『邪馬一国への道標』(目次) へ

五 陳寿とピーナッツーー『晋書』陳寿伝の疑惑
六 陳寿と師の予言 ーー『三国志』と『晋書』の間(下にあります)

七 陳寿の孔明への愛憎 ーー『三国志』諸葛亮伝をめぐって


 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

第二章 三国志余話

古田武彦

 五 陳寿とピーナッツ
    ーー『晋書』陳寿伝の疑惑

わいろの嫌疑

 いささか頭の痛い数字パズルに代って、のんびりした話に舞台をうつしましょう。
 “『三国志』は、わいろで書かれている”。 ーーこんな話をお聞きになったことはありませんか。と言っても、別に卑弥呼が著者の陳寿にはるばるつけとどけをして、この倭人(わじん)伝を書いてもらった、などというのではありません。ありていに言って、次のような話です。
  “日本では「倭人伝」「倭人伝」と言って有難がるけれども、実は『三国志』なんて、それほどのものじゃない。著者の陳寿は、相手にわいろをせびってその多寡で記事を左右していたのだ。その程度の人物の書いた倭人伝なんて。金科玉条にする者の気が知れない”。ザッとまあ、こういったムードです。こういう“報道”が流れたのが、例のロッキード事件で日本中湧(わ)きかえっているさ中だったこともあって(たとえば昭和五十一年三月十九日の朝日新聞「邪馬台国」で紹介)、読者の中には大分“胸を痛めて”下さった方もあったようです。
 というのは、わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』の序文は、「はじめから終りまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう」という結びで終っていましたから、右の記事を見たわたしの本の読者が懸念して下さったのです。その年の夏、博多から壱岐(いき)へ向う「北九州、古代史の旅」の船中のことでしたが、心(しん)から心配して下さっているのを知り、つくづく有難いものだ、と思いました。

 

千斛(せんこく)の米

 問題のエピソードは、次のようなものです。
 三世紀当時、丁家(ていけ)というのは、魏の中で名家でした。丁儀(ていぎ)、丁[广/異](ていい)ともによく知られた人物だったわげです。ところが、陳寿(ちんじゆ)はその丁家の息子に次のように言った、というわけです。「わたしのところに千斛(こく)の米をもっていらっしゃい。そうすれば、あなたのために、丁家のいい伝記を作ってあげましょう」と。ところが、丁家の息子は陳寿の要求に応じなかった。そこで『三国志』の中に陳寿は丁家(丁儀・丁[广/異])の列伝を、作らなかったのです。
丁[广/異](ていい)の[广/異]は广に異。JIS第四水準ユニコード5ED9

 これがこのエピソードの語るところです。
 これを聞くと、早速、「じゃあ、やっばり。陳寿って太え野郎だ。そんな奴(やつ)の書いた倭人伝なんて」。そう言って怒り出す人があるかもしれません。だが、少しお待ち下さい。重傷の被害者から「彼が犯人だ」まで聞いて、飛び出していった刑事が、「・・・など、とんでもない」という後半部を聞き落していたとしたら、とんだ誤認逮捕を演ずるのが落ちでしょう。ましてこれは一分一秒を争う眼前の犯罪ならぬ、歴史上の事件です。
 陳寿は蜀(しょく)に生れました。巴西郡安漢県と言いますから、今の四川省の南充県のあたりです。「少(わか)くして学を好み、同郡の[言焦]周(しょうしゅう)に師事す」とありますが、この師、[言焦]周との出会いは、陳寿の生涯にとって重要な意味をもったようです。
[言焦]周(しょうしゅう)の[言焦]は、言編に焦。JIS第三水準ユニコード8B58

 この[言焦]周は、蜀朝滅亡のとき果した役割によって史上有名です。蜀の炎興元年、魏(ぎ)の景元四年(二六三)に登*艾(とうがい)の軍がついに蜀の防衛線を破り、都(成都)を中心とする四川の大盆地地帯に侵入しました。このとき蜀の朝廷内では戦争の継続法について、切迫した論議が対立しました。そのとき、敢然と和睦(わぼく 降服)策を進言して大勢をリードしたのが彼。この行為に関して、後代の史家が批議・弁護の論を展開しています。その問題はさておき、この陳寿伝でも、[言焦]周は、大きな役割をになっているのです。
登*艾(とうがい)の登*は、登に阜偏。JIS第三水準ユニコード9127

