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市民の古代 第12集 1990年 市民の古代研究会編

解説

常陸国風土記研究文献目録

増田修

 はじめに

 「市民の古代研究会ー関東」では、一九八七年一一月三日「常陸を巡る旅」を実施し、同年一二月からは、月例会において、常陸国風土記の読書会を開始した。そして、一九八九年一一月一二日には、「常陸国風土記を訪ねる旅」を行なうなど、研究活動は、すでに三年目に入っている。
 その間、会員の横山妙子と私は、常陸国風土記と古代の関東に関する文献を、協力して検索・収集した。そして、それらの文献の中から、重要と考える文献を、月例会の席で紹介してきた。
 一九九〇年二月末現在、収集した文献は、千点を超える膨大なものとなった。そこで、右両名で整理・選択のうえ、常陸国風土記研究文献目録を作成した。この文献目録は、両名の汗の結晶である。
 これから本格的に常陸国風土記を研究しようとする人々の基本的参考文献目録として役立つことを願うものである。
 なお、初めて風土記に取組もうとする人には、まず、志田諄一「風土記の世界」(別冊歴史読本『続 謎の歴史書「古事記」「日本書紀」』(一九八七)を一読されることをお勧めする。風土記の成立経緯・内容・問題点・研究史・今後の課題などが、簡潔にまとめられている。

 文献解説

 それでは、従来の研究の中で、私達の研究会で関心を寄せている点、今後の研究目標・課題としている点に関係する文献を取り上げて解説することとしよう。

1 校訂本

 常陸国風土記の校訂本のなかで、一般に使用されているのは『秋本吉郎校注風土記』(日本古典文学大系2、岩波書店、一九五八)に収録されているものである。この秋本校訂文は、松下見林本を底本としているが、飯田瑞穂によって、脚注に示されている諸本の異同のうち、彰考館本に関するものはことに不正確であり、かつ、校訂に当たっては独自の改訂が施されている点が多い、と批判されている。
 現存の常陸国風土記の諸本は、すべて、延宝五年(一六七七)加賀前田家の所蔵本を筆写した彰考館本から出ているが、加賀本は失われ、彰考館本は一九四五年戦災で焼失している。
 飯田は、彰考館本の原形を忠実に筆写したと考えられる菅政友本を底本として校訂し、その校訂文・解説は、『茨城県史料』古代編(一九六八)に収録されている。飯田校訂文には、松下本・武田祐吉本などとの異同についても註記がなされている。
 常陸国風土記の研究に当たっては、現在のところ、飯田校訂文によるのが適切であろう。
 そこで、秋本校訂文と飯田校訂文との間の異同について、異なっているものと同じものを、各一点ずっ取り上げて、本文批判・訓詁がいかに重要かを指摘したい。
 (1) 杵島唱曲
 行方郡の条に、建借間命が「杵嶋ぶりを歌って」七日七夜舞い歌うという計略を用いて国栖を誘き出し、討伐したという説話がある。天保一〇年(一八三九)の西野宣明校訂本以来今日まで、 一般に「杵嶋ぶりを歌って」とされてきた個所は、菅政友本では「嶋杵唱曲」、松下本・武田本では「島杵唱曲」とある。語順からは、とうてい「杵嶋曲(ぶり)を唱(うた)う」とは読めない。しかし、秋本校訂文は「杵嶋の唱曲(うたぶり)」とし、飯田校訂文は「鳴杵唱曲」としている。
 橋本雅之「常陸国風土記『建借間命』説話の杵島唱曲をめぐって」(『万葉』三一、一九八五)は、文脈の解釈・漢籍の表現・誤字の可能性・新撰字鏡の杵は桙也の記述などから、飯田校訂文の「鳴杵唱曲」を可とするという。この見解に従うべきであろう。

