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「君が代」と九州王朝 古田武彦(『倭国の源流と九州王朝』)
「日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について 古田武彦(古田史学会報33号)

市民の古代 別巻3 『「君が代」、うずまく源流』 新泉社


「君が代」の論理と展開 古田武彦

「君が代」の論理 P92


 昨年(一九九○)は学問的収穫に恵まれた。その一つが「君が代」問題だった。
 三月二十三日、福岡県の糸島郡をワゴン車で廻った。鬼塚敬二郎さんの愛車。灰塚照明さんの資料解説に拠った。直接の目標は、当地に十社以上列置された「天降神社」の歴訪だったけれど、思いがけず、「君が代」の誕生地問題に直面することとなったのである。
 この点、古賀達也さんの探究との相逢問題と共に、すでにのべた。『「君が代」は九州王朝の讃歌』がこれである。また本書の中でも、各氏が直接のべられるところによって、精しく実情が知られるであろう。
本稿で、わたしの目途するところ、それは「論証」と「論理」に関する弁明である。なぜなら、
 右の本は、会話体を多用し、一般人、初心者に[読みやすい」ことを、最上の目標とした。その目的はかなり達成せられたようであるけれど、反面、「学問上の厳密性」という一点に関しては、十二分の紙輻をついやしたとは、言いがたい。
 ために、本稿では、先ずその一点に筆鋒を集中し、さらに進んで前書においては、立ち入りえなった「未踏の領域」へと、論証を一段と深めてみたいと思う。



 第一のテーマは、「地名の古さ」の問題だ。
 前書の中心テーマは、福岡県の糸島郡や福岡市にまたがる「現存地名」にもとづいて、展開されていた。
「地名と乞食は三日やったら止められない」などとささやかれるように、地名の研究は面白い。しかし、大変むつかしいのである。
 その研究上の困難の筆頭は、地名の「新古の判別」がむつかしいことだ。一つの地名が問題になったとき、
「では、その地名が生したのは、いつの時代か」
と問われるとき、その答は、一般に
「不明である」
というのが正解。これが一般の姿だ。ここに最初の困難性が横たわっている。
      ×          ×
 わが国の研究者がその問題に当面したとき、通例依拠するのは、『和名抄』による判定である。
 この本は、平安時代の成立(承平年中<九三一〜九三八>撰進)であるから、
「この本に出ている地名は、少くとも、平安時代以前に成立していた」
と見なされること、当然である。
 ところが、研究者にとって最大の「おとし穴」は、その裏面にある。すなわち
「この地名は、『和名抄』に出ていないから、新しい」
という判断をもちやすいことである。また、そのように判断することこそ、「学間的」であり、「厳密」なり、と錯覚しやすいことだ。

 この点、たとえぱ、当の糸島郡について、『和名抄』の掲げるところを見てみよう。
怡土郡−−飽田・託社・長野・大野・雲須・良人・石田・海部(8)
志麻郡−−韓良・久米・登志・明敷・鶏永・川辺・志麻(7)
          (『和名類聚抄』郷名考証、増訂版による)
 右のように、ここに掲げる地名は十五個。では、当時(平安時代以前)の当郡内の人々は、たった十五個の地名で生活していたのだろうか。信じられない。ありえないことだ。当然、「和名抄所載の地名は、当時の現存地名の一部にすぎぬ」ことが事実た。
このように、平静な人間の理性で観察する限り、
「当抄にあるから、古い」
とは言えても、反転して
「当抄にないから、新しい」
と言いえぬこと、自明であろう。
以上によって、『和名抄』という「物差し」によって
「地名の新古」を判定することの、不当であることが知られよう。



 第二、「地名群による論証」について。
 右にのべた史料検証が妥当であったとしても、それによって直ちに、
「和名抄にない地名に依存して、一定の時期(たとえぱ、七世紀以前)の歴史事実の論証を行う」
ことの不当であること、言うまでもなく当然であろう。
否、たとえそれが『和名抄』にあったとしても、それは厳密には「平安期の当時点」における実在を保証するにすぎず、決して「七世紀以前」すなわち、わたしが
九州王朝の存続時点
 とするような時間帯の「論証」に使用することは不可。そのように判断すること、原則として当然ともいいえよう。

