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第一章 縄文の謎(なぞ)の扉を開く
一 縄文人が周王朝に貢献した ーー『論衡ろんこう』をめぐって


 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

解説にかえて 《対談》 夢は地球をかけめぐる

ーー小松左京さんと語る

司会  田澤雄三 市川 端

小松 「今度の本は、ほんとに東アジア古代史の謎の一番チャーミングなところを全部、古田さんにさらわれちゃった、という感じですね」

古田 「いや、いや。わたしこそ、小松さんの小説「東海の島」(『最後の隠密』立風書房所収)というのを見せていただいて、びっくりしました。殷(いん)末の中国人が山東半島から倭人(わじん)たちの島に向う、という発想で、あんなに早く書いておられたとは、全く知りませんでした。どこからあんな発想をえられたのですか」

小松 「いえ、とんでもない。あれはちょうど、古田さんも目をつけられた、あのエバンズの論文ですね。南米のエクアドルから出土したのが、日本の縄文土器じゃないかという話。あれをアメリカのレポートで読んだんです。それが頭にあったんです。もう一つは、殷王朝を建てた有[女戌](ゆうじゅう)氏ってのは、山東近くの出で、あの近辺にはあれだけの文明があったわけです。あの琅邪県(ろうやけん 山東省、諸城県の東南)なんてのは、大変面白そうなところですね。南の方からも戦国時代の呉(ご)が一時進出してきたりしていますから、まあ、紀元前千数百年のころに日本の方へ渡ってくる航海術が中国にないとは、ちょっと考えられなかったんで、ああいう発想になったわけです。あとはもう、ほんとにわたしの妄想(もうそう)でして。

古田 「“すぐれた詩的直観は、学問研究に先行する”という言葉がありますが、本当ですね。そういうことをつくづく感じたですよ」

小松 「いや、いや、とんでもない。そんなこといわれると帰ります」(笑)

古田 「わたしの所は、子供や妻が小松さんのファンでしてね。小松さんの青春記なんか喜んで読んでいたんですよ。ところが、今度はわたしがあの小説を見て、びっくりして。ぜひ、小松さんとゆっくりお話したいなあ、と思ったわけです」

小松 「古い話だと、みんなあぶながって、ひとまとめにされてふせてしまってるんですが、その中でたとえば、例の上記(うえつふみ)なんか。あれを公開して今の立場で本気で学問的にとりくんだら、面白いでしょうね」

古田「面白いですね。歴史学の立場から取り組むべき本ですよ、ね。最低限言って、室町(むろまち)前後の思想史上の史料であることにはまちがいないんですからね。そこからさらにどこまでさかのぼれるか、それを追求していきましたら、ね。それを、歴史学者はあぶながって手を出さない。一方の、手を出す人は、大いに出してるんですけど」

小松 「ええ、ですけれど、そちらのほうはなかなか厳密な学問的手続きとつながらない。想像力のほうが先に走っちゃう、というところがあるみたいですね」

古田 「そう、“不幸な分離”が存在している、といった感じですね」

小松 「それと、これも将来どうなるか分らない、という感じもするんですが、例の神代(しんだい)文字の問題もからんできそうですね。あれも面白いと思うんですが」

古田 「ええ、面白いですよ。わたしなんかも将来、時間があればやりたいという気もあるんですが、もしやるなら、まず紙などの検査ですね。顕微鏡写真なんかも必要かもしれませんし、それから筆跡の検査ですね。そういう基礎手続き。これは歴史学なら必ず要るわけですが、この場合は普通でやるより何層倍も厳密にやってゆく、という用意がいると思いますね」

小松 「そうですね。写本の時期とその成立のいきさつが分ればいいですね。それと考古学的遺跡との対応がついてくれば、ますます面白いんですが。
 それと、わたし、古田さんさすがだな、と膝(ひざ)を打ったのは、例の太宰府(だざいふ)ですね。あれを誰かやらないかな、と思っていたら、ちゃんと今度おやりになっていますね」

古田 「地名から判断して歴史的理解に到達する、というやり方には、なかなか危険な場合が多いんですが、この太宰府や九州のケースは、ちょうど中国側の史書と対応していたために、手がかりがえられたわけですね」

