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「娜大津の長津宮考」  合田洋一


『松前史談まさきしだん』』第28号(平成24年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
平成23年7月9日 松前町北公民館に於いての講演録

「にぎたづ」はいずこに

斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実

合田洋一

はじめに

 道後温泉や道後平野を飾る“珠玉の伝承”とは。それは聖徳太子道後来湯説の唯一の根拠であった『伊予国風土記』逸文に遺されていた「温湯碑」建立の地、『日本書紀』記載の舒明じょめい天皇の「温湯宮ゆのみや」、斉明さいみょう天皇の「熟田津石湯行宮にきたついわゆのかりみや」、そして『万葉集』を彩る額田王ぬかたのおおきみの歌とされる「万葉八番歌」、山部赤人やまべのあかひとにまつわる「飽(熟)田津あきたつ」・「射狭庭いさにわの岡」・「伊予の高嶺たかね」などである。これらは、古より今日に至るまで、伊予の古代史上に燦然と輝いていた。
 昨年の当講座では、聖徳太子とは「創られた虚像」であったことを論述したのであるが、今回は「にぎたづ」を始めとする右の“珠玉の伝承”の舞台についてお話する。
 結論を述べると、「万葉八番歌」は別として(後述)、これらの通説は全て間違いであり、正しくは朝倉(現・今治市)及び西条市一帯の越智国(おちのくに)が比定地であったと考えている。しかも、その越智国に「紫宸殿ししんでん」という畏れ多い地名遺跡(西条市明理川)があった。「紫宸殿」とは天子の御殿のこと。これは、一体何を物語るのか。本日は時間の関係上、そのさわりだけの話しになるので、次回に詳述することにしたい。
 ところで、『日本書紀』で“狂人”扱いされた斉明天皇とはどのような人物であったのか。また、斉明天皇崩御の地は通説の九州の朝倉ではなく、越智国朝倉であったこと、更にまた、このたび騒がれている斉明天皇陵は奈良の明日香あすかの牽牛子塚けんごしづか古墳(八角形墳)ではなく越智の朝倉にある「伝・斉明天皇陵」であったと思われること、などを論述する。
 もはや、越智国の歴史は単なる伊予の郷土史ではなく、日本の古代史を揺るがす歴史となってきた。
 なお、詳しくは拙書『新説 伊予の古代』(創風社刊)や拙論収録の『古代に真実を求めて』第13集・同14集(明石書店刊)をご覧戴きたい。

 

