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特集2 倭人伝と九州王朝の未来

北朝認識と南朝認識

文字の伝来

古田武彦

    一

 先日(二〇〇九年四月二六日)、 NHK教育、午後十一時〜十二時半)テレビで「古代人々は海峡を越えた(日本と朝鮮半島二〇〇〇年第一回)」と題する番組があった。各大学の著名な学者たちが語った。昔からよく知った方々だが、最近の「お顔」が珍しい。なつかしかった。その中で、特に、何度も「百済から日本へ」の伝来が発端だった旨、強調されたのは、山尾幸久氏だった。かつて信州の白樺湖畔の「『邪馬台国」シンポジウム」(昭和薬科大学の校舎にて)を行った際、お出でいただいた(いただこうとした)方だったが、さすがに歳を召された。
 氏の強調された「百済起源説」には、有名な「典拠」がある。隋書イ妥たい国伝だ(通説では「イ妥」は「倭」に改定)。
「文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済において仏経を求得し、始めて文字あり。」
 この一文をもとに、山尾氏は「日本の国家、そして律令の発展にも、『文字の存在』が不可欠であったこと、そしてその肝心の『文字の淵源』が百済にはじまること」を述べ、「百済から倭国へ」の文字伝来の歴史的意義を強調されたのである。
 これに応じて、韓国側の学者もまた、「なぜ、百済の聖明王がそのような文化伝播に力を尽したか」を述べ、山尾見解を“裏書き”されたのであった。

     二

 以上は、教科書や日本史の概説書にも絶えず「出現」するテーマだ。多くの視聴者たちも、「違和感」なく受け取っていたのではあるまいか。しかし、わたしは「重大な疑問」をもった。深刻な「?」をおぼえたのである。
 なぜなら、今回の「第六号の遅延」問題に、これは深刻な“かかわり”をもつ。昨年の六月中旬までは、“順調”だった。ミネルヴァ書房からの要請で書き進めていた『「邪馬台国」はなかった』などの「仮名振り」と「補注作り」が予想以上に順調に進んでいたのだった。
 そこに生じた「晴天の霹靂」、それは「都市といちさん」の出現だった。この表記は三国志の魏志倭人伝に出現する。俾弥呼の使者、難升米、その次使が「都市牛利」だ。従来、多くの論者が「としごり」といった形で読んできていた。もしこれが「といち」と読むのであればーーー 。事態は“一変”する。
 (その一)「都市」を「といち」と訓むとしたら、これは「音訓併用」だ。中国側の表記などではありえない。
 (その二)したがって、「三世紀」当時の倭国では、すでに「音訓併用」の段階まで、「文字文明」は進展していたこととなろう。
 (その三)『「邪馬台国」はなかった』では、「倭人伝中の固有名詞表記」は“中国側の表記”という立場だったけれど、倉田卓次氏(当時、佐賀高等裁判所長)の御批判(書簡)によって、わたしは自説の「非」を肯定した(“中国側が、あの小さな島、壱岐を「一大国」などと表記するはずがない”との論旨だった)。
 (その四)今回のミネルヴァ書房版の「振仮名」と「補注」は、右の立場から書かれていたが、もし「都市 といち」と読むとすれば、倭国側は、予想以上に“進んだ”文字文化をもっていたこととなろう。
 (その五)もちろん、博多や筑紫野市などの「都市といちさん」の存在は、現代だ。長崎県の鷹(たか)島を本拠とする。松浦水軍に淵源する。

 これを「偶然の一致」視して、“切り抜ける”ことは容易だ。だが、その前に、
 「現地で、それを確かめる。」
 これが肝心の一事だ。だから、「振仮名」も「補注」も、『なかった』も、捨てて(中断して)、博多へ、そして鷹島へと向ったのだ。その結果は、やはり(あるいは、意外にも)「もしや」が現実となった。俾弥呼の使者の「玄界灘渡海」を助けたのは、この松浦水軍だったのである。
 その詳細は、「振仮名」と「補注」、そして何よりも、今年から来年にかけて執筆を“目指す”『日本評伝選・俾弥呼』が本番だ。
 ともあれ、倭国の「文字使用」が、五世紀前後の「百済からの伝来」にはじまる、などという通説とは、大幅に“違って”いたのだった。