小松「もう一つ。あの“中国なかつくに”のことですけど。日本のことを本気でそう呼びだしたのは、意外に新しいようですね。どうも、しらべてみると、山鹿素行(やまがそこう)あたりですね。それをまた本居宣長あたりが古来から日本のことだったとはっきりきめてしまった。もっとも記紀(古事記・日本書紀)に書いてあることはありますが。要するに“中国なかつくに”とか“天子”とか言うのは、もともとは中国だけの概念だったんでしょうね。

古田 「見馴れている言葉の中から、まだいろいろの問題が出てきそうですよ」

小松 「そうですねえ。そういう論証をやっといた上で、また発掘をかけてみますと面白いでしょうね。文献の方から、そういうイマジネーションがふくらんでいないと、発掘して出てきても、ポイと横にほうり出しておく、ということがこれまでに時々あったようですな」

古田  「そう思いますね。考古学の報告書を読んでみますと、従来紹介されているのは、その中でむしろまともな方の要素です。つまり一般の通念にあう方はよくとりあげられ、考古学関係の本なんかでも紹介されます。ところが反面、一般の通念にあわない、異分子というか、何か変なものも、時に出てきているんですよ、ね。ところがそういう方は、ほうり出されたまま、あまりとりあげられていない。しかし、その中にとても面白い問題がひそんでいる、という場合があるんではないか。そう思うことがよくあります」

小松 「これは有名な話なんですが、ヨーロッパの先史学が基礎になって、日本に移されたとき、それまでの発見と対比してみて、どうも日本には旧石器がない、ということが大前提になっちゃった。だから相沢(忠洋)さんみたいなアマチュアが岩宿(いわじゅく)で見つけ出さないと、学者にはみんな見えなくなって、あえて探そうとしなかった。例の明石(あかし)原人なんかも、そうですね。直良(なおら 信夫)さんがあれだけハッキリ指摘してたのに、学界のほうは、“学問の枠わく”があるから、それにはずれたやつはインチキだ、ということにしてしまった。えてして、そういうことになりかねないんですね」

古田 「ああ、今度直良(なおら)さんの伝記が聞き書きの形で出ましたね。あれはいいものですね(高橋徹『明石原人の発見 ーー聞き書き・直良信夫伝』朝日新聞社)。ああいう形でよくまとめておいてくれた、という感じがします」

小松 「本当にそうです。高橋さん、いいものを書かれましたね」

古田 「孔子が“中国で道が行われないなら、由(ゆう 子路。孔子の弟子)よ、一緒に 桴(いかだ)に乗って海に浮かんで東夷(とうい)の国へ行こうか”と言いますよ、ね。論語の有名なくだりですが、あれなども、わたしのような素人(しろうと)が見たら、当然島に住む東夷、つまり倭人のことなんかが頭に浮かぶんですが、かえって現代の論語学者の方が、そう見ようとしないんですね。朝鮮半島どまりだ、というわけで。やはり“学問の枠”かもしれませんね」

小松 「そうですね。わたしも、もし中国へ行くんだったら山東半島へ行ってみたい、と前から思っていたんです。孔子は魯(ろ)ですけど、やはり東のほうです。黒陶がずいぶん出てますから、古くからの黒陶文明の地ですね。殷も山東の青県あたりから出てきています。のちに周や秦(しん)が山西や陝西(せんせい)あたりから出てくるより、ズッと前から開けていたんじゃないかと思いますよ。あそこらへんは、インテリがうようよ出てくるところで、ズッとさがりますが、三国期の諸葛孔明(しょかつこうめい)の諸葛氏だって、山東の諸県から出ておりましょう。山東半島っていうのは、絹も早くから有名ですし、日本からも行きやすいし、来やすいだろう、という感じですね。琅邪県なども、一時造船のセンターになっていたようですが、これも伝統はかなり古いらしいです。だから孔子が“海に浮びたい”と言ったとき、彼の頭の中にかなり土地カンがあったんじゃないか、そういう気がするんです。やっばり山の奥から出てきて内陸を支配した連中とは、かなりちがうように感じられます。「山東半島というのは、北は渤海(ぼっかい)に面し、海の向うには、蜃気楼(しんきろう)が見えるのかもしれませんが、たしか長山列島というのが朝鮮半島の北の方に出てますし、真北は遼東(りょうとう)半島に近いし、ちょっと南へ来ると、朝鮮半島の、昔百済(くだら)のあった、全羅(ぜんら)南道あたりには簡単に行けるようです。ひょいと手をのばせば、済州(さいしゅう)島にも行くし、対馬(つしま)にも行くし、北九州にも行くという土地でしょう。で、わたしとしてはあそこらへんが一番面白いんですよ」

