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市民の古代第6集 1984年 市民の古代研究会編

九州王朝の落日

下関市 前田博司

大宰府典筑紫史益への詔について ーー九州王朝の落日(一)

 『九州王朝」が存在するとして、その終末が何時かが問題となる。
 「三国史記」の新羅本記文武王十年( 670)に『倭国が国号を日本と改めた」とあることから、この頃をもって「九州王朝」の滅亡の年とするか、また「冊府元亀」の長安元年( 701)に「日本国、使を遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す」とはじめて日本国の名が出るその頃とするかの二つが考えられる。
 ある王朝の終期を、その政権が実権を失った時とするか、あるいは名目的にでも政権が存続していればその期間をも算入するかは、多くの見解が分かれるところであろうが、殊に「九州王朝」にあっては、西暦六六三年の白村江の戦における倭軍の大敗とそれに伴う「九州王朝」の主君筑紫君薩夜麻の捕囚が、実質的な王朝衰亡の主因となったことはいうまでもない。ところで、その後の「九州王朝」がどうなったのか。其の軌跡を文献に求めることはできないものだろうか。
 「日本書紀」の持統天皇五年正月丙戌(十四日)に「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」とある。このことから筑紫史益(つくしのふびと まさる)という人物が、西暦六九一年を遡ること二十九年の西暦六六二年以来、筑紫大宰府典(ふびと)の職にあることが知られる。
 西暦六六三年といえば白村江での倭軍大敗の年である。この注目すべき年から二十九年間、大宰府典の職にあったというか、留め置かれたというか、ともかくその在職二十九年間の忠誠に対して、この年に至って彼は何故か特に報奨が与えられている。
 この詔勅のとき、筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、「日本書紀」天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。
 典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。
 更に、「清白忠誠を以て」という文言がその詔の中に見えるが、ここに見える「清白」という言葉については、西暦六五八年四月に阿陪臣が蝦夷を征伐した際、蝦夷の恩荷が「清白心をもちて朝に仕官らむ」と誓って居り、西暦六八九年五月には新羅の使が「清白心を以て仕え奉れり」と弁明し、さらにその後にも「清白を傷りて」云々とある。こうした例からみて、「清白」という言葉の裡には、敵対の意志無く服従を誓うといった重要な意味が籠められて使われていることがわかる。国内の諸臣たちや豪族に対して「清白」という用語は使われていない.「清白」という言葉が公文書である詔勅の中に用いられているということは、「近畿王朝」にあって九州が新羅や蝦夷と同等の立場にあることを示している。
 「日本書紀」の詔によれば、筑紫史益に対し、特にその「清白」な忠誠をよみして報奨を与えているのはその文面上明白であり、筑紫史益はその「清白」な忠誠によって(さらには、今後も引き続き「清白」な忠誠を期待して)この時始めて食封その他の物があたえられた。彼が、食封五十戸を得たのは此のときが始めてであるのは(それが食封の加増ではなく、新規に与えられた事実は)、文の前後から明らかであり、これまでの彼の位階と比べて奇異の感がする。
 筑紫君薩夜麻が白村江の戦で唐の軍に捕われて以後、主君を失って混乱した「九州王朝」の立て直しに対して「近畿王朝」側の政治的干渉が露骨に行なわれ、或いは『九州王朝」の事実上の後継者とは別個に『近畿王朝」の傀儡政権的な有力者を擁立し、大宰府には親「近畿王朝」色の強い連絡役的存在の人物を登庸したであろうことは当然に考えられ、該当する有力者の一人として、筑紫史益が筑紫大宰府典の職に任命されたのであり、そうした立場ゆえに名目的ながら大宰府の長官とほぼ同程度の位階を与えられたのではなかろうか。
 彼がその職に携わっていた間に、当地ではいろいろな変革が行なわれた。例えば西暦六七〇年の庚午年籍の作成に彼が実質的に携わっていたのは、続日本紀の神亀四年( 727年)の「秋七月丁酉筑紫諸国庚午籍七百七十巻以官印々之」とあることによっても間違いの無いことであろう。
 要するに白村江以後は、形式的には(つまり対外的には)「九州王朝」の存在が認められるものの、実質的には「近畿王朝」に統合されてゆく過程にあったといえよう。西暦六七一年に筑紫君薩夜麻が帰還したとき、彼が「九州王朝」の実質的な王者として迎えられたかどうかは疑問である。
 形式的にもせよ「九州王朝」の存続を「近畿王朝」が認めていたのは何故か。それは対外的な理由しかない。新羅については比較的に早く、西暦六七〇年に日本国の成立を承認させ得たのだが、唐はかたくなに倭国即ち「九州王朝」のみを日本列島の国家として認める態度をとり続け、漸く則天武后が唐の実権を取って以後の西暦七〇一年に日本国即ち「近畿王朝」が認められたのであって、その間は唐に対しては倭国の名称をもって外交や貿易をせざるをえなかった。「九州王朝」が細々ながらも続き得たのはそうした対外的な理由によるものであった。
 中国による日本国即ち「近畿王朝」の公式承認によって、「九州王朝」の存在価値は失われ、以後筑紫君の一族は在地の一豪族でしか無くなってしまう。大宰府典の職位もまた以後急速に低下してゆく。
 この時以後、筑紫史益の名は史書から姿を消す。天平十年( 738年)駿河国正税帳に「竺紫史君足」とあるが、このことから筑紫史益らの一族は九州の故地を去らなくてはならない何等かの事情のもとに、此の地に至ったものと考えられる。
 筑紫史益に対する詔書は、落日の「九州王朝」への最後のはなむけであったといえよう。(前田s博司1983.11.17)

