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邪馬一国の証明 角川文庫 

わたしの学問研究の方法について 1

古田武彦

 はじめに

 古代史の読者の会合のときだった。一人の年輩の方が言われた。
 「わたしは古代史が好きで、書店に出る本はたいてい買って本棚に並べています。ところが、読めば読むだけいよいよ混乱してわけが分からんようになってきました。みんな、ちがうことが書いてあるものですから」
 その当惑されたような顔を見つめながら、わたしは答えた。
 「確かに『結論』から言えば、そうですね。ですから、『方法』に注目してみられたら、いいと思います。その著者がどういう方法で、その結論に到着したか、それを一つ一つ比べてみられることです。そしたら、おのずからまちまちの『結論』群の中から、ご自分になっとくのゆく方法で導かれたものがどれか、段々分かってこられるでしよう」
 これはささやかな一夜の経験だったけれど、思うに多くの古代史ファン、さらには世間一般の人々の“通念”がよく反映された話ではないだろうか。
 “ちょっと書店をのぞいただけでも、古代史のコーナーがあって、いろんな著者の、いろんな説が並んでいる。同じ時代の、同じ国についても、意見がいろいろあるみたいだ。前は「邪馬台国やまたいこく」だけだったけれど、もう今では古代史全般に異論百出の状態がひろがってしまったようだ。とても、いちいちおつきあいしきれないな”
 こんな感想をもつ人々が、案外、現代の“圧倒的多数派”なのではないだろうか。
 わたしも、かつて学校で「国語」を教えたことのある“教え子”の一主婦から、無邪気に言われたことがある。
 「先生、古代史の本を書いておられるそうですけど、いいですねえ」「どうして」「だって、古代史って、大昔のことでしょ。何書いたって証拠なんて、どうせないんですもの」
 識者は笑うであろう。しかし、古代史の本の洪水(こうずい)を前にした、しかし読んだことのない庶民の、これは飾らぬ一つの声なのであろう。
 このような“喜ぶべき”百花撩乱(りょうらん)の中で、季刊「邪馬台国」は発刊された。いかなる異論をも辞せず、歓迎する、その編集方針と共に、今回「歴史を研究する人のために」という連載特集をはじめられたことは、きわめて意義深い。

 

