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市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年
古田武彦を囲む会「市民の古代」編集委員会 編集

山蔭古代史の旅

中谷義夫

 時、昭和55年7月3日〜7日
 講師古田武彦氏
 主催東京朝日旅行会
 東京グループは三日夜特急「出雲」にて出発、大阪グループはそれを四日朝鳥取駅に待ち受けて安来駅へ。
 大型バス満載の五十有余名が参加した。
 初日四日は西赤江町仲仙寺古墳を振り出しに国庁跡ー神魂神社ー須我神社を経て玉造温泉一泊、五日は玉作遺跡ー神原神社ー日御崎ー美佐伎神社、六日島根博物館ー美保神杜ー山蔭歴史館ー淀江の石馬ー浅津温泉、七日は岡益の石堂ー宇倍神社等。
 帰路は鳥取空港より東京大阪夫々航空便にて帰着。特に三日三晩、食後の約二時間、古田先生の特別講演あり、全員出席、先生のご熱意に感激した。

 次に特に感銘を受けた訪問先を書きとめておこう。
神魂神社(カモスジンジャ)
 郷杜といったいでたち。祭神はイザナギ・イザナミ両大神。神官の話によればここで神火を起し出雲大社の新嘗祭をとり行うという。出雲大社はその御礼として餅などの供物を持ってくるが、こちらではカゲダユウというものがいてその供物にけちをつけて火を仲々渡さないという。それでは出雲大社のたきものが出来ないので平身低頭きげんを伺うらしい。それと一般に出雲大杜に神々が集まると思われているが、実は神々の集まるのはわが神魂神社であって出雲大社はわが社の拝殿にすぎないという。えらい鼻息であった。
 処がその後、近くの神社へ参ったが皆、自分の神社に神々が集まるといい、社が小さくとも神格としては何れ劣らぬ本家意識が旺盛である。思うに出雲大社だけが中近世に大黒様と結びつき、その上縁結びの神とあがめられだしたので経済的に恵まれ、今の大きな社となった。この地域の神杜にとって、そのねたみが骨髄に徹しているようだ。
 処で十月は一般に神無月というが、出雲では神有月という。これは日本のすべての神々が十月に出雲に集まるという伝承によるのだが、考えて見ると神々というのはその時代に於ける豪族ではなかったか。すると地方豪族がその統率者のもとに集まるということは江戸幕府が参勤交代をさせたという制度によく似ている。ひょっとすると、これは原始国家の名残りではなかろうか。ではその勢力の範囲はどこまで広がっていたのだろうか、記紀に見られる九州の神々以前に出雲の神々はいたのではなかろうか。そう解釈すると日本の国家起源は出雲にその片鱗がうかがわれる。

神原神社(カンバラジンジャ)
 別にこれといって取立てていう、たたずまいではない。簡素な社である。この神社が脚光を浴びたのは社殿を50m移転させた際、その下に堅穴式石室が発見された。そしてその副葬品の中に景□三年陳是作鏡云云の銘のある三角縁神獣鏡が出た。これを景初三年と読むと卑弥呼が中国へ使者を送ったという年号と一致する。だから定説では卑弥呼が中国から貰った百枚の鏡はこれだとし、後に近畿天皇家が地方の豪族に分けたという分布図まで出来上った。和泉の黄金塚の画文帯神獣鏡の銘も景囮(初)三年というが、これもその囮(初)はどうみても囮とは読めない。神原神社の三角縁神獣鏡はこの度、資料館で初めてお目にかかったが、二字が重なっているように見えてわざとごまかしているようにさえ思えた。読めないものを推定で読んでその上に学説を立てることは学界の堕落といわれても仕方あるまい。読めないものは読めないとはっきりするのが真の学問ではないのか。素人はそう判断する。その上、有名な小林説の三角縁神獣鏡の分布図は近畿天皇家が中心に描かれているが、黄金塚の銘は神原神社の銘を要約したものであるから、地方から中心に伝播したことになる。
 最近、NHKが邪馬台国はどこかという初歩の初歩の入門と断って考古学から見た邪馬台国を放映したが、森浩一さんでさえ黄金塚の鏡銘の景初三年という文字を否定しなかった。然しまあ卑弥呼の貰った鏡でないということはいっていたが。これは学界への遠慮なのであろうか。続いて鈴木アナは邪馬台国九州説に於て中国が三角縁神獣鏡を景初三年に製造して卑弥呼に贈ったとは考えにくいが、大切に残しておいた漢式鏡を与えたのではないかと博多湾岸を指し示していた。これはまがうことなく古田説である。この歴然たる鏡の分布図に学界は、いやこの鏡は一世紀だとか二世紀だとかいって逃げているのが現状である。まあこの点、NHKは学界よりも一日の長があるようだ。