「九州王朝」における白鳳以後について

  ーー九州王朝の落日(二)

 いわゆる「九州年号」において使用されている年号は、そのほとんどが、十年未満であり、西暦五四一年に始まる「同要」の十一年と、西暦六六一年に始まる「白鳳」の二十三年(いずれも最終年を含まない)の二つがわずかに十年を超えている。
 平均して、一年号が五・六年に満たないなかにあって、「白鳳」の二十三年間は特に注目すべき存在である。なぜ「白鳳」だけが改元することなく続きえたのかを考えるについて、では「白鳳」年号の間にどのような事件があったのかを探って見よう。

西暦六六一年 白鳳改元(辛酉の年)
西暦六六三年 白村江の戦に敗れ筑紫君薩夜麻ら唐に捕らわれる
西暦六六五年 長門筑紫に山城を築く
西暦六七〇年 庚午年籍の作成に着手
西暦六七一年 筑紫君薩夜麻帰国
西暦六七二年 壬申の乱
西暦六七八年 筑紫国大地震

 こうした大事件がありながら、『白鳳」年号が改元なしに永年続きえたのは何故だろうか。
 「白鳳」が他の年号を含めて、後世の創作であるならば、「白鳳」だけをこのように長期にわたらせるような不自然な作りかたはしなかったであろう。その間だけ手抜きをして二十三年も同一年号にとどめておくような作りかたは考えがたい事である。
(以後のわが国の年号にあっても「白鳳」を越える長期のものは、延暦(782-80)正平(1346 -1370)応永(1394 -1428)と明治、昭和を数えるのみである。)
 この場合考えられることは、改元を阻害する何等かの要因の存在、たとえぱ改元を指令する者或いは機構が弱体化しているか、改元を阻止するヨリ強い他の権力が作用しているか、またはその両方がからみあっているかであろう。西暦六六一年の改元は、おそらく「辛酉革命」説によってなされたものと思われ(「九州年号」はすべて、「辛酉革命」説をうけて、同要( 541)、煩転( 601)、白鳳( 661)と改元されている。一般の年号にあっては、平安期の延喜( 901)に始めて「辛酉革命」説による改元が行なわれ、以後維新に至るまでその例による。「辛酉革命」説による改元がこれまでの『九州年号」偽年号説の論拠の一つなっているが、政権が異なる立場では状況は自ずから異なってくる事は言うまでもないことである。)、おそらく「九州王朝』の天子である筑紫君薩夜麻によって詔されたことだろうが、酉暦六六三年の白村江の戦いにおいて事実上倭軍の総指揮官であったと考えられる薩夜麻が唐の捕虜となったため、西暦六七一年に帰国するまで「九州王朝」においては、いわば主君不在の状況が続いたことであろう。
 その間は、当然ながら改元しようにも出来ようはずはなく、しかも「九州王朝」の首脳部が捕らわれの身であるなどで弱体化している間に「近畿王朝」の勢力が大きく覆いかぶさってきて、西暦六七〇年頃には後に庚午年籍と称する戸籍の作成が「近畿王朝」の主導下に実施され、薩夜麻が漸く帰国できた時にはもはや「九州王朝」の実質的な実権は「近畿王朝」の管理下に置かれているといった状況にあったものと思われる。
 では、何故「近畿王朝」が弱体の「九州王朝」を一気に併合してしまわなかったのか。おそらく、「近畿王朝」としてはそうすることを望んだことであろうが、周辺の国々の圧力によってそれができなかったものと考えられる。
 殊に唐にとっては、何としても認められないことであった。百済の滅亡後、親「唐」的な百済国を再建するつもりの唐のプランにたいし、新羅は強硬に自国への併合につっ走り、ついには唐の軍勢を朝鮮半島から追いだしてしまうという挙にでた。唐に対抗するためには、まず背後を固めておくことが必要という立場から、新羅は西暦六七〇年に「近畿王朝」すなわち日本国が日本列島の主権者であることを承認した。「三国史記」の新羅本紀の文武王十年十一月に「倭国が国号を日本と改めた」とあるのは、このことを指している。
 いきおい、唐としては、対抗上、従来の「倭国」郎ち「九州王朝」の主権の存続を固執し、それ以外の政権の存在は絶対に認められないという外交的態度を取らざるをえない。このため、「近畿王朝」としては、強大な唐の勢力と争うことの不利益を考えて、唐に対する外交上の窓口的存在としてやむなく「九州王朝」の形式的存続を許さざるをえなかったであろう。ただし、年号の改元については、その権限を認めなかったものと思われる。このことが、結果として「白鳳」年号の永続という事実に繋がったものであろう。要するに、「白鳳」年号の永続は、実際にはその途中以後「九州年号」が中断していた期間であったと理解したほうが適当と思われる。
 西暦六八四年、「九州王朝」は、突如として「白鳳」年号の改元を行ない、新年号を「朱雀」と号した。この年に何があったのか。恐らく改元を決意するほどの、何等かの重要な理由が生じたにちがいない。直接的には「九州王朝」の領域内で朱雀が捕えられたといった嘉祥によって改元されたこととは思うが、真の理由は他にあったはずである。
 この年、唐においては、則天武后が帝を廃し、自ら政権を樹立した。その政策は従来の唐政権の人脈否定に始まり次々に制度が改められていった。外交の面でも当然のことながら旧弊を排して一新した態度で臨んだことが考えられ、このことは今までの日本列島への外交方針も大きく転換したことを想像させる。従来唐のバックによってかろうじて存続してきた「九州王朝」が、存廃の岐路に立たされたといったような重大な危機感を抱いたのも過言ではあるまい。もはや、唐からも見棄てられようとしている「九州王朝」が覚悟を決めて、自立の道を踏み出したのが、この「朱雀」改元ではなかろうか。いわば「九州王朝」の蘇生を求めて、この年改元という主権行使に至ったものであろう。あるいは、天武天皇の末期ごろから、「近畿王朝」と外交上やや疎遠になりつつあった新羅が、その反動として「九州王朝」に何等かのアプローチを図った、ということも考えられることである。持統天皇即位以後「近畿王朝」と新羅との不和が著しくなっていったのは史書の示す通りである。
 「日本書紀」によれば、西暦六八五年十一月、新羅は官位第四位波珍食*の金智祥、第五位大阿食*の金健勲を派遣し、「政を請」して(他国の政冶に注文をつけて)いる。新羅の使節が来朝するのに、その理由は「朝貢」「進調」が殆どで、「請政」( 676,685)「奏請国政」( 687,695)のような例は四例に過ぎないうえ、このように使節の官位が異常に高いのは、天皇即位の慶賀又は弔喪の時の使節以外には見受けられないことである。

