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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

『洛陽時代』

篠原俊次

 十三年前、古田さんの最後の教職の場となった京都市立洛陽工業高校で、私は“過剰な青春”のただなかにあった。すでにサラリーマン化した教師群と体制内左翼のスターリン主義者たちが、戦後民主主義体制を枕に、ひたすらこの世の惰眠をむさぼっていた。我が魂は、社会的不公平に対する憤りと、これら唾棄すべき『裏切り者』に向って、憤激をあげつつ、性急な『理論武装』に向いつつあった。まさに私の「成熟」は「確信」をもつて馳せる様になされつつある・・・と思われた。けれども多くの青春がそうである様に、対象を過不足なくとらえるすべは、まだ獲得していなかった、目もくれなかった教師群のなかに、異様な形姿を発見し、私の認識を改めさせることになろうとは・・・。
 現代国語の担任教師として、我々の前にあらわれた彼は、スソをまくりあげ、口許から唾液を発射しながら、ワイシャツのはみだしているのも忘れ、異常な熱気を帯びて、さながら講演の如く、ある時はドイツ語で「野バラ」を高唱し、ある時は著名な学説をこきおろし、破天荒な授業を展開するのであった。
 けれどもまだ、私は『政治運動』のみ眼中にあった。折から七〇年安保に向けて様々な“新左翼”諸潮流のなかに、まだ組織されざる一員として“遅れて来た世代”が、スターリン主義批判を含む『大論文』三十枚をぶち上げることになったのは、そんな時だった。これは自由課題の読書感想文という体裁ではあったけれどむ、教師集団への告発を含んでいて、あの『体制の補完物』どもから、評価されるはずがない・・・と思われた。一旦返却された原稿には、丁重な朱の書入れがあり、好意的な評価とともに、これを上まわる続編への勧奨が末尾に附され、古田と記されてあった。そして彼は私を呼びだし、この原稿を、毎年図書館で出している「文集」に載せたいが、紙面に制約があるので圧縮してほしい旨、依頼してきた。私は“妥協”できないと思い、いささか気負って断った。「それなら掲載しなくても結構です」・・・その時、彼は確か寂しそうに微笑したのを今もよく覚えている。それは後年、彼自身が『親鸞思想』(富山房刊)の自序で述べている様に、“いかなる権威にも節を屈”しなかった立場のために、本願寺の御用版元によって特定の親鸞論文の削除を強要され、出版の危機に遭遇する。その時期であったか否かは定かでない。けれども結局、私の『論文』は、前篇のみ一切の削除なしに掲載され、後篇の概要と紙数の関係上掲載できなかった旨、異例の注記がなされて“日の目”を見ることになった。若気の至りでつっぱねてみせた当時の私でさえ、彼のひそかな骨折りを感じることができた。
 ある時、生徒食堂で一諸にウドンをすすりながら、北白川に住んでいたアパートに一度遊びにくる様に誘ってくれた。ふと見ると、たちまちのうちに、汁一滴残さず平らげてしまうではないか。この健啖家に、吉本隆明のいくつかの著作を勧めてみた。今度は、市電のなかでそれに読みふける光景に出くわした。彼はとりわけ「マチウ書試論」に強い関心を示し、高い評価を与えながらも、原文にさかのぽるイエス・キリスト伝の“本源的理解”の必要性を力説してくれた。
 こうして、この特異なキャラクターをもつ存在にひかれ、所属していた社会科学研究クラブの「金曜講座」の講師や機関誌に協力を求めると、彼は心よく引きうけてくれた。とくに後者の寄稿文などは、当時の社研はほとんど私一人で切り盛りしていただけに、至るところ、誤字・略字だらけのガリ版で発行された。担任の国語教師として、そのテイタラクに、さぞかし苦笑したに違いない。今、手元に一冊だけ残った、この機関誌『洛陽評論』に掲載した彼の一文を改めて了解を得、もとどおり復元して、ここに罪ほろぼしの意をこめて転載したいと思う。思えば当時、この寄稿文の内容についてたしかに“ラジカル”であり、“扇動性”もあるけれども、いささか“抽象的“であり、とりわけ「社会科学」という認識の“牙”などというあたりは、表現が通俗的で物足りなかった覚えがある。(早熟ナ政治少年ハ、得テシテ、コウイウ自信ダケハ人一倍アッタトミエル。)しがし“通俗的”であろうとなかろうと、この“牙”がだれよりもまず、彼自身において著しくとぎすまされ、「戦後史学」を縦横に切りきざんでゆくさまを、その後、十年のあいだに間のあたりにしようとは、夢想だにしなかった。その古代史全般にわたる業績は、すでに人口に膾炙し“盗作”作家まであらわれる始末となった。けれども、彼のほんとうの怖しさは、多くの論者が、前頭葉の先端から問題意識をひねりだしている様にみえるのに反して、徹頭徹尾方法的であり論理的であることが、日月とともに、いわば生得的な肉体のなかに、脈うつものの自然のように、転化しつつある点にこそ、あるのではないだろうか?
(地方公務員二十九歳)

