイプですから、だからそれの中で少し「伝」が欠け落ちたのが二つ。また欠け落ちたのが一つ、という感じ方が、どうも宣長にはあったようですが、私はそうではなくて、「一から二、二から三へ」という展開であろうと考えました。
なぜかと言いますと、もう一回一神タイプの(第五)一書を見ていただきます。

一書に曰はく、天地(あめつち)未だ生らざる時に、讐へば海上に浮べる雲の根係る所無きが猶し。其の中に一物生れり。葦牙の初めて[泥/土]の中に生でたるが如し。

 少し横道ですが、南太平洋にフィジー諸島というのがある、あのフィジー諸島。あれ“フィジー”というのは“土”という意味だそうですね。現地語で(中島洋さんによる)。なんとなく、このへんが共通していて、何か気持ちが悪いんですが、まあそれは、今は別にしまして、

[泥/土]の中に生でたるが如し。便ち人と化為る。國常立尊と號す。

 とこうありますね。ところが今の二神タイプの最初、(第三)一書をもう一回読んでみますと、

一書曰はく、天地混れ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦舅尊と號す。次に國底立尊。・・・

 とこうなっていくでしょう。だから、一神タイプの時には“葦牙の初めて泥土の中に生でたるが如し”と言って、生れた一神の形容のことばだったのが、こちらの方では独立した神格になっているわけです。これは、もし二神タイプが先で一神が後と考えた場合は、独立した神格を解体して片方の神さんの形容詞に使ったということになるわけです。こんなのは現代人ならともかく、古代の人のメンタリティでは、私はそういうことはありえないのではないかと。逆に最初は形容のことばだったのが、独立して一つの神格に、また成長するという、この方が考えやすいと思うのです。そういう点でやはり一神タイプが最初、二神タイプが後と。三神タイプでも可美葦牙彦舅尊は結構出てきますね。という「系列」をもっていると私は判断いたしました。
 この判断が基本的に正しければ、 ーー詳しく言えはいろいろまた問題はあるてしょうがーー 基本的にはそういう理解が可能だと思うんですが、そうするとえらいことになったんですね。
 なぜかと言うと、さっきの『播磨風土記』で見たのと同じ事なんですが、よく読んでいるうちに、一神タイプの(第五)一書、もう一回見て下さい。(第五)一書のまん中の行の最後、“すなわちかみとなる”と読みましたが、漢字は「人」と書いてあります。つまり『日本書紀』の古写本では「人」という字しか書いてないんです。それを宣長が“カミ”と読んだんです。カナを振って。それで『日本書紀』の注釈をつけた学者が、宣長の弟子になるような人達が“カミ”と皆読んでいくわけです。それで明治以後、岩波の『日本古典文学大系』などは皆、「かみ」と仮名をふっているわけです。だから私なんか皆、「かみ」と読んで今まできていたんです。だから「神生み神話」と言っても、皆さまがけしからんと思われなかったのは、皆さんもだいたいそういうくせできておられたから。実際は「神さん」ではない、生れたのは「人」が生れた、と書いてある。
 さて次の今の(第三)一書、これをもう一回見て下さい。(第三)一書の一行目、「初めて神人有す」、つまりこれも神のごとき人。これも並の人ではないが結論は人ですね。“不思議な能力を持った人”とこう言う。これも「神人」と言う。やはり結論は人なんです。ところがそれ以外、つまり二神タイプのもう一つ(第四)一書全半と、三神タイプは全部「神」と書いてある。「人」ではない。「神人」でもない。全部「神」という字が書いてある。これは「かみ」と読んでべつに問題はないんですね。
 そうすると、私の今の前後関係の判断が間違いなければ、『日本書紀』の示す「神生み神話」も、じつは最初は「人生み神話」であったと。第二段階が「神人生み神話」であった。第三段階で「神生み神話」になっていったという、その経過がみごとに示されていたわけです。するとさきほどの射日神話で、私が考えましたことと同じ傾向です。それよりもう少し詳しいかも知れません。というのは、「神人」という中間段階が入っているだけに、沿海州のより詳しい。それはそうでしょう。だって、沿海州のは二十世紀に採録しているのですから、ソ連の学者が。ところが『日本書紀』は、少なくとも八世紀にはもう記録されているのですから。実際はもっと早い六、七世紀頃に、九州王朝側で記録されたと思うのですが、それの再録だと思いますけれど、少くとも八世紀には最終的に記録されているのですから、二十世紀の記録より、詳しくて当り前なんです。
 ということで、私の判断、“人類は永い無神時代を経ていた。だからその時代には「神話」はなかった。あえて言えば人話 ーー人の話ーー 「人話の数十万年」が過ぎた。恐らく人間が生れて口があるんだからおしゃべりはかなり早くからやっていたと思うんですが、そうすれば説話はあるわけです。それは「神無き説話」。つまり「人話」であった。それからやがて「神人話」の時間帯がやってきた。それで最後に「神話」の段階がきた。この点は、ヨーロッパ、アメリカ、ソ連を含めて、神話学では「人類は神話から始まった。」と皆そういう処理をしているんですね。それは嘘だ、という話になってくるんです。私のこの論理の冒険がもし間違っていなければ、今までの神話学はあやまりであって、「神話は新しい。人話が古い」ということになってくるわけでございます。