 「母の国」親鸞研究

 わたしの学問研究の「母の国」は親鸞(しんらん)研究である。三十代全般を通して、親鸞史料の研究に明け暮れた。当時神戸の森学園、神戸市立湊川(みなとがわ)高校、京都市立洛陽(らくよう)高校の教師をしていたわたしにとって、二十四時間の過半はこれにさかれていた。いや、四六時中、このテーマの追求が頭から離れたことはなかった、と言っていい。
 真宗教団やその信仰とは、全くかかわりのなかったわたしが、なぜこのような研究に没頭したか。いささか“お門(かど)ちがい”に見えるかもしれないけれど、わたしにとっての学問探究の意味を語る上で、不可欠のことだから、しばし容赦していただきたい。
 なぜなら、わたしにとって「方法」が最初にあったのではない。わたしの抱いた問題意識、それがわたしの「方法」をおのずから規定し、生み出していったのであるから。
 わたしの問題意識は敗戦の“裂け目”から生まれた。十八歳の青年だったわたしにとって、敗戦そのものは決して“衝撃”ではなかった。なぜならすでに旧制広島高校の恩師(岡田甫はじめ先生)からやがて敗戦の必至なるべきことを十六〜七歳頃のわたしはくりかえし告げられていたからである。わたしの目と心を奪ったものは、別にあった。“人の心の移りよう”だった。
 昨日まで軍国政治の一端にあった政治人が一変して民主主義を説きはじめる。“もはや迷うべきときではない。戦場に行って皇国のために死ね”そう言って学生を鼓舞した有名大学の著名教授たちが、昨日までのことを忘れたように民主主義の宣伝家となっていた。彼等を“信じて”戦場に向かった友人たちは、もはや帰って来なかった。
 何も政治家や学者だけではない。大、中、小さまざまの“変節”漢が日本列島にみちあふれていた。何しろ、死んでいった友人たちには想像もできなかった“天皇とマッカーサー元帥の並び立つ”写真が新聞の第一面を飾ったころなのであるから。
 もちろん、今のわたしは知っている。「近きより」の雑誌を戦時中も発刊しつづけた正木ひろし氏や獄中十八年を耐え抜いてきた徳田・宮本・志賀の諸氏等のいたことを(大本教や創価学会も弾圧の中にいた)。
 けれども、当時の社会全体の“易々(いい)たる変節”は、人生の初頭にあった青年の“純潔な感受性”には悪臭がきつすぎ、息苦しすぎた。“どうせ人間や思想なんて、時代の変転に調子を合わせて変わるものだ。それがこの世の中というものだ”知ったかぶりの“断定”は自棄の表現だった。さらに昭和二十年代を通して、日本列島内の思想状況は刻々と移り変わった。世界の政治状勢や国内の思想勢力にふりまわされるように。それに合わせて、たびたび言説を変える周辺の人人の存在が、わたしという青年の心を、いっそう“投げやり”にしてゆきそうであった。
 そのとき、わたしの心にささやくものがあった。“あの親鸞はどうだろう。彼もまた、そうなのか”と。
 この問いがわたしに生じたのは、他でもない。高校の「道義」(戦時中「倫理」を改称)の時間に恩師から語られた『歎異抄』の言葉が十六歳のわたしに深刻な衝撃を与えていたからである。
 「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさうらふ」
 四六時中聞かされる軍国主義ふうのお説教は、わたしのような一介の青年のささやかな心をとらえなかった。しかし、この言葉はわたしの内面に沁(し)みこんでいったのである。十三世紀から二十世紀までの時問の壁、宗派、教団などの空間の壁を突き抜けて、それはこちらにやってきたのだった。 ーーこんな言葉を吐く、親鸞とはどんな人間だったのだろうか。
 その記憶が、敗戦後の思想的混乱の中でよみがえってきた。そしてささやくような内心の問いとなったのである。“あんな純粋な言葉を吐く人間でも、やはり時代や状勢にあわせて言葉を変え、調子を合わせるのだろうか”“いや、そんな人間には、あんな言葉は吐けないのではないか”そのように、わたしの心の耳に聞こえてきた。けれどもわたしにはそれを確かめる方法がなかった。もちろん「親鸞聖人」に関する本は、たくさん出はじめていた。教団や著名な学者の名によって。しかし、それらは御多分にもれず、戦前と一変した調子で書かれていた。かつては、“護国思想の権化(ごんげ)たる親鸞聖人”、今は“民主主義の先達たる親鸞聖人”だった。それがいずれも、同じ教団、同じ著者の名で出ていた。わたしはそれらを“唾棄だき”したのである。当時・信州松本の深志高校の教師をしていた二十代のわたしは、市の図書館で親鸞自身の著作にふれた。『歎異抄』以外のものも、そこにふくまれていた。しかし、十分ではなかった。
