古田史学会報
1996年 2月20日 No.12


九州王朝への一切経伝来

『二中歴』一切経伝来記事の考察

京都市 古賀達也


 今春発行予定の本会会員論集に掲載される拙稿「倭国に仏教を伝えたのは誰か」において、九州王朝への仏教初伝問題を論じたが、それに関連して一切経伝来問題についての私見を報告し、読者の御教正を賜わりたいと思う。

 一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピタカ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を総集したものである。総集目録として最も早いものは、前秦の道安(三一四〜三八五)による『綜理衆経目録』(六三九部八八六巻)とされる。その後も漢訳仏典の訳出の増加により次々と衆経目録が編纂され、唐代以前のものだけでも二十種に及ぶという。
 また、一切経のシステムは、仏典の網羅的な集成とその合理的な分類という二つの目的を持っており、その時代の仏教学や仏典学の知識水準の上に成立していた。これを中国仏教史から見ると、南北朝時代末期に荒廃した仏教は、隋(五八一〜六一八)による中国統一後、文帝のもとに急速に復興し、道教と並んで中国の宗教界を二分した。そうした中で、隋代には四種の一切経が編纂された。唐も隋の仏教政策を継受したものと考えられ、九種の一切経が編纂されている。
 わが国における一切経の受容を見ると、『日本書紀』孝徳紀白雉二年(六五一)に見える次の記事が初出である。

 冬十二月の晦に、味経宮に、二千一百余の僧尼を請せて、一切経を読ませむ。

 この他には、天武二年(六七三)三月に書生を集めて川原寺で一切経を書写させ、同四年十月に、四方に使を遣わせて一切経を求めさせ、さらに同六年八月には飛鳥寺で一切経を読ましめた記事が見える。以上が『日本書紀』に見える一切経関連記事の全てである。
 『日本書紀』によれば孝徳天皇は「仏法を尊び、神道を軽りたまふ」とあり、大化前代にはほとんど見えなかった宮中での仏教行事が孝徳天皇以後頻出する。後に奈良朝では一切経の写 経が国家プロジェクトとして盛んになる。
 さて、白雉二年に見える一切経は、六〇二年、唐の彦?(五五七〜六一〇)により撰述された『衆経目録』(二一〇九部、五〇五八巻)と見られている。経典の数だけ僧尼を招請するという後代の例から、白雉二年の一切経を二一〇九部からなる『衆経目録』と推測されたものである。
 こうした『日本書紀』の内容から、わが国での一切経の受容は孝徳期頃からとされているが、それとはやや異なる史料がある。『二中歴』「年代歴」に見える次の九州年号記事だ。

 僧要 五年 乙未 自唐一切経三千余巻渡

 九州年号の僧要元年(六三五)に唐より一切経三千余巻が渡ったという記事である(「僧要,五年,乙未」とは僧要年号は五年続き、元年は乙未の年であることを意味する。一切経記事は僧要元年の出来事。)。先の白雉二年記事の十六年前だ。巻数も異なる。この記事は信頼できるだろうか。私は信頼してもよいように思う。なぜなら、この三千余巻に対応する一切経があるからだ。それは隋代(開皇十七年、五九七)に費長房により撰述された『歴代三宝紀入蔵録』(一〇七六部、三二九二巻)である。時期的にも巻数においても相応しており、問題ない。
 そうすると、この『二中歴』の記事は『日本書紀』の一切経記事よりも早い伝来記事であり、近畿天皇家以外に伝来されたものと見なさざるを得ないであろう。『二中歴』「九州年号」の細注に見える記事を九州王朝のものとする見解は中小路駿逸氏らによりすでに出されているが、この一切経渡来記事も同様に九州王朝記事と見なすべきと思われる。
 一切経の請来はその規模や内容、目的(写経、仏典の研究普及であろう)から見て、古代においては国家的事業と考えられることから、『日本書紀』の初出記事よりも早い『二中歴』のこの記事は、九州王朝の一切経受容に関する貴重な情報と言えるのではあるまいか。
 『隋書』イ妥*国伝に見える次の記事からも、当時の九州王朝が隋の仏教(漢訳仏典や一切経)将来にかける意気込みがうかがえよう。

大業三年、その王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って 仏法を学ぶ」と。

  大業三年(六〇七)、遣隋使と共に渡った沙門数十人が、仏教文化が絢爛と花開いた隋朝で見たものは完成して十余年の一切経ではなかったか。彼らは仏法を学ぶ傍ら、それら経典の書写 も行ったであろうこと疑えない。
 イ妥*国王多利思北孤の目的にも当然一切経の将来は含まれていたであろう。しかし、その後イ妥*国と隋は断交する。そして六一八年、隋は滅び唐が建国される。
 隋末唐初の混乱の後、沙門達は一切経と共に帰国する。そのことが『二中歴』に記されたのではあるまいか。時に六三五年、イ妥*国王は多利思北孤からその子、利歌彌多弗利の時代だ。『二中歴』によればその年、九州年号は仁王から僧要に改元している。もしかすると、一切経伝来を記念しての改元ではなかったか。沙門達の運命を史料は何も語らない。

インターネット事務局注記(2000.12.1)

1. タイ国の、タイは[イ妥*]です。人偏に 妥 です。


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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