ヨーロッパの神話

 こういう私の到達しました結論を物差しと考えましてーー人類発展の物差しと考えまして、これを『日本書紀』の尺度、略して「紀尺」、使いやすいように妙な言葉にさせてもらって「紀尺」という言葉を考えたわけでございます。この「紀尺」をもって、これから先は非常に大それた話になってくるんですが、地球上の世界のすべての人類の神話・説話を「測定」してみようというテーマになってくるわけです。今とても残された時間で全部は申せませんが、たとえば、ヨーロッパというのは神話の墓場なんです。古代ゲルマンの神話はほとんど姿を消して、ない。言うまでもなく、キリスト教に滅ぼされた。だって、魔女裁判というのは誰でもわかっていることですが、「魔女」なんていうものではない。古代ゲルマンの巫女たちです。ドイツの魔女審問官というのが、数年ぐらいの間に何百何十人とちゃんと、記録しているんです。焼き殺した魔女を。そんな短い間にそれだけいたら、ヨーロッパは“魔女だらけ”ではなかったか。彼の認知の範囲はたいへん狭い範囲ですから。その狭い範囲でそれだけいたのでは、ヨーロッパの町は安心して歩けなかったのではないかと思いますが、じつはそうではなくて、それは巫女たち。「キリスト教に屈伏せざる巫女たち」です。それを“みせしめ”にして火祭りにしたわけですね。古代末から近世にかけて。ですから人間を火祭りにするぐらいですから、当然彼ら巫女たちが語っていた神話・人話も皆“焼滅ぼさ”れ、伝わっていない。一番古いのが伝わっているのが、アイスランド。アイルランドではないです。あそこはヨーロッパからの亡命、今で言えば難民ですね。これが国を造った。その人達が伝えた古代ゲルマンの神話がアイスランド・エッダ、あるいはアイスランド・サガと呼ばれまして、最も古い古代ゲルマンの神話なんです。いくつか本が出ております。新潮社から出ているデカイ本『アイスランド・サガ』が詳しいですね。その他にも、いいのがいくつか出ておりますが、これを見ますと、天地の始まって後、「巨人族」がまず生まれるんです。チターネンです。その次に「神族」ーー神様族が生れる。それて巨人族と神族が組んずほぐれつの大戦闘をやったという話が、アイスランド・エッダの当初のテーマになるわけです。だから巨人族というのが、今の例の「神人話」の方ですね。そして新しく生れた神様というのが神さん。だからやはり「紀尺」の、これは第二段階と第三段階の話であると、こういうわけです。第一段階はもうなくなっているわけです。それはそうで、アイスランド・エッダ(サガ)が記録されたのは九世紀〜十世紀、ところが『日本書紀』は八世紀ですからこっちの方が古い。実質は、すでに六〜七世紀ぐらいに九州王朝の方で記録されている。こちらの方が詳しくて当り前なんです。そういう姿を示している。
 もう一つ非常に面白いのは、例のバイブルなんです。バイブルは面白い資料ですね。「資料」なんて言うと、神戸の方はクリスチャンの方がきっと多くいらっしゃって、お腹の中が煮えくり返っておられると思うのですが、ごめん下さい。私から見ると非常に貴重な資料なんです。というのはさっき言いましたように、エホバ(ヤハウエ)の神というのは万能の神ですから、やはり人類が生み出した神の中でも一番“新参者”の新しい時間帯に生み出された神、「新参」とか「新しい」とか言いましても、これは縄文の後期から晩期にかけての頃、もちろんイエスが生れた時は、もう旧約は成立しているのですから、あれ以前、縄文後期・晩期の時期なんですがね。という“新しい”時期に生れた神さん。
 ところが全部新しいかというとそうではないんです。古いのがあります。だって、「アダムとイブ」がいます。アダムとイブというのは、一人の男と一人の女がいました。名前も残っていますというのでしょう、これはまさに「人話」ですよ。「砂漠の人話」ですよ。この砂漠に伝わった「人話」に新しい“新参の神様”の万能の神の「衣」を被せたという言い方をすれば、本当に信仰の方々には悪いんですが、私の目にはそう見える。そういう形で出来上った作品であると見て、まず私は間違いないと思う。これはそういう目から分析していくと面白いことが続々と出てまいります。