 さて、若き陳寿がはじめて蜀朝に仕えたとき、そこには奇妙な勢力関係が成立していました。宦官(かんがん 宮中の官。去勢せられた男子で宮廷に使役せられた者)の黄皓(こうこう)が権力を一手ににぎり、大臣たちも、皆彼にへつらっていた、というのです。中国の王朝史上有名な宦官の禍です。ところが、青年陳寿は敢然とこれに抵抗しました。
 「寿、独り之(これ)が為に屈せず。是(これ)に由(よ)りて[尸/婁](しばしば)譴黜(けんちゅつ)せらる」
[尸/婁](しばしば)は、JIS第三水準ユニコード 5C62

 つまり、陳寿はそのため、黄皓ににらまれ、何回も左遷された(「譴黜」は、つみをせめて官位を下すこと)。 ーー晋書(しんじょ)の著者、房玄齢(ぼうげんれい)は、陳寿伝の最初をこのように書きはじめています。そして次のような奇妙なエピソードを紹介しているのです。「陳寿の父が死に、彼は喪に服していた。そのとき彼自身、病気になり、婢(下女)に丸薬を作らせていた。ところが、ある人が陳寿の家を訪問し、これを見た」。これだけの事件なのですが、これが原因となって「郷党(きょうとう)(もつ)て貶議(へんぎ)を為(な)す」と書かれています。つまり、この丸薬事件のために、陳寿は非難をうけ、また左遷させられることとなった、というのです。
 以上の叙述を見て、どのようにお感じでしょう。
 房玄齢がここで言いたいのは何でしょう。「陳寿は、父の喪中に自分の丸薬を作らせるほど、不謹慎な人物だった」。そう言いたいのでしょうか。 ーー逆です。そもそも、父の喪中だって、病気になれば、薬を飲んで何が悪いのでしょう。まさか「下女に作らせるのがけしからん。自分で作るべきだ」などというのではありません。そんなイメージはここでは無縁です。
 それなのに、たまたま彼の家へやって来てその丸薬作りの話を“いいふらす”来客も来客ですが、それを“真(ま)にうけて”こんなつまらぬことをとりたてて、陳寿非難の合唱を行う。そして彼を左遷に追いやる。それは一体、何なのでしょう。そう、真の黒幕は、あの黄皓なのです。黄皓が陳寿の不屈な態度に不快を感じているのを知って、こんなつまらぬ言いがかりをつけて、陳寿左遷の口実作りをする茶坊主たち。それがこの「郷党の貶議」の正体なのです。
 少なくとも、房玄齢は、そのつもりでこのエピソードを書いています。
 つまり、直前に書いた、黄皓による、「[尸/婁](しばしば)譴黜」の実例としてここに書かれているのです。この事件の真の原因は、陳寿の「不屈」、つまり黄皓にへつらわぬ骨っ節にあった。これが房玄齢の言いたいところです。ですから、ここは“陳寿が不謹慎だった”という“史実”を書こうとしているのではない。「陳寿は、当時の権勢者への不屈の姿勢のために、しばしばへつらい者たちからつまらぬことにこじつけて非難をうけることが多かった」。 ーーその史実を書いているのです。
 この点、この陳寿伝全体の構成を正しくつかむ上で重要な視点ですから、しっかり記憶しておいて下さい。

 