食*は、二水編に食。JIS第4水準、ユニコード98E1

 当時、天武天皇は、「朱雀」の元年(西暦六八四年)二月に三野王等を信濃に派遣して地形を調べさせている。書紀には「是の地に都つくらむとするか」とあり、翌年には実際に信濃に行宮を作らせている。いったい、何のために信濃遷都を計画したのだろう。また、西暦六八五年十一月には、「儲用の鉄一万斤を周芳総令(山口県防府か)の所に送」し、「筑紫大宰、儲用の物」「鉄一万斤、箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す」と西日本に何か異常事態が起こることを。予想しているように感じられる。
 七世紀の後半期において新羅の我が国に対する遣使の官位は、せいぜい第八位程度にもかかわらず、この時、新羅が、異常なほど高官位の使節を派遣して、日本の政治に干渉したのは、何故だろうか。しかも、このような、いわば無礼な使者に対して、翌年の四月には「新羅の客等に饗たまわむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり」といった特別な待遇までもしている。このような新羅のこわもての姿勢と、それに対する天武天皇側の異常ともいうべき対応の陰に、当時の「九州王朝」の出方に対する「近畿王朝」側の反応のさまを窺うことができる。さらに、その十二月、「筑紫に遣せる防人等、海中にただよいて、皆衣裳を失えり。即ち防人の衣服の為に、衣四百五十八端を以て、筑紫に送り下す」という書紀の記事は、いったい何事を指すのだろうか。何かが起こった、あるいは、何かが起こりかけたにちがいない。「朱雀」(西暦六八四年)「朱烏」(西暦六八六年)の改元と、西暦六八七年の新羅の「請政」の遣使、。西暦六八七年の新羅の「奏請国政」の遣使とは何等かの関係があるように思われるのだが如何なものだろうか。あるいは、この間に、一時的ながらも「九州王朝」実権奪回があったのかもしれない。
 大宰府典即ち大宰府の次官として白村江の大敗の年にその職に就いた筑紫史益に対し、その二十九年にも亙る「清白き忠誠」を嘉みして特に詔芽を下されたのが西暦六九一年のことであり、その詔に「清白」が強調されていることから、当時大宰府の域内すなわち「九州王朝」内において、「近畿王朝」に対する「清白」な忠誠を疑わせる何等かの不穏な動きがあったということは充分に考えられるところである。もっとも、残念ながら、書紀にわずかにうかがわれる、「九州王朝」の事実上自立の動きは、以後長くは続かなかったようである。
 「朱鳥」( 686)年号は、天武天皇の死去と係りあうとしても、「大和」( 695)、「大長」( 698)の年号には、いずれも「大いに和し」「大いに長く」と、「九州王朝」の存続を祈求する願望が込められているように感じとれる。それまでの「九州年号」に「大」の字が一度も使用されていないにもかかわらず、終末の頃にあたって続けて用いられたのは単なる偶然だろうか。(「大和」の改元と、西暦六九五年の新羅『奏請国政」の遣使とも、何等かの関連が考えられるのではないだろうか。)
 「旧唐書」倭国日本国伝に「日本国は倭国の別種である。其の国は日辺にあるので、故に日本をもって名としている(中略)。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。」とあるのは、最終的に倭国すなわち「九州王朝」が、日本国即ち「近畿王朝」に併合されたことを如実に示している。
 西暦七〇一年に「冊府元亀」が記す「日本国、使を遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す」によって、その年以降日本列島の主権者は「近畿王朝」であることが唐によって正式に承認され、それとともに「九州王朝」は、ひっそリと歴史の舞台から退場していったのである。
 この年、文武天皇は始めで以後継続する元号を立て、「大宝」と号したことが「続日本紀」に「建元為大宝元年」(三月二一日の条)と記されている。この時期、「宝」という文字に垂要な意味があったことは、さきに古田氏が詳しく述べられたところである。

(註)下関郷土会発行の「郷土」第二四号(昭和五十三年五月)所載の「長門は国のさいはて ー「九州王朝」説による「穴門」史試論ー」(拙論)では「白鳳」年号について次のように述べたことがある。
“「九州年号」の「白雉」につずく年号は「白鳳」であり、西暦六六一年から六八四年までの長期間にわたって存続している。「九州年号」の他の年号が、すべて十年以内のものでしかなく、全体として、平均して一年号五、六年であるのに比べて「白鳳」のみが異常に永いのはことに興味深い。
 その間、西暦六六二年の白村江の大敗に筑紫君薩夜麻が唐の捕囚となり、西暦六七一年にようやく帰国するのだが、すでに薩夜麻にとって年号変更(改元)の権能が失われていたものか、あるいは、唐への服属の意を表して年号を事実上廃していたものか、いずれにせよ、こうした理由のため、「白鳳」が、後日、形の上で長期間存続した格好になったものと思われる。”
(前田博司 1983.11.19  1984.7.26増補)