 例えばご存知でしょうか、あの創世紀の最初のところ、あの神というのは複数形で書かれている。単数ではない。ただ不思議なことに動詞の方は単数形です。述語は。こういう変な型で書かれている。次に今度は、エホバの神という表現ヤハウエの神てすがね、原文は。今は普通のようにエホバと言っておきますが。ーーエホバの神という表現が出てくる。その次にエホバという表現が出てくる。それから大分後に行って単数の「神」になる。あとずっと最後まで単数の「神」で終わりに至っている。
 ということは何かというと、結局一言で言って、唯一神という概念が多神教の、複数の神々の中から生まれた、という歴史事実を、あのバイブルの構成がそのまま証明しているわけです。
 ところが皆さんがそのことに気がつかれなかったとすれば無理はありません。なぜかというと、英国のジェームス一世欽定訳というのがヨーロッパの聖書のもとの訳である。この時に全部を単数の神、ゴッドに統一してしまった。その方がいいですよね、信仰の上からみたら。今のようなことは、ちょっと、何となく困るじゃないですか。だから全部単数のゴッドにした方が信仰の上から見て非常にすっきりしますね。だからそういうすっきりした形に直したわけです。その直したものをもとの日本語の聖書、戦前の文語体のものも、戦後の口語訳も全部欽定訳をもとに、日本語に訳しているわけです。だから全部すっきりしている。皆さんのお家にある、帰ってバイブルを見られたら大体すっきりしている。しかしこれは、信仰の立場から言えば、もっともでありましょうし、私は別にそれに文句を言うつもりは一切ありませんが、しかし私の歴史の立場から見れば、これは「改竄」であります。やはり本来の聖書は今のヘブライ語の聖書が示すような姿が本来の聖書で、それを全部単数に直してしまうというのは、便利かも知れませんが、信仰には便利かも知れませんが、本来の聖書から見れば「改竄型」であると言わざるをえないわけです。「改竄」しない本来の姿が、事実“神の生まれたいきさつ”をあの一冊で証言している、ということになるわけです。
 さっきの、“主語が複数で述語が単数だ”というのは、何でもないですね、というのは、本来は当然主語は複数だったら述語も複数だったはずですよ。Weだったらareであってisではないわけです。amでもないわけですよね。ところがそれが結局複数型が「一かたまり」と感じられ始めたから、述語が単数化してきた。やがて主語も単教に変っていく、という経過なんです。だから最初の文型も本当の最初の文型ではないわけです。多神がかなり一神に近づきつつある時期の表記方式が反映している、と考えれば何でもないでしょう。ところがクリスチャンの学者たちが注釈すると、そう簡単にはいかないんですね。今私が言ったように、アッケラカンとは処理出来ないので、「偉い人は複数型で表わす習慣がある。神様は偉いから複数型でいいんだ。」とかね。変な理屈を一生懸命、“御託”を並べざるをえなくなっている。しかしわれわれ第三者の方から見ると、何のこともない。
 次の「エホバ神」というのも、見た目は単数だが唯一神ではないですよ。なぜかと言えば、なぜ「エホバ神」と言わなければいけないかといえば、他に「アポロン神」とか、「ビーナス神」とか、いろいろいらっしゃるからでしょう。そのワン・オブ・ゼムだということは百も承知だから「エホバ神」と書かれている。そうでしょう。始めから一つしかないと思っていれば、「エホバ神」なんて言う必要はないわけです。「エホバ」もそうですね。ところが、「われわれの世界では唯一の神だ」という形が、ある領域、ある民族の中で確立してきたから、もう「神」と単数型で言えばいいんだ、という形に、やがてなっていくわけです。ということをバイブルが証明しています。