 このような経緯を経たのち、わたしは神戸に出て、この港町で親鸞の著述に耽溺(たんでき)しはじめた。定期券を買って京都に通った。そこに親鸞の史料を多くもつ、京大や竜谷大、大谷大などの図書館があったからである。
 わたしのとった方法は一つしかなかった。たとえば『歎異抄』の中の一語「悪人」という言葉が問題となった、とする。例の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の一句だ。その意味を確かめるには、親鸞の全著作中から「悪人」という語を全部抜き出してみる。そしてその文脈の中の用法をしらべる。そうすると、親鸞にとっての語がどういう意味で使われているかが判るのだ。わかりきった方法だが、このやり方しか、わたしにはなかった。
 当時、「護国思想」論争というのがあった。親鸞の書簡中に、
 「朝家の御ため国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはば。めでたふさふらふべし」(御消息集二)
の一句があり、戦時中の教団は“鬼の首をとったように”この一句を証拠として、“親鸞聖人の護国思想”を宣伝してきたのだった。
 ところが、一九四八年、服部之総は「いわゆる護国思想について」(『親鸞ノート』所収)において驚天動地の新解釈を出した。 ーー“「朝家の御ため国民のためにもつぱら念仏まふさるるめでたき人々」に対する、親鸞の痛烈な「反語」だ”というのである。
 これに対し、赤松俊秀が批判を加えた。
 「念仏を通じて自他上下が一つに結ばれると考えている親鸞の社会国家観を端的に示したものである」(「親鸞の消息について ーー服部之総氏の批判に答えて」「史学雑誌」昭和二十五年十二月号)というのだ。戦前的解釈の“延長”である。
 わたしは、いずれにも首肯できなかった。例によって「朝家の御ため国民のために」「めでたふさふらふべし」といった表明の類例を親鸞の全著作に求めた。そして親鸞の思惟体系全体の表現に照らした結果、
 “念仏弾圧に狂奔する、末法の朝家・国民に対して「非妥協的批判」を加え、その上に立って「ひかふたる世の人々をいのる」念仏をなし、彼等を「不便ふびん」に思う「憐(あわ)れみ」の念仏をすすめたもの”
 という理解をえたのである。
 一つの思い出がある。神戸時代、東大の史学会で親鸞の護国思想をめぐる討論が行なわれ、京大の赤松俊秀氏とわたしとが招待された。その直前、わたしが「史学雑誌」に「親鸞『消息文』の解釈について ーー服部、赤松両説の再検討」(昭和三十年十一月号)を発表して、服部、赤松両説を批判していたからであるが、文書・書誌学に令名のある赤松教授と若いわたしとでは、研究経歴の差は大きかった。けれども、わたしは“親鸞の全用例をしらべた”という自信に立って、応答した。
 そのあと、懇談会の席で、東大のA氏が赤松氏に向かって言った。「古田さんのは、何々の例が幾つ、これこれの例が幾つ、と数をあげて言うから、一見、まことにもっともらしく見えますよね」と。今思えば、先ほどわたしが何の遠慮会釈もなく、赤松氏の説を批判し抜いたので、招待者側としての“とりなし”であったであろう。
 しかし、そのとき、わたしは思った。“ああ、あのやり方が赤松氏にも、そしてA氏にも、やり切れない思いを与えたのだな。だから、皮肉らざるをえなかったのだな”と。わたし自身の方法のもつ“力”と“正当さ”を、A氏の言葉がたくまずに裏書きしてくれたのである。
 その結果、わたしはこの方法をさらに徹底し抜いた。その成果が「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題〔序説〕 ーー『流罪目安』の信憑性についてー」(「史学雑誌」昭和四十年八月号)だった。のちにわたしの『親鸞思想 ーーその史料批判』(冨山房)に収録された。
 かつて敗戦による、人々の“変節”が、わたしに親鸞研究のエネルギーを提供してくれたように、今回はA氏の言葉がわたしの学問研究の方法を確立させてくれたのであった。