令制雅楽寮に記す「筑紫諸縣舞」について

 昨今、話題となっている「筑紫舞」が、奈良・平安期の宮廷においてどのような推移をたどっていったかを文献によって探ってみよう。
 「続日本紀」巻十一の聖武天皇天平三年(西暦 731年)七月廿九日に『雅楽寮ノ雑楽生ノ員ヲ定ム。大唐ノ楽卅九人。百済ノ楽廿六人。高麗ノ楽八人。新羅ノ楽四人。度羅ノ楽六十二人。諸縣ノ舞八人。筑紫舞ノ廿人。其大唐ノ楽生ハ夏蕃ヲ言ハズ、教習ニ堪タル者ヲ取ル。百済高麗新羅等ノ楽生ハ並ニ当蕃ノ学ニ堪タル者ヲ取ル。但度羅楽、諸縣、筑紫ノ舞生ハ並ニ楽戸ヲ取ル。」と記し、諸縣の舞、筑紫の舞などの名が見える。
 「令集解」巻四に記す大属尾張浄足説は、天平年間ごろの事と考えられているが、雅楽寮楽人の内、『大属尾張浄足説。今寮に有る舞曲左の如し。久米舞大伴琴を弾き、佐伯刀を持て舞う、即蜘蛛を斬る、只今琴取二人、舞人八人、大伴佐伯不別也。五節舞十六人田舞師、舞人四人、倭舞師舞也。楯臥舞十人、五人土師宿禰等、五人文忌寸等、右甲を着け并に刀楯を寿つ。筑紫舞廿人、諸縣師一人、舞人十人、舞人八人甲を著け刀を持つ、禁止二人。」云々とあるように筑紫舞は二十人の舞人による舞、諸縣舞は諸縣(舞)師に率いられた舞八から十人による甲を着け刀を持った勇壮な舞であった。
 大宝令以下の諸令において、雅楽寮の諸楽師例えば唐楽師、高麗楽師、百済楽師、新羅楽師等と並んで舞師の名が見えるが、「令義解」巻一職員令に記す雅楽寮に「舞師四人。雑ノ舞ヲ教ルコトヲ掌ル」とあり、以下いずれも『類聚三代格』の記載には、
 (1) 同書巻六の天平勝宝九年(西暦 725年)八月八日の大政官謹奏に、「諸縣舞師、堕羅舞師。右准雅楽諸師従八位官」とある。
 (2) 同書巻四の大同四年(西暦 809年)三月廿一目の太政官符に「舞師(四人)。筑紫諸縣師(在此中)」(四人、據令集解補)(在此中三字本書闕今據令集解補之)、とある。
 (3) 同書巻四の弘仁十年(西暦 819年)十二月廿一日太政官符に「定雅楽諸師数事。舞師四人。倭舞師一人。五節舞師一人。田舞師一人。筑紫諸縣舞、師一人。」(按舞師四人下注令集解作倭舞師一人呉舞師一人新羅舞師一人筑紫諸縣舞師一人)、とある。
 (4) 同書巻四の天長五年(西暦828年)十一月廿五日の太政官符に書生十人を置くかわりに、雅楽寮の歌人五人、筑紫諸縣舞生五人を削減する、とある
 (5) 同書巻四の承和二年(西暦 835年)二月十九日の太政官符に、書生十人を置くかわりに、田舞生五人、筑紫諸縣舞生五人を削滅する、とある。
 (6) 嘉祥元年(西暦 848年)九月廿二日太政官符に「倭楽生百卅四人。減九十九人。定卅五人」で、歌人、笛生、笛工、舞生、田舞生、五節舞生に続いて「筑紫諸縣舞生三人。元廿八人」という記載がある。