    三

 では、なぜ。人はそのように問うであろう。その回答は、簡単だ。四月二六日の深夜から二七日にかけて、問題の「真相」を手にしたのである。それは、
 「北朝認識と南朝認識」
の相違の問題だ。このテーマの基本は、くりかえし講演や会誌で述べてきたところであるから、今はその要点を略記しよう。
 (その一)古事記序文で天武天皇が「削偽定実」を宣言された、と言っている「偽」とは南朝、「実」とは北朝を指す。従来、このキーワードを“些末な正誤校正”の作業のように解してきたのは「非」。
 六世紀中葉以前、倭国は「北朝との交流」をもたなかった。したがって古事記には「対、中国」の国交記事が「ない」のである。
 (その二)北朝側も、「貢献」してこなかった「倭国」は、「存在しなかった」こととして「魏書」(北魏)以降の史書を構成している。隋書でも三国志等から「事項」そのものは、“再録”しながらも、中国の天子(魏朝)から俾弥呼に対する「詔書、下附」の事実は“カット”している。俾弥呼や壱与から魏・晋朝への「上表」の事実もまた、これを“カット”しているのである。「北朝」の“かかわり”なき、「魏・晋朝等南朝側の“偽”王朝との“偽”交流」だからである。
 (その三)その最たるもの、それが宋書(南朝劉宋)の中の「倭王武の上表文」だ。堂々たる漢文、それも「名文」だ。このような「名文」は、決して一朝一夕に「成立」しうるものではない。“仏教風の文字使い”の「換骨奪胎」でもない。純然たる「政治的」かつ「公的」な文章だ。
 (その四)だが、これらはあくまで「南朝」という“偽、王朝”との間のものにすぎない。言うなれば、「偽、文章」だ。だから北朝側はこれをあえて「無視」し、カットしたのである。

    四

 以上のように、論理の「筋道」を辿ってくれば、すでに先述の「百済からの文字伝播」記事の「史料性格」は、明らかだ。
 (A) あくまで、「中国(偽りの南朝)との文字外交」は“なかった”と見なし、
 (B) あったのは、「仏教交流」というような「私的」な交流の中での「文字伝来」のみだった。
という、「イデオロギー至上主義」に立つ叙述を行ったのであった。
 このような「王朝間のイデオロギー上の差異」問題に対して一切顧慮せず、隋書イ妥国伝の「文字初伝」記事を以て、正面から、
 「ありのままの史実」
として“錯覚”されたところ、それが山尾氏に至る、日本と韓国のプロの歴史学者、そして公的メディアとしての NHKの編成方針だったようである。

    五

 先述の「都市問題」を待つまでもなく、三国志の魏志倭人伝中の「魏の明帝の詔書」や俾弥呼・壱与の上表文、そして宋書倭国伝の倭王武の上表文などを「直視」すれば、隋書イ妥国伝の「非」、イデオロギー的「歪曲性」はすでに明らかだった。
 「物」の面からも、たとえば前原市の「平原遺跡」の本邦最大鏡(および、各々の、いわゆる「漢鏡」)を見れば、倭国側の「文字認識」の明白な事実は、歴然たるものがあった。
 またこの事実を、わたしは昭和五十四年刊行の『ここに古代王朝ありき -- 邪馬一国の考古学』(朝日新聞社刊)以来、たえず各所で力説してきた。しかし日本の学界や各メディアは、戦争中の近衛文麿と同じく、
 「古田説は、相手にせず」
との“公理”を立て、頑なに、公開を「拒否」してきた。その「成果」が今回のテーマにもまた、はしなくも、赤裸々に露呈したのである。


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