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市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年
古田武彦を囲む会「市民の古代」編集委員会 編集

京都ー奈良線(近鉄) ぶらり散歩

 

中谷義夫

 ナンバ出版発行の私鉄沿線シリーズ(7) を読むと、この沿線の富野荘駅(トノシヨウ)附近の三つの神社=水主(ミヌシ)神社、荒見(アラミ)神社、水度(ミト)神社=の祭神は天照国照天火明命(アマテルクニテルアマノホアカリノミコト)であると解説されていた。
 これは私にとって一寸意外な祭神であった。古田さんの『盗まれた神話』を読むとこの命は遡々芸命(ニニギノミコト)の兄さんに当り天照大神の直系であり、九州王朝の祖神となっている。邇々芸命は弟で大和朝廷の始神で、いわゆる傍流なるゆえんである。通説では「末子相続の理論」を以って弟の邇々芸命を正系だとしているが、名前からして天照大神より国照らすが加わり重味があり、九州王朝の史書である日本旧記にはこの系統の全体系が記されていた筈であるが、八世紀の近畿天皇家の史官によってカットされたらしいのである。
 日本書紀によると、天火明命(アマノホアカリ)については「是、尾張連(オワリノムラジ)等の遠祖なり」という。それでは名古屋方面に天火明命を祭る神社があって然るべきだかそういうことはとんとと聞かない。
 又九州王朝の本場、九州には沢山、この神を祭る紳社があると思い九州人に聞くが知らないという。処がその神様が京都にお祭りしてあるというので、これは一つ行ってみなければとかねがね思っていたので或日出かけた。
 富野庄(トノショウ)駅の線路を渡って西を見ると、遙か向こうに木津川の土堤があり、見渡す限り稲穂の波がそよいている。そのはるかの土堤の下にこんもりと森が繁り、陸の孤島のように水主(ミヌシ)神社は浮き上っていた.
 人口の左に水主神社、右に樺井月神社の石柱が立っていた。境内は人影がなく真新しい由緒の額が上っていた。祭神は天照御魂(アマテラスミタマ)神(饒速目(ニギハヤヒ)尊)とあり、天照御魂神、即ち火明命にて・・・云々と記紀とは違っているのである。あとはざっと読んで拝殿に近づいた。どうやら神主も人も住んでいないお宮のようである。辺りを見ると森は深く、中央の拝殿の囲いは新調されていたが、枯葉やごみが散らばって神苑はかさかさに乾いていた。
 水主神社を後にしてすぐ側の木津川の土堤に上がってみた。ガイド書には「この土手に樺井の渡の跡があリ、ここは大和と山城をつなぐ交通の要所として古代から栄えた。
 『古事記』に「履中天皇の二皇子がこの苅羽井(カリワイ)の渡までやって来た時、食糧を土地の人に奪われた」とある。正しくはこの二皇子は履中天皇の孫に当る。父、市辺之忍歯(イチベノオシハ)王が雄略天皇にだまし討ちされたので二人は身の危険を感じ、針間(ハリマ)へ逃げるその途中、ここで鯨面の老人に食事を奪われたのである。そういう事件のあった堤に上ると、木津川の川幅は思ったより広いが流れは細く、殆んどが中洲となっている。広場はグラウンドとなりテニスコートも造られ、運動する若い人達で賑わっていた。芦とかやにおおわれた静かな流れを想像していたが川は近代化していた。
 次に荒見神社を訪れた。鎮守の森のある村の神社といった印象でここは神主さんが住んでいるようであった。入口に金属製のご由緒板があり、祭神の名前が六つ程書かれていた。
第一番目は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)と長い名前である。これは天照国照天火明尊で一人、櫛玉饒速日尊(クシダマニギハヤヒノミコト)で一人、だから二人の名前を一人にしているのである。櫛玉饒速日尊は誰でも知っている書紀に出てくる長髄彦の妹をめとった尊(ミコト)である。
 少し余談になるが古田さんのお話では『日本書紀』の神武は長髄彦と戦い勝利の上で橿原の宮で即位するという成功譚になっているが『古事記』では饒速日(ニギハヤヒ)尊は神武の下におもむいて降参するが、義兄の長髄彦には勝利したとは書かれていない、それから推理すると敗北したのではないか。つまり、天皇家九代までは大和に閉じこもり大阪方面には出ていけなかったのがその証拠だという。
 それはさておき、饒速日(ニギハヤヒ)の名前が祭神に出るということはこの地方での勢力が伝承に残っていたのであろう。社務所に由緒を印刷したものでもないかと案内を乞うと、若い青年が出て来て神社発行の暦に載っているということであった。ついでに水度(ミト)神社はどうゆくかと聞くと、少し遠いのでご案内しようと車に乗せてくれた。思わない好意が嬉しくて、多分神主さんの息子さんでもあろうと思われるので、天照国照火明尊と饒速日尊とは別人だと説明すると、私も少し昔の事を勉強してるんだけれどもと控え目にいっていたが、これでは記紀は読んでいないなあと思った。
 暦には廷喜宮荒見神社とあった。御祭神系譜にはこう印刷されていた。