 これらの「類聚三代洛」にあっては、「続日本紀」などに見える「筑紫舞」の名は無く、かわって「筑紫諸縣舞」の名が出てくる。従って、八世紀の半ばころまでは「筑紫舞」と「諸縣舞」の二つが、それぞれ存在していたものが、やがて統合され、九世紀の治めには、もはや「筑紫諸縣舞」に転じていることがわかる。
 「諸縣舞」については、岩波書店の坂本太郎他校注の「日本書紀」によれば、景行天皇十八年三月の条にある「諸縣君泉媛」の注として「諸県は、日向国西部の地名。延喜民部式・和名抄に同国諸県郡がある(中略)。なお、令制雅楽寮に雑楽の一つとして伝えられた諸県舞は、この部族の歌舞であろう。」とある。諸縣の名は「日本書紀」応神天皇十一年是歳の条にも、日向国の「諸縣君牛諸井」の娘、髪長媛として記載がある。また「旧事紀」巻第七には「豊国別命。日向詣縣乃等祖」とあり、「日本書紀」応神天皇十三年の一書に云わくとして「日向諸縣君牛」、「古事記」応神天皇の条に「日向国諸縣君之女名髪長比売」、同書仁徳天皇の条に、「日向之諸縣君牛諸之女髪長比光」とあるように、古くから知られていた地名であった。
 こうした記載から「筑紫諸縣舞」について、筑紫は九州を総称する古称とし、「諸縣」を地名と解して、日向の諸縣郡に住む部族の歌舞としたものと思われる。しかし、前述したように記紀などに出てくる諸縣は、いずれも日向国の諸懸とあって「筑紫」の諸縣ではなく、寡聞にして日向の諸縣を「筑紫」の諸縣と記載した例を知らない。
 「古代の日本」(角川書店)所載の「芸能の伝承」では、記紀の諸県の君についての伝承を踏まえて、諸県君の大和朝廷にたいする朝貢芸能として、鹿舞が行なわれていたのではないかと論じ、「諸縣舞」を吉野の山人による国栖の舞と同様に扱っているが、確とした証拠はない。
 諸県部に隣る鹿児島県には、古くから「隼人舞」という歌舞が存在していた。「続日本紀」養老元年(西暦 717年)四月庚午条に「天皇西朝ニ御ス。大隅薩摩二国ノ隼人等、風俗歌舞ヲ奏ス。位ヲ授ケ禄ヲ賜ウコト各差有」とあるように、「隼人」たちによる風俗歌舞が知られているが、日向の諸県郡と隼人の地域とは地理的に近いことから、もし「諸懸舞」がこの地の歌舞であるとするならば、あるいは「諸縣舞」と「隼人舞」とは類似する歌舞ではないかと想定できないこともない。
 しかし「隼人」については、『令義解」巻一職員令の隼人司に「正一人。隼人ヲ検校シ、及名帳、歌舞ヲ教へ習ハシ、竹ノ笠ヲ造リ作ル誓ヲ掌ル」云々とあって、治部省所属の雅楽寮とは別個の、衛門府の隼人司の所属とされている。すなわち、「筑紫諸縣舞」が雅楽として扱われる、いわば専業の舞であるに対して、隼人舞は威嚇のための呪文としての舞として扱われていることが決定的に違っている。
 令に規定された雅楽の舞師、舞生が、唐楽、高麗楽、百済楽、新羅楽、度羅楽など諸国の楽師、楽生の中にそれぞれ舞師、舞生を置き、それと並ぶ格好の日本国側の舞師、舞生の中に「筑紫諸縣舞師」「筑紫諸縣舞生」の名が見えること、また「続日本紀」や「令集解」など初期の文書に、「筑紫舞」「諸縣舞」と別個に記されていることなどから見て、この「諸縣」は、日向の諸縣郡といった僻遠の一地方を指すものではなく、九州一円の諸「県」を指したものと考えられる。これまで、「筑紫諸縣舞」を特定の地名の「諸縣」地方の舞、あるいは「諸縣」君の、族の舞としてきたものだが、これを「筑紫」の諸「県」の舞と解しては如何であろうか。
 ここで思いだされるのは、古田武彦氏がその著「よみがえる九州三朝」に紹介されている「幻の筑紫舞」である。あの「筑紫舞」が、あるいはこの令に記す「筑紫舞」それに続く「筑紫諸縣舞」の系譜に列なるものではなかろうか。
 古田氏が力説されている「九州王朝」が、かつてこの九州の地に存在したとすれば、この王朝自体の舞楽も存在していたはずであり、それが「筑紫舞」であった、と言えよう。古田氏は、同書の中で、「当然九州王朝にもまた、中国への模倣としての宮廷舞楽が存在した」「それは、周辺の領域の舞楽を九州王朝に奉納する、という形をとっていろはずである」「それは同時に九州王朝の中心たる、筑紫における舞楽、という形をとっていると思われる」と主張されている。古田氏の説によれば、「九州王朝」は七世紀の後期ごろに滅びたものとされるが、「九州王朝」の舞楽も、王朝の滅亡と運命を共にしたのだろうか。
 かつて九州の各地で行なわれていたはずの歌舞の数々、例えぱ「筑紫風土記」の肥前国逸文(「万葉集註釈」巻第三)に記す「杵島曲」といったものも、「九州王朝」に対して、いわゆる「朝貢芸能」として演じられたことであろうし、こうした九州の地方の舞を総称して、「九州王朝」では「諸縣舞」と称していたのではないだろうか。「九州王朝」において、地方の独立した区域を「県」と呼んでいたことは、「風土記」それも「筑紫風土記」と称される古風土記などの記載によって明らかである。こうしたことから、「九州王朝」の舞楽は、(外国の舞楽は別として、)「筑紫舞」と呼ぱれる宮廷舞楽と、「諸縣舞」と称する周辺の領域の舞楽の二つから成リたっていたものと考えられる。
 七世紀の末頃、ついに「九州王朝」が「近畿王朝」に併合されると、「九州王朝」側の舞楽もそのままに「近畿王朝」に引き継がれ、その際「筑紫舞」と「諸縣舞」の区別が存するままに「近畿王朝」の舞楽のうちに包含されたのではないだろうか。やがて、時代の推移とともに舞楽が整理されてゆくにつれて、「令集解」の段階までは、「諸縣舞」と「諸縣舞」とは別個の舞楽であるのが、八世紀の後半ごろに「筑紫舞」と「諸縣舞」とが一つに併合されて『筑紫諸縣舞」とされた(「類聚三代格」大同四年太政官符以後)といった経過をたどったものと想定される(「筑紫」の舞と、日向の諸県郡の舞とを一つにするのは理屈に合わないことと思われる)。もともと「令集解」の記枚から推察されるように、「筑紫舞」は多人数の舞人を要する多種多彩の華麗な舞、「諸縣舞」は甲を着け刀を持って舞う勇壮な舞といった厳然たる区別があったものが、時代の推移とともに、そのいずれもが、単に九州地方の舞楽として混同されていったものであろう。すなわち、「筑紫舞」プラス「諸縣舞」、それが「筑紫・諸孫舞」であった。ともかくも、他国伝来の諸雅楽と並んで、雅楽寮において九州の舞楽が雅楽の種目の一つとして代々伝授されてきたのはそれなりの理由があったはずである。
 このような経緯から見て、「笈紫舞」「諸縣舞」あるいは「筑紫諸縣舞」といったものが、単なる九州の辺地の歌舞であったとは考えがたく、令において「雑ノ舞」とは云いながらも、「正舞」と共に雅楽の一つとして取り扱われるほどに芸術的に充実し、充分に大宮びとたちの鑑賞に価する舞楽であったからこそ、雅楽寮において教習されるものであり、加うるに、これらの舞楽が、かつての「九州王朝」伝来の舞楽であったがゆえに、とりわけ重視されてきたのではないだろうか。
 嘉祥元年に「倭楽生百卅四人」を、三十五人に減員した際、「筑紫諸縣舞生」を「元廿八人」から僅か三人に減じているが、このことは、かつての「九州王朝」の記憶が次第に薄れてゆき、今や一地方に過ぎなくなった九州の舞楽を、いまさら雅楽寮において、習得させる必要性がなくなったためと考えられよう。さらに時代が下ると、ついには「筑紫諸縣舞」それすらも公式の場から除かれてしまい、くぐつ師などわずかに一部の職業階層の者のみが、その伝統を受け継ぎ、今に至ったものと考えられる。昨今、話題になっている「筑紫舞」はかつて雅楽寮に伝わる「筑紫舞」、「筑紫諸縣舞」のかすかな末裔ではないか、あるいは古田氏が主張されるように「九州王朝」から直接に伝来された「原筑紫舞」の後裔なのか、今となってはもはや判然としない。

