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古田史学会報11号


山口家文書「庄屋作左衛門覚書」考 『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論
古田史学会報
1995年12月25日 No.11
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山口家文書「庄屋作左衛門覚書」考

和田家文書は孤立していない

京都市 古賀達也

 津軽の歴史家、福士貞蔵氏が著された『飯詰村史』(昭和二六年刊、編集は二四年に完了)中に和田家文書が引用紹介されていることを拙論「東日流外三郡誌とは」(『新・古代学』1集)にて報告した。そこでは、「諸翁聞取帳」と「庄屋作左衛門覚書」が福士氏の他の論文などから推察して和田家文書であると述べたのだが、後者については私の思い違いであったようだ。このことについて訂正と報告をしたい。
 五所川原市立図書館の福士文庫には福士氏の自筆原稿などが現存する。私はその全てにざっと目を通し、必要なものはコピーをとっていた。その中の『郷土史料蒐集録第拾壱巻』に問題の「諸翁聞取帳」と「庄屋作左衛門覚書」が書写 されている。内容は主には飯詰高楯城関連の伝承であるが、両者ともほぼ同じ様な内容が伝えられている。それは始祖を後醍醐天皇の忠臣藤原萬里小路藤房とし、中野家(現在も続いている)をその末裔とするものだ。高楯城は大浦為信(津軽藩初代藩主)により滅ぼされており、その城主について様々な伝承が残ってはいるもののいずれも根拠に乏しく、郷土史家の間でも永く謎とされてきた。
 中野家を城主の末裔とする説は、古老の聞き取り調査に基づいて福士氏が昭和十一年段階で発表されている(「郷土史研究者の苦心」『陸奥史談』第四輯所収)。また、昭和十六年にも同説を発表されている(「郷土史料珍談集」『陸奥史談』第十三輯所収)。そして昭和二二年夏、和田家の天井より落下した「諸翁聞取帳」に同説が記されていることを知り、『飯詰村史』をはじめ諸論文で発表されたのである。
 さて、最近私は「郷土史料蒐集録第拾壱巻」に書写された「庄屋作左衛門覚書」の項に「味噌ケ沢山口敬八家所有文書」と記されていることに気付いた。和田家文書ではなく、「山口敬八家文書」だったのである。このことの持つ意味は大きい。すなわち、同じ様な高楯城関連伝承が地元の複数の家で伝承されていたことは、偽作論者がいうような、和田家文書は喜八郎氏による偽作だから孤立している、という批判を覆すからである。永年調査しても口碑伝承でしか伝わっていなかった内容が複数の家から古文書として出現したのであるから、福士氏が諸論文で繰り返し報告した気持ちはよく理解できる(福士氏は飯詰村史の編纂を昭和十年頃から開始されている。刊行が二六年であるから、足掛け十七年にわたり調査、執筆されたのである。学問とはかくも長期の丹念な調査と忍耐が必要であることを古田氏と福士氏から教えていただいたようだ。昨今の偽作論者の軽率かつ軽薄な言動を見る時、彼らの「学問の方法」が古田氏や福士氏とは異質であること、明白だ。)。
 このことを和田喜八郎氏に質問したところ、昭和二二年の天井からの落下後、福士氏に持って行ったのは「諸翁聞取帳」であり、「庄屋作左衛門覚書」ではないとのこと。うかつであった。当人が御健在なのであるから、最初から聞けばよかったのだ。
 ところで山口敬八家のあった味噌ケ沢は戦後廃村になったようで、今のところ同家の所在は不明だが、戦後のことなのでいずれ判明すると思われる(喜八郎氏の話では味噌ケ沢は山口姓が多かったとのこと)。また、庄屋山口作左衛門の名前は『東日流外三郡誌』にも散見され、私が同覚書を和田家文書と勘違いした原因もここにあった。引続き調査を行い、進展を見たら再度報告したい。
 最後に、「庄屋作左衛門覚書」が山口敬八家文書であることに気付いたのは、五所川原市の郷土史家、半沢紀氏(北奥文化研究会事務局員)から御恵送いただいた史料による。氏は和田家文書に疑義を抱いておられ、私とは見解が異なるが、陶磁器の表面採取分類という地道な研究方法により高楯城史の研究を進められており、その誠実なお人柄は本年五月に初めてお会いしたときの印象からも察せられた。私の誤りに気付かせていただいたことに感謝し、本稿を終える。


注記:二〇一七年七月、古賀達也氏は、下記の「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回しました。古賀達也の洛中洛外日記第1466話 2017/07/29参照

 