古田  「ああ、それで思いつきました。例の孔子が桴(いかだ)の話のあとで、“由よ、お前なら、勇気があるから一緒に行ってくれるだろうな”と言ってから、『材を取るなけん』とからかって言うんです。つまり、“お前には桴の材木を調達する能力はないよ、なあ”というわけです。あれは孔子が子路の出身地などを知っていて、“お前には駄目だね”と言っているのかもしれませんね。逆に言うと、山東半島の海岸部のどこどこの人間なら、いかだ作りはお得意だが、といった実際の知識がバックになっているのかもしれませんね」

小松 「それは面白いですね」

古田 「それに、孔子は言っていますね。“自分は生れがいやしいから何でも知っているんだ”と。すると、山東半島の漁民などの生活感覚に通じるものがあったのかもしれませんね」

小松 「そうですね。それに中国の海岸部の、山東半島から江南までの人たちは、中原(ちゆうげん)で駄目だったら、東の海上に出てしまおう、という感覚がズーッとつづいているんじゃないか、と思います、ね」

古田 「『山海経せんがいきょう』とか『淮南子えなんじ』。ああいった中国の古い書物の中に奇々怪々な話がたくさん出てきますね。あれらの素材がどこにあるか、というのは、もう今ではなかなかたぐりにくいですけれども、もしたぐれたら、案外、この“中国海”周辺文明圏の各地で生れた説話や伝承がここに入りこんでいるのではないか、と思いますね。
 われわれは、巨大な中国文明から片ほとりの日本などが受けた影響、という方向にばかり目を奪われ勝ちです。それはもちろん大切なことですけど、反面から言うと、中国文明自体も、何も周辺の諸文明から孤立してひとりぼっちで存在しているわけではないのですから、周辺の、後世彼らの言う、いわゆる“夷蛮”の地の、はるか古代の諸文明をたくさんふくみこんで、それらを栄養としながら、大きく生育していったのではないか、と思います」

小松 「彼らには、さっき言った、南へ、あるいは東へ、といった亡命感覚がズーッとあるようですね」

古田 「百越(ひゃくえつ)というのがありますね。江南から福建・広東あたりにまたがっていた、一種の海洋民族を指した言葉のようですが」

小松 「日本で中国のことを、唐土と書いて“もろこし”と読ませるでしょう。あれは『諸越しょえつ』を“もろこし”と呼んでいるんだそうです。日本の中国感覚はかなり南のほうにパネルがあっている、という感じですね」

古田 「なるほど」

小松 「中国海があって、南海があって、あのあたりにも、一つ、コースがあるようですね。
 秦の始皇帝がのぼった鄒懌*(すうえき)山(山東省鄒県の東南)というのはどこだったかな。泰山(たいざん 山東省泰安県の北)にものぼった、というが。碑がありますね。あれは海は見えないかな。五〇〇メートルくらいですから」

鄒懌*(すうえき)の懌*は、立心偏の代わりに山。JIS第3水準ユニコード5D07

古田 「会稽かいけい山(北浙江省紹興しようこう県の東南。また山東省日照県の北にも同名の山がある)というのは、どうですかね。海はどのくらい見えますかね」

小松 「いや、その辺、中国を自由に歩かしてもらえたら、ぜひ行きたいところですね」

古田 「わたしも小松さんについて行きましょうか」

小松 「山東あたりへも、ぜひ行きたいですね」

小松 「ええ」

小松 「王充らの『論衡ろんこう』についてですが、漢というのは、革命で権力を奪取して実力で行こう、周の王室の迷信墨守(ぼくしゅ)を批判しよう、という論者が出てくるのは、分りますね」

古田 「中国というのは、古くからもう、いろんた思想段階を経てきているんだなあ、と感心するんですが、たとえば『三国志』を読んだとき、びっくりしたことがあるんですよ。
 文帝紀に魏(ぎ)の文帝の詔勅(しょうちょく)が出ているんですが、そこで『古より今に及ぶに、未(いま)だ亡びざるの国有らず。亦(また )、掘られざるの墓無きなり』という言葉が出てくるんです。すべての国家は有限であり、どんな神聖な権威にも亡び去る日が来る、という思想ですね。それが孔子みたいなインテリが言うのならまだしも、天子の詔勅でズバリ言い切っているのですから驚きますね」