*註 「令集解」「令義解」「類聚三代格」などには、「舞」を「舞*」とするが、ここでは「舞」に統一した。

舞*は、人編に舞。JIS第4水準ユニコード511B

後註(「常陸国風土記」の行方郡に「杵嶋の唱曲を七日七夜遊び楽しみ歌い舞いき」とある「杵嶋の唱曲」が「肥前国風土記」の逸文にある「むらざとの土女、酒をたずさえ、琴を抱きて、歳ごとの春と秋に、手を携えて登りみさけ、楽飲み歌い舞いて、曲尽きて帰る」「是は杵島曲なり」とある現在の佐賀県の「杵島曲」と同様の歌舞と考えられるのはなぜだろうか。九州と同様の装飾古墳が、関東平野の沿岸一帯に分布していることなどからも、九州と東国との関連がうかがわれる。それはともかくとして、このとき「常陸風土記」に見える国栖の名に、『夜筑斯」(やつくし)とあるのは、九州の「筑紫」とは関係のない、偶然の一致であろうか。)(前田博司 1983.11.29 1984.7.26 増補)

山口県内の文献に見える逸年号

使用年号 西暦 文献名 記載箇所
 1、善記元年 五二二

「寺社由来」
熊毛宰判呼坂村
 熊毛神社
(現 熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)

「人王二十七代継体天皇御宇善記元壬寅歳、法雲宝唱、来朝之時持来、大戸道太神之宝殿籠置」

   

「長門二ノ宮忌宮神社史料」
二宮御縁起
(現 下関市長府)

「日本年号始善記八幡御示現豊前国宇佐郡皇子嶺場」
 2、僧聴三年 五三八 「風上注進奄」奥阿武宰判嘉年村 森山八幡宮八幡大菩薩御縁起
(現 阿武郡阿東町大字嘉年上)
「人王第三十代欽明天皇位に即給ひて十二年に当て始て神明に顕給ふ、大宮司の補任帳には僧聴三年共云ヘリ」
    「寺社出来」美禰郡綾木村
 綾木鎮守縁起
(現美東町大字綾木)
「人王第三十代欽明天皇位に即給ひて十二年に当て、始て神明に顕給ふ、大宮司の補任帳に僧聴三年共云リ」(儒聴三年とあるは転記の際の誤リか。)
 3、貴楽元年 五五二 「寺社證文」南明山乗福寺
(現 山ロ県大字大内御堀)
「此御宇吾朝善光寺如来渡給、日本仁王三十代欽明天王之御治天貴楽元年奉渡者也」
 4、智僧五年 五六九