洛陽へ行く

 さて、舞台はまわります。
 蜀(しょく)朝の降服は陳寿(ちんじゅ)の運命に激変を与えました。若い彼は遠く洛陽(らくよう)の都にのぼり、魏(ぎ)朝の史官に加わることとなったのです。或(あるい)は師の[言焦]周(しょうよう)の推薦(すいせん)があったのかしれません。それは分りませんが、ハッキリしていること、それは魏朝の最高の有力者の中で、彼の才能に目をつけた人がいたことです。張華(ちようか) ーーこれがその人です。
 張華は、范陽(はんよう)郡、方城県の人で、博学をもって世に知られました。晋(しん)朝の儀礼、憲章、詔勅は、多く彼が書いたといいます。晋の武帝のとき中書令。呉(ご)を伐(う)つに功がありました。晋の恵帝のとき、太子少傳、右光禄大夫といった顕職にいたりましたが、六十九歳のとき(永康元年、三〇〇)クーデターに会い、趙王倫(ちょうおうりん)に殺されました。性、人物を好み、後進をはげまし、人の善を推称してやまなかった、といいます。そして彼の死んだとき、家には全く他の財産とてなく、ただ書籍類だけがあふれていた、といわれます(晋書、張華伝)。そのような張華にもっとも愛せられた一人が陳寿だったわけです。
 このようなよき庇護(ひご)者を得て、陳寿の才能は開花しました。降服した蜀朝人であった彼にとって、このような理解者がなければ、『三国志』の著述も、可能であったか、どうか。 ーーおそらくできなかったでしょう。なぜなら、同時代史にとって不可欠の、魏晋朝内史料の活用、それが不可能だったはずだからです。ともあれ、帝紀・列伝の出来あがった『三国志』が同時代の人にどのように評価されたか。それを物語る、一つのエピソードを房玄齢はしるしています。
 夏侯湛(たん)、この人は西晋朝名門の出ですが、また文筆の人でもありました。そこでみずから魏の歴史、つまり『魏書』を著述したのです。「一門が活躍して形造った歴史を、自分が歴史書として書き留める」。これは、東西の歴史を見ても、あまり見ないケース、といえましょう。湛は敢えてその“壮挙”に挑んだのです。書き終えてしばらくは“自信”をもっていたのでしょうが、陳寿の書いた『三国志』を読むに及んで、いっぺんにその自信は消し飛んでしまいました。
 「寿の作る所を見、便(すなわ)ち己が書を壊(こぼ)ちて罷(や)む」
 自分よりすぐれた同時代史書の出現を見、ただちに己が書を廃棄する。この著者のもついさぎよさが、ピカリと光っています。それは同時に、陳寿の著作の優秀性が同時代に活躍した人々によって“実証”されたことを意味しましょう。
 陳寿の庇護者だった張華も、このすぐれた史書の出現を喜び、『晋書』の著述を彼に期待した、と言います。『三国志』が同時代史書とは言いながら、厳密には前王朝(魏)の史書だったのに比べて、『晋書』となると、文字通りの現王朝史書ですから、“それを任される”というのは、史官として最高の栄誉だったのです(魏は蜀併合の直後〈二六五〉、元帝から司馬炎〈武帝〉への禅譲によって晋朝〈西晋〉となっていました。陳寿はその西晋の史官。現在ある『晋書』は七世紀唐代の房玄齢の作)。
 順風満帆に見えた陳寿の行く先に大きな黒雲が現われたのは、このときです(ここに例の「わしろ」の話が紹介されているのですが、当時の状勢の説明上、あとにまわします)。荀勗(じゅんきょく)というのは、音楽をもって聞えた人ですが、政治的には、陳寿の庇護者たる張華のライバルでした。そのライバルが張華に代って権力をにぎったのです。こういう場合、張華と荀勗とただ一人の交替にとどまらず、荀勗派と張華派の総入れ替えになること、昔も今も変りません。
 戦前の日本でも、政権が政友会から民政党に移っただけで、地方の警察署長の首まですげかえられた、というのは有名な話です。
 そこで当然のように陳寿もその一人だったわけですが、時勢の変化に対し、“利口に”対処しようとしない彼は、ここでも標的にされたようです。「荀勗(じゅんきょく)、華(張華)を忌(い)みて寿を疾(にく)む」とのべたあと、次のような経過が書かれています。まず、荀勗は、吏部(文官の任命や賞罰をつかさどる)に対して陳寿の非を鳴らし、長広太守に左遷させました。「太守」といえば、聞えはいいものの、要するに中央の史官グループから彼を切り離そうとしたわけです。こうなれぼ『晋書』の執筆どころではありません。
 「その場所で我慢して、荀勗派に恭順を誓えば、また中央の史局に呼びもどしてやらぬでもない」。そういった「曰(いわ)く」をふくめた人事異動だったのでしょう。ところが、陳寿は拒否しました。その辞退の理由は「一緒にいる母が年老いていて、今さら見知らぬ任地に行きたがらないから」という、一見、当時としてありふれた名目ですが、その実体は一目瞭然(りょうぜん)、“荀勗支配下”の再配置を拒否したのです。
 このあと、杜預(とよ)という人物が、陳寿を御史治書(「御史」は図籍・秘書をつかさどり、兼ねて糾察を任とする。「治書」は書籍・記録をつかさどる)という中央の史局の位置に推薦したときも、陳寿は再び拒否します。おもて向きの理由はまたも“母が病気だから”だったのですが、今度は都でできる職なのですから、真意はもちろん別です。要するに「荀勗支配下の史局で顕職につけるか」。そういう陳寿の反骨を、荀勗派が感じ取ったとしても不思議ではありません。「張華に可愛がられ、またライバルの荀勗にも可愛がられる」。そういう時勢が変っても“いつも日の当る男”の役割を相いれぬご都合主義として彼は潔癖に拒否し通そうとしたのです。ついに史局をやめ、“職を去った”のです。
 このような陳寿に対し、当然荀勗派の“こらしめ”がやってきました。それは皮肉にも、陳寿がくりかえし名分とした「母」の死を契機としたものでした。その母は死に臨んで陳寿に遺言し、この都、洛陽(らくよう)に自分を葬るように告げました。息子が史家として才能を開花させた洛陽の地を愛したのでしょうか。それとも、故郷の蜀(しょく)には、あまりにも“恥ある思い出”(後述)が深かったからでしょうか。少なくとも、蜀朝滅亡後、直ちに旧敵者たる洛陽で名をなした陳家に対して、蜀人の目は“冷たかった”のかも知れません。
 それは推察にすぎませんが、ともあれ、母は、「この洛陽の地に葬ってくれ」。こう言い残したのです。ですから、当然陳寿は遺言に従って母を洛陽の墓地に葬りました。ところが、これが荀勗派によって“問題”にされたのです。「蜀に生れた母は、故郷たる蜀の地に葬るのが子供の情であるべきだ。それを陳寿は怠った」。こういう非難です。
 これは「帰葬」と呼ばれ、当時しばしば行われた形式でした。しかし陳寿の場介、母の遺言に従ったのですから、何も間題はないはずです。だが、「遺言」云々(うんぬん)は、ほかからはその真否を確かめようもありません。だから外に現われた形式から「蜀人だのに、帰葬しないとは」といって非難したのです。「竟(つい)に貶議(へんぎ)せらる」。ここでも、再び「貶議」の話が使われています。
 だが、今回は「左遷」ではありません。なぜなら彼はもはや“職を去って”いるのですから。それは「左遷」よりももっと彼にとって“恐ろしい”ことでした。すなわち「三国志を“正史”として否認する」という措置です。

