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『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年
●研究論文

法興寺研究

大越邦生


 飛鳥に今もひっそりとたたずむ古寺院、飛鳥寺。安居院とよばれる寺院は後世の建築物であるが、ここに古代寺院が眠っている。
 この寺院に関する研究は旧来盛んであるが、特に明治期以来の学界の論争はよく知られたところである。法隆寺論争と同様に法興寺論争があり、今も引き継がれた研究である。
 本稿はそうした先行研究をふまえながら、法興寺の「同寺別寺説」「増建非増建説」について、私の見解を述べるものである。

一、書紀の法興寺記事

 書紀には崇峻紀に法興寺名が初出し、以後元興寺、飛鳥寺という名による記述が歴代の天皇紀に出現する。その出現状況を示そう。

 崇峻紀 法興寺 三
 推古紀 法興寺 三 元興寺 二
 舒明紀 なし
 皇極紀 法興寺 三
 孝徳紀 法興寺 一
 斉明紀 飛鳥寺 一
 天智紀 法興寺 一
 天武紀 飛鳥寺十四(うち明日香寺一)
 持統紀 飛鳥寺 三

 三つこの寺名のうち、法興寺と飛鳥寺が同じ寺であるということについては、旧来異論のないところである。書紀の表記もまた、両寺が同一であることを前提にしている。法興寺西の「槻の樹」記事などがその例である。
(皇極三年)法興寺のの樹
(天武元年)飛鳥寺の西の

 法興寺の槻の樹は書紀にたびたび出現し、法興寺と飛鳥寺が同一であることを示している。
 では法興寺記事のない舒明紀での名称はどうであろうか。前後の関係から推定すれば、当然「法興寺」の可能性が高いであろう。
 そこで舒明紀を除いて名称を整理してみよう。
 (崇峻)法興寺      (斉明)飛鳥寺
 (推古)法興寺・元興寺 (天智)法興寺
 (皇極)法興寺      (天武)飛鳥寺
 (孝徳)法興寺      (持統)飛鳥寺

 崇峻紀から孝徳紀が「法興寺」、天武持統紀が「飛鳥寺」となっているのがわかる(「元興寺」については後述する)。この規則性は何らかの歴史的事象の反映ではないだろうか。その考察を行おう。
 複数寺名は単に同一の寺のよび名がいろいろあったための結果であろうか。
 従来「法興寺」名は法号、「飛鳥寺」は俗号であり、一つの寺に中国風名称と地名名称があるといわれている。法隆寺に対する斑鳩寺などがその例である。確かに両名称は創建当初より使われた名であると思われるが、書紀の寺名の使われ方には、法号と俗号の併用ということだけではかたづかない問題がある。全三十一回登場する寺名が偶然にある時期から別のよび名にかわる、ということは考えにくい。
 私には「法興寺」から「飛鳥寺」への改変には天皇紀編纂者の意図がはっきり働いている、そう思えるのである。
 同じ書紀に登場する坂田寺の名称を見てみよう。
 (用明紀)南淵の坂田
 (持統紀)五つの寺大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田に設く。

 坂田寺に用明紀から持統紀まで名称の変化はない。法興寺より長期にわたり存在している寺であっても名称は一つなのである。寺名が変わらない寺がある一方、法興寺と同じようにある意図をもって改変させられたと思われる寺がある。法隆寺がそれである。
 法隆寺の名称を書紀からぬき出してみよう。
 (推古十四) 斑鳩寺 一
 (皇極 二) 斑鳩寺 一
 (天智 八) 斑鳩寺 一
 ( 同  九) 法隆寺 一

 「斑鳩寺」が天智八年で終り、九年には「法隆寺」になっている。(1) これだけの記事の数では何ともいえないが、この改変を、天智紀編纂過程における寺名変更と考えることはできないだろうか。天智紀の史料編纂が行われたと思われる天武の時代、その天武紀に次の一条がある。
 天武八年「(天武天皇)是の日に、諸寺の名を定む。」(2)
 この時の天武の命により、斑鳩寺が法隆寺と改名され、それが天智紀表記に影響を与えたことは充分考えられる。天武の考えによって斑鳩寺の名称が切りかえられたのである。
 法興寺はどうであろうか。斑鳩寺の改変と同時期に法興寺のよび名も変化している。ならば法興寺の寺名変更も天武によって行われた可能性が高い。斑鳩寺と法興寺の両記事をミックスして示そう。
 皇極二年 斑鳩寺
 孝徳即位前紀 法興寺
         1
 斉明三年 飛鳥寺
 天智八年 斑鳩寺
         