 (2) 率免難
 行方郡の条には、また、夜刀神についての記述がある。その割注に「俗云、謂[虫也]為夜刀神、其形[虫也]身頭角、率難時、有見人者、破、子孫不継・・・」という文章がある。このの字は、菅政友本にはなく「」と傍書してある。松下本・武田本には「紀」とある。しかし、秋本・飯田校訂文は、いずれも、後藤蔵四郎の説に従ってとしている。(『常陸国風土記』の「「家」は読解できない。推定文字として青色表示)

[虫也]は、JIS第3水準ユニコード8675

 「率免難時」とすると、すぐ前の本文に「相群引率」とあり、語順に問題があろう。また、有馬徳『常陸国風土記註釈』(一九七三)は、菅政友本も彰考館本の「ひき写し」かどうか疑問であるとして、加藤松蘿本(文化年間書写)を底本とし、校訂文を発表しているが、中山信名『新編常陸国誌』(一八三六)に従って、「率統屯群」としている。藪田嘉一郎は「卒起難免」とし、吉野裕は「率杞免難」とするなど、難読難解の個所である。「率引免難」という語句を前提として、直ちに、その主語が、蛇側か人間側かの解釈には入れないように思われる。

2 研究動向

 常陸国風土記の研究動向については、注目している研究文献を、国文学・歴史学・考古学・民俗学の各分野から、いくつか取り上げて解説しよう。そして、古田武彦のいう多元的古代の観点からも、考察してみたい。

 (1) 国文学
 秋本吉郎『風土記の研究』(一九六三)は、九州乙類風土記と常陸国風土記は、極めて類同近似していると指摘している。両者は、1).地名記事の内容が地名説明を専らとするものではないこと、2).掲出地名の位置・里数記載の方式が相等しいこと、3).文章が「漢臭の濃厚」である点(四六駢儷体など文辞の類同・郡を縣とする例・四隅を乾坤巽艮と記す用字例・難読語の訓註)などに共通性があり、編述の根本方針を殆ど等しくするという。
 ところで、古田武彦『よみがえる九州王朝』(一九八三)は、九州乙類風土記(古田は県(あがた)風土記という)は、九州王朝によって作られたことを論証している。そうすると、常陸国風土記は、九州王朝が作った県風土記の中の常陸国の条を加除改変したものであろう。秋本の研究は、その証明をしているように思われる。
 さて、常陸国風土記の筑波郡の条には、筑波山の燿*歌(かがひ)会の様子が描かれている。そして万葉集には、高橋虫麻呂の「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(おとめ)壮士の 行き集ひ かがふ燿*歌(かがひ)に・・・」(一七五九番)という長歌がある。この「裳羽服津」という場所が、筑波山の燿*歌会の実施されたところとも考えられている。しかし、万葉集についての著名な注釈書・研究書には、「裳羽服津」という場所が、どこかという点について明確に指示しているものはないようである。

燿*歌(かがひ)の燿*は、日編の代わりに女。JIS第3水準、ユニコード5B25

 ところが、地元の研究者の間では、「裳羽服津」は、昔から知られていた場所である。「裳萩津」は、田井村大字六所萩津で、又の名を妹背が原・夫女(ふじょ)が原・亀が岡という。この地は、丹波の亀山と共に日本蓍(めどき)の名産地で、蓍はその形が萩に似ていたので、妻戸萩とも裳萩ともいう名が生じ、これからその名を負わせたものであるという(河野辰男『常陸国風土記の探求』中、一九八〇)。地元の伝承を無視しては、地名比定は困難であろう。