小松 「そこらへんのわりきり方は、たいしたもんですね。話が変りますけど、わたし、この間ギリシアのクレタ島へ行ってきたんです。エーゲ海で今から三千五百年くらい前に爆発した島が見つかりまして、ギリシアの学者が発掘して、その一人があれがアトランチス伝説(プラトンの作品に現われる伝説上の楽土。一日一夜のうちに海底に没したという)のもとじゃないか、と言いだしたんです。サントリーニー ーーという島ですが、すごい都市があったんです。そこへBC一五〇〇年頃水爆七千発分くらいの大火山爆発がありまして中心部が海没しちゃうんです。この事件がもとになってアトランチスの話ができたんではないか、というわけです。ところが、島の大きさがあわないんです。例のプラトンの著述(『ティマィオス』と『クリティアス』) ーープラトンは、おじいさんのソロンがサイス王朝の神官に聞いた話をまた聞きした形で書いたんですが、 ーーその話に出てくる大陸とスケールがあわない。ところが、島のスケール叙述のうち、千以上の単位を十分の一にすると、ピタッとあう、というんですよ」

古田 「いや、あの辺は面白いですねえ。わたしなんかもやりたいと思うんですが、とてもあそこまで研究に行けませんから、もっと若い人がとりくんでくれると、うれしいと思いますよ」

小松 「全く、あの辺の話は面白すぎましてねえ。わたしも一応、メイバーという海洋学者のまとめた『アトランティスヘの旅』という本の紹介だけはしといたんですが」

古田 「そういう小松さんの本を読んで、若い人が、よし、おれがやるぞ、と決心してくれたらいいんですがねえ。わたしも青年時代、戦後間もない頃ですが、『死海写本』(一九四七年以来、数回にわたって死海北岸のクムランその他の洞窟(どうくつ)から発見された古写本。紀元前一二五 ーー 後六八年の、イザヤ書など聖書の断片を含む。〈広辞苑〉)の発見が伝えられたのをニュースとして聞いて、ドキドキしましてねえ。イエスをとりまく原初的宗教性の時代の史料として、文献批判をしてみたい、と思っていたんですが、戦争直後ですから、とても現地へ行くこともできない。そこで同じく原初的宗教性をもったものとして、親鸞(しんらん)にとりくんだ。そういう思い出があります。ですから、あの辺の文献をやれたら、面白いだろう、と思いますねえ

小松 「先史学といえば、このごろ、アメリカのほうでも、おかしいことが出てきましてねえ。コロンブス以前に、ヨーロッパからアメリカ大陸へ来ていた連中の話です。例のレイフ・エリクソンというやつがノルマンで十一世紀に来ていたと言うんですが、今度はそのはるか前に、ケルト人がたくさん来ていた、ということが言われ出しているんです。大体、紀元前五世紀くらいから来ている。ところがゴール地方にいたケルトがフェニキアのカルタゴにおさえられましてね。フェニキア人もやって来た、という。 ーーこれは北米の東部から中部にかけて碑文がいっぱい出てくるんです。今までは後世のいたずらだろうと思って、ほっぽらかしていたんだそうです。ところがニュージーランドの海洋生物学者で、バリイ・フェルという人がいましてね、ニューギニアの洞窟の中で石壁に奇妙な文字が連ねられている。それを見つけてしらべてゆくうちに古代リビア語だということが分ったんです。それから興味をもって彼は古代ケルト語の文字も調べる。オガム文字というんですが、北アメリカで見つかっていた碑文石板をそれで読んだら読めたという。今まで、“インディアン”がいたずら書きでもやったんだろう、あるいは十六世紀以後のいたずらだおうと、ハーバードの考古博物館にすっとおっぽらかしておかれていたのが、全部古代ケルト語(オガム文字)だということが分ってきて、それを読むと、何とあのカルタゴの有名なハンノが、アメリカ大陸に領地をもっていた、ということも分ってきたんだそうです。その連中が海岸だけじゃなくて、リオグランデといいますから、テキサスとメキシコの間まで来ているんです。またアイオワのダベンポートという所で、古代エジプト語とリビア語とケルト語の三文字が対照された、ちょうどロゼッタ・ストーンみたいなのが見つかった。それで今、アメリカの先史学は、急速に変わりつつある、というんですよ。もちろん、反論はありますけど、少なくとも大西洋側の大陸間交渉は相当さかのぼれそうですね。
 のちのバイキングは、北のほうからハドソン湾へ入ってきたんですが、このケルトの方は、ずっと南の方へ来ていたらしい。各地に点々と発見されているんです。毛皮貿易をやっていて、ローマがカルタゴを第二ポエニ戦役でつぶしたあと、毛皮をおさえようとしてゴール地方を探してみたが、何もない。だから、ゴールというのは、『アメリカ』の隠語だったんだろう、という話もある