 では、わたしはなぜ、前書におけるような論定を行ったのか。その答は、次の一点にある。

「地名群の相関と一致」がこれである(地名、神名、神社名等をふくむ)。

 「千代」<福岡市、「八千代」は、「千代」の増複形>。「細石(さざれいし」<糸島郡、細石神社>。「井原(いわら。岩羅)」<糸島郡、細石神社の南>。「苔牟須売(こけむすめ)神」<糸島郡船越、桜谷<若宮>神社>

 右を「君が代は(或は「吾が君は」〈古今集〉)」の歌詞

 君が代は 千代に八千代に
 細石のいわを(或は「いわほ」)となりて 苔のむすまで(或は「苔むすまでに」)

 とを比較すると、冒頭の「君が代は」という第一句を除けば、あとすべて(第二句〜五句)が「糸島博多湾岸」の地名(神名・神社名等)によって〃構成〃されているのである。
 もしこれが、右の中の、ただ一語(たとえば細石)があって、これを「君が代は」の歌詞中の「さざれいし」と〃結び付け〃て解釈しようという論者あり、としよう。

ならぱ、これに対して

「その神社名がどこまでさかのばれるか、不明」

 という反論点を提起すること、「当然の有理」といわねばならぬ。先の『和名抄』はもとより、『延喜式』などを「援用」することも、可能であろう。

 しかしながら、今の問題は、これと異る。一地名の問題ではなく、「地名群の一致」の問題である。これだけの連鎖に対して、

「偶然の一致」

説を立てる論者ありとすれぱ、かえってその人は、「偶然の一致」説に依拠しすぎるもの、との難を避けえないのではあるまいか。

 これを、さらに詳しく、論じよう。
 第一に、博多湾岸(福岡市)の「千代」が「君が代」の「千代」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、糸島郡の「細石」神社が、「君が代」の「細石」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、糸島郡の「井原(岩羅)」が、「君が代」の「岩を」(或は「岩秀<ほ>」)の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第四に、糸島郡の桜谷神社の祭神、「苔牟須売神」が、「君が代」の「こけのむすまで」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 右のように、四種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を
「回避」しようとする。これが、


「『君が代』を『糸島・博多湾岸の地名』と結び付けるのは、学問的論証力を欠く」と称する人々の、必ずおち入らねばならぬ、「偶然性の落し穴」なのである。

 しかし、自説の立脚点を「四種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができようか。わたしには、それを決して肯定することができぬ。
 右によって、反論者の立場が、論理的に極めて脆弱であることが知られよう。


 第三、「神社伝話儀礼との一致」について。

 右の「地名間の一致」間題によって知られるように、「君が代」の歌詞がこの「糸島・博多湾岸の地名群」に基づく作詞であること、その可能性がすこぶる高いことが判明する。なぜなら、それを「否定」することは、逆にはなはだ高い「偶然の一致の四重」を前提にせざるをえないからである。

 しかしながら、右はあくまで「可能性」の問題であって、「決定的論証」ではない。この一点は、否みえないであろう。

 そこに、問題の「志賀海神社祭礼の『君が代』」のもつ論証力がある。ここに「風俗歌」あるいは「地歌」として「君が代」の歌詞が登場している。しかも、それにつづく台詞として、

「志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで」

とのべられている。すなわち、

志賀の浜→香椎路→吹上の浜→千代・八千代

 という地名の連鎖によって、「君が代」の歌詞の中の「千代・八千代」が、現実の博多湾岸の「千代の松原」などで有名な「千代」であること、その一事が明らかにされているのである。
 この「風俗歌・地歌」をとり巻く「文脈(コンテキスト)」から見ると、「君が代」の歌詞をそれだけ〃引き抜いて〃取り扱い、博多湾岸局辺の「地名群」と無縁のもの、と称することの、いかに強引な仕業か、いかに己が先入観を固守するための虚構か、おのずから判明しよう。

 以上を換言してみよう。

 第一、糸島・博多湾岸の地名群や志賀海神社の祭礼が「時間的」に、どの時点までさかのぼれるか、それ自身からは「不明」である。従って、そのいずれかについて
「案外、新しいかもしれぬ」
と〃想像〃することは、一応「可能」である、といいえよう。