 天智九年 法隆寺
 天智十年 法興寺
         
 天武元年 飛鳥寺

 法興寺は三ケ所で変化しているのがわかる。そのうち、は天武八年の寺名改定時の影響を受けている。ならば、法興寺は「飛鳥寺」から「法興寺」に天武天皇によってもどされたことになる。さらに天武紀編纂時(おそらく持統期)には再び「飛鳥寺」にされたのである。
 結論を述べる。もし書紀の寺名が直接その天皇の時代のよび名を示すのでなく、次代の歴史編纂時期の影響を受けているとするならば、各天皇の寺名認識は次のようになる。
 (斉明)法興寺 (天武)法興寺
 (天智)飛鳥寺 (持統)飛鳥寺

 この各天皇の法興寺認識についてはいろいろ推測できるが、ここでは、法興寺がある意図をもって寺名変更させられている可能性を指摘するに止めたい。


二、改称の理由

 法興寺はなぜ「飛鳥寺」と記載されるようになったか。それは「法興」という寺名が権力中枢においてふさわしい名称ではなくなったからと私は考える。
 「法興」が九州年号であることは言うまでもない。「法興」年号は九州王朝の王多利思北孤によって制定され、多利思北孤が没すると同時に終った年号である。法興寺はこの九州年号法興二年に起工され、同六年に竣工した寺院である。よってその寺名が「法興寺」とされたのである。同じような寺院名の例は、明要元年に竣工した丹生山明要寺が知られる。(3) また、畿内においても、斑鳩の中宮寺が「法興寺」を称した時期があったことを示す史料が多く存在する。(4)
 つまり、法興寺の「法興」廃止は、九州年号廃止を意味しており、九州王朝の否認を意味している。なぜ九州王朝の拒否が起ったのか。
 答えは明白である。白村江の敗戦における九州王朝の没落である。同時にそれは近畿天皇家にとっては自己のアイデンティテイ確立の時期であった。そのため「法興」年号の忌避が起ったのである。
 推古天皇の時代あれだけ尊重され、寺院の名にまで採用された「法興」年号、それはこの時代にすっかり色あせ、過去の九州王朝従属時代を思い出させる疎ましい響きでしかなくなってしまった。九州年号を近畿天皇家権力中枢で使うことは戒められたのである。天武紀に多数出現する法興寺の記事、それは当然「飛鳥寺」と表記された。このような理解が私には自然であるように思える。
 結論を述べる。法興寺が飛鳥寺と表記された理由、それは九州王朝権威・権力の没落という政治的事件の反映ではなかったろうか。

 

三、元興寺とは何か

 先述来留保していた問題について考察しよう。推古紀に二ケ所登場する元興寺の記事を今まで例外にしてきた。この元興寺記事も旧来大きな謎であった。平城京に建設された元興寺の存在はあまりにも知られたところであるが、この推古の時代に元興寺という存在がはたしてあったのか。こうした疑問から法興寺・元興寺の「同寺説」「別寺説」が生じ、対立してきたのである。
 私の眼にも元興寺がそれらとは別に、特異な存在に映っていた。
 今、私はこの元興寺に、ある一つの推定を下すことにしよう。
 書紀の元興寺記事の一つは、有名な鞍作鳥の丈六像金堂納入談である。引用してみよう。

『(推古十四年)銅・繍の丈六の仏像、並に造りまつり竟りぬ。是の日に丈六の銅の像を金堂に坐せしむ。時に仏像、金堂の戸より高くして、堂に納れまつることを得ず。是に、諸の工人等、議りて曰く、「堂の戸を破ちて納れむ」といふ。然るに鞍作鳥の秀れたる工なること、戸を壊たずして堂に入ること得。』

 元興寺金堂に丈六像を搬入した記事である。この元興寺記事を法興寺に解すると疑問な点がある。
 第一に、「法興寺は蘇我馬子が建立した寺院であるが、元興寺の丈六像は天皇の詔によって造られている。」この点である。次の記事を見てほしい。
 〈崇峻紀〉 蘇我大臣(馬子)、亦本願の依に、飛鳥の地にして、法興寺を起つ。
 〈推古紀〉 天皇、皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願ふことを襲てて、始めて銅・繍の丈六の仏像、各一躯を造る。