一、越智国とは

 最初に、伊予国(現在の愛媛県)に在った古代の「越智国おちこく」は一体どのような国であったのかについて、お話をさせて戴く。
 越智国とは『国造本紀』(1) に遺る越智氏の国である。
 同書記載の伊予国内5つの「国造くにのみやつこ」のうち、東予地方には2つの国、即ち1つは小市(おち・越智)国造の国(越智国)で今治市朝倉中心の旧越智郡、いま一つはその西隣の怒麻ぬま国造の国(怒麻国)で旧大西町中心の野間郡、というのが今までの考え方である。しかし、『国造本紀』にはないが、宇摩地方(現四国中央市)にも前方後円墳の存在やその他の遺跡、そして「馬評」などの遺物があることから「クニ」の存在が窺われる。一方、この越智国と宇摩国(仮称)の間、つまり旧新居郡(旧新居浜市・旧西条市)、旧周桑郡(旧東予市・旧小松町・旧丹原町)の広大な一帯には国がない。つまりこれらの地は空白地帯となっている。
 そこで、越智国の領域について、古墳やその他の遺跡の分布状況をベースに神社・仏閣及び文化や伝承などから考察を試みた。
 越智国は、初め今治市を流れる頓田川とんだがわ流域の朝倉盆地から発して、その後、西は越智郡の東部・蒼社川そうじゃがわの右岸まで、東は旧周桑郡、旧神野郡(のち新居郡となる旧西条市・旧新居浜市一帯)の新居浜の国領川こくりょうがわ左岸までの範囲であった。その後、更に進んで西は怒麻国の領土と思われる蒼社川左岸から西へと勢力を拡大して糸山付近まで、東は国領川を越え新居郡全域、そして越智郡の島嶼部をも支配圏にしたと考える。つまり、大和朝廷の律令体制(「大宝律令」)に入るまでの越智国は、広大な領域を支配していたのである。
 またこの地は、紀元前三世紀頃の「出雲王朝」の滅亡(「国譲り神話」)まではその支配圏にあり、越智国としての始まりは不明であるが、終わりは7世紀末葉まで、「九州王朝」の支配下にあったと考えている。
 そのことは、この地での隠岐島後おきどうご産の黒曜石の鏃の出土や、出雲の神様“須佐之男命すさのうのみこと”を祀る素鵞(そが)神社や牛頭ごず天皇社の数多の存在から、また越智国王は古田武彦氏(元・昭和薬科大学教授)提唱の「多元史観」・「九州王朝論」による出雲王朝の職制「国造」であったこと、そしてその後九州王朝の職制「評衙ひょうが」の長官の「評督ひょうとく」になったと考えられるからである。
 この国の都は、初め朝倉の「古谷こや」から、その後旧今治市の東部にある「新谷にや」へ移り、更に又この辺り一帯が『日本書紀』天武天皇七年(678)十二月の記事にある大地震により壊滅したと見られることから、海岸線の後退により、穀倉地帯となっていた旧今治市に行政の中心域を移していったと思われる。つまり頓田川河口の海岸部「古国分ふるこくぶ」のある桜井の地へ移ったのである。また、ここはその後「評衙」になり、大和王朝時代に入って大宝三年(703)伊予国での「大宝律令」による行政区画では「郡衙ぐんが」となり(後述)、これにて越智氏も越智郡の郡司ぐんじとなるのである。
 なお、「伊予国府」は越智郡の「国分」(こくぶ・今治市)に置かれたと考えている。
 このように、越智氏の都や行政府を考察する際、「古谷と新谷」、「古国分と国分」という相対する二つの地名がキーポイントとなった。
 ところで、「越智国」の「オチ」の語源は、古田武彦氏の「言素論」によると「オ」は接頭語。「チ」は、『古事記』『日本書紀』に出現する出雲の神様「オオナム・テナヅ・アシナヅ・ヤマタノオロ」などの「チ」と共通している、と言う。
 そのことからも、霊峰石鎚山の「イシヅ」の「チ」も然りであり、ここは出雲系の「チ」の神さまを戴いた氏族が居た土地と考えられる。
 また、「イヨ」の語源は、同氏によると「イ」は“神聖な”の意、「ヨ」は“世の中”の意。
 一方、通説の語源の一つは、「出湯いでゆ」が「いゆ」となり「いよ」となった、と。そうなると、温泉の出る地は全て「いよ」となってしまうが、如何であろう。


(1) 『国造本紀』は『先代旧事本紀』所収 『国史大系』黒板勝美編 吉川弘文館

伊予の古代 大型古墳分布一覧と「国々」の推定領域   「にぎたづ」はいずこに -- 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実 合田洋一

伊予の国々 地図 伊予の古代 「国々」の推定領域   「にぎたづ」はいずこに 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実 合田洋一

 