 

 村岡史学への傾倒

 時問の流れを遡(さかのぼ)らしていただこう。わたしの学問研究誕生の「父の国」は村岡史学である。昭和二十年四月、東北大学の日本思想史科、村岡教授の研究室の扉(とびら)をわたしはたたいた。 ーー十八歳の新入生として。
 その著書『本居宣長』には、すでに高校時代ふれていたものの、はじめてお会いする温顔だった。恩師のすすめと、村岡さんの本にふれた感激で、ここ仙台の地をめざしたのである。
 「どんな単位をとったらいいですか」そう問うたわたしに対し、「何でも、自由にとって下さい」と答えられた。そして一瞬、間をおいてつけ加えられた。「そう、ギリシャ語とラテン語だけはとっておいて下さい」と。わたしは面くらった。“何で日本思想史の専攻に、ギリシャ語やラテン語など”そう思ったのだった。しかし、先生は何も解説されなかった。“”
 あとで分かったことだったが、先生の信条はこうだった。「今は戦時中だ。軍国主義の真只中(まつただなか)で、世は皆狂信的(ファナティック)な道を歩んでいる。なかんずく日本思想史などを対象に研究する者は、ことに自分自身もそれに陥る“危険”がある。その例も多い。しかし学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法にある。その方法から『日本の思想』を見る。それが学問だ」と。研究室の書棚には横文字のプラトン全集がギッシリと並んでいたのである。
 わたしも、高校時代、恩師から聞いたプラトンの言葉が心に沁みていた。「論理の赴くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」 ーーこれは、わたしの学問と生涯(しょうがい)の運命を決した一語となった。
 もうひとつ、印象に残った言葉がある。「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)の一句だ。これは本居宜長の言葉だった。村岡さんは宣長研究を学問の出発点とされていた。宣長のことを話すとき、「本居さんは」「本居さんは」と、親戚(しんせき)か旧知の人のことを言うような響きがあった。その本居の学問の真髄がこの一句に現われている。これが村岡さんの見たところ、それは同時に「弟子」のわたしたちに告げる言葉であった。
 わたしは、古代史研究に入ってきて不思議に思うことがある。わたしがある大家を明確に批判すると、人々(ことに学界周辺の人々)は、“何と失礼な”といった顔をするのである。わたしからすると、“その大家の説を学び、その説を批判する。それこそその学恩に報いる道”そう思っているのだが・・・。場合によると、“何か貴方(あなた)はあの人に含むところがあるのか”“親しいあの人の説まで批判するとは”などといった口吻(こうふん)をもらされて驚くことがある。学問というものに対する考え方の相違であろう。“含むところがあるから”批判するのではない。“含むところなどないから”安んじて批判できるのである。
 村岡さんの授業は“戦闘的”だった。眼前に現に論敵がいるような面持ちで矢つぎばやに批判する。「津田(左右吉)氏はこう言われる。しかし、」「山田(孝雄)氏はかく述べておられる。しかし、」など。新入生のわたしには、内容はわからないながらも、その“気迫”だけは十二分に体内に吸いこむことができたようである。
 わたしにとって忘れえぬ思い出がある。「古事記序文講義」の演習だった。二人だけの学生だったように思う。山田孝雄氏の講義案が対象だった。村岡さんはこの序文を「和文」を基調として見る、という立場。漢文風に理解する山田氏と対照的だった。ところがわたしは村岡さんの方向と逆の史料に遭遇した。『五経正義』(孔穎達こうえいだつ撰)である。そこには、