 

 米の単位

 ここでいよいよ問題の“わいろ”事件を検討してみましょう。その原文書き下しは左のようです。
「或は云う。丁儀、丁[广/異(ていい)]、魏に盛名有り。寿、其の子に謂(い)って曰(いわ)く『千斛(こく)の米を覓(もと)めて与えらる可し。当(まさ)に尊公の為に佳伝を作らん』と。丁、之に与えず。竟(つい)に伝を立てず、と」(晋書、陳寿伝)

 ここで真相に迫るキーポイント。それは“千斛の米とはどのくらいの量か”という点です。これが分らなければ、このやりとりの場面の具体的なイメージ、それがピンとこないではありませんか。幸い、その史料には事欠きません。
 まず、一斛(こく)が十斗であり、一斗が十升であることは説文にも出ている通り。現代の日本人でも、年輩の人なら通ずる話です。つまり「千斛」とは一万斗、つまり十万升です。“一升飯(めし)を喰(く)らう”という言葉は“大飯喰(めしぐら)い”の形容として、ついこの間まで生き残っていた表現でした。“十万升飯喰(めしぐら)い”となれば、これは大変な話です。もっとも、こういう場合、いつも問題になるのは「単位」問題です。倭人(わじん)伝内の里数値を漢代の里数値と同じ「単位」に解して、“とんでもない錯覚”の中に躍らされてきた、研究史上の苦(にが)い経験があります。たとえば、
 「(韓)方四千里」(魏志韓伝)
 「郡(帯方たいほう郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里」(魏志倭人伝)

を、“大風呂敷だ”と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。つまり、単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する」。この手続きが不可欠なのです。

 

 三世紀の潅漑(かんがい)