『洛陽評論』洛陽工業高等学校社会科学研究部・一九六七年十月七日刊
青春とは何かーー高校生活と青春の生き方ーー
         国語科 古田武彦
 序。高校生活とは何か。それは青春の始元の時だ。その日々の中から、一箇の青年の魂が鮮やかに産み出される。青年とは何か。それは青年自らの語り得ぬ所だ。青年はおしゃべりをきらう。“青年について語る”より、むしろ“自ら青年として行動する”ことを好むのである。
 してみれば、先に生れ、青年の時を自己の生涯の中に、すでに刻印した者として、今、私が“青年について語る”のは、あるいは理に合ったことでもあろうか。私は、教師という「青年を食う」商売を生計の資として、二十年の歳月を経てきた。その私に、いささかの所得ありとすれば“青年について、いささか知った”ということのみなのである。

  (1)“青年の匂い”について
 私はいつも、一学期の最初の時問、高校一年のクラスに出た時、一種の“とまどい”を感ずる。何か、場ちがいの感じ。そこには、私の“好きな青年の匂い”がないのだ。(まだ子供じみた匂いがただよっていると言いかえてもよい。)それを精神の姿勢として言えば、上を見て待っている姿勢だ。教師にむかってくちばしを突きだし、“与えてちょうだい”といっているようなムードが教室を支配している。これは雛鳥(ひなどり)の姿勢であり、従順なる羊の群の匂いである。“逆に新入生側では、「期待はずれ、よそよそしい、つめたい、面臼くない」という形で、反応する。与えて、くちばしに人れてくれない”からだ。

  (2)羊の群より狼の群へ
 これに対して、一年生も後半になると、相貌は一変する。たとえば、二年生の新学期。教室に入った瞬間“青年の匂い”が私に向って殺到するのを感ずる。“青年の気”とは何か。いわんや「教師なんかに期待するものか」“おれたちの生活は、おれたちでつくるほかない”とこれだ。もはや羊飼いを待つ、臆病な羊の群ではなく、ふてぶてしい狼の、野性の面魂だ。これを見て、私の心は狂喜する。私が永年の教師の生活に耐えてこれたのは、やはり、この狼の匂いにひかれていたからかもしれぬ。私自身の本性が“青年を食う狼”なのであろう。

  (3)若き狼たちに告げる
 私は、先に生れた狼として、君たちに告げよう、狼の二つの掟を。
 第一「自分ですすんでつかめ!」ただ待っていては、何事も永遠に、やって来はしないのだ。 ーーこれは“行動性”の掟である。
 第二「何もかも、貧欲に食え!」もはや青年である君たちには、何物も“食ってならない禁断の木の実はないのだ” ーーこれは“貧欲性の掟”である。読書一つとってもそうだ。白痴漫画から手塚、白土漫画まで。スピレーンのセックス物から、バイブル、論語まで。君たちの食欲に柵をつくるな。
 昨年の春、毛沢東が「やり過ぎはけっこう!」と言ったというが、これはまことに青年の知巳の言といっていい。(いわゆる文化大革命への評価は、一応別問題として。)
 若き狼たちに告げる。“決してやり過ぎを恐れるな!”ただ“やらん過ぎを恐れよ!”と。

  (4)“客観への道”について
 以上は、青春の“主体性”の問題である。このように行動する時、諸君は、いたる所に立っている壁にぶっかって、頭を、足を、胸を、手痛く打ちつけることだろう。“獣なる狼”ならば、この時、空しく咆哮(たけり叫ぶ)するのみだろう。しかし“人間なる狼”はちがう。壁が、その真相において何物なるかをつきとめることができるのだ。それが「社会科学」という認識の“牙”だ。これら“壁”は、あるいは実の所、容易に破れるものであろう。あるいは短期的には打ち破れぬものであろう。なぜなら、その“壁”は、根本において現代の矛盾多き社会体制そのものに根ざしているからである。
 就職と進学の矛盾。工業高校の授業における技術主義の矛盾。これらの“壁”に頭をぶつつけた時、諸君“人間の狼”たちよ、“絶望”していたずらに遠吠えするな。それらの“壁”の中の、もろい一地点を嗅ぎあてよ。そしてそれをいかにして、のり越え得るかを、われわれの社会に対する人間の科学を以てつきとめよ。その時、諸君は決して「仲間食い」(生徒対生徒、生徒対教師という形での“共食い”。)におちることなく、あくまで、前に向って牙を光らせることを学ぶだろう。(その“壁”の、われわれ前に崩れおちる日まで)これこそ“人間の狼”の光栄である。
  ーー私は、若き狼たち、諸君に、このように告げる。


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