 第二、しかし、逆に、「君が代」の歌詞のほぼ百パーセント(「君が代は」の第一句を除く)が、糸島・博多湾岸の地名群と一致する、という事実を「無視」ないし「軽視」することは危険である。両者の間に真実(リアル)な関係が存在した、という「可能性」も高い。

 第三、これを「留め金」のように〃確定〃させるもの、それが糸島・博多湾岸周辺の「風俗歌・地歌」としての「君が代」である。
 志賀海神社は、糸島・博多湾岸周辺の漁人、海人族の守護神として永い伝統をもっている。その神社で、海人たち(地元の人々)によって奏せられる「風俗歌」ないし「地歌」とは、もとよりその「神社」という一点の「風俗歌」「地歌」ではない。そのような概念自身、無意昧(ナンセンス)である。
 当然ながら、その神社を支える信仰領域、すなわち糸島・博多湾岸周辺という一面の「風俗歌」ないし「地歌」である。その「風俗歌」ないし「地歌」とその「一面の中の地名群」との、ほば百パーセントの一致、これをもし「偶然の一致」視する人は、誰か。おそらく「故意の拒否者」「先入観ある拒否者」以外に、到底ありえないのではあるまいか。




 第四、「『君が代』成立の歴史性」について。
 以上の論証によって、「君が代」の歌詞が当地(糸島・博多湾岸)において、当地の土地鑑をもとにして「作詞」されたことが肯定されたとすれぱ、その事実のもつ歴史的意義は何か。
 当然ながら、当地において「君が代」と呼ぶべき〃統一的政治領域〃の存在していたこと、また「吾が君は」(『古今集』等)と呼ぶべき統一的政治権力者の存在していたことをしめしている。かの志賀海神社の祭礼にも、

「あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや」

 として、「我君」が舟に乗って、ここ志賀海神社の祭礼に、(七日七夜の祭の棹尾)参加しようとしているさまが歌われている。対岸(千代)から、ここ志賀島へ渡ろうとする、この「我君」が、他ならぬ[筑紫の君」であろうこと、十二分に察せられよう。
 しかも、この「筑紫の君」は、決して単なる一地方豪族とは見なしがたい。なぜなら、もしこれが一地方豪族の呼称であったとすれぱ、この類の賀歌ないし祝歌は、全日本列島内の「地方豪族の数」だけ存在し、伝承されていることであろう。
 しかし、事実は、薩摩の神歌においても、この賀歌が歌われていた。その流れが(薩摩琵琶歌などを媒介としつつ)、今の「国歌」に採用されるに至ったその経緯は、すでに前書で[糸棲]述したごとくであった。
すなわち、少くなくとも、「全九州的流布」の状勢をしめしている。とすれぱ、これが「一地方豪族のための賀歌」ではなく、一定領域の統一権力者のための賀歌であったこと、その可能性すこぶる高し、とせねぱならぬ。
 そしてその統一権者の所在地が「筑紫」にあったこと、先の「地名群との一致」及び「志賀海神社の祭礼中の風俗歌」問題で、すでに指標されたごとくである。
  これが「九州王朝」である。



 第五に、「『君が代』の淵源」について。
 しかしながら、問題は右で尽きるものではない。
 なぜなら、わたしが「七世紀以前」に存続していた、と見なす、いわゆる「九州王朝」の仮説は、右の分析結果とよく対応するものであるけれど、その歴史的変転を考古学的分析結果によって観察するに、左の二期に大別されよう。