二、「いさにはの岡」と「伊予ノ高嶺」

 次に、「伊社邇波いざにはの岡」もしくは「射狭庭いさにはの岡」と「伊予ノ高嶺」についてお話する。
 前者は、僧・仙覚せんがくが『万葉集註釈』(1) で、『伊予国風土記』所収の「温湯碑」が建てられた湯ノ岡を「これ即ち伊社邇波の岡」と記している。
 後者は、万葉歌人・山部赤人が「伊予の温泉に至りて作れる歌一首并に短歌」(『万葉集』巻三・三二二・三)に詠った「伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして」によったものである。この岡が道後温泉の側らにあったというのが通説だった。但し、場所は特定できていない。そして、石碑は江戸時代より盛んに探索されたが、今日に至るも発見されていない。
 仙覚は、「温湯碑」が立てられた岡を「伊社邇波の岡」としているが、それに対して「温湯碑」の全文を収録している『釈日本紀』(2) では、
  「時に湯の岡の側らに碑文を立てき記して云へらく」
とだけあって伊社邇波の岡の記載はない。
 ここで確認しておきたいことは、「温湯碑建立の地」と「伊社邇波の岡」は、近くにあるものの別の岡であり、また側らの「湯の岡」も別だということになる。
 次に、万葉歌人・山部赤人の「伊予の温泉に至りて作れる歌一首并に短歌」
「(前略)伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして(後略)」
      反歌
「ももしきの大宮人の飽田津に船乗りしけむ年の知らなく」(『万葉集』巻三・三二二・三)

であるが、この「伊予の高嶺の射狭庭の岡」の解釈は、伊予の高嶺にある射狭庭の岡か、または射狭庭の岡から見える伊予の高嶺かのどちらかである。この解釈によってその比定地は大きく違ってくる。つまり、前者はそこからは必ずしも伊予の高嶺は見えなくても良いが、後者は必ず見えなければならない。しかしこの歌は、どう見ても射狭庭の岡から伊予の高嶺が美しく見えなければならないと考える。私は歌の情景から、また万葉の代表的歌人の一人でもある赤人ならでは、の歌として考察すると、後者の観点に立つ。
 ところで、拙書『新説 伊予の古代』では「伊予の高嶺」とは通説通り石鎚山であるとしたが、その後これは間違いである、と気がついた。
 それは、石鎚山だけではなく、共に霊山信仰の対象となっている瓶ヶ森かめがもり・笹ヶ峰を加えた石鎚連邦ではないか、と考えるようになったのある。
 そう思ったのは、『万葉集』巻三に赤人が詠う長歌
“天地の分かれし時い神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を(後略)”(三一七)とあり、またその反歌に有名な
 “田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける”(三一八)

とあるように、石鎚山だけを詠うのであれば「石鎚の高嶺の射狭庭の岡」とすれば良く、敢えて「伊予の高嶺」としなくても良い、と思ったからである。
 そして、石鎚山は現在でこそ四国一の高山となっているが、その当時は四国山脈にほぼ等間隔で並ぶこの三峰 (石鎚山1982m・瓶ヶ森1897m・笹ヶ峰1860m) の高低差は明確ではないと考える。因みに、次に示す地点から仰ぎ見ると、私には真ん中の瓶ヶ森が一番高く見えるのである。
 そのようなことを考えると、この情景は道後温泉・道後平野からは全く望むべくもない。また西条からの景観が素晴らしいと言えても、三峰を真っ正面から一望にできる所は旧市内でもそんなに多くはないようである。しかし、その中でも最も歌の情景に叶っている場所があった。三峰を仰ぎ見るに天気の良い日は絶景であり、真南に石鎚山が見えるその場所とは、「橘島・祭ヶ丘」である。ここには古代から「石岡いわおか神社」が鎮座している。ここは氷見ひみ地区の古代の海岸線の突端にある。
 石岡神社の元・宮司玉井忠素たまいただもと氏によると、石岡の語源は、
 「神功皇后のこの地への凱旋を祝って祝い岡となり、その後石岡となった」
とのことである。
 更に、現・石岡神社宮司越智基晃おちもとてる氏は、
 「本殿を建てる際、その下に何か重要な物を埋めたとの伝承があり、またこの地は“いさにはの岡”という伝承もあって、それが“いさおか”となり、その後石岡となった」
と言っている。
 因みに、「いさには」の語源は古田武彦氏の「言素論」によると、
 イは、伊予・石鎚や壱岐・伊豆と同じように“神聖な”の意。
 サは、土佐・宇佐などに見られる地形名詞で、領域を示す語。
 ニは、赤土・祭祀。
 ハは、広場。

