古田武彦 講演会
大阪 北市民教養ルーム
一九九九年一月十六日 午後一時から四時半

3 籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち

万葉集巻一第一歌

雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [大泊瀬稚武天皇]
天皇御製歌

01 こもよ,みこもち,ふくしもよ,みぶくしもち,このをかに,なつますこ,いへ
きかな,のらさね,そらみつ,やまとのくには,おしなべて,われこそをれ,しきなべて,われこそませ,われこそば,のらめ,いへをもなをも

籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れしきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

原文
01/0001D01雜歌
01/0001D02泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇]
01/0001D03天皇御製歌
01/0001H01籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒
01/0001H02家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居
01/0001H03師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母

校異
01/0001D01雑歌 [元][紀] <>
01/0001D02太 -> 大 [紀][冷][文]
01/0001H02吉 [玉小琴] (塙)(楓) 告
01/0001H02沙 -> 紗 [元][類][冷]
01/0001H03告 -> 吉 [玉小琴]
01/0001H03許者 -> 許 [元][類][古]
[元]は元歴校本
[類]は類聚古集
[古]は古葉略類聚鈔

先頭の読みは西本願寺本です。

ここ二・三日に夢中になっているテーマをどうしても申し上げたいですね。

籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串もち この岳(おか)に 菜摘ます児
家聞かな 告らさね そらみつ 大和の國は おしなべて
われこそ 居れ しきなべて われこそ座せ われにこそは 告(の)らめ家も名も

(岩波古典大系に準拠)

 万葉の最初の歌で、雄略天皇の歌として有名な歌です。ところがこれが駄目なんですね。読みがやっぱりとんでもない読みをしています。

 まず最後の方の「われにこそは」を最初の問題として取り上げます。原文は「我許(者)背歯」となって「者」が抜けています。最初に参照した本が、依拠したものが載っていますが、「元・類・古」というと、何か古いように見えますが、ぜんぜん古くない。全て江戸時代の学者の注釈書です。ですから学者の注釈書で直したものを本文に使っている。それで有名な西本願寺本を始め江戸時代の写本は全部違う。元の写本は全写本一致して違う。どうなっているかというと「許(者)」です。「我許(者)背歯」です。
 ということは、全写本一致した物をカットして、現在原文にして読んでいる。それじゃ「者」が有ったらいけないのか。読めないのか。とんでもない。良く読めるのですよ。

われにこそは 告(の)らめ 家も名も
我許(者)背歯 告目 家呼毛名雄母

 「われにこそは 我許背歯」と現在こう読んでいるが、私はこの読みがおかしいと思う。
 なぜなら「われにこそは 我許(者)背歯」の「背」、背中の「背」を「そ」と読んでいる。この句の直ぐ前の方で、「われこそ座せ 吾己會座」で「曽(かって)」を「そ」と読んでいる。又その上の「われこそ居(お)れ 吾許會居」をでも「曽」を「そ」と読んでいる。ここだけ背中の「背」を「そ」にする必要がどこにあるか。もちろん違う字を使っても良いけれども、そう読むにはそれなりの意味があるわけですから、ここだけ背中の「背」を「そ」にするには理由がいる。こう読んで良いのか、そういう問題がある。しかも全写本一致しているものは、私は全写本を尊重すべきだと思う。
 そうするとどう読むか。「背」を「せ」と読んでいけないという人はいない。だから「我許者背歯 吾こわせば」となる。「者」は「わ」と通常読める。

吾こわせば 告(の)らめ 家も名も
我許者背歯 告目 家呼毛名雄母
私がお願いしますから、あなたの家と名を教えて下さい。

 こう読める。天皇が、雄略天皇がお願いしたらけしからんと、思ったかどうか知らんが、「者 わ」を抜いて「われにこそは 我許背歯」と、読んでしまった。

 更にその前。吉田さんの「吉」と書いて有るが、これは「告」である。「告」を「吉」に変えて、「師吉名倍手 しきなべて」と読んでしまった。これも又江戸時代の写本に一切ない。全写本ない。江戸時代の注釈書すらない。これを行ったのは、本居宣長一人、『玉の子琴(おぐし)』の中の本居宣長の意見で、これは「告」は「吉」の間違いであろうと書き直した。それに従って、「しきなべて 師吉名倍手」と読んでいる。しかし私の立場では全写本一致しているものをそう簡単に直してはいけない。
そうしますと、どうかといいますと「告」を、後の名と併せて「告名」と考えますと、万葉では漢文風に読むことが良くありますから、逆に読むと「告名 名を告(の)べてー名を名乗ってー」となる。となる。それでは「師」はどうなるか。私は「師」は上の方に付けのだと思う。
「われこそ居(い)し 吾許曽 居師ー私は居たー」と読めばよい。
そうすれば全写本一致を直さなくとも良い。