 第一、弥生期においては、「糸島・博多湾岸周辺」をもってその中心領域とする。考古学的には、三雲・井原・平原(糸島郡)、吉武高木(福岡市)、須玖岡本(春日市)といった、いわゆる「三種の神器類」の出土遺跡がその痕跡をなす。
 第二、古墳の中・後期前後(五〜七世紀)においては、筑後川以南をもってその中枢域とする。石人・石馬付き古墳(岩戸山古墳)などや装飾古墳(珍敷塚古墳など)は、そのもっとも個性的な表現である。
 以上の中、今問題の「君が代」が対応し、反映している領域は、どちらか。当然、後者に非ず、前者である。すなわち、邪馬壹国(三世紀)以前の中心領域の「地名群」を背景にしているのである。
 もちろん、この事実は、「君が代」そのものが「弥生期に行われていた」ことをしめすものとは、「直言」できぬであろう。なぜなら、たとえぱ、右の後者(五〜七世紀)の時期にそれが〃歌われていた〃としても、彼等(後者の人々)にとって、前者(弥生期)はその歴史的淵源もしくは権力の源泉の地をなしていたものと思われるから、「当時の、当地の地名群」をもととして〃歌われた〃という可能性があるからである。
 それは十分ありうるとしても、逆にいえば、「後者のみ」からは、「君が代」のしめす「地名群」の分布は説明しえない。−−これは看過しえぬ、キイ・ポイントであろう。
 すなわち、「君が代」の発祥と淵源を求めるとき、それは決して「七世紀段階」にはとどまりえず、必ず三世紀以前」の弥生期の歴史にまで遡らざるをえない。この事実が肝要である。



 第六、「『君が代』と神石信仰との関連」について。以上の論証は、従来の歴史認識(近畿天皇家一元主義)に立つ人々にとっては、容易に「認知」しがたき帰結であろう。
 また、従来の「君が代」に対する論議者(賛否両論者とも)にとって、容易に「首肯」しがたき帰結であるかもしれぬ。
 しかしながら、論理と論証のさししめすところ、右のような帰結は避けがたいのである。
 ところが、問題はここにとどまらぬ。さらに〃戦慄〃すべき局面が展開される。

 第一、記・紀神話(神代巻)の語るところ、それはこの「神話の世界」が金属器崇拝の時期に属していることをしめしている。たとえぱ、天照大神にまつわる「三種の神器類」は、その中の二種(鏡と剣)まで「金属器」である。また「国ゆずり神話」の、一方の主人公たる大国主命は「八千矛の神」と称された。同しく、「金属器」である。
 このような点から見て、この「神話時代」なるものが、弥生期という「金属器の時代」すなわち、鏡や剣や矛(ないし戈)の時代を反映していることは疑えない(この点、記・紀神話をもって「六世紀以降の造作」と見なした津田左右吉の「造作」説は、考古学的出上物分布との比較考察という視点を欠いており、旧説といわざるをえない。津田説の出現した、大正・昭和初期の学間的水準の「未熟」を反映したものであろう)。
 たとえぱ、先にあげた糸島・博多湾岸局辺の五王墓(三雲・井原・平原・吉武高木・須玖岡本)
のごとき、右の神話中の「三種の神器類」と明白な対応をしめしている。
 
 第二、ところが、この「君が代」の歌詞は、その「対応領域」こそ右の五王墓近辺と〃合致〃しているものの、ここには「金属器賛美」は存在せず、「神石(神聖なる石)ヘの賛美」に満たされている。むしろ、その「神石賛美の思想」こそ、「君が代」の歌詞の、〃述語部分(「君が代は」という第一句を除いた部分)〃を貫く根本理念であること、これをつぷやき、歌い、反芻する人の、誰しも疑いえぬところではあるまいか。その表現は、「下の句」(「細石の……まで」)において特に明晰である。
 してみると、この歌の「思想史的背景」は、弥生期のような「金展器中心」の時代ではなく、その前の石器時代(旧・新石器時代。すなわち「縄文以前」)を背景にもつものではあるまいか。
このようなテーマが浮び上ってくるのである。