 (2) 歴史学
 常陸国風土記は、郡評問題・国造制・総領制・郷里制などの研究対象ともなっている。その中で、佐々木虔一「常陸における国造制の一考察」(『原始古代社会研究』2、一九七五)と篠川賢「律令制成立期の地方支配 ー常陸国風土記の建郡(評)記事をとおしてー」(日本古代史論考』、一九八〇)は、大和朝廷の地方支配機構という観点から、常陸国風土記の国造・建郡記事を、古墳分布と関連づけて、国造・評造の支配領域について検討している。また、古代村落制度の面からは、関和彦『風土記と古代社会』(一九八四)が注目される。これらの研究は、大和朝廷一元主義の立場からのものであるが、古代の常陸国研究に当たっての基礎的知識を与えてくれる。
 常陸国風土記の郡・郷などの地名比定については、宮本元球『常陸誌料郡郷考』(一八五九)、中山信名『新編常陸国誌』(一八三六)、吉田東伍『大日本地名辞書』(一九〇三)、豊崎卓『東洋史上より見た常陸国府・郡家の研究』(一九七〇)などがあるが、最近では、茨城県立歴史館の久信田喜一が、雑誌『風土記研究』などに、精力的に論文を発表している。
 しかし、地名比定については、その方法論と実際について問題を提起した和歌森民男「地方史研究の再検討 ー常陸国風土記行方郡条の故地をたずねてー」(『地方史研究』三一 ー 一、一九八一)に教えられるところが多い。和歌森は、箭括氏麻多智と壬生連麻呂の開発した谷を、1).地誌・郷土誌史、2).国土地理院地図・航空写真、3).役場・旧家の文書・古地図などを丹念に収集して検討した。その結果、定説とされている谷奥に夜刀神社と俗称する小祠が現存する、玉造町泉につきあげる谷(鳥名木谷)に比定する見解に疑問を持った。むしろ、谷奥に現在も椎池と称する池が存在し、その谷を囲む地域に「巳待様」という蛇神を祭る講が存在する、麻生町行方の谷の方が、麻多智や麻呂の開発した谷であるという、麻生町郷土史研究会員の箕輪徳二郎の説の方が、妥当であるという。

 (3) 考古学
 佐藤次男は、「角ある蛇と頭上の蛇」(『茨城の民俗』一八、一九七九)において、常陸国風土記の角ある蛇(夜刀神、角折浜の大蛇)と縄文時代中期末から後期初頭の土器にみられる蛇形把手との関連を指摘して以来、研究を続け、「常陸国風土記の角ある蛇について」(『常陸国風土記と考古学』、一九八五)で、資料を集成している。
 岸辺成雄「和琴の祖型」(下)(『雅楽界』五八、一九八三)は、常陸国風土記の「天の鳥琴」は、現在の和琴の鵄尾(六個の突起部分)と関連づけられようという。従来、天之鳥琴は、鳥のような美しい音色を出す琴であろうといわれていたが、琴の形状に着眼したのは、岸辺が最初ではないかと思われる。
 しかし、天之鳥琴は、茨城県から出土した埴輪の琴と同じように、突起部分の反対側(現在は、頭という)が、鵄(とび)の尾のように末広がりになっている形状(鵄尾型)のものであろう(増田修「古代の琴」『市民の古代』11、一九八九)。
 そして、『和名抄』・『延喜式』にいう鵄尾は、現在いう頭部(突起部分の反対側)を指しており、古代においては、頭尾の呼称が現代とは逆なのである。茨城県結城郡石下町篠山稲荷山古墳出土の埴輪の五絃の琴は、鵄尾型で、沖ノ島出土の雛形琴(五絃)と、よく似ている。古田武彦によると、沖ノ島は九州王朝の聖地で、この雛形琴は、九州王朝の財宝の一つであったという(古田『ここに古代王朝ありき』一九七九)。そうすると、天之鳥琴を持つ建借間命は、九州王朝の地から常陸へ侵入してきたのではないだろうか。また、常陸と北九州との深い関係は、常陸と北九州に分布する装飾古墳の類似性からもうかがえよう。