われこそ居(い)し 名を告べて
吾許曽居師 告名倍手
私は居ました。名を述べます。

 本居宣長が、なぜ直したか。もう一度『玉小琴』を確認してみたいが、「名を告べて」読んでしまうと、雄略が自分の名を述べたことになる。ここでは、述べていない。それで具合が悪い。それで「告」を「吉」に直してしまった。しかし全写本に従えば、名を述べているはずである。

 それで一番の眼目に行きます。

そらみつ 大和の國は おしなべて
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手
 今のところ「そらみつ大和の國は」の「大和」は、「そらみつ」の場合は奈良県の大和だと思っていますが、問題は「おしなべて 押奈戸手」である。こんな言い方はない。統治することを「おしなべて」という言い方を皆さんはご覧になったことがありますか。「統治する」と言えば、それでおしまいである。「おしなべて統治する」という変な言い方をする必要はない。

 それにこの歌が変なのは相手に、「家を名乗れ、名を名乗れ。」と盛んに言って居ますよ。

 それともう追加して言っておきますが、最初の句が「家吉閑名 告<紗>根 家聞かな告らさね」となってます。ところが何を名乗るのですか。しかし原文を見ますと「家吉閑」の「閑(かん)」のだけで、「家聞かん(な) 家吉閑」と読める。そして「名告」と続けて、「名告らさね 名告沙根」(紗は沙に戻す)と読むべきだ。それを上の方に付けて「家聞かな 告らさね」とすると、何を名乗るのですか。これもやはりおかしいと思う。「家聞かな」でもよいが「家聞かん(な) 名告らさね 家吉閑 名告沙根」とする方がよいと思う。

篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串もち 菜摘ます
児 家聞かん 名告らさね

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須
兒 家吉閑 名告沙根

 これは主旨に変化はないのですが、家と名を名乗ってくれということを、ここと最後と、二回に渡って要求している。
 ところが従来の読みでは、自分の方は家も名も名乗っていないことになっている。これは失礼な話(はなし)でしょう。人に名を名乗れと言うならば、まず自分が名乗るべきだ。天皇だから名乗らなくとも良いというのはおかしい。天皇は代々居るし、どの天皇かは分からない。天皇は姓はないと言ってもみても名はある。名ぐらいは名乗らなければいけない。姓も名も名乗っていない。ただ相手に要求している無礼な歌になっている。雄略は無礼だ。
 大体この歌の解釈は非常に押しつけがましい。
 しかし普通は、今も昔もそうですが、相手に家と名を名乗れというならば、まず自分の方から家と名を名乗るのが、当然のルールである。ところが実はそれは名乗られていると、私は今思っている。
 それはなぜか。「押名戸手 おしなべて」は、「押名戸手(おしなとべ)」である。
 ここに「おしな 押奈」という名がある。私が昭和薬科大学に勤務していたとき、中央大学の学生で授業を聞きに来た真面目で熱心な人がいた。その人はたしか押部さんと言った。押部さんは有りますよね。「押部」さんの「部」は部落・部民の部である。「押名」の「名」は、浜名湖の「名」であり、非常にあります。だから「押部」さんという名前が有れば、当然「押名」という地名もある。地名は姓に使いますよね。
 そうすると次は「戸手」。「戸手 とで」という名前は非常に名前にふさわしい。関東の金石文に
「韋提(いでい)」という名前もある。
 以上、私は「おしなとで押奈戸手」は名前として非常にふさわしいと思う。