 第三、今、これを具体的に見てみよう。
 先ず、「細石(さざれいし)」。これを「細」という漢字面から考えて〃こまかい〃〃ほそい〃の意とする、従来の通説は、おそらく正当ではないであろう。
 なぜなら、糸島・博多湾岸局辺には、この「細」という表記がしぱしば使われている。たとえば、志賀海神社の祭礼に出現する「細男(せいのう)の舞」は、決して〃ほそい男〃とか〃こまかい男〃の意ではない。「神聖な男」ないし「司祭者」を意味する言葉のようである。
また、糸島郡の今山の麓にある「細語橋(ささやきばし)」は、〃こまかい言葉〃や〃ひっそりした(内緒)話〃というよりは、やはり「神聖な言葉」「神の言葉」の意ではあるまいか。
 このように「細」が〃精細〃の意からすすんで、〃人間業をはなれた〃〃神聖な〃の意に用いられているとすれぱ、今問題の「細石」も、通説のように〃こまかい石〃〃ほそい石〃〃じゃり石〃といった、形態上の意義ではなく、〃神聖な石〃〃霊妙な石〃〃淵源の石〃〃始源の石〃といった、宗教的な意義を帯びて用いられている。そのように見なすのが妥当なのではあるまいか。
 すなわち、倭語の方の「さざれ石」もまた、右と同様の〃神聖な石〃を指す表現ではないか、と思われる。
この点、さらに明確なのは、次の「いわを」(あるいは「いわほ」である。接尾辞が「尾」であれ、「秀」であれ、語幹部分が「いわ」であることは疑いがない。
 この「いわ」は〃岩〃であり、自然物の名称であること、当然であるけれど、この「いわ」という言葉自身、「みわ(三輪)」という〃祭りの場〃をしめす言葉と同類(「い」は接頭語)であることからも知られるように、むしろ〃岩石〃を「崇敬の対象」としてとらえた「古代用語」であるという可能性が高い。
これと対比すべきものが、「井原」(糸島郡)である。近年まで、わたしはこれを「いはら」と読んできた。ところが、一昨年(一九八九)四月、これが「いわら」であることを知った。土地鑑の深い鬼塚敬二郎氏の御教示によったのである。その結果、わたしは永年の疑問を解消した。すなわち、〃井戸のある原っぱ〃のごとき字面は「借字」にすぎず、その本来の字面が「岩羅」であることを知った。その結果、疑問としてきた「井原山」の地名(山名)に対する不審が解消したのである。「岩羅」は、「沢羅(早良)」「磯羅(磯良)」と同しく、「〜羅」の同一形式をもつ。そしてその語幹部分は「岩」「沢」「磯」といった、単純、素朴な日本語(倭語)に属している。その上、「いわ」「さわ」などの表現には、自然物に対する宗教的崇敬の念がこめられているようである。
 少くとも、単に、そこに「岩石」や「沼沢」があったから、そのように名づけられる、とすれぱ、日本列島中、それらの存在しないところはない。とすれぱ、これらの名称(「岩羅」「沢羅」)は、やはり〃岩石信仰の霊地〃や〃沼沢信仰の霊地〃を指す地名なのではあるまいか。
 以上のような、「井原」の地名に対する、「進一歩」が、今回の「君が代」問題に対して、わたしがこれを正面からうけとめざるをえなかった、重要な「キイ」をなしていた。このことを特に力説しておかねばならぬ。
 なぜなら、先にのべたように、「君が代は」の第一句を除き、そのあとほば百パーセントが「糸島・博多湾岸の地名群」で占められている。という事実をしめしても、なお、その「関係」の実在を疑う人士は存在しよう。ことが「国歌」ともなれぱ、なおさら、多くの感情的好悪の判断が働き、純合理的判断を惑乱させやすいからである。いわんや「君が代」の歌詞と「地名群」との対応が、四個の中の三個、すなわち七十パーセント前後だった、としよう。そのような人士の倍増、否、三倍増すること、火を見るより明らかであろう。
 事実、わたし自身、この「岩羅(井原)」認識がなかったら、慎重を期して、この対応に対して「イエス」の決断を下すに、なお躊躇したことと思われるからである。

 最後に問題とすぺきは、「苔牟須売神」の存在である。右の強調点にもかかわらず、それ以上の決定的な発見、それが、灰塚照明氏によってもたらされた、この神名の認識にあったこと、この一点を疑うことは、誰人にも許されないであろう。
従来、たとえ神社・神名に関心の深かった人々といえども、ほとんど報告されたことのなかった、この神名を『糸島郡誌』の中から発掘されたこと、そして現地(船越)の桜谷神社(若宮神社)これを確認されたこと、これが今回の「君が代」問題認識の、磐石の礎石となったのであった。
この一点は、いかに強調しても、強調し足りぬものであろう。

