和田家文書に使用された美濃紙追跡調査(東日流外三郡誌案内)

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「山王日吉神社」考(4)宝剣額偽造説の変節 古賀達也

『新古代学』のすすめ 菅江真澄は日吉神社に行っていない

古田史学会報
1995年 8月15日 No.8

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『新・古代学』のすすめ

「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて

京都市 古賀達也

       一
「私が生きているうちに、寛政原本を出してくれ。でないと化けて出るよ」
 昨年の五月六日、五所川原市の旅館での一夕。古田先生の半分冗談、半分本気のこの「化けて出る」の一言が気に障ったのか和田喜八郎氏は立腹されたようで、約束された和田家文書の貸与が断わられそうな雰囲気のまま宴席は終った。古田先生に頼み込んで、同行させていただいた初めての津軽旅行。せっかく来たのに、無駄足になるのだろうか。
 翌朝、和田氏に電話すると、すぐ来てくれとのこと。心配は杞憂だった。前日の不機嫌は嘘のように、喜八郎氏は、これも持って行け、これも持って行けと、結局ダンボール箱三箱分もの大量の文書を貸してくれたのであった。
 和田喜八郎氏や和田家文書、そして津軽との私の出会いはこうして始まった。以来、一年余、津軽行脚は四度に及び、ようやく津軽弁にも耳慣れたこの七月、『新・古代学』第一集が世に出たのである。同書は和田家文書研究にとっても、古田史学にとっても画期をなす一冊となろう。
 古田史学はその誕生以来、学界からの無視や中傷が続く中、真実を愛する多くの人々から支持されて、じわじわとその影響を広めてきたのであったが、『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンの勃発と同時に、かつての支持者の中からの離反・裏切り、そして犯罪的な偽作キャンペーンや様々な妨害に出会ったのである。そのような中で生まれた『新・古代学』を手にした時、私は決意した。こうした事件の渦中、古田先生のそばで、見たこと聞いたことの一部始終をいつの日か書き残しておこうと。人々の裏切り、妨害と中傷、そして津軽の地で古老達から聞き取った言葉の一つひとつを歴史の一コマとして。その題名は秋田孝季に倣って「諸翁聞取帳」としよう。「平成・諸翁聞取帳」だ。

      二
 本年の五月四日、石塔山荒覇吐神社で和田喜八郎氏の娘さんにお話をうかがうことができた。偽作論者たちが入手した喜八郎氏の自筆原稿とされているもの(『季刊邪馬台国』五一号グラビア「和田喜八郎氏の自筆原稿」)が、娘さんの字であると、古田先生から聞いていたので、別原稿についても同様の確認をとることが目的であった。
 それは藤本光幸氏から借りた、『東日流内三郡誌』を原稿用紙に書き写したものだ。それを見せて、娘さんの筆跡であるかどうかを問うた。

 「たぶん私の字だと思いますが、昔のことなのではっきりとは断言できません」
 「こうした原稿用紙への書写や清書をよくされるのですか」
 「はい。父は字がへたなので、私がよく清書します」
 「文章そのものを書き直されることはありますか」
 「はい。文章がおかしいところは私が直すこともあります。でも、そのことがどうかしたのでしょうか」

 娘さんは筆跡が問題となっていることをご存じ無いようであった。私が、偽作論者は筆跡鑑定の基礎を取り違えていること、従って「喜八郎氏の自筆原稿」とされるものが娘さんの字であるという事実は、偽作論を根底から崩すものであることを説明すると、

 「“父の字”とされた私の字と文書の字は、そんなに似ているのでしょうか。」

 と、筆跡に関して率直な疑問を呈され、

 「助けて下さい。子供は学校でいじめられて泣いて帰って来ます。働きに出ても、父の名前は出せなくなりました。どうか助けて下さい。」

 と、深々と床に頭を下げられるのであった。そして、私からの質問に答えて、ぽつりぽつりと話しだされた。

 「家の文書のことをはっきりと知ったのは高校生の時でした。『東日流外三郡誌』を出すかどうかで、家族が話し合っているのを聞いて、文書のことを知りました。家族の者はみんな反対でした。しかし、父が出すことを決断しました。」
 