 両寺が同一ならば、蘇我氏建立の寺院の本尊を天皇が造らせたことになる。ここに一つの矛盾がある。
 書紀の他の記事は、丈六像制作の主体が馬子であったことを示している。
 〈大化元年〉 小墾田宮御宇天皇(推古)の世に、馬子宿禰、天皇の奉為に丈六の繍像・丈六の繍像・銅像を造る。

 法興寺の丈六像と、天皇の造らせた丈六像とは明らかに別物のようだ。
 ここで喜田貞吉の提唱したような議論が成立するのである。
「法興寺は蘇我氏の寺、元興寺は天皇家の寺ではないか」
と。いわゆる別寺説である。

 第二、不審は次の点で決定的となる。
〈推古四年〉法興寺、造り竟りぬ。(略)是の日に、慧慈・慧聰、二の僧始めて法興寺に住り。
 法興寺は推古四年に完成している。完成したということは、本尊も完成したことに他ならない。ところが元興寺の本尊完成と金堂搬入は推古十四年である。この十年のズレをどのように考えたらよいのであろうか。
 私は先行研究を調べながら、同寺説・別寺説だけでは問題の解決にならないと考えるに到った。ここで私の文献に対する態度を示しておきたい。私は元興寺に関する重要文献『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』を考察の基礎とはしなかった。あくまでも『日本書紀』に解決の糸口を求めたのだ。なぜなら、『元興寺縁起』の「丈六光銘」等の史料は古田氏の研究によって、書紀の記述を基に造文改訂された事実がわかっていたからである(『古代は輝いていた』三巻参照。もちろん元興寺縁起にも原資料と見なされる史料がある。しかしその分析は別の機会に行いたい)。
 解決の糸口は、これから述べる書紀の二つの点から見い出された。
 書紀のもう一つの元興寺記事、それは推古十七年百済僧十一人の肥後国漂着の記事である。古田氏の論証によれば(『古代は輝いていた』三巻)この記事は事実よりおよそ十二年のズレで書紀に記載されていることになる。
 この記事の中に「元興寺」は登場してくる。
 「対馬に至りて、以て道人等十一、皆請せて留まらむとす。乃ち表上りて留まる。因りて元興寺に住らしむ」(推古十七年)

 この一連の記事に十二年のズレがあるならば、同じ元興寺記事のもう一方にもズレがある可能性が出てくる。元興寺の丈六像搬入談が、推古二十六年頃の事実を記載している可能性である。ならば推古四年に完成した法興寺との時間的差は決定的に離れてしまう。
 ここまで推察してくると、法興寺と元興寺が同寺であるとはさらに断言できにくくなる。
 次に「推古の詔」の問題点をあげよう。
 丈六像搬入年五月に、推古天皇は鞍作鳥に次の詔を下している。少し長くなるが引用しよう。
 「朕、内典を興し隆えしめんと欲ふ。方に仏刹を建てんとして、はじめて舎利を求む。時に汝が祖父司馬達等、たちまちに舎利をたてまつれり。(中略)
  また仏像を造ること既に終りて、堂に入るることを得ず。(中略)
  然るに汝、戸を破たずして入るることを得。これみな汝が功なり。」(推古十四年)

 この記事を単純に推古天皇から鞍作鳥への詔と考えるには問題がある。それは敏達紀との矛盾である。
 「馬子ひとり仏法によりて、三の尼を崇ち敬ぶ。(中略)
  この時に、達等、仏の舎利を斉食の上に得たり。既ち舎利を以て、馬子宿禰に献る。」(敏達十三年)
 「蘇我大臣馬子宿禰、塔を大野丘の北に起てて、大会の設斉す。即ち達等が前に獲たる舎利を以て、塔の柱頭に蔵む。」(敏達十四年)
 以上の記事は推古の詔と矛盾する。問題点を整理しよう。
(1) 司馬達等の舎利献上は敏達天皇の時代である。
(2) 達等の舎利献上の相手は馬子である。
(3) 「内典を興し隆えしめんと」考えたのも馬子である。
(4) 刹(塔)を建てたのもまた馬子である。(5)