淀江の石馬(ヨドエノセキバ)
 古代の石馬というと前漢の武帝の将軍雀去病(カクキョヘイ)(前四〇〜前二七)の墓にある旬奴の戦上を踏まえるたくましい石馬と、これと生き写しの大夏(四二四)の石馬である。日本では岩戸山古墳(五〇〇?)とこの淀江の石馬(四五〇?)の二つ。だから古代の石馬は世界に四頭しかない。当日は雨がそぼ降り神社の境内は薄暗かった。石馬は鐘つき堂のような処に横たわっていた。何と小さい身体、これが日本の古代の馬の実態であろうか。可愛い目、優しい顔、風雨にさらされてか、なだらかになったたてがみ、頭を撫でてやりたいような衝動を抑えながら、ためつすがめつ、私は石馬の前に茫然とたちつくした。

岡益の石堂(オカマスノセキドウ)
 石堂へ上る山道の傍に「安徳天皇御陵参考地」とある。又他の木札には「石柱はエンタシス式であり、その上の大斗にはうず巻を入れた蓮弁と忍冬文様が刻まれてあり、中国の六朝時代の要素を含んでいてわが国では全く珍らしいものである」と記されていた。石堂のある広場は二百坪程あり、その中央を木柵でめぐらし、中は更に巨石で囲み、記念碑を思わすような石塔が立っていた。これは一体墳墓であろうかという疑問が起った。この石塔の中台のバルメット(忍冬文)とエンタシスのある石柱が考古学的に謎を深めているようだ。バルメットは高句麗からか雲南から来たものか、又、エンタシスはギリシアからか、はたまた高句麗から伝わったものか。考古学界は未だこの結論を出し得ていない。時代は六世紀といわれているが、それでは古墳の最盛期にこの異形の墓形が造られたということだ。私はこれは決して倭人のものではないと推理した。その時、私はふと騎馬民族征服説を思い出した。初期の古墳の副葬品と中期の副葬品との相違、つまり馬具や武具の出土する中期古墳を騎馬民族のものと推理しているが、果して騎馬の異人種が自己の墳墓を作るのに日本独自の前方後円墳をまねるだろうか、騎馬民族征服説に対する反論だ。私はこの異形の記念塔を見ながら大陸から渡来した異民族の首長に思いを走らせた。

宇部神社(ウベジンジャ)
 立派な参道のある奥深い神社祭神は武内宿祢、戦前派には懐かしい一円、五円紙幣に載せられた人物。さてこの人は実在であったろうか。360歳の長生き、二倍年齢としても180歳、然しその名前も世襲とすれば実在の加能性はある。記紀によれば仲哀は神命に反したので琴をひきながらもだして、かむあがりましぬとあり、又一書には熊襲との戦いで流れ矢に当ってかむあがりましぬとある、然しこれを現代の庶民に近い事件に書き直すと三人は実は三角関係であったのではないか、仲哀は武内宿祢の盛った毒酒にかむあがりましぬと。武内が庭に正座して部屋の二人の様子を見上げて首尾を伺う一場面が浮んでくる.参拝をエスケープして参道の喫茶店にはいり、コーヒーをすすりながら創作した私のフィクションである。

ー完ー

<写真は略>


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailsinkodai@furutasigaku.jp


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