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古田史学会報
1999年6月3日 No.32

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多利思北孤の瀬戸内巡幸

『豫章記』の史料批判

京都市 古賀達也

 昨年、わたしたちは数々の学問的成果にめぐまれたが、中でも『新撰姓氏録』の史料批判により天孫降臨の年代(皇暦の孝元時代、紀元前二世紀頃)を推定し得たこと、九州王朝の水沼遷宮を明らかにしたことは、以後の九州王朝史研究に大きな進展をもたらすものと注目されよう(注1. )。今回、この二つの成果に立脚して『豫章記』の史料批判を試みたので報告したい。

 

 伊予二名洲への天孫族降臨

 『豫章記』は伊予の越智氏の系図と歴史を綴ったもので、室町末期に成立したとされる(注2. )。本文中には平家物語・太平記などが引用される他、「家ノ相伝」「家ノ旧記」も引用されている。越智氏は後に河野氏を名乗っており、河野水軍の活躍などでも著名な氏族である。『豫章記』の他、越智氏系図、河野氏系図、伊豫三嶋縁起などからも一族の歴史をうかがい知ることができる(『群書類従』所収)。
 越智氏は始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊豫皇子としているが、伊豫皇子の三人の子どもの末子が伊予国小千(越智)郡大濱に住み着いて、小千御子を名乗る。兄の一人は吉備の児島に行き三宅氏を、もう一人は駿河国清見崎(後の伊豆国、三島神社付近か)に着き、大宅氏をそれぞれ名乗る(注3. )。初代の伊豫皇子は伊豫郡神崎郷に宮を造り、後に霊宮大神と称される。宮の南方十八町にある山の腰に皇子の陵があり、「天子の陵に似たり」と『豫章記』には記されている。
 この始祖説話は国生み神話における天孫族の伊豫二名洲の征服譚(天孫降臨の一つ)ではあるまいか。それは孝霊天皇の子ども、孝元の時代に当たるからだ。しかも、小千御子の子は天狭貫、孫も天狭介を名乗っており、いずれも天孫族であることを示している。すなわち、伊豫皇子や小千御子が天孫族で、孝霊の子の孝元の時代に「伊豫二名洲」を支配下におくために派遣された説話と思われるのである。伊豫皇子の次男が吉備の児島に住み着いたことも、国生み神話の「吉備子洲」に対応しており興味深い。
 この分析が正しければ、天孫族が大八洲各地へ降臨させた氏族を調べることが可能と思われる。大八洲の地の豪族の系図より、出自を孝霊・孝元とするものを調べればよいのだ。一例として、古代吉備の豪族、吉備津彦命は孝霊紀によれば孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命の亦の名とされており、孝元と同時代に設定されている。このことにより吉備津彦が「洲生み説話」あるいは「天孫降臨」の時代の人物である可能性をうかがわせるが、『日本書紀』記述の信頼性の問題があるため、なお慎重な検討が必要である。
 このように『新撰姓氏録』の史料批判により確立された「皇暦による時間軸」というスケールが、天孫降臨氏族を調べる際にも有効な方法と思われるのである。

 

 九州年号「端正」記事

 『豫章記』系図中に九州年号の端正(『二中歴』では「端政」)が見えることも注目される。伊豫皇子を初代として、十五代目「百男」の下にある細注に「端正二年庚戌崇峻天皇時立官也。其後都江召還。背天命流謫也。」と九州年号「端正」(元年五八九年)が記されている。端正二年(五九〇)に立官したとあり、この地方の長官に任命されたものと思われる。たとえば『長典筆記』や『聖徳太子伝』などに崇峻二年(端正元年)の分国記事が見えるが、(日本国内の三十三国を六十六国に分国したとされるテーマについて、現在執筆中である。(注4. )この分国に伴って新たに国々の長官が任命されたと考えられることから、この端正二年立官記事は九州王朝下の任官記事であろう。そして任命したのは九州王朝の天子、多利思北孤の可能性が高い。なぜなら、太宰管内志の大善寺玉垂宮関連記事によれば、端正元年に玉垂命が三瀦で死去し、端正三年には上宮法皇(多利思北孤)の「法興」年号が端正と並立して建元(法隆寺釈迦三尊光背銘による)されていることから考えて、次代の倭王は多利思北孤となろう。
 端正元年(五八九)という年は、南朝陳が隋に滅ぼされた年でもある。南朝の天子に対して臣下の礼をとっていた倭国にとって一大衝撃であったことを疑えない。陳の滅亡を機に倭王は天子を名乗る。あの有名な「日出る処の天子」だ(『隋書』イ妥*国伝)。そして自らの直轄支配領域を九国に分国し、「九州」と称したのではあるまいか。この分国の翌年に越智氏が伊豫国の長官として引続き任命されたことは当時の情勢とよく一致する。このことも越智氏が天孫降臨以来の九州王朝配下の一氏族とする理解を支持するのである。
     イ妥*(タイ)国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 