 推古の詔では(1)〜(4)の主格がすべて推古天皇になっている。
 敏達紀と推古紀、どちらの記事が正しいのであろうか。私には敏達紀の記事が誤りだとは思えない。本来天皇家の事績をわざわざ蘇我氏の事績と誤認する、それは起こりにくいことだからである。しかしその逆ならばあり得る。
 推古天皇が蘇我氏の一族であることは周知のところである。推古イコール蘇我、という等式から馬子の事績も結果的には推古天皇の事績とされたことは充分に考えられる。
 しかし原型としての事実はどちらであろう。
 それはもちろん敏達紀の記事である。推古の詔は蘇我馬子の事績をとり入れ、構成されているのである。つまりこの推古と鞍作鳥のやりとりそのものが、馬子と鞍作鳥の間のやりとりだった可能性がでてくるのである。
 たとえ推古の詔が真実あったとしても実質的にその文脈の主格は馬子だったのではないだろうか。ならば、この記事そのものが、馬子建立の寺法興寺完成時にあってこそふさわしい内容である。「法興寺、造り竟りぬ」(推古四年)の時点にあった記事が、何らかの理由で十年近く移動してしまったのである。
 では記事はいったいなぜ移動したのであろうか。私は推古十四年(実際は二十六年)にもともと元興寺の記事があったからだと考える。丈六像の元興寺金堂への納入記事と前年の天皇の誓願記事があり、そこへ法興寺の丈六像搬入談が接合された。なぜなら、推古十三・十四年の記事は、天皇家側の記事と蘇我氏側の記事とが錯綜している。天皇が誓願して造らせた丈六像が坐した元興寺とは、天皇家の官寺であるという理解が自然であり、鞍作鳥が行った丈六像搬入談は、法興寺の記事として自然である。相矛盾した内容がここで統合されていると考える他ないのである。
 記述を解りやすくするため、私の仮説を時代順にまとめよう。
 法興寺完成のころ、蘇我馬子は丈六像を造った。そして仏殿搬入時に鞍作鳥のエピソードもあった。
 一方、天皇家の官寺元興寺に、天皇誓願により丈六像が造られ安置された。
 法興寺丈六像と元興寺丈六像の記事は、推古十三・十四年時点で接合され、天皇の事績として統合された。
 以上述べてきた私の結論は、法興寺・元興寺別寺説になる。しかし従来の説と同じではない。特に元興寺の位置に関しては決定的に相違する。喜田は元興寺を飛鳥内に置くが、私の考えは違う。それを次に述べよう。
 元興寺の位置に関するヒントは、推古十七年の記事の中にある。そして記事の分析は驚くべき帰結を導く。
 「筑紫大宰、奏上して言さく」として始まる推古記事は、百済僧が隋末の混乱期に中国に入れず、帰途暴風に遭い肥後国に漂着した内容を伝える。僧等は百済への帰国の途中、対馬に至り、日本残留を決意する。そして次の一文で記事は結ばれる。
 「因りて元興寺に住らしむ」(推古十七年)

 この記事に登場する日本側の地名は、肥後国と対馬だけである。百済僧一行は、肥後国・筑紫・対馬という径路をたどったのである。
 さらに肥後国に派遣された、難波吉士徳摩呂と船史龍は、書紀の他の項にいっさい顔を見せない。また元興寺に留まったという百済僧道欣・恵彌の名も他にない。
 そして何よりも重要な一点、この部分の記事は、古田氏の論証で十二年のズレがあることが判明している。つまり推古二十九年時点の事実を示している。この時点に近畿天皇家がここまで九州内部の行政に介入することができたのであろうか。
 九州年号で考えればわかりやすい。九州年号で元興寺記事は倭京四年・法興三十一年に当たる。この時期は、九州王朝の王多利思北孤が在世中である。そうした九州王朝全盛の時代に、王朝中枢域に近畿天皇家の使者が派遣され指令を下す。それはとうてい考えられないことである。
 結論、この一連の記事は九州王朝文献からの盗用であり、二名の使者は、大宰府から肥後国に遣わされた者である。驚くべき結論だが、元興寺もまたこの時期、九州(おそらく筑紫)にあったとしか考えることができないのである(後世の平城京における元興寺はこの場合とは異なる。続日本紀の分析と共に、別の機会に行いたい)。以上が私の結論である。
 九州王朝の元興寺。この命題を裏づける傍証が「金堂」の表記にある。書紀推古十四年記事を見てみよう。
「是の日に、丈六像を元興寺の金堂に坐せしむ」(推古十四年)

 この「金堂」に問題がある。実は簡単に見過ごされがちであるが、書紀中「金堂」の表記が表れるのはこの元興寺記事だけなのである。書紀中の金堂を示す語のすべてを見てみよう(○印は法興寺、◎印は元興寺である)。