“後漢の孝文帝が『尚書しょうしょ』の失われたのを惜しんでいたところ、「文を誦(しょう)すれば則(すなわ)ち熟す」という才能をもつ、伏生という者がよくこれを「習誦」していたのを知って、その絶えることを恐れ、学者晁錯(ちょうさく)に命じてこれを記録させることとした”
と書かれてあり、例の『古事記』序文の記述(天武天皇と稗田阿礼ひえだのあれと太安万侶おおのやすまろ)との関係の歴然たるものがあるのだ。
 それを申し上げると、村岡さんは「面白い。学内発表会をもよおすから、そこで発表しなさい」と言われ、その会をもよおして下さった。“自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する”その学風を知ったのであった。
 最後にもう一つ。村岡さんの教えを受けた日は短かかった。昭和二十年、敗戦直前の四月末から六月始めまで、“足かけ三か月”だけだ。仙台の北、志田村へ勤労動員で授業中止。そのお別れ会があった。教授の間に学生がはさまったが、学生の方が少なかった。教授は口々にねぎらいの言葉を送り、農村で作業中は無理して勉強するな、と言われる方もあった。
 村岡さんが立った。「今までの各氏の言葉は、それぞれ厚く理解しうる。その上でなおかつ、わたしは言いたい。“『分刻ふんこく』を惜しんで学問すべし”と。フィヒテは言っている。『青年は情熱をもって学問を愛する』と。わたしはこの四月来、この言葉の真実なるを知った」と。
 その年の八月六日、原爆が広島に落ち、わたしは両親のいた廃墟(はいきょ)の地へ帰った。翌年四月、ふたたび仙台へ出てきたとき、すでに村岡さんは亡かった。その日からわたしの亡師孤独の探究がはじまったのである。


 『古代史疑』からのスタート

 昭和四十一年六月から翌年三月にかけて、松本清張さんの『古代史疑』が中央公論に連載された。当時洛陽高校の図書館に机を置いていたわたしは、同僚の先生と先を争って毎号愛読し、議論を楽しんだ。そのうち、わたしは気づいた。問題の国名「邪馬台国」は原文にはないらしいことを。
岩波文庫(和田清・石原道博編訳)の『魏志倭人伝ぎしわじんでん』には、
  「南、邪馬壹(三)国に至る、女王の都する所」
 とあり、注に(三)邪馬の誤。とあるだけで、それ以上の説明はなかった。
 啓蒙(けいもう)的にしてかつ権威ある解説書と見なされていた井上光貞氏の『日本の歴史1』(中央公論社)にも、
  「南至邪馬壹(「臺」の誤)国」
 という青山公亮・青山治郎両氏の校訂が掲載されてあり、ここにも改定の理由はなかった。
 “果たして改定の手つづきはされているのだろうか”わたしがそう疑ったのは、わたしの親鸞研究の経験からだった。再びそれに触れることを許してほしい。
 三十代を通して没入したわたしの研究は、もっぱら古写本へ、自筆本へと渉猟は傾斜していった。
 昭和三十年代前半、次々と刊行されていった『親鸞聖人全集』(親鸞聖人全集刊行会刊)の中に、真宗各派の寺々に秘蔵されていた新しい史料が続々紹介されていた。そのような史料を古写本や自筆本にさかのぼって論ずる、それが当時の親鸞研究界の研究水準となっていたのである。戦前の辻善之助・藤田海竜、戦後の小川貫弌・赤松俊秀、さらに笠原一男・松野純孝等の各氏が各々その立論の根拠を古写本段階の実状況に求めたのであった。
 ことにそのハイ・ライトは親鸞のライフ・ワークたる『教行信証』をめぐる成立論争だった。昭和二十七年、結城令聞氏によって投ぜられた信巻別撰論(教・行・信・証・真仏土・化身土の各巻中、信巻のみ、のちに作られて追加された、という立論)によって火に油がそそがれ、昭和三十年代はじめの坂東本(親鸞唯一の自筆本、東本願寺蔵)の解体修理によって、その実体が報告された。
 わたしも、藤島達朗氏の御好意をえて、一日中、坂東本原本を自由に閲覧することができた。しかも、専門の写真家と顕微鏡写真の撮影者(大沢忍氏)に同行していただいたのである。

