金石文の九州王朝 -- 歴史学の転換 古田武彦(『なかった -- 真実の歴史学』 第6集)へ

学士会 会報 2006-II No.857

九州王朝の史料批判

古田武彦

     一
 九州王朝説は、三十余年来わたしの提唱し来たった学説である。学術論文や著述を通じ、逐次その論証点を明らかにしてきた。けれども、これに対する学界の応答欠乏し、ために自他に迷惑を与えること、少なくない。
 そこで今、その本質を明確に簡記し、世の識者の眼前に呈示させていただくこととしたい。
 その第一は、金印である。天明四年(一七八四)志賀島で発見された金印が、後漢の光武帝から授与されたものであること、今は周知である。この金印出土の博多湾岸周辺(福岡市・前原市等)から、漢式鏡(前・後漢式鏡)が百数十面出土し、日本列島全体の弥生遺跡出土の九〇パーセント以上を占めていることもまた、著名である。すなわち「金印」出土地というは、「漢式鏡」出土領域というの中に存在する。この一点が重要だ。なぜなら、それはとりもなおさず、金印を授与された、倭国の中心王朝の所在地を明示しているからである。同時代(弥生時代)において、これと比肩すべき出土地帯は、中国周辺にも希有である。朝鮮半島(高句麗・新羅・百済等)にもない。これをもし「王朝」と呼びえぬとすれば、中国周辺に「一切、王朝なし」となる他はない。背理だ。あるいは、「中国のみ存在して、他国なし。」の論理である。

 

     二
 その第二は、三種の神器である。古事記・日本書紀(以下、記・紀)の神代巻も特筆され、それは現在の天皇家にも至っている。周知だ。だが、その(弥生時代の)出土領域もまた、博多湾岸周辺(前原市・福岡市・春日市)に集中している。吉武高木・三雲・須玖岡本・井原・平原の五王墓である。これが弥生時代の王朝でないとしたら、「(弥生の)日本列島に王朝なし」となる他はない。三種の神器を奉ずる、現今の天皇家の淵源もまた、一切不明となろう。歴史の消失である。

 

     三
 その第三は、神話の史実性である。記・紀の神代巻に出現する国名は、出雲と筑紫の両国が圧倒的である。他の出現回数は激減する。著しく両国中心の記述だ。ところが、考古学的出土状況もまた、これと同じである。筑紫(福岡県)の出士が質量とも抜群であること、周知だ。前述以外にも、璧・銅矛・銅弋・ガラス勾玉・鉄器等、弥生時代には筑紫が他を圧倒している。
 出雲もまた、荒神谷・加茂岩倉の二大出土以来、銅鐸・銅矛(剣)(1) などの、抜群無類の出土領域となった。
 これによって記・紀の両国特記と、出土物の両国突出状況と、この両者が一致した。すなわち、記・紀の神話は弥生の史実を背景としていたのである。
 「記・紀の神代巻は、六世紀の大和の史官の造作物」
とした津田左右吉の命題は、正しくなかった。それが確認された。「それは神話にすぎない。」といった、戦後の神話蔑視の慣用句も、今や拭い去られる秋(とき)が来たのである。

 

     四
 その第四、天孫降臨の史実性である。本居宣長は『古事記伝』において、記・紀の天孫降臨を南九州の連峯の地とした。敗戦後の相継ぐ発掘の明らかにしたところ、それはその地の周辺に、三種の神器の出土が絶無だったことである。隼人塚の世界だ。だが、ここには致命的な欠落があった。日本書紀では確かに南九州の「日向ひゅうが」だけれど、古事記では「筑紫の日向ちくしのひなた」だったのである。先の(第三)論証のしめすところ、筑紫は福岡県だ。全九州などではない。その筑紫の中の「日向」は「ひゅうが」でなく、「ひなた」。そこは高租(たかす)山連峯。日向(ひなた)山、日向(ひなた)峠、日向(ひなた)川があり、その川が室見川と合するところ、そこに最古の三種の神器出土の王墓、吉武高木遺跡がある。日向山の隣には「クシフル峯だけ」がある。この天孫降臨地の高租山連峯は、先の三種の神器の五王墓に取り巻かれていた。すなわち、この「天孫降臨」記述は、現地(筑紫の日向)の土地鑑に立ち、考古学的分布状況と見事に一致し、対応していたのである。六世紀の天皇家の史官などが空想で「造作」できるものではない。

 

     五
 その第五、「祭祀」問題である。近畿では大和を中心に天皇陵が濃密に分布していることは、万人周知である。これらの陵墓は(時代による盛衰・変遷はあっても)生きている墓として、祭られつづけてきたこと、疑いがない。
 これに反する領域、これが先述の(博多湾周辺の)三種の神器の五王墓だ。二種の神器ともいうべき立岩(福岡県)や吉野ヶ里(佐賀県)も同じく、「(農家や工事者などの手で)偶然発見された」という事実がしめすように、その「発見以前」に“祭られていた”形跡は皆無なのである。
 この点、先の金印も同じだ。甚兵衛の作男たちに「発見」される前、全く知る人とてなかった。不思議である。
 さらに、筑後川流域に分布する装飾古墳も同じだ。「盗掘」と称して、荒らされ、祭られていた形跡がない。
 これらの問題の極め付けは、神籠石(こうごいし)山城群の存在である。(2) 戦前から聖域か山城かの論争があったが、一九六五年の発掘報告によって山城跡であることが確定した。巨大な木柵の礎石群だったのである。しかし、上部構造や内部構造のすべては廃棄され、潰滅していた。なぜか。
 右の諸問題は、一連の現象だ。それぞれ「時代がちがう」と、一見思われるかもしれぬ。しかし、さに非ず。なぜなら、あの伊勢神宮で垂仁天皇や天武天皇の時代に(天照大神が)奉置されながら、二十一世紀の現在でも、同じく天皇家の祭祀を受けているからである。「祭祀」の本質は、継続なのである。
 これに反するのが、九州中心の神籠石領域だ。その祭祀の神聖な対象としての「三種」や「二種」の弥生墓は“捨て”られていた。祭祀されていなかったのである。装飾古墳も同じだ。空しく、いわゆる「盗掘」にまかされていた。
 壮大なる一大軍事要塞群としての神籠石山城群も、放棄せられ、関連施設も「削除」されたままだった。死んでいた陵墓は、この死に去った軍事施設群と同じ運命だ。一蓮托生だったのである。
「生きている陵墓」と「死んでいた陵墓」、との両者はそれぞれ“生き残った王朝”と“滅ぼされた王朝”の存在の生証人。そのように見ることは、果たして無理だろうか。 ーー否。そう見ない方が不合理。外国の(先入見なき)研究者は、必ずそのように観察するであろう。