 この点、いま間題の「斛こく」には、おあつらえ向きの史料が『三国志』自体の中に出てきます。
 「歳完、五百万斛、以て軍資と為す。六、七年間にして、三千万斛を淮(わい)の上(ほとり)に積(せき)す可(べ)し。此(こ)れ則(すなわ)ち十万の衆、五年の食なり」(魏志二十八)
登*艾(とうがい)の登*は、登に阜偏。JIS第三水準ユニコード9127

 これは登*艾(とうがい)伝に出てくる一節です。登*艾は蜀への侵入戦での成功で抜群の功業をたてながら、その直後、天子への“叛意はんい”を疑われて、檻車(かんしゃ)に囚(とら)われました。彼の部下によっていったん救出されたものの、やがて子供も共に斬(き)られた、という悲劇の将軍です。そのとき、青年陳寿は敗者側の蜀にいたのですから、まさに同時代人です。
 その登*艾はなかなかのアイデアマンだったらしく、はじめ魏の東岸領域(淮わい)の寿春に派遣された、その地が潅漑(かんがい)して水利を図れば稲の収穫が飛躍的に増大することを見抜き、司馬宣王(司馬懿しばい)に進言した言葉の、以下はその一節なのです。「そのように稲田の水利を図れば、この地方で一年で五百万斛を軍資として蓄積できるだろう。それを五、六年累積すれば、三千万斛をここに蓄積できることになる。これは、すなわち、十万の軍衆を五年間養える量だ」と。つまり軍事的備蓄のすすめ、というわけです。司馬懿はこの進言を入れ、正始二年(二四一)広い漕渠(そうきょ)を開いたところ、登*艾の進言通りの、豊かな収穫地帯となった、と書かれています。
 この翌々年の正始四年には、卑弥呼が第二回の使を洛陽(らくよう)に送っています。使大夫の伊声耆(いせいき)・掖邪狗(えきやこ)ら八人です。そのときの献上に対し、掖邪狗は、率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬(いんじゅ)を受けたと倭人伝に書かれています。ですから掖邪狗らが、少し洛陽から南下していれば、この「広漕渠」を実地に見学できたはずです。
 さて、余談はさておき、本題にもどりましょう。
 三千万斛が「十万の衆、五年の食」なら、千斛は軍兵三人強の五年の糧となります。普通の民間人一人なら、三十年前後の糧になるのではないでしょうか。もっとも、これは単純計算で、実際は一般人にとって「米」は大変に貴重なものだったようです。上流階級は別としても、一般には到底米ばかり食べるというわけにはいかなかったでしょう。その米の値段ですが、『晋書しんじょ』食貨志に次のような記事が書かれています。
 「(後漢末)穀一斛、銭数百万に至る」
 後漢の最後の献帝の初平(一九〇ー一九三)年問に、董卓(とうたく)の貨幣政策の失敗によって、インフレをまねき、右の状況になった、というのです。このとき「千斛」といえば、「銭、数十億」ということになりましょう。これは異常時としても、
 「(泰始五年、十月)其れ、穀千斛を賜い、天下に布告す」

 というのは、天子が汲郡(きゅうぐん)の太守王宏(おうこう)の善政を天下に特賞したときの記事ですが、陳寿と同じ西晋朝であるだけに注目されましょう。また、
 「(孝武、太元二年、三七七)王公以下、口ごとに三斛を税す」

 とあるのも、時代は少し下りますが、一般の庶民にとっての「斛」のもった意味として参考となりましょう。“一人につき三斛”を税の基準とした、というのです。

 