「寺社由来」舟木宰判須恵村の内壁田村松江八幡宮
(現 小野田市)松江八幡宮新鐘銘

「松江自百剤国智僧五己丑此山霊殿崇観」(「風土注進案」にも同釣鐘銘文の記載がある。)
5、智僧六年
・金光元年
五七〇 「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
 熊毛神社
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)
「羅神秘有叡聞天子、神鏡之光其感、詔而知僧六年改金光元年也」
 6、賢称二年 五七七 「寺社由来」奥山代宰判阿賀村
 崎所大明神縁起
(現玖珂郡美和町大字阿賀)
「寺社由来」奥山代宰判阿賀村崎所大明神縁起(現玖珂郡美和町大字阿賀) 『季号賢称丁酉とかやの時、もろこし百済国に(中略)百済琳中皇帝中林聖家之太子こころさし有て五ケ年の後、この和国にわたらんとおほしめす」
7、賢称六年 五八一 「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
熊毛神社
(現 熊毛郡熊毛村大字呼坂勝間)
「其後賢称六年辛丑之八月十一日、遠見八播之神鏡、亀井山大戸道太神之神木飛来」
8、鏡常元年 五八一 「寺社由来」奥山代宰判阿賀村
 崎所大明神縁起
(現玖珂郡美和町大字阿賀)
「五ケ年を期し鏡(けん)常辛丑之季七月下旬、琳聖太子防浜に来朝し給ふ」
9、鏡常三年 五八三 「寺社由来」熊毛宰判呼坂村(勝間村)神光院
(現 熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)
「開山基空尊者(中略)同(敏達)帝御宇鏡常三年癸卯三月十八日入涅槃」
10、鏡常五年 五八五 「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
 熊毛神社
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)
「其後鏡常五年乙巳六月晦日、従同帝奉幣之勅使参詣之時、玉扉自開」
11、勝照元年 五八五 「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
 神光院
(現 熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)
「二代基法論師 但、勝照元年乙巳六月八幡宮御本地仏三尊の形像奉彫刻事縁起ニ相見候」
    「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
 熊毛神社
(現 熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)
「勝照元年乙巳六月仕神託令閉戸、諸人不能再尊像拝」
12、防勝三年 五八七 「寺社證文」南明山乗福寺
(現 山ロ県大字大内御堀)
「太子十六歳用明天皇二年防勝三隼丁未摂州玉造岸上建立今之天王寺也」(防勝の年号他書に見えず)
13、(勝煕四年) (五八八) 「風土注進案」熊毛宰判塩田村
 石木山神護寺
(現 熊毛郡平生町大字大野南)
「寺伝ニ曰、当山は異域勝煕四年戊申本朝人王第二綏靖天王即位五年初春上漸日三夜、防陽の南畔海中金輪際より湧出ける霊地なり」(註。中国に該当の年号なし。「九州年号」の勝照四年が戊申であり、之に相当するか。)
14、端正元年 五九三 「風土注進案」船木宰判西須恵村
 万福寺子持御前の禄記

「我朝人皇三拾四代推古天皇御宇端正元癸丑年ここなる銀鎖岩の上に鎮座し給ふ」
「足引宮は彼の飛車に打飛て大日本国長州厚狭郡本山村に到着あり、頃は推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻とは聞へけり」

15、告貴四年 五九七 「寺社證文」南明山乗福寺
(現 山口市大字大内 御堀)
『凡聖徳太子二十六歳之御時、推古天皇五年告貴四年丁巳夏四月、百済国聖明皇帝之第一王子奉号阿佐太子、為拝見吾朝之生身救世観音来朝」
16、光充元年 六〇五 「寺社證文」防州吉敷郡山口仁壁
 三宮伝記
(現山口市三の宮二丁目)
「三宮、往古ハ宮野ノ内宮ノ前ト申所二鎮座ノ処二(中略)、宮ノ前ヨリ終夜玉光飛通り奇瑞有之ニヨリ、今ノ社地江光充元年(朱書『光充元年不承及」)二宮殿ヲ遷サレ候事」
17、定居元年 六一〇 「大内譜録長門記」 『琳聖太子(中略)本朝二渡ラセ玉フ比ハ推古天皇十九年辛本暦号定居元年トカヤ」
「干時推古天皇十九年幸未暦なり百済国の定居元年とかや」
    同書(菊川本) 「干時推古天皇十九年幸未暦なり百済国の定居元年とかや」
    「風土注進案」三田尻宰判牟礼村旧跡仮屋村
(現 防府市大字牟礼)
「定居元年未年(中略)同十九年未年洋海を漕渡り三月二日周芳国多々良浜に着玉ふ」
    「風土注進案」山口宰判恒富村
 願成寺・三宝荒神
(現山口市大字黒川高倉荒神社)
「高倉山三宝荒神の尊像は琳聖太子御来朝の節、被備船中是守護神ニ、定居元年幸未三月二日佐波之郡多々良之浜え御着船被成」
     「風土注進案」山口宰判字野令村
 医王寺
(現 山口市鰐石町附近にあった)
「時三年干期定居元辛未琳聖太子来朝ス」
    「風土注進案」三田尻宰判西佐波令
 高倉山福宝寺
(現 防府市高倉)
「当寺は往昔推古天皇之十九年三月二日百済国聖明王第三王子琳聖太子周芳国多々良浜二着玉ふ、天皇佐波郡大内県に皇居を建而定居王と号す」
    「大内氏実録」(近藤清石著) 「言延覚書に定居元年とし、義隆記定居二年とす。この他定居の年号をかきたるものあれど定居の年号正史に所見なし」
18、定居二年 六一一 「大内義隆記」

「百済国ノ王子琳聖太子ト申セシガ、日本周防国多々良ノ浜へ定居弐年二来迎シ」

    「寺社證文」
南明山乗福寺
(現 山口市大字人内御堀)
「吾朝推古天皇御宇定居弐年壬申(琳聖太子)来朝秋比周防国佐波郡府中多々良浦也」聖徳太子四十歳定居二年壬申百済国渡」「定居弐年壬申秋比周防州府中奥多多良浜汀繋舟」「定居己後大宝以前都合八十九年也」
    「寺社由来」都濃部浅江村
賀茂大明神宮由来書
(現 光市大字淺江筒井)
「聖徳大子治世定居弐年壬申歳、百済国聖明王第三之王子琳聖大子日域有御来朝」
    「風土注進案」舟木宰判棚井村
 恒石八幡宮
(現 字部市大字棚井)
大内氏系図 「琳聖太子人王卅四代推古天皇御宇五年定居二壬申来朝之」「右大内殿定居ニ壬申来朝在テ、至弘治二丙辰及九百四十五年」
19、聖徳三年 六三一 「寺社由来」大津郡深川村山上堂 山上堂由来書
(現 長門市)

