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市民の古代・古田武彦とともに 第4集 1982年
古田武彦を囲む会発行 「市民の古代」編集委員会編集
歴史研究論文

 稲荷山鉄剣銘「意冨比[土危]」について

神戸市 今井久順

意冨比[土危]の[土危]は、土編に危。JIS4水準、ユニコード579D

 埼玉県稲荷山古墳より出土の鉄剣に、金象嵌銘百十五文字が、奈良市、元興寺文化財研究所において発見されました。
 この鉄剣銘の刻まれた、上祖名「意冨比垢」について私見を述べます。
 『風土記」出雲国に「意宇郡」が、見受けられます。「意宇」(オウ)と訓じられ「意宇と号(ナヅ)くるゆえは国引きましし八束水臣津野(ヤツカミヅオミツヌ)の命、詔(ノ)りたまひしく「八雲立つ出雲の国は・・・」と、地名発生説話が書かれています。
 しかし「意宇」を(オウ)と訓ずるのは正しくないと私は思います。といいますのは、出雲国意宇郡には意宇川が流れ、この川上は熊野山であり、そこにはこの国の一宮、熊野大社があり、能野は、観世流(能楽)ではユヤと訓じ、諸橋『大漢和辞典』でも熊(ユウ・イフ)であります。
 又、関東には「意富比神社」(オホヒ神社)が、東葛飾郡船橋町大字五日市(現在船橋市宮本町)にあり、この神社は古くは「意富比□神社」ではなかったのでしょうか。視点を変えて朝鮮半島の地名を見ますと、

忠清南道 保寧郡 熊村
全羅北道 益山郡 熊浦
慶尚南道 蔚山郡 熊村
 右同じ 昌原郡 熊南・熊川・熊東
 右同じ 梁山郡 熊上
 江原道 伊川郡 熊灘
成鏡南道 豊山郡 熊耳

 なお熊津(イフシン)飛行場等あり、意冨(イフ)は熊(イフ)であり、朝鮮半島では、熊は竜に置き変えられ、竜神を意味し「竜神」は「風神」をも象徴しています。
 又、関東には単に「大宮」神社と称される神社が『日本のなかの朝鮮文化』四八号の「甲斐の古代文化」の二五頁で、司会者、備仲氏によって「大宮神社は高旬麗の人々が、祖神を祭った・・・一辺が、たかだか四キロ四方のせまい地域に七つの大宮神社が、存在したのではないかと思いますと説かれています。
 又『明治神社誌料』に依りますと、全国に十五の「大宮」が見受けられ、「熊野」神社に至っては、六十八を数えます。
 この「熊野」の訓みは先にも少し書きましたが『広文庫』〈神代巻藻塩〉に「伊賦夜・揖夜・意宇・熊野、共に通ず、クマノと云うわ、後の字訓なるべし」と書かれています。
 このように見てきますと、鉄剣銘「意冨比[土危]」の意冨は、(イフ)と訓じ、熊(イフ)即ち竜神を上祖と書かれているのではないでしょうか。
 次に「比垢」ですが、彦(ヒコ)か曳(ヒキ)か問題ですが、私は「曳」を取ります。
 この曳の付く地名は、
  埼玉県比企郡
  兵庫県宍粟郡引原(現、引原ダム)
  三重県北牟婁郡引本、(現、引本浦)
  大阪府羽曳野市

 神名、神社名では、
  波比岐神 宮中並に大阪市座摩神社祭神
  波比岐神 熊本県玉名郡、匹野神社祭神

 等があります。
 『記』雄略の項では、三輪系統の蛇と婚する話の一部かと思われる引田部の赤猪子が見受けられ、『延喜式』に大和国城上郡、曳田神社があり、這ひ来る神、即ち『諸橋大漢和辞典』[肥/虫][虫遺](ヒヰ)=「神蛇」に「ハヒキ」「ヒキ」は相当するのではないでしょうか。

[肥/虫][虫遺](ヒヰ)は、[肥/虫]は、肥の下に虫。[虫遺]は、虫編に遺。

 昭和五十四年八月十日の朝日新聞に、橿原市新沢千塚古墳群の三百二七号墳出土の鉄刀から竜と虎の絵がX線で検出され、大阪市四天王寺の七星剣・大阪府南河内郡河南町のツカマワリ古墳出土の鉄刀に竜を象嵌する例が報告されています。
 世界神話伝説大系『朝鮮の神話伝説』名著普及会の四頁〜五頁に「壇君神話」が書かれ、壇君の母は、熊が人間に成ったと書かれ、父は桓(カンユウ)といわれたとあり、桓雄は干(カンユウ)で、要は熊であり、熊は先にも書きましたが、竜に置きかえられます。
 又、同書八頁〜九頁に「朱蒙神話」が書かれ、朱蒙の母は河伯の娘の柳花(リュウホウ)「竜花」で、父は金蛙(キムア)で、日本流にいえば、「金蛇」だと思われます。
 『三国史記」新羅本紀第一の始祖赫居世(カクキョセイ)の王妃閼英(アツエイ)は、竜の右脇から生れたと書かれています。
 このように朝鮮始祖神話には竜子神話が多く、枚挙に暇がありません。
 結びと致しまして上祖「意冨比[土危]」の意冨はイフ=熊=竜で、比垢はヒキ=蛇で、「竜蛇神」になり風神、風雷神の象徴が、「竜蛇神」となります。
 そして「大王寺在斯鬼宮」の斯鬼宮(シキノミヤ)とは、風神を祭祀する場所、又は風神の座す所と、前に「古田武彦とともに」創刊第一集二五頁に「磯城の地名」の小文を稿しましたのと辻妻が合うのではないでしょうか。
 又『朝鮮文化」四八号二五頁「まず、甲府市北西部にあります大宮神社と周辺の古墳について若千の私見をのべたいと思います。
 大宮神社は、高旬麗の人々が祖神を祭ったものですけれども、羽黒町に大宮七社明神としてあります。社殿は荒れはてておりますが、六つの石座がありまして、古代からの由緒深いものという感じがいたします。その背後に天狗山という四二〇メートルほどの山がありますが、項上に石塚があって、県下最大のもので、直径約三十メートルの大きさです。この積み石というのは高旬麗の古式の墓制であって『魏志』東夷伝にも高句麗の墓制について『石を積みて封となす』というふうに書かれておりまして、高句麗が平穣に都を移すまでの塚は積石塚であったと考えられますが・・・」と書かれています。この石積塚は、埼玉の稲荷山鉄剣出土の乎獲居臣の礫槨とも連なるのではないでしょうか。


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailsinkodai@furutasigaku.jp

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