 従って、「いさには」は「お祀り広場」の意であり、「祭ヶ丘・祝ヶ岡」と同義語となる。
 そのようなことから、山部赤人が詠う「伊予の高嶺」を美しく望見できる「いさにはの岡」の比定地は、この岡がピッタリ、との想いに至った。
 ところで、石岡神社の近くを流れる猪狩川いかりがわの古名が「伊雑里川いざりがわ」であり、また西田甲の小字(石鎚神社がある所)に「伊雑」がある。(3) これは現在の地名では「いぞう」であるが、明治時代までの地名は「いざ」である。そうなると、これは伊社邇波の伊社と関係があって、この辺り一帯が「いざ」と言われていたのか、という想いに至る。今後の課題としたい。


(1) 『万葉集註釈』 仙覚著『万葉集』の注釈書 鎌倉時代の文永六年(1269)成立
(2) 『釈日本紀』 卜部兼方著 『日本書紀』の注釈書 鎌倉時代中期成立
(3) 古田史学の会・関西の正木裕氏にご教示を戴いた。

案内図 地図 伊予の古代  「にぎたづ」はいずこに 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実 合田洋一 

 

三、「熟田津石湯行宮にぎたついわゆのかりみや」はいずこに

 それでは「いさにはの岡」が石岡神社の鎮座地であるならば、その近くに「熟田津石湯行宮」がなければならない。では一体何処にあったのかを見ていきたい。
 西条の「橘新宮神社」にあるご神像の内部及び『旧故口伝略記』(1) に「熟田津は西田なり」とあり、また同書には「熟田」が「西田」に替わったとも書かれていた。ところが、同じ西条の「保国寺ほうこくじ」に伝わる『萬年山保国禅寺歴代畧記』(2) には「熟田津は橘島」(氷見・石岡神社の鎮座地)とある。何れにしてもこの両方とも西条市内の目と鼻の先である。この熟田津は、『日本書紀』斉明紀の「熟田津石湯行宮」と『万葉集』の山部赤人の「伊予之高嶺」を詠った飽(熟)田津を指していると考える。また、朝倉の岡家に伝わる『岡文書』の『伊予不動大系図巻』(3) には「石湯行宮の地は新居郡なり」とある。
 その比定地とされる所は具体的に二ヵ所あるが、このうち、私は今のところご神像の文字を重視しているところから、西田説を採る。つまり、石湯八幡宮(現在は移転して橘新宮神社の境内にある)が鎮座していたとされる現在の安知生あんじゅうの地に、「熟田津石湯行宮」があったということになる。道後平野には「にぎたづ」の確かな地名遺存はないが、ここにはあったのである。但し、『万葉集』八番歌の額田王が詠ったとされる熟田津は、「熟田津多元説」で有明海の「諸富町もろとみちょう新北にきた説」を私は支持する。拙書『新説伊予の古代』で詳述しているが、ここで一つだけその理由を述べると、“多島海”の、しかもこの近辺は最も潮流の激しい所であり、“夜”船団を出すなどとは到底考えられないため、西条からの出航は無理と思っているからである。
 次に石湯であるが、古田史学の会・今井久氏は「熟田津石湯行宮」の「石湯」は、この地方に数多く見られる“石風呂”であると言っている。氏の論証の概略は次のようである。

 橘新宮神社の『旧故口伝略記』に「橘天王石湯を造り」とあることから、自然の温泉ではなく、切石を積み上げて造った人工の湯であること。近くに「切石」の地名が遺存している。現代に言うサウナである。『日本書紀』では、「舒明紀」にあるごとく温泉は「温湯」または「湯」と記されており、この「斉明紀」のみ「石湯」とあるので、これは通常の温泉とは思いがたいこと。この辺りの桜井・河原津・船屋・磯浦には石風呂があって、石風呂文化圏であったこと。

などである。私は「石湯」即ち「石風呂」説を支持する。そして、『旧故口伝略記』に出現する「橘天王」とは、『日本書紀』で「橘広庭宮」を構えたとされる斉明天皇のことである、と考える。

