『「邪馬台国」はなかった』三十周年

古田史学会報
2001年12月12日 No.47


長野県松本市『市民タイムス』紙(2001年9月7日)より転載させていただきました[編集部]

リレーコラム 四季の楽章

『「邪馬台国」はなかった』三十周年

         ー北村明也

 五十年以上も前の話でず。遠いといえば遠い、近いといえぱ未だ鮮明に昨日のことのように覚えている方もいます。
 浅間の球場で目にした高校野球の応援風景。上半身裸で熱烈な声援を送る姿が余程印象深かったのでしょう。
 後日、ある高校の校長にその人は尋ねたそうです。
 「元気な生徒がいますね」
 校長先生の答えが愉快です。
 「いや、あれはね、わが校の先生です」

 ◇
 松本ゆかりのその青年教師は、やがて『「邪馬台国」はなかった』(昭和四十六年の発刊)で学界に衝撃的な登場を果たしました。
 古田武彦先生。ことし七十五歳。旺盛な研究活動は、いささかの衰えも見せません。この三十年、先生は原史料を尊重し、権威に迎合せず真実を追求、分析し、精力的に数多くの研究論文、著書を発表し続けています。世上、広く話題に上ったものも枚挙にいとまないほどです。『失われた九州王朝』『盗まれた神話』『古代は輝いていたI〜III』『多元的古代の成立(上・下)』『古代史を疑う』『よみがえる卑弥呼』『古代は沈黙せず』『真実の東北王朝』『九州王朝の歴史学』等々。
 古田先生は『三国志』の記述を信じ、論証を積み重ねて『「邪馬台国」はなかった』を発表しましたが、その手法は変わることなく「九州王朝」実在の証明、それに先立つ「出雲王朝」の存在を明らかにし、近畿天皇家一元による歴史観を退けて「多元的古代」の概念を提唱されました。
 古代に多くの王朝があった。「そのような展望の中でこそ、近畿天皇家がその中で果した、相対的な、適正な位置、それがハッキリと浮かび上がってくるのである。そしてよき面も、悪(あ)しき面も、真実(リアル)に理解することができるのだ。そのような新鮮な目が若い人々の中に誕生したとき、新たな数々の独創の湧(わ)き上がる時代、そのような豊かな未来がわたしたちの眼前に待ちかまえていることとなろう」。先生は『日本古代新史』のあとがきで、このように若い世代に熱いメッセージを発しています。

 ◇
 先生が松本を去るとき、動き始めた列車の窓に向かって教え子(といっても、さほど年齢が違わないのですが)が大声で「堕落するなよ!」と叫んだそうです。「私が学間的良心を守り続けた原点です、あのときの“堕落するなよ!”は」と先生は、よくお話しになります。
 「古田史学」と呼ぱれる独自の世界をつくり上げた先生には全国各地に市民レベルの研究会があり活発な動きを見せています。松本にも是非「古田史学の会をつくろう」との声は長い間、消えることがありませんでした。関係者の熱意が実ってことしの三月十一日、「古田史学の会・まつもと」(住田正会長)が発足しました。六月に第二講、九月二日には第三講「正直な歴史ー火の祭りと信濃遷都」のテーマで先生の卓見が披露されました。
 三年前の師走、先生から大役を恵投いただきました。『古代に真実を求めてー古田武彦古稀記念特集』(明石書店)です。その中で私にとって驚きを禁じ得ない一文(古田史学の会事務局長古賀達也氏)がありました。私もお手伝いした蓼科でのシンポジウム「邪馬台国徹底論争」の思い出です。一週間にわたるシンポジウムは朝九時から夜遅くまで続き、先生が疲労の極に達しているのは誰の目にも明らか。夜の部の参加を一日だけでも休んでいただこうと古賀さんが進言しました。
 「ここで死んでもいいじゃないですか」とは一言のもとに斥(しりぞ)けたといいます。
 「そのときの先生は鬼だった。本当に怖かった。叱られながら、わたしも覚悟を決めた」とは古賀さんの述懐です。
 先生の古代史探求の姿勢に以来、私は脱帽しつづけています。

(エッセイスト=松本市)


これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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