 伝を立てず

 こうしてみると陳寿(ちんじゅ)が言った「千斛の要求」は、「とほうもないものだった」ことが分りましょう。さしずめ「このあいだの、天子の特賞分くらいくれれば、してやってもいいさ」といった調子です。丁家の息子はあきれかえってそこそこに退散したことでしょう。来るときは、「どうせ蜀から来た敗民あがりの文人だ。十斛(こく)か二十斛か、少々はずんでやれば、御(おん)の字だろう」くらいに思っていたのでしょう。第一、魏(ぎ)の名家である丁家だから、独立の伝がたてられる(丁儀伝、丁[广/異](ていい)伝のように)のは当然で、要するにそのさい、“魚心あれば水心”、少々色づけした華やかなものにしてもらいたい。そういった下心だったのでしょうから。
 ところが、陳寿は、この息子に舌をまいて退散させたばかりか、丁家の独立の伝さえ全く立てようともしなかったのです(現在の『三国志』には丁儀伝、丁[广/異]伝などはありません。ただ彼ら二人の名前は徐奕(じょえき)伝〈魏志十二〉や陳思王植伝〈魏志十九〉など、しばしば出てきます)。
 なお、このときの実況を推察するために、少し、つけたしてみます。 ーーまあ、現代でいえばちょっとこういった光景を思い浮かべてみて下さい。中学か高校の教師のところへ、下心のある父兄が内申書に手心を加えてもらいに行ったとします。その申し出に対して、もしその教師が数万円かそこらの金額や物品をほのめかしたとしたら、これは“立派な”取引でしょう。しかし、もしその教師が「百万円か千万円よこせば少しは色をつけてあげますよ」などと言ったとしたら、その父兄は怒って帰るでしょう。これは明らかに“嘲弄(ちょうろう)的な拒絶”なのですから。もしこれが最近話題の医学部への不正入学などだったら、“取引”や“嘲弄”のための金額の単位は、またピンとはねあがるでしょうけれども。
 陳寿が言ったのは、まさにこの“手ひどい拒絶”だったのです。しかも出来上った『三国志』には、「佳伝」どころか、“当然”と思われた “独立した伝”すらなかったのです。陳寿がいかに丁家の息子の“動き”に対して潔癖な怒りを爆発させたか、それを現在の『三国志』がまぎれもなく証明しているのです。いや、それだけではない。陳寿は、自分が後世に遺(のこ)すべき唯一のもの、この『三国志』をいかに愛していたか、そしてそれを汚(けが)すような所為をいかににくんだか。ほかならぬその証(あかし)がこのエピソードに現われているのではないでしょうか。
 こうしてみると、このわいろ説話をもとにして、「陳寿は、わいろで史筆を左右するような、その程度の人物だったのだ」とか、「『三国志』は、しょせん当時の権勢者のひげのちりをはらう御用史家の手になる、史実の歪曲(わいきょく)物にすぎぬ」とか、 ーーこういった、知ったかぶりの後代学者の八百の論議が、いかに的はずれの誤読に立っているか、一目瞭然(りょうぜん)としているでしょう。


 六 陳寿と師の予言
    ーーー『三国志』と『晋書』の間

[言焦]周の予言

 以上のような理解は、決してわたしの独りよがりではありません。なぜなら、例の母の帰葬問題による第二回の「疑議」のあと、次のような意味深いエピソードが紹介されているからです。
 「初め、[言焦]周(しょうしゅう)、嘗(かつ)て寿に謂(い)って曰(いわ)く、『卿けい、必ず才学を以(もつ)て名を成さん、当(まさ)に損折せらるべし、亦(また)不幸に非(あらざ)るなり。宜(よろ)しく深く之(これ)を慎(つつし)むべし』と」
[言焦]周(しょうしゅう)の[言焦]は、言編に焦。JIS第三水準ユニコード8B58

 陳寿(ちんじゅ)がまだ若く、蜀にいたころ、先生の[言焦]周が彼に次のように言った、というのです。「あなたは将来、必ずあなたのもっている才能と学問で有名になる日が来るだろう。そしてまさにそのことのために他から誹謗(ひぼう)され、名誉をくじかれる。それがあなたの免れえぬ運命だろう。しかしそれもまた、よいことだ。決してあなたにとって真の“不幸”ではない。 ーーどうか、自分自身を深く大切にしなさいよ」
 最初の「名を成す」予言。これは若い陳寿の学問への情熱を目のあたりに見てきた[言焦]周にとって、当り前の、いわばごく自然な確信だったのかもしれません。だが、問題は次です。その「成名」のあと、当然「損折」が来る。そう予言しているのです。おそらく陳寿の反骨。自己の内にたのむもののために、外からの圧力に屈せぬ性分(しょうぶん)。いや、屈せぬどころか、逆に一層手きびしく反発する潔癖さ。そのために必ず富と力ある野心家たちの恨みを買い、彼らによって「損折」されることとなる。 ーーこれが彼の運命だ。[言焦]周はそのように未来を“読みとった”のでしょう。
 おそらく真の「予言」とは、決して神秘の魔術めいたものではない。ひとりひとりの中に潜在した諸要素を見出し、それが外界の空気に触れたとき、どのような色の火花を散らすか、その光のきらめきと、必然の行く末を冷静に見極める、その直観の技術なのではないでしょうか。
 思うに、人間の努力とは、自己の中に内蔵された運命を完成するだけだ。ほかから何か別のものをつけ加えることではない。そういう人間に関する根本的な考察。わたしには、予言とて、この基本原理以外のものではないように思われます。