 この「苔牟須売神」には、容易に、二つの特徴が看取される。
 第一、「苔牟須」といった表現から、これが先の「神石信仰」に関違する神名である可能性の高いこと。
 第二、「売神(女神)」である点も、記・紀神話にもうかがわれる〃女性優位の時代〃の信仰(縄文以前)と結びついている可能性が高いこと。
 この点、留意すべき問題を指摘しよう。それは、記・紀神話は「女性蔑視」「男性優位」の立場に立って[構成」されていることである。
 その証拠に、あの「国生み神話」において、最初「女神主唱」のため「ひるこ」を生んだ。そこで「男神主唱」で首尾よく大八島国を生むことに成功した、というくだりがある。色渡く、「男性優位」のイデオロギーによって「構成」された神話である。
 これに対し、「天照大神」という、〃輝ける女神〃の中心存在が、右と、いちしるしい「矛盾」もしくは「コントラスト」をなしている。
 要するに、記・紀神話は、「女性優位の時代から男性優位の時代への過渡期」において成立した。それが弥生時代という、金属器の時代なのであった。
 このことは、すなわちさししめす。弥生前に当る「旧石器・縄文(新石器)の時代」が「女性優位の時代」に当っていたことを。もちろん、それがすべてであった、とは断しえないけれど、縄文時代の土偶がほとんど「女性土偶」である点も、これと相応しているかに見える(ただし、西日本では、「土偶」の出現自身があまり存在しないから、この点は証拠とはなしがたい)。右のような考察からすると、「神石信仰」「女神」という性格をもつ、この神名は「縄文以前」にさかのばる可能性が高いのである。
 以上によって、「君が代」の「下の句」に登場する「地名群」が「縄文以前の神石信仰」にかかわる可能性の高いことが知られよう。決して「弥生期」の新しきにとどまりえぬ。−−そういった基本性格を蔵していたのであった。



 ここで「縄文以前」の問題を論じておこう。
 通例、わが国の古代学において、考古学を除き、この時期を論ずる者、必ずしも多しとしない。
たとえぱ、神話学言語学・民俗学等、当然「縄文以前」とかかわりをもつかに見える分野でも、その時代のものとして、「神話」や言語」や「民俗」が論ぜられることは少い。いわんや「政治」「国家」について論ぜられることは、ほとんどないであろう。
 それは、学問としての「方法論」の上において、「縄文以前」に当ることの〃裏づけ〃られるケースが少いからであろう。
 しかしながら、わたしはそのための、若干の重要な徴候をうることとなった。それについてのべよう。

 第一は、『出雲風土記』における「国引き神話」である。これについてわたしは、次の分析を行った。

〈その一〉ここに出現する「道具」は、杭・縄・すき(木製もある。「鋤[力nasi]」は金属器時代〈後代〉の漢字)であり、金属器でなければならぬものはない。ことに、〃主役〃の杭・縄は、完全に「金属器前」だ。この点、「銅矛」「銅戈」を〃主役〃とする「国生み神話」とは、決定的に異っている。前者は、「縄文以前」、後者は[弥生期」である。

〈その二〉四ケ所からの「国引き」を語る、この神話の「新羅」(第一)と「越」(第四)は、自明。問題は、第二と第三の「北門」である。

〃出雲から北に当り、「門」〈出ロ、入ロ〉をなすところ、それはウラジオストック近辺である〃

 この平明な思惟から、わたしは『北門の佐伎国」(第二)を朝鮮半島北半の日本海岸部、「北門の良波の国」(第三)をウラジオストック周辺に擬した。
 すなわち、この「国引き神話」は、日本海の西半分を「世界」とした、古代出雲における縄文漁民による創造神話。−−そのように解したのである(昭和六○年七月、島根県斐川町での講演「古代出雲−−神話の層位学」、『銅剣三五八本の謎にせまる』六十一年斐川町刊)。
 ただ、当時の学界において、「縄文時代における日本海南北交流」に関する認識はなかった。そこでわたしは、それを求めてウラジオストックへ向った(昭和六二年八月)。その領域から「出雲の隠岐島産の黒曜石の製品(鏃等)」の出土すべきを信じたからである。
そのさいは、(博物館の改装中などのため)目的を成就できなかったけれど、やがて八ケ月後、向う(ソ連の学者、R‐Sワシリェフスキー氏)が吉報をもたらしてくれた。
縄文後期(紀元前、二千年〜千年)前後の数多くの遺跡から、わたしの予想通り、果して「出雲の隠岐島産の黒曜石の鏃」が各所に存在していたのである。「縄文期における、日本海交流」は、わたしの仮説(神話分析による予想)を〃裏書き〃したのである。