 敏達紀  仏殿 三
 崇俊紀 ○仏堂 一
 推古紀  仏舎 一 ◎金堂二(堂二)
 孝徳紀 ○仏殿 一  仏殿一
 天智紀  仏殿 一
 天武紀  仏舎 一(堂塔一)
 持統紀  仏殿 一

 書紀中、元興寺「金堂」の表記が特殊であることがわかる。元興寺の記事以外はすべて「仏□」の表記になっているのである。
 この結論も「金堂」が九州王朝で使われた呼称と考えることにより解決するのではないだろうか。
 「九州の元興寺とその金堂」、「飛鳥の法興寺と仏堂」、思ってもみなかった結論である。


四、法興寺の伽藍配置

 法興寺は昭和一二十一年から翌年にかけて発堀調査され、(6) その伽藍配置が明らかにされた。調査の結果は、日本古代寺院において他に類例を見ない「一塔三金堂」形式の寺院であることが判明した。我が国最初の本格的寺院が予期せぬ構造だったことは、学界に大きな衝撃を与えた。以後、丈六像の成立とも関連をもちながら、東西金堂の「増建説(7) 」、さらにそれに対立して「非増建説(8) 」が展開していくことになる。
 ここではそうした研究史を詳しく述べる余裕はないが、両説を概観して私の考えを述べたい。
 まず増建説について述べよう。
 一塔三金堂形式を、日本や百済の古代寺院によく見られる「四天王寺形式 (9) 」の増築の結果と考えるのである。まず、推古四年に第一期工事として四天王寺形式が完成し、同十四年に第二期工事で東西金堂が増築された。この時に丈六像の搬入も行われたと考えるのである。
 増建説の根拠の一つとして、基壇に関する発堀成果があげられる。発堀の結果、塔と中金堂(北金堂)の基壇が「壇上積基壇」、東西金堂の基壇が「二重基壇」(重成基壇」ともいう)であることが判明した。増建説はこの構造上の違いを、増建の結果と見なすのである。