司会 「それは一方通行じゃなくて、行き来があったんですか」

小松 「ええ、行き来があったんです。ケルトがカルタゴヘ行くのと共にアメリカ大陸へ往復していたんだろう、というんです。当然、ここに船の問題も出てくるわけです」

古田「わたしにちょっとした経験があるんです。昭和二十三年頃、わたしが大学を出てすぐ、信州の松本の深志(ふかし)高校で教師になったとき、世界史をもたされたんですね。ところが、教科書、いや指導要領でしたか、そこに“アメリカのインディアン”は、“アジアのモンゴリアンがベーリング海峡を渡って行ったものだ”と書いてあったんです。わたし、びっくりしましてね。戦前の教科書では、そんなこと全く出てきていませんでしたから。そこで他の先生に聞いてみたんですが、誰も、よく分らん、というわけです。そこでまあ、仕方がない。一応その通りにしゃべって、“自分には分らんが”と言ったのです。
 ところが、今度翻訳した本(『倭人も太平洋を渡った』)を読んでゆくと、この問題が焦点になっているんですね。しかし、この、かつての新説たるべーリング海峡通過説が、今や旧説として猛烈に攻撃されているんです。その海峡の前後の先史遺跡が、アメリカ大陸内部、ことに南の方の先史遺跡より古いか、というと、全然そんなことはない。全然遺跡の新古といった実証からでなく、ただ机の上で考えただけの従来説は駄目だ、というわけです。そんなシベリアからアラスカを越える超・大陸行をするより、人間には海を渡る力があるんだ、というわけですね。それが原題の『海を渡る人間』(Man across the Sea)という言葉にあらわされた根本思想なんですね」

小松 「もう一つ、わたしに関心のあるのは稲の問題ですね。稲作の渡来が政治的事件と関係がないかどうか、ということです。直良さんなんかも昔から言っているように、陸稲は、縄文からあった、とわたしは思います。しかし水田稲作になると、相当水田管理の技術が必要です。その点、秦の始皇帝が呉・越をガッチリおさえたのとの関係がないかどうか、という問題ですね。
 江南でも、えらいことになってきたみたいで、紀元前五〇〇〇年くらいの水稲遺跡が出てきた、というニュースがあります。これはもう、メチャクチャに古い。もっと詳細な報告がなければ、何とも断定できないと、中尾佐助先生などおっしやっていますけどね。いずれにしても、水田稲作が南朝鮮と北九州に現われてくるのは紀元前、三世紀ぐらいですか。ところが福建の向いの台湾に入ってゆくのは十五世紀なんですね。単なる伝播だったら、ちょっとおかしいですよね。とすると、南朝鮮から日本などの場合のような、比較的唐突な出現に対してその橋を渡すようた、何か、事件があったのじゃないか、という問題もあります」

古田 「なるほど。それとはちょっとはなれますが、わたしはあの倭人の周代貢献の問題で考えたんです。従来は稲の渡来というと、何か“人間が稲をもってきた”という風に、政治関係抜きで考えていますよね。しかし少なくとも向こう側が未開状態ならともかく、ちゃんとした国家も権力もあるわけですから、“おれは政治はきらいだ。稲だけくれ”と言って通るものじゃありませんよ、ね。当然、『山海経』の“倭は燕(えん)に属す”といった、貢献の政治関係が存在してこそ、そのバックのもとに、いわゆる稲の渡来も考えるべきじゃないか。それなら、たとえ倭人が江南へ行ったとしても、“ああ、あの燕を通じて周王朝に貢献している倭人か”というわけで、海賊扱いされないわけですからね」