 市浦村史として『東日流外三郡誌』が世に出たのは、このような和田家内での深刻な討議と決断の結果 であったのだ。「門外不出、他見無用」と記された文書を出すのであるから、和田家でのこうしたいきさつは痛いほど理解できる。現に昨今の偽作キャンペーンにより、その心配は現実のものとなったのであるから。
 けれども、なお一言する。にもかかわらず「後世に障りなき世至りては世に出すべし」(『北斗抄』廿七、記了巻の二五節)という和田長作の「遺言」(『新・古代学』五六頁)を特筆大書しておきたい。

      三
 今春、三月十七日、待ちに待った便りが届いた。元市浦村長、白川治三郎氏からの返報だ。すでに大半については本会報6号(『東日流外三郡誌』公刊の真実)に掲載された通 りだが、今ひとつ貴重な証言が記されていたのである。寛政宝剣額についての証言だ。要旨は次の通 り。

1. 絵馬は多数雑然とぶら下がっていた。
2. 宝剣額も奉納されていたという記憶が何となくある。

 偽作論者の一人、斎藤隆一氏は、地元の古老の「証言」と称して、山王日吉神社には昔から何もなかった、としているが、それが虚偽情報であることをこの白川証言は示しているのだ(この点、別稿『山王日吉神社考』にて詳論する予定)。また氏は、宝剣額の存在を証言しているのは松橋宮司と青山兼四郎氏の二人しかいないと決めつけていた(『季刊邪馬台国』五五号九二頁)が、ここに新たな証言者が現れたのである。あるいは、この白川証言も「第三者としての客観性がない」などという「論法」で無視するのであろうか。ちなみに白川氏も相内の出身であり、子供の頃より山王日吉神社のことは熟知しておられるのである。
 さらに、「宝剣額は一部鬼額の下になっていた」という青山証言を紹介したところ、白川氏は「それは鬼の額ではなく、木彫りの鬼だったと思う」と木彫りの鬼が同神社拝殿に架かっていたことを述べられた。このように青山証言を裏づける、木彫りの「鬼」という似通 った情報が得られたのだ(この点、青山氏に再度確認すると、「木彫りの鬼だったかも知れない」と白川発言に留意された)。 
 元村長や当該神社の宮司、そして同地域を測量された青山氏という三者の共通した証言は貴重である。こうした人々をすべて「嘘つき」にしなければならない偽作説はもはや成立不可能である。ちなみに、証言の信憑性について述べるならば、当方の証言者はすべて実名が公開されることを承諾されており、しかも証言の手紙やビデオを公開することさえも了承されている。ようするに自らの社会的信用と責任にかけて証言されているのだ。偽作論者が愛用する匿名「情報」や、証拠が残らない電話の聞き取り「調査」とは、その信頼性においても雲泥の差があること自明であろう(その論理性については既に本会報5号において詳述した通りである。「寛政宝剣額の論理」)。