森郁夫『河原と古代寺院』六興出版から法興寺研究 大越邦生 『市民の古代』第7集 19857年 市民の古代研究会


 次に非増建説について述べよう。
 非増建説は、増建説が文献と喰い違うことを大きな反論の柱としている。
 発堀された回廊の東西・南北の長さの比は、明らかに一塔三金堂形式が当初よりの計画であったことを示していた。もし第一期工事が四天王寺形式で完成していたなら、その規模での回廊が建築されていなければならないが、実際にはその痕跡はない。
 また仮に、第二期工事で回廊が完成したとするならば、明らかに書紀の法興寺建造記事と矛盾することになるのである。
 非増建説の立場からすれば、やはり一塔三金堂形式は最初からの計画であると考える他ないのである。
 両説に対する私の考えを述べよう。
 まず増建説が根拠とする基壇の問題である。
 増建説によれば、まず中金堂・塔が「壇上積基壇」で建てられ、続いて東西金堂が「二重基壇」で建てられたことになる。しかし基壇の古さはむしろ逆である。「二重基壇」が古拙な様式をたたえていることは、多くの学者が指摘するところである。また「壇上積基壇」に対して、格調も著しく劣るのである。
 基壇建設の順序は、まず東西金堂、次に中金堂・塔の順が自然である。
 非増建説に対する考えを述べよう。
 まず、三金堂を同時に建造したのなら、なぜ三金堂を同じ構造にしなかったのか疑問が起きる。さらに「三金堂」というが、いったい三つの建造物がすべて「金堂」だったのであろうか。この疑問は塔に設置された階段の位置でさらに助長される。発堀調査結果では塔の階段は中金堂と中門に向ってしか設置されていなかった。つまり、東西金堂から塔に上る階段がないのである。このことは、中金堂と東西金堂との役割の違いを暗示しないだろうか。
 こうした考古学的事実に対して、非増建説では明確な答えが出せない。
 さらに文献から見てもしっくりこない点がある。書紀に「法興寺の仏堂と歩廊を起工する」(崇峻五年)とあるが、三金堂を造ったのなら、その事実が記述に反映されていないのは不審である。法興寺の建造過程は書紀において異例に詳しく、「仏堂」と記して、三仏堂の意味にしたとはとても考えにくいことである。
 同じ不審が皇極紀にある。
「古人大兄即ち自ら請ひて法興寺の仏殿の間に於て髯髪を別除し、袈袈を被着す」(皇極四年)
 天武天皇が剃髪して吉野に入る時の記事である。ここでも「東の仏殿」といった表記はない。「仏殿」と書けば、一つの建物を指す。そうした常識が史料編纂者にあったとしか考えられないのである。
 つまり、「法興寺に仏殿は一つしかなかった」この命題をとるしかないのである。
 非増建説が依拠する朝鮮半島における一塔三金堂形式の寺院例がある。高句麗の清岩里廃寺がそれである。
 では清岩里寺の遺跡は本当に一塔三金堂であろうか。確かに清岩里寺の場合、三金堂は認められても、今度は中心にある八角殿を塔とみなすことができない。相似た形式であるとはいえても、清岩里寺を一塔三金堂形式の先例とすることにはかなり無理がある。
 やはり一塔三金堂形式は、古代東アジア全体の中でも、現在のところ孤立している。
 遺跡と文献が示す法興寺に対する私の考えを述べよう。私の解釈は単純である。
 (1) 文献通り、仏堂・歩廊・塔はその順に建造された。
   そして仏堂が一つの四天王寺形式で建造されたのである。
 (2) 考古学的事実通り、東西建築物は寺院建造以前からあったものである。
 (3) 法興寺は、東西の先行建築物を含めて設計された。
 考古学的事実と文献を素直に認めるならば以上の結論にたどり着くしかないのである。
 寺院の建造順は、 1先行建築物二棟 2仏堂と歩廊 3塔の順番である。
 では「先行建築物」とは何か。そんな建物の根拠がいったい文献にあるのだろうか。ところが、その記載が書紀中にあるのである。
「飛鳥衣縫造が祖、樹葉の家を壊ちて、始めて法興寺を作る。」(崇峻元年)
 この「樹葉の家」こそが先述来の「先行建築物」に他ならないのではないか。「樹葉の家」を壊して残った二棟、それが法興寺の一部になったのである(「壊して」が部分的な改修工事であった可能性もある。また「先行建築物」が家屋に併設された仏殿であった可能性もある)。とにかく、家屋を全壊せず残し、法興寺建設に転用したと考えるならば、すべて理解できるのである。
 家屋を寺の一部分にする、その先例がある。それも馬子の事績である。俗に「石川精舎」と呼ばれる馬子建立の仏殿がそれである。
「馬子宿禰亦石川の宅に於て仏殿を修治す。仏法の初、これよりおこれり」(敏達十三年)

 馬子が石川にある自宅を改修し、仏殿とした記事である。馬子が法興寺を建造する時点で、家屋を寺院に転用した可能性は充分考えられる。
 この理解は考古学的事実とも一致する。東西金堂の基壇が二重基壇であることはすでに述べたが、法興寺の基壇はさらに特殊である。二重基壇の下成にも礎石を置く、我が国の寺院において他に類を見ない形式なのである。下成礎石の用途は、建物の深い軒先を支えるための支柱であったようである。多くの専門家は、軒まわりに何本も柱が並ぶことは、寺の美観を著しく損なうことを指摘し、寺院としての建築法に疑問をとなえている。
 私の考えでは、東西金堂がもともと家屋であったと考えるのであるから逆に寺院としての美観が考慮されたはずがなく、矛盾がないのである。
 残された問題は、東西建造物の用途である。両建造物が当時「金堂」であった保障はない(法興寺の「東金堂」といった表記が表れるのはもっと後世である)。(10)
 この問題を解決する鍵は「講堂」にあると私は考える。講堂に着目する理由は次の二点である。
 第一に、書紀の記述に講堂や増坊の建築が一切姿を見せない。
 法興寺講堂は発堀調査によれば、金堂のおよそ二倍もある巨大な建築物である。講堂が法興寺完成と同時にあったのなら、書紀に記述されていないわけがない。
 第二に、講堂の基壇の証言である。
 講堂の基壇は花山岡岩の粗い加工材を周囲に並べて造られており、この基壇のみ他の建築物と使用している石の形式・石質が異なっている。さらに伽藍中軸線に対して方位が振れている点も講堂が後に造られたことを示している。
 以上の二点はどちらも、慧慈・慧聡の二僧が法興寺に入った時点で、この講堂が存在していなかったことを指し示している。彼らが住み、経の講読を行った場所はどこであろうか。私にはその場所こそ東西の二建築物であったように思える。
 蘇我馬子は石川の自宅を仏殿とし、大野丘の北に塔を建てている。この時期、寺院の伽藍配置が明確に概念化されていなかった時代、法興寺もまたそうした時代に、講堂や僧坊の機能をもった建造物を回廊の中に含んでいたのではないだろうか。

