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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日 古田武彦を囲む会事務局 編集委員会

〔事務局注〕

宮内庁より、『書陵部紀要』(三〇号)の陵墓地形図総目録を入手した。これについて検討を加えたのが、本稿である。

附 陵墓参考地について宮内庁に問う

 宮内庁「書陵部紀要」三〇号に陵墓地形図総目録がでています。この目録は陵墓指定の三分の一強の資料ですが、それから陵墓参考地を引き出してみると四十四あります。それは戦前指定 ーー明治維新後といった方が正確でしょうがーー の陵墓参考地・陵墓伝説地の大部分です。この数は、天武持統合葬陵が火葬墓だとされると、それ以前の所謂考古学・古代史という学問的対象となる天皇陵古墳の数とうまく一致するのは偶然でしょうか。その一つ一つを何故陵墓参考地とされたのか、近代天皇制の確立過程と合せて、現代史的課題ですがいまはそれを問いますまい。陵墓参考地というと考古学者の大方が、雄略帝の丹比高鷲原陵と比定している大阪藤井寺の大塚山古墳を指定されているのは何故か象徴的です。
 雄略帝の歴史評価(倭の五王をめぐる問題も含めて)について教えて頂きたいのです。何故なら雄略帝にだまされた市辺押歯王の墓が、陵墓指定の初期の段階、つまり延喜式諸陵寮に全然見当らないからです、いうまでもなく市辺押歯王は、雄略帝の子清寧帝のあと王統の途絶えるのを恐れた重臣たちによって、飯豊青皇女(陵墓名では何故か飯豊天皇)を中継として日継の皇子となる播磨の縮見窟に身をひそめていたオケ・ヲケ王の両兄弟のちの仁賢・顕宗両帝の父です。その顕宗帝が憤りのあまり雄略帝の墓をあばこうとしたことは有名です。これなどどう理解されているのか是非にでもうかがいたいものです。それにつけても、ヤマトタケルの陵が又、何故三つも、あるのですか。能褒野陵以外白鳥陵を陵墓参考地とするのは、これも延喜式にないだけ不思議です。ついでに大和の箸墓も延喜式にはないのに、どういう根拠で倭迩迩日百襲姫の墓とするのですか。
 これなど生き更り死に更り、卑弥呼の墓と云う人が絶えないのですから、是非にも立ち入り調査をされた結果を発表して欲しいと思います。大和地方のもっとも典型的な前期古墳の様式を残しているだけに、大和の古墳信仰を解明するうえでも、古代史の教育現場での変な混乱を避けさせる意味でも、陵墓指定を解除されるべきだと存じますがいかがなものでしょうか。すでに多くの人たちがこの古墳にのぼってすきなことを云っているだけにいっそ文化財指定にうつされた方が保護管理のうえからも妥当です。(例えば「大和の風土記の丘」にでも)
 この様な点が留意されるならば、あながち天皇陵すべてを“生きた墓”とする論はあたらないとおもいます。
 最後に、宮内庁は総理府の外局であって文化庁などとともにあるのに、何故かもとの宮内省・内務省といった感覚で、外部の人たちもみるし、又貴方たちもいつかそのような物の見方をなさっているのではありませんか。この際宮内庁みずから国の文化財として天皇陵その他陵墓参考地をみなおし、国民に信を問うぐらいの心意気がなくして陵墓管理という重要な仕事は出来ないし、正しく死者を葬ることは不可能です。科学的歴史観が叫ばれてもう久しいだけに、いつまでも昔の夢を見ていないで、ヤル気になって下さい。皇室のなかには高名なオリエント学者もおられることだけに。


 これは会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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