      四
 この五月、「古田史学の会・北海道」の方々とともに石塔山を訪れた際、以前から要望していた『東日流内三郡誌』(明治写本)を実見することができた。虫喰いでかなり傷んでいる。頁をめくるのにも注意を必要とした。
 さらに、『東日流外三郡誌』『北鑑絵巻』、そして国史画帳と同類の絵が記された¢絵巻£など、事前に喜八郎氏に要望していたものが約束通 り公開されたのであった。しかも喜八郎氏は「古賀さん、みんな持って行ってくれ。紙でも何でも徹底的に調べてくれ。」と、こともなげに言われたのである。私は深く謝意を述べ、調査を約束し、それら文書を借用した。
 現在、それらを調査中であるが、その一端を報告したい。
 まず『東日流内三郡誌・序巻一巻合本』(明治写本・冊子本)であるが、これには反故紙は使用されておらず、筆跡は和田末吉のものと思われた。筆者勤務先(山田化学工業株式会社研究開発部。同社は色素染料メーカー)のブラックライトにて調べたところ、紙からは蛍光反応は全く認められず、戦後開発された蛍光増白剤を使用した紙ではない。冊子の綴じの部分から一部紫色の蛍光があったので注視したところ、その部分のみ白糸で綴じられてれていた。その糸が蛍光を発していたのだ。これは、他の部分がこよりで綴じられているのに対し、その部分のこよりが外れているため、糸で補修した跡であることが判明した。冊子全体にかなりの虫喰いが進んでいることからも、こうした補修がなされなければ、ばらばらになるほどである。このような戦後の補修は『東日流外三郡誌』などにも見られた現象である。
 この戦後補修の痕跡は偽作の証拠ではなく、逆に偽作ではない証拠と言える。戦後に偽作するのであれば、わざわざ一部分だけ紙のこよりを外して蛍光漂白された戦後の糸を使用する必然性は全くないからである。
 紙質については、和紙や染料に造詣が深い、中井康氏(山田化学工業(株)相談役・京都工芸繊維大学卒)に見ていただいたところ、手漉の和紙であるとの見解を得た。他の文書も同様であった。
 次いで、『東日流外三郡誌・訂正総活篇』(明治写本・冊子本)だが、これには数頁だけ青色の罫線が印刷された紙が用いられていた。この紙をブラックライトにかけると、罫線部分から黄色の蛍光を発するものと、蛍光を発しないものの二種類あることが判った。すなわち罫線の印刷に二種類の染料が使用されていたのである。この点、中井氏によれば「たとえばローダミン系染料などは蛍光を持っていますが、そうした蛍光を発する染料は古くからありました。もちろん、蛍光を発することを目的として開発や使用されたものではなく、化学構造的に蛍光を発する骨格を持つというだけでしょうが。」とのことであった。
 最後に、国史画帳と同類の絵が記された「絵巻」だが、これも虫喰いなどによる破損が甚だしく、別 紙による補強(裏打ち)がなされていた。これもブラックライト検査によれば、書かれた紙からは蛍光は認められず、裏打ちに使用された紙からは全面的に紫色の蛍光が発せられていた。これは、裏打ちに使用した紙が戦後の蛍光増白剤使用のものであることを示している。従って、同「絵巻」も戦後補修の痕跡が認められるのである。こうした補修については、和田喜八郎氏からすでに聞き及んでいたことであり、『新・古代学』の拙論「東日流外三郡誌とは」で触れた通りである。
 以上の調査結果は言わば簡易法による「予備調査」であり、本格的調査は今後のこととなる。しかし、いずれも興味深い知見であること、言うまでもない。この貴重な文書を貸し出していただいた和田家にあらためて感謝したい。

     五
 最後に触れておかねばならない問題がある。学問の方法についてである。安本美典氏を筆頭として、偽作論者たちは偽作説成立のための根幹的論点、たとえば明治大正期の大量 の紙(大福帳など)、和田家文書に記された古今東西にわたる情報、和田家が収蔵している膨大な遺物、これらの入手方法についてなに一つ解明し得ないまま、喜八郎氏や関係者を名指しで偽作者として誹謗中傷している。そして、人権侵害とも言える中傷に満ちた「興信所」調査や無責任な匿名「情報」、学問的にも無根の虚偽情報を繰り返し宣伝するという方法を愛用する。彼らにとって大切なことは、真実ではなく、どのように「宣伝」すればもっともらしく聞こえるかという、キャンペーンとしての「効果 」であるようだ。したがって、学問研究として不可欠な史料に対する基本調査や所蔵者・先行研究者への聞き取り調査などを怠ったまま、「論」をすすめるのが彼らの共通 した特徴である。    
 一例をあげよう。斎藤隆一氏は『季刊邪馬台国』五六号の「『和田家文書』は戦後の紙に書かれていた」という論文中、「陸奥史風土記」なるものの紙質鑑定結果 を発表され、戦後の紙であり、戦後偽作の根拠とされた。
 同「陸奥史風土記」なるものが和田家伝来の明治写本なのか、あるいは戦後模写本なのかを、所蔵者や研究者(古田氏や藤本光幸氏)への確認を一切行わないまま、勝手に「和田家文書明治写 本」と決めつけておいて、戦後の紙だから偽作、との「結論」へと飛びつかれたのである。和田家文書には戦後に作製されたレプリカ類が存在することを、古田氏や私が繰り返し注意を促してきたにもかかわらずである。
 しかも、こうした反論を予想してか、論文末尾に周到な「逃げ」を打っている。いわく「それなしに『レプリカ説』を主張するなら、藤本氏は『レプリカ』を発表したことになるのである。」と。ようするに、こういうことであろう。他者(藤本光幸氏)の著書(『和田家史料1』)に「陸奥史風土記」が掲載されていることをよいことにして、その史料の身元を確認もせずに勝手に¢結論£を出し、その「結論」が間違っていてもそれは他者(藤本光幸氏)の責任である、という開き直りの文章なのである。しかも当該史料の入手先を伏せたままである(批判の対象とした史料の出所・所在を伏せるとは、およそ学術論文とは言い難い体である。斎藤氏はこのような「方法」をいつ誰から学ばれたのか。匿名虚偽情報の反復宣伝を愛用する、例の「犯罪心理学者」からであろうか。)。      
 これは結論の当否以前の問題であり、学問の方法が狂っているとしか言いようがない。古田先生は「他者の孫引きではだめ、自ら原本にあたれ」と、繰り返し私達に述べられてきた。それが「学問の方法」(の基本)であると。自らの調査の手抜きを他者の責任にし、それを論文に明記するなどとは、斎藤氏が今なお「研究者」を自称するのならば、恥を知るべきである。少なくとも私は、かつて斎藤氏と席(市民の古代研究会)を同じくして学んだことを恥ずかしく思う。今の斎藤氏に対して、学恩を知れとは、もはや言わぬ 。しかし、研究者としての恥を知るべきであることを率直に述べ、本「起筆」の結びとする。