 

 不幸に非ず

 だが、わたしに一番“こわい”ように見えたのは、次の言葉です。「亦(また)、不幸に非(あらざ)るなり」。この「亦」は論語の「亦、楽しからずや」のように詠嘆(えいたん)の辞ともとれますが、ここの文脈から言うと、やはり「も亦」の「亦」、つまり“リンゴミカン”という、“並列”を表わす「亦」のようです。
 「名を成す」のはもちろん「不幸」ではない。だが、あとにつづく「損折」も亦、本当はあなたにとっての「不幸」ではないのだ。こう言っているのです。
 なぜ、誹謗によるいわれなき“名声の失墜”が「不幸」ではないのか。
 ここから先は、文章の断崖(だんがい)を離れて、自分の手で空(くう)の真実を指すより仕方ありませんが、[言焦]周の言いたいのは、次のようではなかったでしょうか。あなたは才能の鋭さによって名を成し、同じく学問への非妥協の潔癖性によって、損折されるのだ。それがあなた固有の運命であって、幸、不幸は、上っつらの現象にすぎない。もっと言えば、その「損折」こそあなたが自己の学問の純潔を犯されなかった、名誉の証明、後世に自己の学問の成果を長く遺存できる幸せの証明だ、と。
 たしかに「わたしはこのように生き、このように書いた」。そう惑わず言い切れる幸せ。それ以上の幸せは、学問を探究し、執筆する者にとって望みえないことなのですから。だが、[言焦]周のもっとも深い心術は、その次の言葉に表わされます。 ーー「宜(よろ)しく深く之を慎むべし」。
 はじめわたしは、これをこう解釈しました。
 “大事にしなさいよ”。 ーーつまり、「あなたにはそのような生涯の運命が約束されている。大変な変転と翻弄(ほんろう)の中に一生は過ぎよう」。そう冷徹に見通した上で、やさしく“大事にしなさいよ”と情愛の眼差(まなざし)を投げかけたもの、そう解したのです。
 もちろん、大筋はそれに狂いはありません。まさか「“損折”されないように、有力者に恨まれるようた出過ぎたふるまいはやめときなさいよ」などという、俗な処世術の忠告でないことは、当然。そんな解釈では、まさにぶちこわしです。第一、そんな忠告でとどめられるような“運命”なら、はじめからその人固有の運命などではない。本質的な「予言」の対象にされるていのものではないのです。そこで万感をこめて“大事にしなさいよ”という言葉をこの青年に贈ったのだ、わたしはそう解していたのですが、なお、奥があったように、今は思えてきました。
 それは「深く慎むべし」の中の、「深く」という一語です。もし、単に情愛の心を手渡しただけの言葉だったとしたら、この一語のもつ、ズシンとした重みが気になったのです。
 [言焦]周が忠告しているのは、いわゆる処世法の“逆”なのではないでしょうか。もし俗な処世法のような忠告なら、それはいわば事態を“浅く慎む”ものです。“権勢者の機嫌(きげん)を損じないように注意することによって、或(あるい)は当面の「損折」は免れうるかもしれない。しかし、その代償として「自己の学問の純粋性を損なう」という、真の「不幸」をまねきよせることとなるでしょう。かりそめにもそんなことのないよう ーーあなたのことだから、万(ばん)、無いと思うが ーー深く心しておきなさいよ” [言焦]周は、若き陳寿の心にそうささやきかけたのではないでしょうか。

 

 的中した予言

 人間の深部に触れようとするとき、筆はいきおい、“主観的”となりましょう。ですが、今わたしがのべたいことの大筋の骨格は、実はこの陳寿(ちんじゅ)伝の著者によって裏書きされているのです。ここは
 「寿、此(ここ)に至りて再び廃辱(はいじょく)を致す。皆、周の言の如(ごと)し」