 その検証の中で、わたしは確認した。後序中の有名な一句、

 「主上・臣下、法に背(そむ)き義に違し、忿(いかり)成し、恨(うら)みを結ぶ。・・・猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す」

 が、八行本文の筆跡(坂東本の八割。六十三歳頃以前)のまま、九十歳の死に至るまで、何の改変も加えられていない姿を。六十歳代、七十歳代、八十歳代と、各時点の筆跡で“完膚かんぷなき”ほどに推敲(すいこう)・改削し抜かれた、この草稿本の中で。この事実はわたしにとって意義深かった。右の一句は、親鸞三十八〜九歳、越後流罪中に執筆された上奏文中の一節だった。それがわたしの史料批判によって判明していた。その権力者批判の激烈の一句を親鸞は死に至る円熟の中でも、一字、一句も撤回しようとはしなかったのである。
 わたしが少年の日にかいま見た、『歎異抄』中の親鸞の言葉の与えた鮮烈な感触、それは夢ではなかったのだ。わたしの親鸞研究の目的は“達せられた”と言ってよかった。
 このような研究経験をもつわたしにとって、著者(『三国志』は陳寿の著)の自筆本もない『三旧志』中の核心をなす一句を“どういう手続きで「改定」しえたのだろう”それが関心の的だった。“ちゃんとした、実証的な手続きをふんだのだろうか”古代史の学者には失礼ながら、そういった“不安”が生まれた。
 わたしがこのような疑惑にとらえられた理由は、やはり親鸞研究にあった。『歎異抄』蓮如本(れんにょほん 現存最古の写本)の蓮如筆跡の年代を求めて東西各地に駆けまわっていたころ、学者が「ここは誤り」「ここは写しまちがい」と称して“手直し”した個所こそ、重大な意味をもっていた、それをいやというほど知らされていたのである。それも、一番いけないのは、江戸時代に成立した本願寺教学が背景になり、そのイデオロギーが予断となってそれに合わない写本の字句をいじる、これが一番“危険”だった。親鸞の自筆本・直弟子の自筆本、これらを渉猟してこれと対照すると、その「改定のあやまり」が次々と確認された。それらこそ、鎌倉時代に生きた親鸞の面目を知る上で、必須(ひっす)の個所だった。しかも中には室町から江戸にかけての書写者(学者)が行なったものがある。「これはおかしい」と考えると、その個所を削ったり、書き変えたりして「改定」して写すのである。それによって異なった文面をもつ写本、当時の本願寺教学と齟齬(そご くいちがい)しない写本が成立する。このような写本群に対して、“原形への遡源(そげん)の探究”に没頭してきたわたしにとって、右の岩波文庫本や、『日本の歴史1』の、無造作な「邪馬国の誤」の一句を見たとき、“これは大丈夫かな”とあやぶんだのは、当然の成り行きだった。
 けれども、日夜の親鸞研究に追われて果たすひまなく年も過ぎ、やがて一段落を迎えたとき、わたしは京大の尾崎雄二郎さんの研究室を妻と共に訪うていた。尾崎さんは妻の恩師であった。先の「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題〔序説〕」の論文抜き刷りをお送りしたこともあった。
 そこで教えていただいた『三国志』紹煕本(しょうきほん 二十四史百衲本ひやくのうほん所収)をはじめとして、各種版本を渉猟しはじめた。この分野では写本はほとんどなかった(呉志残片等)が、版本にはかなり恵まれていた(南宋の紹興本。清しんの武英殿本〈乾隆年問〉各種校合本。汲古閣本。『三国志補注』に校合された南、北宋本等。他に元げん本・明みん本等各種)。
 そのすべてが「邪馬壹」だった。「邪馬臺」ではない。なかには「邪馬一」さえあった。明景(みんえい 明代の再刻)北宋本たる静嘉堂文庫本がそれだ。他にもあるようである(右の『三国志補注』参照)。
 この事実を知ったとき、わたしは“危ないな”と思った。なぜなら、“全版本(もしくは写本)すべてAなのに、それをBに直す”こんなやり方は、まず版本(写本)処理の常道ではない。よっぽどの根拠がなければ、なすべきものではないのだ。確かに理論上は、“わたしたちの知らない、版本(写本)出現以前の段階で、まちがったために、以後の版刻者(書写者)はすべてそのまちがいを踏襲した”というケースもありえよう。しかし、そんな現存史料のない時点のことを誰が見とおせるのか、と考えると、直ちに右の想定が実際上、大きな危険をはらんでいることが分かるだろう。なぜなら、そのとき幅をきかすのは、“史料はなくてもわたしはこう思う”という論法だ。
 この「わたしは思う」が乱立すればどうなるか。当然、「肩書きのあるわたし」の意見が勝つ。 −−だが、これは学問ではない。
 晩年の村岡さんは短い。”足かけ三か月”十八歳のわたしを“対等の探究者”として遇して下さったようである。今思いかえしてみて、それを痛感する。“史料はない。確定的な理由は言えない。しかし、このわたしが言うのだからまちがいない”そんな口吻はつゆほどもなかった。“史料にない、確かな理由のないことを言うな”それに尽きた。
 では、一体、古代史の学者は、どうやって「壹」を「臺」に改定しえたのだろう。これが新しい疑問となった。
 敗戦後の研究にはそれは見当たらなかった。すべて「邪馬台国」を自明として使用しているのである。この点は戦前も変わらなかった。昭和・大正・明治と遡(さかのぼ)っても同じだった。有名な明治四十三年の白鳥(庫吉)・内藤(湖南)論争でも、結局は九州の「邪馬台国」(筑後・肥後等の山門)と近畿の「邪馬台国」の争いだった。文宇通り“二つの邪馬台国”である。
 答えは江戸前期にあった。松下見林の『異称日本伝』である。
 (a)邪馬臺(ヤマト)は大和の和訓なり。神武天皇より光仁天皇に至る、大和国の処々に都す。(『後漢書』・倭伝)
 (b)邪馬壹の壹、当に臺に作るべし。(『三国志』倭人伝)
 見林の方法上の根拠はその序文に明記されている。
「昔舎人(とねり)親王、日本書紀を撰す。・・・当(まさ)に我が国記を主として之(これ 異邦之書)を徴し、論弁取舎(捨)すれば、則(すなわ)ち可とすべきなり」
 わたしはこれを見たとき、“ここにもまた”という感を禁じえなかった。なぜなら、親鸞研究のさい、これと同じ「手口」を見ていたからだ。江戸時代の学者にとって、本願寺教学が史料それ自身の検証に優先した。その教学本位の立場から史料の真偽を決し、「改正」を行なう。そういうやり方が“常用”されていたのを見ていたからである。そしてこのようなやり口は、親鸞や直弟子の自筆本の一つ一つについて検証する、という方法が可能となってみれば、やはり正当ではなかったのである。古写本の新古を検し、語法の異同を親鸞の同時代史料と対照し、その帰結は自然に導かれる。それならよい。それなしに“教学上の立場か”といった「観念優先」の改定は、史料操作として邪道なのだ。近代史学以前、近代の学問以前、と言わねばならなかった。
 それと同じ時代の、同じ素養に立つ「改定」が、見林の手法だった。“わが国には国史があり、それに合うものは取り、合わないものは捨てる。”この大方針からすれば、“わが国で倭王と言えば天皇以外にない。天皇は大和を本拠地としたもうた。それゆえ「ヤマト」と読めぬもの「邪馬壹」は捨て、読めるもの「邪馬臺」を取ればいい”これが見林の理路だった。
 “これは明らかに「史料処理の方法」としてあやまっている。このようなあやまった方法から正しい結果が生まれれば不思議だ”わたしはそう感ぜざるをえなかったのである。

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