 

五、法隆寺再建の時期について

 法興寺の調査をしていくうちに、面白いテーマにつき当たった。「法隆寺再建時期」の問題である。最後にその概略を述べさせていただきたい。
 法隆寺再建・非再建論争は、若草伽藍趾の発堀により終止符を打たれたということになっている。しかし新たな問題が古田武彦氏より提出されている。金堂本尊の釈迦三尊像に関する問題である。氏によれば釈迦三尊像は九州王朝内で制作された仏像という結論である(『古代は輝いていた』三巻参照)。
 しかし、古田氏の提起した問題はそれだけで終らず、さらに波紋を広げていくように思える。法隆寺はいつ再建され、釈迦三尊像はいつ畿内にもたらされたのか、こうした疑問がわいてくるのである。
 この点、先述したような寺名改変の考え方が応用できるのである。寺名が改変された問題の天智八・九年の記事を示そう。
 (天智八年)「時に、斑鳩寺に災けり。」
 (天智九年)「夜半之後に、法隆寺に災けり、一屋も余すところ無し。」

 右の斑鳩寺から法隆寺への寺名改変が、おそらく天武八年の命によっているだろうことはすでに述べた。問題はここである。天武天皇は、天智九年に焼けてしまった寺院について、なぜ新しい寺名をつけたのだろうか。天武八年においてもなお旧斑鳩寺が灰のままなら、「法隆寺」への改称などおよそナンセンスではないだろうか。理解できる解釈は一つだ。「法隆寺」名がつけられた天武八年の時期に、再建法隆寺は斑鳩の里に何らかの片鱗を見せていたのだ。だから「法隆寺」名をつけ得たのである(断じて焼けて灰だけになった斑鳩寺の地を思い浮べながら命名されたのではないのである)。再建時期が不明であると言われる現法隆寺が、書紀の思わぬところに顔を出していたのである。
 さらに推論してみよう。再建法隆寺本尊には九州王朝で造像された釈迦三尊像搬入が計画される。天武期から持統期にかけて、九州王朝は潰滅への一途をたどる。この時期の九州王朝に近畿天皇家の申し出を拒否する力は残されていない。釈迦三尊像はほぼ力づくといってよい方法で奪い去られたのである(他寺の本尊を奪うという方法は、後に山田寺から奪われた興福寺の丈六像の例がある)。
 その時期もまた天武・持統期であることを、私は疑うことができない。
 持統六年にそうした事情を暗示させる記事がある(この点、古田武彦氏よりご教示いただいた)。
「己酉に、(持統天皇)筑紫大宰率河内王等に詔して曰く、
『(前略)復、大唐の大使郭務宗*が、御近江大津宮天皇天智)の為に造れる阿弥陀像上送れ』とのたまふ。」(持統六年)
 この記事には後日談がなく、九州王朝が拒否した形跡もない。当然その阿弥陀像は畿内に運ばれたものと思える(おわかりと思うが、もちろん九州王朝に、天智天皇の為に造られた仏像などあろうはずもない。何らかの言いがかりをつけて奪い去るための口実である)。さらにこの記事が示す肝腎な点は、おそらく九州にはこの阿弥陀像以外にも優秀な仏像が多数存在したであろうことだ。そしてこの阿弥陀像のような事情は他にも多くあったはずである。法隆寺の釈迦三尊像もそうした仏像群の中の一つであったのだ。
 天武持統期に再建された法隆寺には、釈迦三尊像が安置された。その傍には、畿内で制作された薬師像が置かれたのである(薬師像も他寺より搬入されたのであるが、その搬入先の寺についての考察は別の機会に行いたい)。
 以上が私の法隆寺再建に関する考察である。法隆寺は天武持統期に再建され、本尊もまた、その時期に法隆寺にもたらされたのである。
     宗*は、立心偏に宗。JIS3水準ユニコード60B0