エデンの園

 もう一つご紹介しましょうか。エデンの園の話がございます。エデンの園の章で ーー創世記ですがーー 最初にエデンの園から、四本の川が流れ出しているという話があるんです。ところが、始めの三本がよくわからない。

 現在のどこかというのが。ところが四本目はユフラテ川、これはユーフラテス川だということがすぐわかるわけですね。チグリス・ユーフラエス川ーーイラク・イランのところと。そうすると、エデンの園の場所は決まるのではないですか。一つわかったら。だって、ユーフラテス川の始まる上流の、トルコの東部だということにならざる得ないわけです。ところが普通、聖書考古学という、本屋さんにあるからのぞいて見られたらいいんですが、そういう処理はしてない。むしろバグダッドの南の方を、エデンの園はここだとか言って発掘したとかいうような話がよく書いてある。あれは何かと言うと、バイブルにもう一つありまして、“東の方エデンに行き”という、これも有名な台詞でして、「エデンの東」という映画を青年時代に観て、感激した方もいらっしゃるでしょう。あの箇所で「東の方エデンに行き」という表現が出てくる。そうすると、“イスラエルから見て東”というと、バグダッドの南ぐらいになるわけです。それでこの辺にあるに違いないと発掘するわけです。
 それはいいんですが、先ほどの話と矛盾するのではないですかね。ユーフラテスの、あれは下流近くになるんですから。その辺からユーフラテス川が出ているのではおかしいですからね。だから、「帯に短し襷に長し」で困るんですが、私のような第三者の場合だとなにも困らないのてす。それは、今のトルコの東部 ーー金が出ていると書いてある。金が出るんてす。実際にーー そのトルコ東部が東に見える位置で、創世記が作られている。つまり、トルコの中部か西部、「多神教の聖地」です。ここで作られたんだと。こう考えたら何も矛盾しない。そこで作った話を、いかにも自分たちイスラエル人の始めからの話だという形で解釈しようとするから、「帯に短し襷に長し」になる。
 これはちょうど、『古事記」『日本書紀』についての私の本(第三書)。『盗まれた神話』という、変な題ですが・・・。九州で筑紫のかいわいで作られた話を、いかにも「本来天皇家に直通する神話だ」という顔をして、載せたわけです。だから従来の本居宣長以後、明治・昭和の学者が皆、「大和中心」に解釈しようとする。邪馬壹国でも「邪馬臺国」に直して解釈しようとするんですから、もう『古事記』『日本書紀』の神話などは、当然「大和中心」に解釈しようとする。だからもう、どうにもうまくいかなくて、ごたごたしていたんですね。
 ところが、それは「筑紫中心」の話である、という立場からすると、すっきり分析出来るという、「他の神話」をもってきて頭にくっつけたんだという、私の『盗まれた神話』の一つのテーマ、他にもありますがね。いろんなところからそういうものがあるということを『盗まれた神話』で証明したわけです。「天皇家というのはずいぶんひどいことをするものだなあ」と、内心思っていたけれども、今は「バイブルよ、お前もか」ということです。
 だからやっぱりこれを見ると、地球上いろんなところでこういう類のことをやっているのではないか、という感じがいたしました。
 そのトルコの中部や西部のところは、昨年から今年の始め、私は参りました。はじめはトロヤですね。ここへ行きたいと。行く時は先入観をもっていまして、もうああいうところは土で埋まっているだろう。へたしたら町の下になっているのではないか、しかし、トロヤからエーゲ海が見えたという、あのシュリーマンの感激を現地で確認したいと、こう思って行ったんです。これは嬉しい誤算、思い違いでした。シュリーマンが発掘したところがそのまま残っていました。後、ドイツやアメリカの調査隊が来て発掘したところもちゃんと立札が立って、ここはそれ、ここはあれ、と指示されてそのまま残っていました。
 その後、トルコの西部・中部を回ったんですが、そうすると、多神教の女神なんかの石像がやたらにあるんです。皆、首がちょんぎられているんです。トルコの案内の人(ガイド)が言うには、「ヨーロッパ人が皆持って帰った」と。彼等はキリスト教徒ですから、多神教の神さんを恥ずかしめても平気なんですね。それでヨーロッパの博物館に並んでいる。われわれは、「イスラム教徒がずいぶん無茶をやった」という話を習いましたよね、昔。あれは、われわれの習った世界史、西洋史というのはヨーロッパ経由の、ヨーロッパの教科書の「翻訳」ですね。それをヨーロッパヘ行って習ってきた学者が書きくだいた世界史、西洋史を習っているんです。だからそこでイスラム教は悪者に出来る。ところが、キリスト教徒がそんなひどいことをしたという話は、ヨーロッパの教科書には載ってないのですね。だからわれわれは、本当にないんだと思っていた。悪いのはイスラム教だけか、と思っていた。が、さにあらず、ヨーロッパのキリスト教徒はずいぶんひどいことをしている。というようなことでした。そこトルコの西部・中央部は、多神教の聖地だったんですね。そこで作られた「創世記」を持って来て挿入していた。私の仮説では、というようなわけでございます。
 この他にもバイブルを分析していきますと、次々に日本の古代史『古事記』『日本書紀』を分析しましたのと、同じような問題が出てまいりました。係りの方から、「もう時間がない」と言って来られたんですが、もう一つだけ紹介しましょう。