 

     六
 その第六、「筑紫都督府」問題である。「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」が「使持節都督」の称号をもっていたこと、著明である。その都督の拠点は「都督府」である。では、日本列島内で「都督府」の名称の存在するのはどこか。文献上(日本書紀、天智六年十一月)も、現地遺称(「都府」は都督府の略称)も、「筑紫都督府」しかない。大和都督府・難波都督府・近江都督府等、両者(文献と現地遺称)とも、全くない。この史料事実から見れば、五世紀前後の倭国の王者の拠点がいずこにあったか(先入見なき限り〉明白である。筑紫なのである。その名称は、七世紀後半(天智紀)にも、用いられていた。
 この天智六年十一月の記事では、中国(唐)の戦勝軍が筑紫に来入したことがしめされている。隋・唐軍は、建康(南朝の都)や百済への侵入にさいし、その宮室・陵墓等を、ほぼ全面的に廃棄していたのである。軍事施設は、もちろんだ。参考となろう。
 これに反し、近畿では宮室(大和や難波等)や陵墓(天皇陵)が廃棄された形跡はない。先述の「生きた陵墓」と「死んだ陵墓」の問題についてこれは、決して見逃せぬ視点であろう。

 

     七
 学筒とは仮説の検証である。大胆に仮説を立で、緻密に検証する。その帰結は天の知るところである。
 一は「近畿天皇家中心の一元主義」。一般には(明治以降)これは不動の定説のように見られてきたけれど、学問的には当然、一個の仮説である。
 一は「九州王朝」説。これもまた、一個の仮説である。

 右のいずれが、先述の六個の疑問に答えうるか。回答は、おのずから明らかだ。「九州王朝」説である。
 敗戦前は、いわゆる「皇国史観」が不動の大前提とされてきだ。しかしそれは「敗戦」という政治的・軍事的事件によってはじめて“葬り去られ”た。しかし今、再びそのような“他動的な圧力”によるのではなく、ひたすら人間の内なる自明の理性によって、可を可とし、否を否とすべきではあるまいか。それがわたしたちの、人間としての名誉であると思われるのである。

 

     八
 太宰府には「天子の遺称」が明断だ。いわく紫辰殿、いわく大(内)裏、いわく大(内)裏岡、いわく朱雀門、 ーーこれらがいずれも「日出ずる処の天子(3) 」との関係、有りや無しや。それらは果たして検証無用のテーマなのであろうか。少なくとも(これを学間上の「有用な疑問」とせず、一切学問上の論争対象とせずに、この三十余年経過してきたこと、不審である。
 今回、編集部の御厚意を得て年来の「九州王朝論」を呈示させていただいたことを喜びとする。なお本誌においてもすでに、
 川端俊一郎「法隆寺のものさしは中国南朝尺」(2004-VI No.849)
 田口利明「『隋書イ妥国伝』から見える九州王朝」( 2005-V No.854)

において、わたしの九州王朝説に立つ論説が展開されているが、共にわたしの名前や論文・著書への言及は一切存在しない。或は学界の「(不書及の)慣行」に従われたものかもしれないが、当然ながら本来の学界のもつべきルールに反している。世界の良識ある学者・知識界の「常識」にも、認められていないものと言わざるをえない。
 その点、両氏も従来の「慣行」の被害者と言われうるかもしれないけれど、日本の学界と日本人の名誉において不幸な事態と言わざるをえないのである。
 願わくは、本稿を画期の原点として、わが国において、みずからの歴史について、明々白々、公然たる論議のさわやかに交流する日の到来の、一日も早からんことを切に望みたい。

(注)
(1)考古学上の試用上の慣例として「銅剣」と呼ばれているが実体は“矛”。(別述)
(2)おつぼ山・帯隈山(佐賀県)、雷山・女山・高良山・杷木・鹿毛馬・御所ヶ谷・唐原(福岡県)、石城山(山口県)、〈「新・古代学、第8集」・(新泉社)図1(二〇ぺージ)〉
(3)隋書イ妥たい国伝には「日出ずる処の天子」の著名の一文の直前に「阿蘇山有り。」ははじまる一節がある。(この点を『失われた九州王朝』〈朝日新聞社、一九八三〉に特記。)それにつづき「如意宝珠有り」という、祭祀の風俗描写があるが、最近(二〇〇五・七月)現地にて現物を見た(熊本県阿蘇郡産山村乙宮神社)。中国側の報告は的確である。

                               (歴史学者・東北大・文・昭23)

「神護石」の分布。森貞治朗「北部九州の古代文化」等によって作図 日本の原理主義批判 天皇家に先立つ九州王朝 古田武彦


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