 水度(ミト)神社は参道の深い立派な神社であった。社務所を問うと「印刷物ありませんが、由緒板を見て下さい。最近東京で調べて書いてございますしと中年の夫人の返事だった。由緒板には
御祭神
天照皇大神
高皇産霊神
和田都美豊玉姫命。

 延喜の制では小社であったと由来が書いてあった、それにしても祭神が全然変ってしまっているとはどうしうことかと不審なことであった。ガイド書にはこの地方は水門の管理に当っていた豪族水主(ミヌシ)氏の支配する処であって、その水主氏の祖神が天火明神であったというのである。だから三神社とも皆、水に関係ある名前だ。水主(ミヌシ)神社、水度(ミト)神社、荒見(アラミ)神社の見は水であったのであろう。
 後日、著者に電話で問い合わせた処、ガイド書は原本があって書いたのではなく、足で神社に参拝して神主からじかに聞いた由緒であるとの返事だった。
 察するに水度神社などは社伝書がなく、口伝だったので神主が死ぬと天火明尊など余り知られてない祭神より大照皇大神の方が若い人達には現代的で信者も増えるだろうとの心配りが祭神を変えたのではなかろうか。最近、京都の天塚古墳を訪れると、この古墳は伯清教会という宗教団体が管理しており、伯清稲荷大神と稱名し、もう一人の神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であった。この地区の宗教団体では二人の名前を一人の名前とする誤を通稱としているのかも知れない。

 次に国鉄城陽駅まで歩いた。ここまで来たのだから椿井大塚山古墳を見ずに帰るのは惜しい気がして立寄ることにした。椿井大塚山古墳というと畿内発生説の論拠として必ず、登場する有名な古墳である。然し今では古墳の初期にしては余りにも形が整いすぎている。現在考古学界の有力な発生地は近畿地方でなくて九州、吉備瀬戸内方面に傾いている。
 大塚山古墳は国鉄京都奈良線の殆んど奈良に近い。たなくら駅と、かみこま駅のちょうど中間、それも線路が走っている。国鉄がその崖面の修整工事を行なっている中に竪穴式石室につき当り、三十数面もの鏡が出土した。その大半が三角縁神獣鏡であったので卑弥呼の古墳ではないかと騒がれた。
 又この鏡と同じ鋳型で作った鏡が全国の古墳から出土するので三、四世紀代に於て、三輪山を中心とした畿内連合政権かあって、この大塚山の被葬者は外交権を持ち、各地と同盟関係を結んでいたのではないかという説も生れ、その分布図も出来上った。その先覚者がいかにして努力を重ね、血の滲む思いをして作成したかは私たちの想像以上のものであろう。
 然し科学は先人の学説を乗り越え、踏み越えてゆかねばならない。今では三角縁神獣鏡は国産であるという見方が強い。又同范鏡の一面が政治的に価値があったものかどうかも疑わしい。多分に商業的な売買も行なわれていたに違いない。和泉黄金塚の画文帯神獣鏡にしても棺外にほり出されていたという実状からも価値の低いもとの見なければならない。
 この国鉄京都奈良線の沿線は開発が遅れているためか、静かな、そしてのどかな田園風景が保たれている。かみこま駅で下車して単線伝いにゆくと線路の曲り角に大塚山古墳の標識が見つかった。東側の崖から後円部に上ると葺石が一面に散らばっていて竹林である。今では私有地になっているらしい。頂上に上がると、ほんとに丸さがわかるが全長百八十メートルもあった前方後円噴にしては随分やせ細ったものである。だが空の上から見ると昔の面影が残っているかも知れないと私はしばし墳丘に腰を下ろした。

<写真は略>


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailsinkodai@furutasigaku.jp

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