創世記の多倍年暦

 創世記をご覧になりますと、最初のアブラハムとかイサクとかああいうところに、年齢が出てます。ところが、最初のグループの年齢は、だいたい九百六十何歳というようなところまで生きているわけです。それで限りなく千歳に近づくのですが、千年生きた人はいない。九百何十年止り。ところがもう少しいきまして、「セム族の家系」といって、今度は別のグループのがまた次出てきますが、そこでは五百歳に近い。五百歳が一人います。しかし後は、四百何十歳前後で皆死んでいる。ある場所は、二百歳に近ずいて死ぬんですね。そういう、グループがいろいろ混ざっている。
 それは何か。これはやはり、倭人伝をやった経験によりますと、私の本『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方はご存知のように、「二倍年暦」、「倭人は春、秋二回正月があったんだ」という話がありますよね。それでみると、ほぼ九十歳くらい、倭人は長生きだと書いてあるのが、実際は四十五歳であるという分析、そこからみますと、『古事記』『日本書紀』の天皇の寿命も、計算すると平均九十くらいになる。これも四十五歳。つまり二倍年暦で書かれている。それで天皇家の人達は、実は倭国、筑紫倭国の支配下に同じ文明のもとに生きていたんだという問題になっていくんですが、「二倍年暦」という問題です。ですが、さっきのは「二倍年暦」では片がつきません。何かと言うと、まず最初のは「二十四倍年暦」、十二倍でも片付きませんよ。先の五百歳は十二倍でいくんです。四十歳あまりになりますからね、十二で割ったら。ところが、千の場合はそれでもいかないでしょう。十二倍というのは言うまでもなく、陰暦一月で一歳、としをとってゆくと、一年間で十二歳になる。そうすると五百くらいはいけるわけです。本当はわれわれの年齢なら、四十何歳まで生きたわけですね。
 ところが一月の中には「満ち欠け」があるではないですか、月の満ち欠け、半分半分です。あれで一歳ずつ。一月で二歳のわけですよ。そうすると今の一年で二十四歳になってしまうわけです。一歳の赤ちゃんが二十四歳になる。そうすると千年に近くなります。四十何歳か生きれば。二百歳未満は「二倍年暦」です。いや、「四倍年暦」もありますよ。そういういくつもの暦 ーーこれをまとめて「多倍年歴」ということばを作ったんですが。要するに、人類にはいろんな暦があったわけです。言ってみれば、一つの文明ということは、一つの言語 ーー共通言語ーー と一つの暦がなければいけない。こちらが「何歳」と言っても、相手の人が全然違う基準尺で理解したのでは、一つの文明とは言えません、通じなければ。だから、少くとも「共通の暦」がなければ一つの文明とは言えない。一つの言語、一つの暦ですね。それが文明の ーーもっとあると思いますがーー 最低条件。