(1) 『旧故口伝略記』橘新宮神社口伝書 神主高橋出雲守 享保十二年の口述 現存は明治写本
(2) 『萬年山保国禅寺歴代畧記』(略して保国寺縁起)保国寺五十三世淵九峰叟著 享保十六年
(3) 『岡文書』『伊予不動大系図巻』は文明年間(1480年頃)〜明治初年までの記録。岡氏は平安時代より朝倉・行司原に舘して、南北朝時代は笠松山行司原城主、豊臣時代に帰農。

熟田津・射狭庭岡・神井・湯ノ岡 比定参考図 伊予の古代 「にぎたづ」はいずこに 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実 合田洋一

芝井の泉 中山川堤防より石鎚連峰を望む  伊予の古代 「にぎたづ」はいずこに 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実 合田洋一

石岡神社 石湯八幡宮旧跡 伊予の古代 「にぎたづ」はいずこに 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実 合田洋一

 

四、斉明天皇の実像

 1 袁智天皇おちてんのうとは

 『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』に「袁智天皇おちてんのう」が出現する。そして、『日本書紀』孝徳紀白雉元年十月条にも、「資財帳」と同じ丈六仏像の記事があることから、『日本書紀』岩波文庫本の「注」には、この袁智天皇は斉明天皇のことと記されている。その理由として、斉明天皇がこの寺の創立に関わっていることにあるようである。
 また、斉明天皇は飛鳥の「小市岡おちのおか」に葬られたということから、袁智天皇と言われたという説もある。
 この「小市岡」についておもしろい伝承がある。
 それは河野氏の出自といわれる一柳家(ひとつやなぎけ・旧小松藩主)に伝わる『播州小野藩一柳家史料由緒書』(1) に、

 「推古天皇の御宇に越智益躬が新羅の鐵人を退治したご褒美として、年老いたら伊予は遠国ゆえ行路は難儀するであろうから大和国の土地を与える。その土地を小市里あるいは越智郷という。」

とあった。この記事をそのまま是認するわけではないが、これの示すところ、大和の「小市(越智)」は、伊予の越智に因んで名付けられたということになる。 
 ところで、越智国は斉明天皇伝承が頻出していることから、「袁智天皇」が「斉明天皇」であるならば、朝倉にある『無量寺由来』に出来する「朝倉天皇」「長坂天皇」「長沢天皇」あるいは須賀神社にまつわる「中河天皇」など、これらの不思議な天皇は一体何者なのか、という疑問が生じてくる。
 このようなことからも、斉明天皇は以前にも増して不可解な天皇と言わざるを得なくなってきた。その人物像は益々混迷の度を深めてきたのである。拙書『新説伊予の古代』で、「斉明さいみょう」は大和王朝の天皇ではなく九州王朝の天子だった可能性があるとも論じているが、その可能性が一段と高くなってきた。
 鑑みるに、当時の大和王朝と越智王国は規模の違いはあれ、日本列島の宗主国である九州王朝の支配下で対等の国である。つまり“個別独立に存在”していたのに、斉明が大和王朝の天皇としたならば、伊予滞在期間足かけ3ヶ月の間に(『日本書紀』による)、伝承とはいえ行宮を朝倉に2ヵ所・西条(橘・氷見地区)に2ヵ所、周桑郡に1ヵ所、また行宮説のある宇摩郡土居町(現・四国中央市)の村山神社(長津宮)を加えると、6ヵ所も他人の領土に設営することなど到底考えられないからである。一方、これが宗主国・九州王朝の天子であるならば納得できる。
 また、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀の記述の違いも九州王朝天子説の要因となる。何故なら通説は、皇極天皇が重祚ちょうそして斉明天皇になったとされているが、その記述から推すととても同じ人物とは考えられない。皇極紀はごく普通の穏やかな人物の治世の記述となっているが、かたや斉明紀は「恐心の溝たぶれごころのみぞ」で象徴される“狂人”扱いの記述であるからである。つまり通説は、『日本書紀』編纂における時代の整合性を図るためか、むりやり皇極天皇に合体させたとしか思えないのである。そして、越智の朝倉に「斉明さいみょう・現大字地名は太之原おおのはら、古名は皇之原おおのはら)という地名があることから考えると、当時実在していた“斉明”という名前の九州王朝の天子が越智国に行幸したことが濃厚となってきた(大和王朝の天皇諡号は後世の命名。因みに、皇極天皇の名は「宝皇女たからのひめみこ、天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ」であり、皇極・斉明諡号は奈良時代中期以降)。
 いずれにしても、斉明天皇が「袁智天皇」であるならば、“斉明なる人物”と越智国は、密接な繋がりがあったことになる。
 また、斉明天皇の夫とされた舒明天皇が、他人の領土の越智国に5ヵ月間(『日本書紀』による)も滞在したということも、常識的には考えられない。従って、舒明天皇も大和王朝の大王ではなく、九州王朝の天子ではなかったか。それも、『隋書』「イ妥国伝」に登場する“日出ずる処の天子”阿毎多利思北孤あまたりしほこの皇太子“歌弥多弗利(かみたふのり・上塔の利)”のことではないか、と考えていることを併せて付言しておきたい。