〈その三〉以上は、明らかな、研究史上の事実だ。けれども、神話学者も、歴史学者も、考古学者も、右のような「仮説と検証」について、一切〃ほほかむり〃している。
 たとえぱ、ワシリェフスキー氏のもたらした「縄文期における日本海交流」を特筆大書する考古学者があっても、その事実と、それに先立つ、わたしの「仮説提起」との関係については、「知っていても、ほほかむり」の態度をつらぬいている。学界の怠廃というほかはない(古田『古代の霧の中から』〈徳間書店〉、『吉野ケ里の秘密』〈光文社〉参照)。




「縄文以前」の言語についての認識を、わたしにもたらした、もう一つの研究経験について語らせていただきたい。
 佐賀県の伊万里では、黒曜石のことを「からすんまくら」と呼ぶ。「からすのまくら」のことだという。この「からす」とは、烏。黒いとりであるから、黒曜石の形容に用いられているのであろう。「まくら」は〃真倉〃。「ま」は接頭語。「真井」「真津」「真城」等、「ま」のつく日本語(倭語)は少くない。「くら」は〃高御倉〃〃祝倉(乗鞍)〃〃佐倉(桜)〃等「〜くら」の形で、〃祭りの場〃を意昧する例は、枚挙にいとまがない。
 すなわち、この事物名は、黒曜石が「祭りの場」に用いられていることをしめす用語である、と考えて、あやまりはないであろう。
 このような認識に立つとき、重大な問題が発生する。なぜなら、黒曜石が「祭りの場」にあるもの、として認識される時代、というのは、とりもなおさず、「縄文以前」だ。金属器中心の時代に入ってゆく「弥生以降」になって新たに〃発生〃すべき名称ではない。なぜなら、後者の時代はすなわち〃黒曜石の価値の下落しつづける時間帯〃だからである。
以上の思考にあやまりなければ、「からすんまくら」とは、「縄文以前」の名称、すなわち縄文語だ、という帰結が生れる。とすれぱ、縄文時代にすでに、あの〃黒いとり〃を「からす」と呼び、〃祭りの場〃を「まくら」と言っていた。そのように考えるほか、ないのである。
 このようにして、「縄文語」の一端がわたしの眼前に現われたのである。
 とすれば、「〜くら」の類の地名の中には、今も、「縄文語」が地名として現存していることとなろう。
このような研究経験に立ってみれぱ、先の「〜羅」のタイプの地名が「縄文以前の地名」である、という可能性も、決してこれを否定しえないことが判明しよう。




 細石神社の祭神は、石長比売(磐長比売)と木花之佐久夜毘売の「姉妹」である。しかしながら、この二神の間には、不思議な「不調和」がある。
 記・紀神話の伝えるところ、前者は「悪役」、後者は「善役」。その点、ハッキリしている。
 神話における、このような「構成パターン」には、重要な意義がある。その神話成立期の〃前代前文明)〃の神(とくに主神)が「悪役」を、ふられて「構成」されるのである。
先に挙げた「ひるこ」も、〃蛭子大神〃として、〃輝ける主神〃であった。それを〃不具者〃に〃落しめ〃ている。「前文明の主神」にマイナス・イメージを与えるためだ。
 この場合の「石長比売」も、同様である。本来、〃神聖なる岩を賞めたたえるため、それを女神名として表現したもの〃それが、この「石長比売」ではあるまいか。先の「苔牟須売神」と、同時代、同類の、神石崇拝の表現としての神名である。「め(売)」に対して「ひめ(比売)」は、一段と神格の高い女神なのではあるまいか。
 「君が代」の「下の句」は、本来、この石長比売に対する、その神徳の讃歌だったのではないか。
ーーこれが、わたしの、ついに辿り着いた「根本仮説」だったのである。


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