おしなとで われこそ居(い)し
押奈 戸手 吾許曽 居師
(私の家と名前を名乗れば、)押名戸手(おしな とで) 私は(大和に)居た。

 自分の名前と出身を言っている。昔は大和に居たと言っている。今は大和にいない。大和から今はここに来ている。出身を言っている。姓と名を、まず名乗っている。姓は当時地名である。「おしなとで」と名と出身を名乗っている。だから、あなたもどうぞ名乗って下さい。非常に相手を尊重している歌となる。
 それにこの歌自身は読めば明らかだと思うのですが、全体に相手を非常に尊重している。相手を目上に扱っている。だってみんな敬語を付けているではないか。「籠(こ)もよ」と言っておいて、「み籠持ち」と敬語を付けている。「堀串(ふくし)」と言っておいて、失礼だから「み堀串持」と言っている。「籠もよ」と言っておいて、それでは失礼に当たると「み籠持ち」と言い直し、「堀串」と言うと失礼だと、「み堀串」と言い直しますか。そういうスタイルで話を始めている。ということですから、作者より相手の女の人、菜を摘んでいるのは女の人だろうが、その人をむしろ目上に少なくとも扱っている。相手の身分は、ハッキリ分からないだろうし、関係は分からないが、目上という感じで扱っている。我々が習ったような上から押しつけた、雄略がさんざん相手を馬鹿にして、「名前を言え。私はここで独裁君主なのだ。」という、そんな歌ではない。自分を下手において「あなたの家をお聞かせ下さい。あなたの名をお聞かせ下さい。」と言っている。ちゃんと礼儀上自分の名を名乗って、相手の家と名を要求している歌でないか。
 「籠」と言いましたが、失礼と思いますので「お籠」と言い直させて頂きます。「堀串」と言いましたが、失礼と思いますので「み堀串」と言い直させて言わせて頂きます。もし私の家と名を名乗れば、「押奈(おしな)戸手(とで)」です。大和の国はかって自分の居た国です。そして私は今自分の名前を申し上げて、今ここに居ります。私のお願いを今お聞き頂けるならば、あなたのお家とお名前をお聞かせ下さい。

(読み例)
籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串もち この岳(おか)に 菜摘ます児
家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の國は 押奈(おしな)戸手(とで)
われこそ 居れ 名を告(の)べて われこそ居し
吾こわせば 告(の)らめ 家をも名をも
(原文)
籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒
家吉閑 名告沙根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手
吾許曽居師 告名倍手 吾己曽座 我許<者>背齒 告目 家呼毛名雄母

 これなら非常にすんなりと理解できるのですが。
 以上あくまで写本の事実、写本を勝手に変えない。全写本の一致するところに従うという、その方法論に立っている。これがけしからんという人はいないと思いますが。そして相手に「家と名を名乗れ。」と要求するならば、まず自分の家と名を名乗るのが古今の礼儀である。その立場に立って理解している。
 ところがその歌を、雄略天皇の歌にしてしまった。万葉集以前の元の歌集と考える倭国万葉が、皇歴では雄略天皇の時代に当たっていた歌だと思う。それを雄略天皇の御製歌という錯乱した注釈を付けた為に、あと国学の人たちは天皇の歌にふさわしいように解釈して、合わないところは原文であろうと何であろうと改訂し、改竄(かいざん)したものにして、しかも無礼なる雄略の歌にした。これは二・三日前に理解したもので、「これで確定的だ。」とは、とても言えない。
 もう一つ、ついでに言わせてもらうと先頭の「この丘に」もおかしい。「この」とは通常代名詞である。指すものがあって通常使うのが代名詞である。これも古今東西変わらないと思うけれども。ところがこの「この」は指すものがない。これはおかしいですね。それで一試案として申し上げておくなら、京都に籠(この)神社があるではないですか。この「籠(この)」は地名がバックになっているのではないか。そうすると籠(この)神社の後ろの山は、「籠岳(このおか)」だったり「籠山(このやま)」だったりすることも考えられる。「この岳に 此岳尓」は、籠(こ)を先頭の歌の中で二回も使ったので、「この」という代名詞にした可能性もある。又問い合わせたり、他の言葉との関連も考えて、可能性をいろいろ考えて検討する必要もある。先頭に出てくる籠(こ かご)はもちろん物でしょうが、地名に関係している可能性もある。「堀串(ふくし)」もそうである。「堀串(ふくし)」も掘る道具だと注釈はそうなっているし、それで良いのでしょうが、はたしてそれだけかという問題もある。福士さんという名前もある。福士さんという方が居て名前があるならば、地名もあるということです。そうすると「堀串」も地名がバックになっている可能性も有る。それは今後の楽しみである。
この事例から分かるように、万葉を一からやり直さなくて成らない。従来の万葉の読みは、国学の伝統に立ってイデオロギー読みをしている。そのイデオロギー優先のためには、原文を改竄してかえりみない、という方針の上に立っているということを、つくづく怖いように思い知らされた次第です。


制作 古田史学の会

著作 古田武彦