 三島大明神の正体

 『豫章記』中、もう一つ興味深い記事がある。三島大明神降臨説話である。現在、大三島にある大山祇神社の祭神は、『豫章記』によれば「崇峻天皇御宇端正三年庚戌當国迫戸浦天降玉フ」とある。『伊豫三嶋縁起』では「端政二暦庚戌自天雨降給」とされるが、庚戌の年は端正二年(五九〇)に相当することから、『豫章記』の場合、崇峻天皇三年と端正二年庚戌が混同され「崇峻天皇御宇端正三年庚戌」と誤記されたものと思われる。
 神様の降臨にしては、六世紀末の端正二年では新しすぎる「神話」ではある。これは神様の話ではなく、倭国の天子、阿毎多利思北孤の巡幸説話ではあるまいか。瀬戸内海地方には伊予大三島の他にも、厳島神社には推古天皇の時(端正五年、五九二)に宗像三神を祭ったという社伝があるし(注5. )、伊予国風土記逸文に「法興六年(五九六)」に法王大王が当地を訪れた記事が見える。このように、端正年間(五八九〜五九三)から法興年間(五九一〜六二二)にかけて多利思北孤の足跡が瀬戸内沿岸部に遺されているのである(注6. )。これらを「多利思北孤の瀬戸内巡幸」の痕跡と呼んでみたい。
 それでは何故この時期に多利思北孤は「瀬戸内巡幸」を行ったのであろうか。思うに、南朝陳の滅亡が深くかかわっていたのではあるまいか。すなわち、この時代、筑後川南岸の水沼の地に都心(宮殿)を構えていた九州王朝が、南朝の滅亡により仮想敵国隋による南(有明海)からの侵入の脅威にさらされたこと、これを疑えない。そして多利思北孤がより安全な地への遷都を考えても不思議あるまい。実際に一時期大三島に行宮を構えたことも考えられよう。たとえば、大三島の大山祇神社の偏額に「日本総鎮守大山積大明神」と「誇大な呼称」があるのも、その痕跡ではあるまいか。考古学的成果については未調査なので、今後の課題としたい。
 そして巡幸の末、筑後川以北の筑前太宰府に都心を戻したと考えているのだが、それを記念した年号が「定居」(六一一〜六一七)や「倭京」(六一八〜六二二)ではなかったか。なお九州王朝の遷宮については『新・古代学』4集掲載予定の拙稿(九州王朝の筑後遷宮)を参照されたい。この他にも、『豫章記』には重要な記事が記されているが、稿を改めて報告させていただきたい。

(注)
1. 古田武彦氏はじめ、三宅利喜男氏、福永晋三氏らの諸研究成果による。
2. 本会書籍部の木村賢司氏は越智氏の末裔とのこと。木村氏の友人でもある水野代表の要請により、『豫章記』を調査したことが本稿執筆のきっかけとなった。
3. 伊豫皇子の三人の子供は“みつご”である。関西例会にて水野氏の御指摘を得た。
4. 『九州の論理』(仮称)所収予定。古田武彦氏、福永晋三氏との共著。明石書店刊。
5. 水沼の君も宗像三神を祭っており、厳島神社のある佐伯郡には海部(あま)郷があったことも、多利思北孤との関係をうかがわせる(多利思北孤の姓は阿毎である)。また、国立京都博物館蔵の厳島縁起絵巻には「端政」が記されている。『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とある。
6. 川之江市・伊予三島市の南に「法皇山脈」が走っている。この「法皇」の由来については、山並が鳳凰に似ているためや、白川法皇への木材供出に応じた褒美として名付けた、後白川法皇の時の杣の平四郎の活躍によるもの、などの諸説がある(法皇青年会議所インターネット・ホームページによる)。今後の検討課題としたい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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