「寺社由来」大津郡深川村山上堂 山上堂由来書(現 長門市) 「仁王三十五代舒明天皇之御宇、聖徳三歳経七箇月、十月廿八日丑刻誕生給云云」
「自聖徳三年辛卯今天文十六年丁未歳九百十九年ト承、御歳七十二歳(役小角)御入虚云云」

20、僧要元年 六三五 「寺社由来」厚狭郡末益村
洞玄寺宝珠山洞玄与由来書
(現 山陽町大字部)

「此時推占天王御持仏一光三尊弥陀尊像下賜、則僧要元年乙未歳云云」

21、光色元年 六四七 「風土注進案」舟木宰判棚ヰ村
 恒石八幡宮
(現 宇部市大字棚井)
恒石宮御縁記、於長州古ヱ厚東代系図抜書
「二代(厚東)武基 号厚東太夫人皇卅七代孝徳天皇御宇光色元丁未御上洛之時備後田恒石ト云所ニテ御船本ヱ従海中戟ト御正体上給」「右当社八幡宮ハ光色元丁未ヨリ至文和三甲午七百八季厚東代崇敬之」
    「寺社由来」厚狭郡棚井村
 恒石八幡宮
「右開基は厚東武基公御上洛の時備後国恒石ト申所より御顕、即光色元丁未歳武基公当社御建立被成」及び前記「風土注進案」と同様の記載あり。
(光色の年号他書に見えず)
22、白雉元年 六五二 「風土注進案」舟木宰判中山村
 明王山広福寺縁起
(現 宇部市大字中山)
「大化六庚戊年武基より白雉を禁庭江献上せしによって嘉祥の年号として白雉と改元し玉ふ」
    「風土注進案」舟木宰判棚井村恒石八幡宮
(現 宇部市大宇棚井)
恒石宮御縁記
「往昔人皇三十七代孝徳天皇之御宇、当所霜降嶺之本主厚東弐代目太夫武基公御時代霜降之嶺之辺穴戸と申所ニて白キ雉子を生捕大内へ捧玉ふ(中略)又夫より隼号を白雉と改玉ひ目出度御代ニ而候也」
    山田家系図
(長門国一ノ宮佐吉神社史料)
「醜都禰 大化六年春献白鳥、同年孝徳天皇之御代ニ年号ヲ白雉ト改ラル、則大山之位ニ叙」
    「風土注進案」奥阿武宰判須佐村 松埼八播宮
(現阿武郡須佐町大字須佐)
「当杜勧請は人皇三十七代孝徳天皇の大化六年五月初八日今年改元而為白雉元年」
    「風土注進案」当島宰判阿武郡椿西分 椿郷祇園社
(現 萩市)
「又孝徳帝大化年中祇園山にて白雉を取、長者椿氏都に持献す。占年の相と叡感有て年号を白雉と改め、長者にも官禄を賜ひ長門守に被任」
23、白鳳元年 六六〇 「風土注進案」前山代宰判広頻村
 白山権現
(現玖珂郡錦町大字広瀬)
「社伝ニ日ク、白鳳元年申十月十一日紀州熊野ヨリ森大内蔵と申者勧請と云々」
    山田家系図
(長門国一ノ宮住吉神社史料)

「彦丸 白鳳元年日下之姓ヲ譲テ穴門直之職ヲ賜リ再任」

24、白鳳八年 六六七 「寺社由来」大津郡新別名村
 大願寺 人丸縁記
(現 油谷町)
「寺社由来」大津郡新別名村 大願寺 人丸縁記(現 油谷町) 「又吉野の行幸に供奉し、此山の桜を雲と詠しハ天武天皇白鳳八年なり」
25、白鳳十年 六六九 「風土注進案」山口宰判桜畠村
 仁壁神杜
(現 山口市三の宮二丁目)
「日本書紀天武天皇白鳳十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神砥とありて」「天武天皇白鳳十年春正月辛未朔己丑詔畿内」云々
26、白鳳十三年 六七二 「玖珂部史」玖珂本郷霊岳山宝嶺寺
(現 玖珂郡玖珂町)
「天武天皇白鳳十三年甲申十月十日暁ニ此唯人ニ夢ノ告アリ」(増補に記す)
27、白鳳十四年 六七三 「風土注進案」三田尻宰判三田尻村
厳島大明神(現 防府市三田尻)
「当社は人王四十代天武天皇白鳳十四酉ノ年、此松原に御鎮座之事卜部家之御記録審なる良古キ御社也」
     「寺社由来」大津郡新別名村
大願寺 人丸縁記(現油谷町)
「白鳳十四年大津の皇子はしめて詩賦を作りしより和歌漸くおとろへたり」
    「長門国志」巻六 守護第七
厚東氏
「物部武忠中将法名道雲白鳳十四年九月六日卒」
28、朱烏元年 六八六 源平盛衰記」劔の段 「しかるを天武天皇朱烏元年に、是をめして内裏にをかる、いまの宝劔是也」
29、朱烏三年 六八八 「寺社由来」大津郡新別名村
大願寺 人丸縁記(現 油谷町)
「朱烏三年草壁の太子墓しましまし」
30、朱烏六年 六九一 「風土注進案」山口宰判桜畠村
仁壁神社
「日本書紀に、持統天皇朱烏六年五月巳酉勅天社地社」云々

(註)
「玖珂郡史」広瀬喜運著、享和二年成立
「防長地下上申」萩藩編、享保十二年〜宝暦三年成立
「防長寺社由来」萩藩編、主として享保年間成立(明和以後文政元治年間のものもある)
「防長風土注進案」萩藩編、享保十三年成立
「防長寺社證文」永田政純編、享保十年成立
(前田博司 1983.11.17作成)(1984.5.16増補)


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