六、終りに

 「A天皇の治世の説話は、次のBないしC天皇の時代に作られる」。古田氏の古事記説話伝承の公理である。本論文一章はこの公理を日本書紀に応用したところに成立している。
 考えてみれば、論文の着想は、古田氏との古代史ツアー「法隆寺の謎」(八二年五月)で得られたものであり、また論文をまとめるにあたり、古田氏のご自宅に足を運び意見をうかがった。氏は私のような浅学の者の言うことを辛抱強く聞いて下さり、一つ一つ適切なアドバイスを与えて下さった。私の突然の質問に答えて読んで下さった氏の書紀の読み取りは正確であり、先行の学者の誰もが行っていない解釈であった。夜、私は舌を巻いて一人帰途に着いたものである。さらに本論文が古田氏の著書を前提にして成立しているということは、お読みいただければ一目瞭然である。そのように古田氏にはひとかたならぬお世話になった。しかし本論の論旨はすべて大越が立てたものであり、すべて大越の責任において書かれている。古田氏の見解に反している部分もあるので、その点はご理解いただきたい。
 さて、「法興寺問題」を解決しようとするとき、私の前にはさらに二冊の文献がある。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と『続日本紀』である。この文献解釈により、法興寺はさらに真の姿を現してくるであろう。現在、私はその分析を完了しつつある。いずれその発表の機会が与えられれば幸いである。

 

 注

(1) 天智八年と同九年の記事は、法隆寺火災の記事である。両記事は重出ともとれるが、前者が冬、後者が夏の記事であるところから、法隆寺が、二度火災にあったと考た方がよいであろう。八年に一部火災が発生し翌年の火災では法隆寺が全焼したのである。

(2) 岩波の註には、この諸寺を「これまで飛鳥寺・斑鳩寺のように地名を称していたのを、大官大寺にならって元興寺・法隆寺などの漢風の名称を定めたものか」と解説している。しかし、元興寺の名称は推古紀に登場するのであって、この時点での改定であるはずがない。また法興寺は大まかに見て、漢風名称(実際は九州年号名称)から、地名名称に変化しているのである。この註は書紀の法興寺記述情況を正しくふまえていない。

(3) 神戸市丹生山明要寺の九州年号は丸山普司氏の発見により知られるようになった。

(4) 法興年間は五九一年から六二二年まで続くが、その間畿内で作られた寺院に「法興」と称された寺院があったようである。斑鳩に今は遺跡だけになって残る中宮寺(小字名旧殿の地にある)がそれである。史料に次のものがある。
「法興寺、本元興寺事歟、中宮寺是也。」(伊呂波字類抄)
「法興寺日鵤尼寺元興寺本也」(太子伝古今目録抄)
「法興寺双名イカルノ尼寺」(拾遺記)
 中宮寺が法興寺と誤認されたということは考えられない。書紀に出現する当代一の寺院が飛鳥だという認識は後世人にとっても常識である。ならば考えられることは、「中宮寺も法興寺とよばれた時期があった」その理解である。中宮寺も法興年間に建築され、それ由に「法興寺」を称していたのである。
  当時の中宮寺は現在では土壇だけになっているが、最近再発堀調査が行われ、興味ある結果が報告されている。他の機会にその考察を行いたい。

(5) この「仏刹」について、岩波日本古典文学大系の註では、刹を旗竿に、仏刹を寺院の意味に解して、仏刹イコール飛鳥寺にしているがそれはおかしい。推古元年記事に、「仏の舎利を以て、法興寺の刹柱の礎の中に置く。丁巳に、刹柱を建つ。」とあり、明らかに「刹柱」は仏塔の心柱を意味している。ならば「仏刹」は塔を指していると考えた方が自然ではないだろうか。また、その塔は飛鳥寺の塔ではない。馬子建造の「大野丘の北塔」を指している。
 推古の詔の文脈からしてもそれ以外は考えられない。

(6) 調査結果は『飛鳥寺発堀調査報告』(奈良国立文化財研究所)に詳しい。

(7) 「飛鳥大仏の周辺」毛利久〔『仏教芸術』六七号、『日本仏教彫刻史の研究』(法蔵館一九七〇)〕
  「飛鳥寺問題の再吟味 ーーその本尊を中心として」フランソワ・ベルチェ(『仏教芸術』九六号)

(8) 「飛鳥寺の創立に関する問題」大橋一章(『仏教芸術』一〇七号)へ

(9) 四天王寺形式
   北に金堂、南に塔を配して、金堂と塔が南北一直線に並び、その周りを回廊が囲む形式、四天王寺、山田寺など、日本の古代寺院に多く見られる形式。

(10) 「(弥勒石像)今元興寺の東堂に在り。」(扶桑略記)
    「(弥勒石像)今、古京の元興寺東金堂にあり。」(聖徳太子伝暦)
    「弥勒石像もと元興寺東金堂に安置す。」(七大寺巡礼記)



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