『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論

京都市 古賀達也


 『隋書』百済伝末尾に[身冉]牟羅国について次の記事が見える。
 
其南海行三月、有[身冉]牟羅国、南北千餘里、東西数百里、土多 鹿、附庸於百済。

 通説ではこの[身冉]牟羅国を済州島のこととするが、いくつかの問題点が存在する。まずその位置が百済より南へ海を渡って三ヶ月かかるとされている点だ。次に、その地形が南北方向が千餘里、東西方向が数百里とされており、縦長であることだ。現在の済州島は朝鮮半島の南海上約百キロメートルに位置し、三ヶ月もかかる距離ではない。地形も南北最長約四〇キロメートル、東西最長約八〇キロメートルの横長の島で、百済伝の記事とは縦横逆である。こうした明白な矛盾がありながら、通説がなぜ[身冉]牟羅国を済州島とするのか不明だが、本稿ではこの問題について一試論を提出し、古代における地形表記について考察する。

 まず明らかなことと思えるが、『隋書』百済伝の[身冉]牟羅国の里数記事は短里で書かれている。縦横逆ではあるが、短里(一里約七六メートル)とすれば済州島の大きさとぴったりである。『隋書』イ妥国伝の記事にも『魏志』倭人伝の里程記事(短里)がそのまま引用されており、『隋書』東夷伝には短里と隋代の長里が混在している。[身冉]牟羅国記事のケースも短里と考えられるが、この短里による地形情報源が魏晋朝まで遡るのか、それとも百済では隋代においても短里が使用されていたのかは当記事からだけでは不明である。しかし、おそらくは後者であろうと考えている。この点については別稿で詳論したい。
 次に、最大の難問である縦横逆転問題であるが、筑後国風土記逸文にある磐井の墳墓に関する次の記事に問題を解く鍵が秘められている。

筑後の国の風土記に曰はく、上妻の縣。縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南北各六十丈、東西各四十丈なり。(『釈日本紀』)

 石人石馬で有名な磐井の墓、岩戸山古墳についての記事だ。ここでは墓の大きさを「南北各六十丈、東西各四十丈」と記されているが、南北間の距離が六十丈、東西間が四十丈という意味ではなく、墓の南辺と北辺が各六十丈、東辺と西辺が各四十丈という意味である。そう読みとらなければ現在の岩戸山古墳の形とは縦横の比率があわないのである。この場合は「各」という字があるので、こうした理解は得安いと思えるのだが、実際の研究史では南北間の距離が六十丈、東西間の距離が四十丈という理解が先行したため、磐井の墳墓の比定に困難が生じたと聞く。現在でこそ別区を持つ岩戸山古墳で一致を見ているが、例えば岩波古典文学大系『風土記』(一九八七年第三一刷)の解説では「磐井の墓は人形原にあったのであるが何れか不明。」とされているほどだ。
 この縣風土記の成立を古田武彦氏は六世紀とされたが、この時期の倭国には地形表記として東辺西辺と北辺南辺を、「東西各何丈、南北各何丈」とする表記方法が存在したことがわかる。とすると先の[身冉]牟羅国の場合も倭国と同様の表記方法で述べられた、あるいは記されたものが、中国側の史官が自国の表記方法(東西間の距離、南北間の距離)と同じと誤解し、縦横逆の表記となったのではあるまいか。なぜなら、[身冉]牟羅国への距離が海行三月と記されていることなどから、隋の使者は身[身冉]牟羅国へは行っておらず、百済側の情報に基づいて[身冉]牟羅国記事を書いたと考えざるを得ないからだ。
 こうした理解が正しければ、イ妥国伝の国境記事「東西五月行、南北三月行」の読解にも同様の影響を及ぼす可能性があるのだが、稿を改めて論じたい。なお、イ妥国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]牟羅国と百済伝末尾の[身冉]羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。
 また、イ妥国伝に「夷人不知里数、但計以日」とあるが、この夷人とはイ妥国人のみを指すのか、あるいは東夷の人とするのか、本稿の問題と関連して重要なテーマであろう。『風土記』や『日本書紀』に短里の痕跡が色濃く残っている史料状況からすれば、イ妥国は短里を使用していたことは間違いないと思われるのだが、とすれば「夷人不知里数」とは何を意味するのか、この点も興味深い問題である。
 本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。

インターネット事務局注記(2017.8.8)

1.済州島である[身冉]羅国の[身冉]は、身編に冉。ユニコードなし。

2.百済伝末尾の[身冉]牟羅国は[身冉]は、身編に冉。ユニコードなし。

3.イ妥 (タイ)国の、[イ妥]は、人偏に妥、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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