 2 斉明天皇崩御の地

 『日本書紀』巻二六「斉明天皇七年七月二十四日に朝倉宮で崩御」とある。通説は九州の朝倉である。暑い盛りであるが、御陵が大和の飛鳥であるならば、亡骸をどのようにして運んだのであろうか。
 ところで、『日本書紀』「巻二十九・天武下」及び『釈日本紀』「巻十五・天武下」に次の記述がある。
 「天皇幸於越智。拜後岡本天皇陵。」
 即ち、天武天皇が越智に行幸して、後岡本天皇(斉明天皇)陵を拝した、という記事である。
 ところが、斉明天皇陵と言われている所が各所にある(2) が、そのどれもが未確定となっている。時間の関係上その詳細は省かせて戴くが、一つだけ述べると、平成22年9月10日、マスコミが一斉に奈良県明日香村にある八角形墳の「牽牛子塚けんごしづか古墳」が「斉明天皇陵か」と報道した。そして、八角形墳は天皇陵の形式だと言っているが、事実は違うようである。これについて古田武彦氏は、

 この形の古墳は地方にも幾つもあり(宝塚市の中山荘園古墳、群馬県の一本杉古墳、広島県の尾市一号墳、奈良の東明神古墳・岩屋山古墳など、河上邦彦著『大和の終末期古墳』より)、地方豪族の墓でもある。そうなると、大和王朝の天皇陵は地方豪族と同じとなる。

と。
 このように、近畿にある斉明天皇陵と言われている所は確実性に乏しく、また斉明天皇の九州王朝天子説が急浮上してきたことからも、また「紫宸殿」地名遺跡の存在からも、越智国朝倉にある「伝・斉明天皇陵」(所在地・朝倉上)は真実の陵墓であったのか否かに突き当たる。
 そこで私は、この越智行幸の記事は、越智国の「伝・斉明天皇陵」を拝したということではないのか、と。そうなると、天武天皇が遠路はるばる越智国に行幸して墓参したことになる。
 ところで、橘新宮神社にある『橘新宮神社由書記』「高外樹城家傳之事」(3) に次の記述がある。

 「天皇当国当熟田津の石湯洲之橘新殿神宮に行宮したまう也。又是より越知朝倉宮に遷座。ここに於いて天皇崩じたまう也。この時先祖が宇摩の津袮宮(長津宮 -- 筆者注)と越智朝倉宮で人馬を奉り公事を勤めた」

と。
 この書では、天皇崩御の地は九州の朝倉ではなく、越智の朝倉であったとしている。そのことから、この地に埋葬されたと考えたい。「人馬を奉り公事を勤めた」の文言がそのことを雄弁に物語っているのではないだろうか。越智国朝倉にある「伝・斉明天皇陵」は、真実の陵墓だった可能性が極めて高くなってきた。

