古賀事務局長の洛中洛外日記
第119話 2007/02/09

九州の庚午年籍

 大量の評制文書である九州の庚午年籍に関する記事が『続日本紀』に記されています。次のようです。
  「秋七月丁酉、筑紫諸国の庚午籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」神亀四年(727)
 九州諸国の庚午年籍七七〇巻に官印を押したという記事ですが、この記事からわかることは、九州諸国の庚午年籍には大和朝廷の官印は727年まで押されていなかったという点です。逆に言えば、727年になってようやく大和朝廷は九州の庚午年籍を手に入れることができたということではないでしょうか。
 通常、戸籍には国印が押されていますから、この七七〇巻の筑紫諸国庚午籍には九州王朝時代の各地の国印は押されていたかもしれません。この記事では、国印ではなく官印を押したとありますから、別に大和朝廷の官庁の印を新たに押したのではないでしょうか。もっとも、国印も官印の一種と思われますから、断定はできませんが。
 ここからは想像ですが、九州王朝の最後の残存抵抗勢力が七七〇巻の庚午年籍を持っていて、それを大和朝廷が討伐し、この庚午年籍を727年に奪取したのかもしれません。もし、太宰府にあったのなら、もっと早く701年に近い時期に入手できたと思われます。というのも、大和朝廷による筑前島郡川辺里の大寶二年(702)戸籍が正倉院にあることから、この頃の筑前や太宰府は大和朝廷の支配下にあったと考えられるからです。
 ちなみに、筑紫諸国以外の国々の庚午年籍に対する官印押印記事は『続日本紀』には見えませんから、この筑紫諸国の庚午年籍を手に入れて官印を押したという事実は、特筆すべき事件であると大和朝廷の史官たちには意識されていたのでしょうね。


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