「山王日吉神社」考(3)

菅江真澄は日吉神社に行っていない

京都市 古賀達也


 寛政宝剣額偽造説の論拠の一つとして、山王日吉神社は江戸時代になかったと、斎藤隆一氏、田口昌樹氏は『季刊邪馬台国』五五号で述べられた。その根拠は、秋田孝季と同時代の人で、同地を訪れた菅江真澄の日記や絵に山王坊や日吉神社社殿の存在が記されていないということだ。江戸時代、しかも文化年間に「日吉神社」が存在していたことは本連載ですでに述べてきたところであるが、偽作論者の学問の方法が根本的に誤っている好例として、菅江真澄遊覧記についての史料批判を行うことにする。
 問題の史料は菅江真澄の旅行記「外濱奇勝(そとがはまきしょう)
」だ。同日記や同地(相内の里)の絵には、たしかに山王坊や日吉神社は記されていない。しかし、学問の論証方法として、書いてあれば存在した根拠とはなるが、書いてない場合は「無かった」根拠にはならないのである。あるいは「なりにくい」のだ。この論証力の差は重要である。こうした学問の方法の基本が斎藤・田口両氏には理解できていないようである。従って、両氏に対する反論はこれで十分ではあるが、さらに「外濱奇勝」そのものの史料批判をすすめることにより、両氏の誤断を一層明白にしよう。
 「外濱奇勝」によれば、真澄は相内の里から春品寺観音堂を目指している。相内の里から春品寺はほぼ真北に位置する。「太田山など右に見て」とあるから、相内の東側遠くに位置する太田山を右に見れば進行方向は北となり、春品寺へのルートとしては正確だ。
 次に記された地名に「常陸沼とて池のあれど」とあるが、相内の里の北には「二ツ沼」と呼ばれている池がある(文字通り二つの池だ)。どうやら真澄はこの二ツ沼を「ひたち」沼と聞き間違えたか、あるいは似た音の「常陸」沼の字をあてたようである。こうした別の字を地名などにあてる例は菅江真澄遊覧記に頻出する。
 次に「湯の沢」、そしてその沢奥に「山王坊の寺跡」があったと記している。斎藤氏らはこの部分をとらえて、すでに山王坊はなかった根拠としたのだが、この点は後でふれることにし、さらに真澄のルートをたどってみよう。
 次いで「左禰宇知沼てふ、又の名を白太鼓が沼とも雄沼ともいひて湖水のごとく大なるがあり」とあり、この沼は同地でもっとも大きい「大沼」であろう。「雄沼」も音は「おおぬま」と思われ、一致する。この大沼は相内の里の北北西に位置する。ここまで来れば春品寺はすぐである。
「かくて春陽沢(ハルヒナイ)なりて、木々のくらき中に入りて、莓よりほそくつたふ嘲の滝とて、手あらひ、口そそぎてとしめす」と、真澄は春品寺に到着し、滝の水で口をそそいだ。今でも同観音堂の裏には滝があり、冷気が漂っている。青山兼四郎氏の話では、子供の頃はもっと水量が豊富で沢蟹もたくさんいたとのこと。 春品寺に着いた真澄は進路を西にとり、唐川沿いに脇元へと抜けている。このように、真澄の歩いたルートは現地の地勢や地名と正確に一致し、明確である。とすると、問題の「山王日吉神社」には真澄は行っていないことになるのだ。現山王日吉神社は真澄のルートの尾根一つ東側にある。真澄の歩いたルートからは約1キロメートル離れているし、尾根の反対斜面にあり見えるはずもない。相内の里から山王日吉神社に行くのなら、進路は真北ではなく、北東にとり、山王坊川沿いに登らなければならない。もし、真澄がそのルートをとったのであれば、山王坊川のことを記したであろうし、逆に「二ツ沼」を見ることは不可能である。こうしたことは地図を見ても一目瞭然であるが、私は念のため現地でも確認した(青山氏の案内による。古田史学の会・北海道の方々に同行させていただいた)。
 それでは真澄が湯の沢の奥にあったとした山王坊の寺跡とは何であったか。昭和五七年以降の発掘調査により、今でこそ山王坊は『東日流外三郡誌』に記された通 り、山王日吉神社近辺にあったことが明らかであるが、江戸時代には漠然とした伝承のみあって、相内近辺の礎石跡であれば「山王坊跡」とされていたのではあるまいか。あるいは、実際に山王坊という名称は広域にわたっていたのかもしれない。いずれにしても、真澄は宝剣額が奉納されていた「山王日吉神社」には行っていない。見ていないものは絵にもかけなかったのだ。
(下図の地図参照 2000.11.10 追記変更)