 それでしかも、一つの文明が他の文明に征服される。被征服です。そうすると征服者と被征服者と両方の暦が混用されることになる。あるいは征服、被征服ではなくても、先進、後進文明の場合でもいいですね。日本でも現在、西暦と平成・昭和などを混用しています。こういう混用が、中近東で混用された状態がバイブルに反映している。その証拠に「バベルの塔」の話があります。バベルの塔の話をしますと、人間が高い塔を造った。ところが天に近ずいて神さんのところに届きそうなので、神さんがこれは困ったというので言語を変えさせた。それで喧嘩しだして中途半端で終わったと。それで言語が乱れるということから「バベル(乱れる)」という地名がついたと書いてある。あれは、やはり『古事記』『日本書紀』の分析、われわれがやった立場から見ると簡単ですよね。「乱れる」という地名の方が先にあったわけですよ。それは恐らく川筋が乱れているかなんか、だけの話ですよ。ところがそこへもって、今度は「神様の信仰」が入ってきた。だからそこで勢力をもった神様に基づいた「地名説話」が作られた。「こじつけ」ですね、大体。日本では、天皇を基にとか中心の神さんを基に地名の解説が行われますね。「風土記」にもありますが、『古事記」『日本書紀』にもありますが、あれをやっているわけです。ところがこの場合には、基をなすことは、あのチグリス、ユーフラテス近辺の地帯に、やはり「複数の言語」がなければああいう説話は出来ません。しかも複数の言語が隣り合って、その民族同志が喧嘩し合っていなければ、ああいう説話は考えられません。だからああいう説話が地名説話としてでっち上げてくっつけられたということは、その歴史的なバックとして、「あの地帯には複数の言語があってからみ合っていた」という事実が必要です。仲良くしたり、喧嘩し合ったりしていたということです。
 ということは、「複数の言語」のバックに「複数の暦」があったということになるわけです。先程の状態と合致している。ということで『古事記」『日本書紀』を分析した同じ方法で見ていくと、非常に面白い資料が時間がなくて申せないんですが、もっともっとあるんです。ということで、私はこういう「紀尺」、あるいは『古事記』『日本書紀』分析の“倭人伝” 分析の成果をもって世界の神話をみて、非常にリアルに理解出来る。それがキリスト教の衣や、反キリスト教の衣の基に制約をもって暮らしている人たちより、ずっと客観的な、未来の学問を建設出来ると、こう私は信じているわけでございます。ぜひ皆さん、若い方々も、一つこれをやっていただければ有難いと思います。では終わらせていただきます。
(一九八九年十一月十一日、神戸市勤労会館にて)


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