司会 「木原さんの麦の渡来は、純粋に生物学的な渡来なんですか」

小松 「そうでしょうね」

古田 「生物学的にやられるのは、それはそれで大変結構なことですけれども、それを歴史の問題として考える場合には、別の政治的その他の中間項を入れて考えてみなければいけない。そういうことじゃないでしょうか。
 それから今度、気がついたんですが、倭人の周代貢献というテーマが、なぜ従来うけ入れられなかったか、これを考えてみたんです。すると、例の『国家・権力は弥生(やよい)から。縄文に国家・権力なし』という、今では教科書にも出ている有名なテーマ。あれが、案外“学問の枠”として影響していたんじゃないか、と思いついたのです。これには広い意味でのマルクシズムの歴史観の影響があるのではないかと思うのです。マルクスの『国家と権力は、かつてこの地上に誕生した。それゆえやがて死滅してゆくのだ』という思想。すばらしい仮説だ、と思いますね。わたしは人類史上に現われた思想的な探究者の一人として、マルクスはすばらしいと思っています。ただ、それは科学としての仮説ですから、本当にそれが真理であるかどうか、検証されねばならないことは、当然です。そしてもう一つ。もしその仮説が正しいとしても、それを日本の歴史にあてはめる場合、どこにどうあてはめるか、という問題があります。その点、戦前から戦後にかけての時期の、縄文と弥生というものに対する先入観、いいかえれば“まだ未熟な認識”と結びついて、さっきのテーマが生れたのではないか。そういう疑いをわたしはもっているのです。
 少なくとも、この周代貢献問題とか、アメリカ大陸への縄文人渡来問題、また最近の、日本の縄文前期の大遺構の発見(八ケ岳山麓の縄文都市)など、あのマルクスが生きていたら、目を輝かせて研究したと思いますね。人間本来の好奇心にあふれて、新しい情報を大英博物館などで集めていた人のようですから」

小松 「ペルシア人やローマ人が呉(ご)まで来ていた、などというのも、面白すぎる話なのに、今までその意味を注目せずに来ましたね」

古田 「ああ、この間、一緒に(時代背景など)やらせていただいた、東宝の映画“女王卑弥呼”の問題ですね。あのストーリーにも、ペルシア人が瀬戸内海辺の狗奴(こうぬ)国に出現する、というのがあってビックリしました。あれも、そこから思いつかれたのですか」

小松 「そうです。三世紀には呉まで来ていたんですよ。そこで狗奴国は、卑弥呼の倭国が魏と結んだのに対抗して、呉と通交していたのではないか。こう考えてみたわけです」

古田「アメリカメリカ大陸からペルシアと、まさに全地球的な視点から日本の古代史に、実証から想像へ、想像から実証へと、光を当て直す時代がついにやってきた。そういう感じですね」

 〈対談後記 ーー古田〉
 この対談が行われたのは一九七七年十月六日。二時間の予定が二倍近く伸びても、いつ尽きるとも知らず、楽しい大阪の一夕でした。
 テープをまとめるとき、紙数の関係で全部とはいかず、面白い数々の話が後日の機会にまわされることとなりました。この対談のとき、まだわたしの原稿は稿了してはいなかったのですが、論証の内容を、当日、小松さんにお話しながらの対談でした。
 今ふりかえってみて、驚くことがあります。わたしが『漢書かんじょ』の司馬相如(しょうじょ)伝に斉(せい 山東半島)を中心とする倭国描写のあることを発見したのは、今年(一九七八)の一月、この原稿の終り間近でした(第四章参照)。ところが、このテープを聞いてゆくと、なんと、小松さんがまざまざと、語っておられるではありませんか。 ーーこの山東半島中心の「中国海」俯瞰(ふかん)図、それが北九州にたやすく及ぶべきことを。このへんの口吻(こうふん)、そのユーモアの軽妙さ、広大な語り口。いずれが烏有(うゆう)先生、いずれが左京先生か、と見まがうばかり。まさに現代の相如なるかな、と感嘆した次第です。ここでもまさに“詩的直観が学問的認識に先行した”のを見たのです。この対談の行間に、両人の呵々(かか)大笑の声がひそんでいることを感じとっていただければ、幸甚(こうじん)です。


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