 このことを補強する傍証がある。奥田順臓氏の論文「十三側面史」(『むつ』第一集、昭和六年。青山兼四郎氏の御教示による)に、山王坊の調査記事が見える。
「ここの山王様は、四圍の強敵を征服し、壮大な新城を高ケ岡に築き旧城下の商戸家臣を茲に移し、盛んに新市街を経営せられた藩主の招請に応じ、川部熊野権現と御同道で弘前に遷御ましまし給ふて優遇を受けられている。今の衣冠束帯の御本尊は跡目相続と云ふ沿革と思はるる。御臺座の裏には奥州津軽弘前の住御小細工人木村氏正行書判としてあるは此御本尊の執刀者であらう。
 前記の華表と社道の南北は梢々平坦で人工的地均した跡こそ僧坊の址であらう。嘉吉三年の永善坊正徳四年出羽の宗順なる僧の住持せる禅紫庵、文化十三年龍圓坊玄入坊などの庵坊は、此平坦地に建てられたと思はる。「嘉慶二年までの處は慥かに分れども其以前何年共相知れず候」と文化十三年自分の庵坊に泊った巡禮者に龍圓坊親から物語つた事と、ここから遺物と共に移転したと云ふ村の庵寺蓮華庵の建物及閻魔の木像の手法形態等から推考して、鎌倉末期の建置と断ずる説が多い。」

 奥田氏のこの論文には、文化十三年に龍圓坊・玄入坊の庵坊が山王坊跡地にあったとする文書が引用されているのだ(出典を調査中)。この記事が事実であれば、秋田孝季の時代にも神社の他に少なくとも庵坊の一つは存在していたことになる。とすれば、真澄がこの庵坊のことも全く記していないことは、やはり「山王日吉神社」に行っていないことと整合する。
 以上、「外濱奇勝」の内容からも、奥田氏の論文からも、真澄は「山王日吉神社」には行っていないことが判明した(正確には「外濱奇勝」の寛政八年には行っていない、ということである)。斎藤・田口両氏のずさんな方法と誤断が、ここでも明白となったようだ。

資料1 菅江真澄『外濱奇勝』「山王坊・春品寺(春日内観音堂)」の部分

 廿三日 あないをたのみ太田山など右に見て、安倍のやからのふる舘のあとありと聞て、見にいなん。はた、そこをむかし春品寺といひて、いま観音の堂あれば、いで登りてんとて、人の屋のしりよりしてゆくに庵あり。延文など、ふるき石のそとばたてり。鳥居に入りては、常陸沼とて池のあれど、ゆへをだにしらぬ あないさいだち、をのがこしなる鎌して高草なぎはらひて、遠からず、湯の沢とて湯のわきづるところ見えたり。その沢奥に、山王坊とて寺のあともありき。そこに、世に名聞えたる弘智法印すみ給ひて、くうつきてのち、越のうしろ国野積といふ磯山にをこなひて、(中略弘智法印の伝承が記される) かの沢のそこに、としふる石碑どもまろび埋れたりしを、近き世に此里のところどころにもてはこび建しなどかたり、左禰宇知沼てふ、又の名を白太鼓が沼とも雄沼ともいひて、湖水のごとく大なるがあり。(中略 湖の伝承が記されている) かくて春陽沢なりて、木々のくらき中に入りて、莓よりほそくつたふを嘲の滝とて、手あらひ、口そそぎてとしめす。(後略)

資料2 市浦村地図に『外濱奇勝』菅江真澄路程を記した

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これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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