 (4) 民俗学
 一九六三年創刊された雑誌『茨城の民俗』は、創刊号から、「蛇綱」についての習俗が採集されている。そして、嶋田尚「蛇型綱の習俗に就いて(2)」(『茨城の民俗』二八、一九八九)は、盆に用いられる綱の信仰が多様化した段階で、九州北部沿岸・諸島部の半農半漁民が、黒潮にのって北上し、常陸南東部・下総北東部に移住し、盆綱行事をもたらしたという。
 しかし、蛇綱(盆綱)の習俗は、我が国の各地にみられ、各地の民俗誌・地方誌史に採集・報告されている。それらを総合的に検討することによって、常陸国風土記の角ある蛇と蛇信仰・蛇綱習俗との関係を解明することができるのではないだろうか。
 また、『茨城の民俗』は、甕葬の風習についても収録するなど、常陸国と北九州との関係を検討するうえで、興味深い問題を取り上げている。
 倭武天皇についても、藤田稔「日本武尊の東征に関する常陸の伝承」(『茨城の民俗』七、一九六八)は、倭建命・日本武尊と同一人物とみて、伝承地・伝承内容を紹介している。そして、神社の中には、水戸光圀の神社整理や明治時代の統廃合によって、祭神を日本武尊に改めた神社があるので、誤認しないよう注意を促している。日本武尊伝承は、関東各地にみられ、郷土誌史に採集されているが、堀一郎『我が国民間信仰史の研究』(一)(一九五五)は、各地の伝承の大要を把握するのに便利である。
 古田武彦は、常陸国風土記に登場する倭武天皇は、「倭の五王」のうちの倭王武であるという。そして、当時の倭とは、大和朝廷のことではなく、九州王朝だという(古田『古代は輝いていた』III ・法隆寺の中の九州王朝、朝日文庫版三三五頁)。また、『日本書紀』の日本武尊は、『古事記』の倭建命と同一人物として描かれているが、両者の東国・陸奥における行動領域は、著しく異なる。さらに、関東各地には、『古事記』・『日本書紀』に現われない日本武尊伝説が残っている。これらの事実は、古田武彦のいう鈴鏡文明圏=関東王朝(古田『古代は輝いていた』II・日本列島の大王たち、一九八五)の王者の事跡や、九州王朝の倭武天皇の足跡あるいは大和朝廷の倭建命の伝承が、日本武尊一人の物語に集約・変容されて伝説化されたことを示しているように思われる。その分析は、採来の課題である。

 関連問題

 常陸国風土記の研究に当たっては、日本武尊伝説のほかにも、常陸国の範囲をはみ出す問題が多数ある。ここでは、その中から三点紹介しておこう。

 1 毛野国

 志田諄一は、「毛野の名称と周辺の問題」(『日本歴史』一九八、一九六四)において、常陸国風土記筑波郡の条に「筑波の県は、古、紀の国と謂ひき」とある紀の国は、木の国で毛の国の意とも思われるといい、筑波の西は毛野川と連なり下野とも近接しているので、毛野はある時期には隣接する常陸国の新治・白壁・筑波の一帯をも含む地域であったかも知れないという。そして、毛野国の分国は天武朝に行なわれ、上毛野君・下毛野君の賜姓をみるという。また、毛野氏の祖は、大和朝廷から赴任してきた皇族であるともいう。
 三谷栄一は、「常陸国風土記より見る壬生氏と毛野氏との関係」(『実践文学』二三、一九六四)において、茨城国造壬生連・那珂国造壬生直などの壬生氏一族は、常陸国を制覇しているように見られるが、この壬生氏は東山道より発展して来た上毛野氏の一族である、と推定している。そして、毛野氏は、大和朝廷の豊城命から出ているという。
 毛野国は、古田武彦のいう関東王朝に該当するであろう。前記の志田や三谷の説の前提となっている大和朝廷の東国支配を、九州王朝に読み変えるだけでは、関東王朝と九州王朝との関係や九州王朝と常陸国との関係を説明することは、困難であろう。多元史観の立場からの古代の関東へのアプローチは、古田武彦によって始まったばかりである。常陸国風土記の研究によって、古代の関東を解明する手掛かりを得ることができるのではなかろうか。