(1) 西條史談会会員の高橋重美氏にご教示を得た。
(2) 『斉明天皇陵考』(山田裕論考、古田史学の会・四国)
(3) 高橋重美氏にご教示を得た。

 おわりに

 「熟田津石湯行宮」・「射狭庭岡」・「伊予ノ高嶺」望見の地は、越智国の西条の氷見・西田地区であり、また前回論述した「湯ノ岡」・「温湯碑」の建立地・「神井」も同じ地区にあった。そして、舒明天皇の「温湯宮」・斉明天皇崩御の地・斉明天皇の御陵は越智の朝倉であることを、一部推論を交え論証した。
 ところで、前述のように「紫宸殿」という畏れ多い地名があったことから、旧西条市と朝倉に挟まれた旧・周桑郡が、向後、古代史上で俄然脚光を浴びることになって来るのではないだろうか。何分にも、この地に九州王朝の天子のための宮殿・つまり今流で言う“皇居”があって、或いはここが“副都”、はたまた政庁の移転が伴えば“首都”だった可能性も急浮上してきたからである。
 このことからも、越智国は九州博多湾岸と近畿の難波を結ぶ瀬戸内海航路の中心地であるばかりでなく、古代日本列島の中心でもあったことになる。そして、越智国は伊予国内最大の領域を持つ強国でもあった。では、繁栄した背景、中でも「永納山古代山城」を築城できた源は一体何によるものだったのであろうか。
 それは、一つには豊富な地下資源にあった。領国からは銅・鉄・マンガン・朱・丹(『朝倉村誌』)、他に白金(アンチモン?古賀達也氏にご教示を得た)などが産出されていた。また、島嶼部での塩の生産もある。更に芸予諸島の中心・大三島に鎮座する大山祇神社や越智水軍によってもたらされる富も、その背景にあったと考えられる。 
 一方、道後平野ではさしたる地下資源もなく、また富に結びつくこれといったものはない。それにも関わらず、『伊予国風土記』逸文に遺された「湯郡」の説話から、伊予の古代の中心地は、道後温泉・道後平野であるとされて来たのである。そして、「風土記」編纂時において、伊予国の温泉は唯一道後にあったことにもよる。
 しかしながら、風土記の「湯郡」の説話は、前回詳述した通り、大和朝廷による虚偽の説話であったこともあり、またこれまで論述してきた一連の考察からも、冒頭の“珠玉の伝承”の舞台を道後温泉・道後平野に比定することは、全て間違いであったのである。 
 ところで、伊予国国司の初見は、『続日本紀』巻三文武天皇条「大宝三年八月百済王良虞りょうぐ伊予守」であり、通説の『日本書紀』持統天皇三年(689)の伊豫総領すべおさ田中朝臣法麻呂のりまろではない。それは、「総領」とは九州王朝の職制であるからである。そこで、『続日本紀』の記事から解ることは、伊予での「大宝律令」の施行は701年ではなく、遅れて703年と考える。このことは、強大であった越智国が“すんなり”と大和朝廷の威に服さなかったためではなかったのか、とも考えたい。以後、越智国は大きく解体され、この中から神野郡(後の新居郡)・桑村郡・周敷郡が立郡された。
 しかしながら、越智氏発祥の地である朝倉と、郡衙所在地になったと思われる越智氏の都・古国分、そして国府所在地となったと思われる国分、それに島嶼部を加えて、越智氏の抵抗を少しでもやわらげるためであろうか、これら一帯が越智郡となったのである。
 そして、「紫宸殿」が在った地は、僅か三郷の小郡で桑村郡として立郡された。それに至るには、由緒ある特別の地であったからではないか、と思っている。  
 また、桑村郡郡司として伊余国造家・伊予郡司家の「凡氏」(多氏・大氏・太氏)が越智氏への“目付”のためかどうかは定かではないが、任命されている。
 以上、わが国の古代史学、そして伊予の郷土史の通説に異を唱え、 “にぎたづ論”“斉明天皇論“を論述した。諸兄のご批判を仰ぎたい。


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