 「廃辱」というのは、“官職をやめさせられる”こと。陳寿が再度「貶議へんぎ」をうけたことを指しているのです。一回は蜀(しょく)時代、父の喪中の丸薬事件を名とした黄皓(こうこう)による左遷。もう一回は西晋(せいしん)の洛陽時代、帰葬事件を名とした、荀勗(じゅんきょく)による弾劾。
 その弾劾の中で、『三国志』自体にも、あらぬ嫌疑(けんぎ)をかけられ誹謗(ひぼう)された、その一例が問題のわいろ事件なのです。つまり、先生の[言焦]周が“あなたは自己の潔癖性のために、権勢者から「損折」されるだろう。それはあなたにとって真の光栄だ”という、その実例なのです。
 そういう文脈の中でこの陳寿伝の中に引用されている文章を、“この史料のしめすように、陳寿は「わいろ」によって『三国志』の記述を左右した。『三国志』とは、しょせん、その程度の御用学者のでっちあげた史書なのだ”という形で理解するとは。断章取義(作者の本意、詩文全体の意味のいかんにかかわらず、その中から自分の用をなす章句だけを抜き出して自分勝手に用いること)も極まれり、という所ではないでしょうか。地下の陳寿もさぞかし苦笑していることでしょう。
 陳寿はかつて後代の学者の非難にさらされたことがあります。南宋代の、いわゆる宋学の学者によってです。「三国中、漢の正統の継承者は、漢室劉(りゅう)氏の血を引く劉備(りゅうび)だ。魏の曹操(そうそう)のごとき、漢の天下を盗んだ簒奪(さんだつ)者にすぎない。しかるに陳寿はその魏朝にへつらい、これを正統とする形で『三国志』を書いた」。こういう非難です。陳寿が本来蜀人であり、師の[言焦]周が和平(降服〉策の進言者であったことも、“陳寿憎し”の感情に火をそそいだことでしょう。
 こういう立場から、『三国志』全体を蜀(しょく)朝中心の記述に書き改める、という、ご苦労な仕事に没頭した学者もあります(元の赤*経(かくけい)撰『続後漢書』。蜀を後漢の続きと見なした書名)。後代、中国でもっとも愛読された歴史小説の一つとなった『三国志演義』も、この立場から書かれていることはご承知の通りです。しかし、このようなイデオロギー的な攻撃の嵐(あらし)は、それが時流に乗っている時は手のつけられない勢いをしめしますが、その時勢の潮が引くと、見るも無残な、“しらじらしさ”だけを残して消え去ってゆきます。歴史上の数々の実例がさししめしているように。
赤*経(かくけい)は、赤*は、赤に阜偏。JIS第3水準ユニコード90DD

 これに対し、今回の“陳寿誤解”は、これとは質を異にしているようです。『晋書』陳寿伝の中から、この“わいろ事件”のエピソードだけを抜き出し、それを“自分の好みの味つけ”で使った、それだけのようです。別に大義名分上のイデオロギー的背景があるわけではありません。
 もっとも、この種の誤解は、明治以降の「邪馬台国」研究史を一貫してきた、ともいえるかもしれません。たとえば倭人(わじん)伝内の里数記事、あの「万二千余里」などを、白鳥庫吉(しらとりくらきち)以来、“自明の誇張”として疑わずに来たのです。
 その挙句(あげく)、最近でも、“陳寿がこんな誇張記事を書いたのは、当時の権勢者司馬懿(しばい)たちの功業をたたえるために、あえてウソと知りつつ阿諛(あゆ)して書いたのだ”などという「学者」の発言がまかり通っている始末なのです。
 これも『三国志』全体の里数記事を抜き出してみれば、すぐ判ることです。実際に調べてみれば、何の誇張の必要もない中国本土内部の記事(たとえば揚子江の中流北岸部の天柱山、下流南岸部の江東など)でも、倭人伝と同じ里単位で書かれていることが、すぐ判明するはずなのに、そんな検証すら、明治以来、欠けたまま。今でもそれに気づかずに、いわゆる“陳寿・御用学者説”が展開されているのです。“実証の欠如も、宿痾(しゅくあ)と化している”そういった感じを抱いた人があったとしても、無理からぬところではないでしょうか。


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