 2 黒坂命

 黒坂命は、茨城郡の条に登場するが、逸文にも、陸奥の蝦夷を征討して凱旋の途中、多珂郡角枯山で病死し、その[車兪]轜車が日高之国に到ったという伝承がある。
 このほか、黒坂命に関する伝承の地は、栃木県上三川町上蒲生にもある。纏向宮の御宇、黒坂命は日高見国から凱旋して、蒲生郷の南にいた佐伯を討ち、神慮によって、蒲生神社を創立したという。そして、その子孫は、蒲生稲置となったという(風山広雄『下野神社沿革誌』、一九〇三)。
 その他、常陸国と下野国には、星神を祀る神社が多数分布するなど、共通した伝承がみられる。これらは、毛野国と常陸国との深い絆を示唆しているようにみえる。

 3 絹の道

 関東においては、絹は、弥生時代の遺跡からは出土していない。絹は、古墳時代中期になると群馬・栃木・東京、古墳時代後期には茨城・千葉の遺跡から出土している(布目順郎『絹の東伝』、一九八八)。
 絹の東伝については、常陸国風土記久慈郡の条に長幡部神社(常陸太田市幡町、延喜式内社)の創立説話がある。天孫降臨に従って天降った綺日女命は、筑紫国日向二折峰(注 福岡県糸島郡高祖山)から三野国引津根丘に至ったが、美麻貴天皇の世に、長幡部の遠祖多弖(たて)命が三野国を避けて久慈に遷り、機殿を造立し初めて施*を織ったという。施*は、あしぎぬ=粗い絹織物である。

施*は、方の代わりに糸。JIS第3水準ユニコード7D41

 埼玉県児玉郡上里村に延喜式内社・長幡部神社がある。現在の祭神は、天羽槌命・埴山姫命ほか四柱であるが、古くは、日子坐王の子大根王または綺日女命を祭ったともいわれている(井上善治郎『まゆの国』、一九七七)。
 常陸国長幡部の絹は、天(あま)(注)→筑紫国→美濃国→武蔵国の地を経てきたのであろう。また、常陸国には、欽明天皇の御宇、豊浦湊(日立市)に天竺国から金色姫が着き、死後、蚕になったという伝説があり、金色姫を蚕神様として祀る寺社は多い。
 そして、関東各地には、オシラ(蚕神)様信仰が広がっている。古代の常陸へ絹が伝来した経路は、一つではないようである。

 おわりに

 市町村郡誌史・郷土誌史の多くは、収集できずに、今日に至った。それらの書物の中には、貴重な資料・研究が埋もれたままとなっていると思われる。
 また、市町村郡誌史・郷土誌史・考古学関係の調査・研究は、各地方自治体の境域内の事項に限定される傾向がみられる。しかし、古田武彦のいう鈴鏡文明圏(関東王朝)は、上野国・下野国・武蔵国・常陸国など、関東一円に広がりをみせている。そして、武蔵稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた黄金文字中の加多支カタシロのロ(カタシロ)大王(通説は、獲加多支ワカタケル)の斯鬼(シキ)宮(栃木県藤岡町字磯城宮所在の大前神社は延喜式以前の古名を磯城シキ宮という)の地は、右の各国が接する鈴鏡文明圏の地理的中心にある(古田『古代は輝いていた』II・日本列島の大王たち、朝日文庫版、三〇八頁)。大和朝廷は、関東王朝の都があった斯鬼宮の地と斯鬼宮の大王を佐治した者が眠っていた武蔵稲荷山古墳を引裂くように、その中間地域を起点に、領域を数ヶ国に分割して統治したのであろうか。
 古代の関東の研究は、各地方自治体別になっている調査・研究を総合して検討する必要がある。しかし、市町村誌史・郷土誌史・発掘出土報告書などの中には、国会図書館に納本されていないものもあり、それらの検索・収集は容易ではない。
 なお、目録中、菅政友筆写『常陸国風土記』(茨城県立歴史館所蔵)の写真撮影、飯田瑞穂「常陸国風土記の諸本について」(一)・(二)(『歴史研究』二七・二八)の収集は、会貝の椎名修によるものである。

(注)
  「筑紫国日向二折峰」と「天国」については、古田武彦『盗まれた神話 ー記・紀の秘密』(角川文庫版)、『古代は輝いていた』I・「風土記」にいた卑弥呼(朝日文庫版)を参照されたい。

 

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