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 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

第4章 四〜七世紀の盲点

古田武彦

十三 平西将軍の謎 ーー『宋書』をめぐって

新旧の世代

 倭の五王で有名な『宋書』。 ーーこう書いてみて、ふと気づいたことがあります。現在の日本の読者は二つに分れているのです。四十代後半を境にして。
 わたしの第一作『「邪馬台国」はなかった』の場合は、まだそれほどでもなかったのですが、第二作『失われた九州王朝』でそれを感じました。この本では、第一作が『三国志』一つを対象にしていたのに比べ、いくつもの古典が対象になっています。『宋書』『隋書』『旧唐書』など。さらに高句麗好太王碑(こうくりこうたいおうひ)や隅田八幡(すだはちまん)の人物画像鏡など。たくさんの史料が分析されています。“かなり読みづらいんじゃないかな”、そう思ったのですが、意外。“この本がとてもいい。読みやすかった”と言って、愛読書にしてくれている若い人によくお目にかかるのです。うれしい“誤算”でした。
 ところが、その次の第三作『盗まれた神話』となると、これまた逆。こちらの方は“ややこしい”分析よりも、ズバリ本質を突く。そういった筆致で書いたつもりだったのですが、“読みづらかった”。 ーーこれが若い人の声でした。
 「“天照大神”というのが出てくるけど、何と読むのかな、と思って、“テンショウダイジン”という音(おん)で読んでいったけど、終りの方になって読みが書いてあったので、やっと分りましたよ」。こう言われて“ええッ”と思いました。なるほど、わたしの方は「これは当然読める」。そう思って仮名などふってなかったのです。そして最後近い所で、次のような議論をした個所がありました。「この漢字は、そのまま読めば“アマテルオオカミ”だ。これが本来の読み、すなわち本来の神名だったのではないか。たとえば対馬(つしま)の北島(上県かみあがた郡)の南辺に今も『阿麻氏*留あまてる神社』がある。これこそこの神の原型、その生れ故郷ではないか。現在わたしたちの知っている“アマテラスオオミカミ”という読みは、奈良〜平安時代の(『日本書紀』の講読の役目の)学者による、いわばお家(いえ)流。原文に則していない敬語過剰の読みだ。それが後世固定化されたのではないか」。
阿麻氏*留(あまてる)の氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10

 このように書いたのです。ここでこの若い読者は「ああ、普通は『アマテラスオオミカミ』と読むのだな」と、ここで知った、というのです。つまりそれまでは、何とも“居心地の悪い”感じでぺージをめくっていた、というわけです。読みだけではありません。たとえば天孫降臨神話。
 「その降臨地とされている『高千穂たかちほのクシフル峯だけ』とは、宮崎県の高千穂ではない。福岡県の筑前中域(博多湾岸と糸島郡)を東西の二つの領域に分つ山、高祖(たかす)山のつらなりだ」。こういう論証をしたとき、「えっ、その『天孫降臨』とかいうのは、一体、何」。 ーーこういう反応です。たしかに、その前提となっている説話類の詳細をいちいち説明していませんので、それが“常識”になっていない、若い読者がとまどったのも、全く無理はありません。
 これが五十以上の人ともなると、逆です。「“倭の五王”で有名な」と書いても、「ナニ、その“倭の五王”とは何者だ。日本の話か」といった反応。「『失われた九州王朝』は読みにくかった」。そう、中学時代以来の親友からもらされたことがあります。ところが、『盗まれた神話』に登場する神々、たとえば大国主(おおくにぬし)神やスサノオノ神となると、“耳馴れている”というわけです。今回は、やさしく書くよう彼(堀内昭彦)がすすめてくれました。この経験で、わたしはつくづく今の日本列島は二つの歴史教養の世代に分れている。そのことをいまさらのように痛感したのです。

 

平西将軍の謎

 本筋に入りましょう。その『宋書』をこの一両年、あらためて全体にわたって一字一字調べてみました。例によって、一つの単語を追って。“失うせ物の家や探し”をやったわけです。その単語の名は ーー「平西へいせい将軍」。こんな将軍の名は聞きはじめの方も多いと思いますが、『宋書』倭国伝の中に出てきます。
 「(太祖の元嘉二年、四二五)讃(さん)、又司馬曹達を遣わして表を奉り、方物を献ず。讃死して弟珍(ちん)立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督、倭・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東(あんとう)大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔(みことのり)して安東将軍・倭国王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西・征虜(せいりょ)・冠軍・輔国(ほこく)将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す」(宋書倭国伝)
 倭王自身でなく、いってみればその輩下ですから、従来は特にとりあげて論ぜられることはありませんでした。ことのきっかけは、東大の武田幸男さんの論文です(「平西将軍・倭隋(わずい)の解釈 ーー五世紀の倭国政権にふれて」朝鮮学報第七十七輯宋輯50・10)。武田さんは、右の平西将軍に注目され、この「平西」という称号から見ると、「古田のように倭の五王の都を九州と考えたのでは、解けないのではないか。九州の西は海しかない。平らげるべき“西の領域”がないのではないか」。そう言って心配して下さったのです。これに対し、従来説のように倭の五王の都が近畿(大阪、奈良付近)と考えれば、「西九州を平げるための将軍」として、すんなり理解できる、というわけです。しかも武田さんは『宋書』の中のいくつかの他の用例をしらべ、詳細な論文を作っておられたこと、これは方法論という点で、わたしにとって何よりうれしいことでした。
 そこでわたしとしては、大いに意欲を燃え立たせ、さらに『宋書』全体をしらみつぶしに“家探し”しようと思い立ったのです。そしてその結果、武田さんの考えが正しければ、即座に「あなたの言う通りでした」と叫べばいいのです。これは真実の探究者の本懐、いつの日も内心待ち望んでやまぬ一瞬ではないでしょうか。
 そこで調べてみました。驚いたことは、『宋書』の中の将軍号のおびただしさ、です。『宋書』の倭国伝をお読みになった方なら、すぐお気づきのことですが、やたらに授号記事が多いのです。「中国の天子が倭国の王にこれこれの称号を与えた」という記事。ことに倭王の場合、なかなか“あつかましく”て、当人から「これこれの位をよこせ」と、しきりにねだっています。中国側は、時によってこれを認めたり、一部認めたり、拒否したり、いろいろしていますが、いささか倭王の強引さをもてあましぎみ、といった感じです。ともあれ、倭国伝のほとんどは授号記事なのです。
 ところが『宋書』全体も同じ。授号、位階記事の氾濫(はんらん)です。「〜〜将軍」という形の記載だけでも、実に全体(百巻)で千六百回を越えているのです(数え方で多少誤差が出てきますが、約一六二〇回くらい)。よくも書いたり、という感じでした。この点、倭国伝もまさに「宋書百巻の中の一つ」というわけです。
 さて、問題の平西将軍の場合。わたしの視点は、「それがどの地域を任地とする人物に対して任命されていたか」です。たとえば、
「前の鎮軍将軍、司馬休之を以(もつ)て平西将軍、荊(けい)州刺史(しし)と為す」(武帝紀中)
 右では、新任の荊州の刺史に対して平西将軍の称号が与えられているわけです。任地の分る全例を左に表示しました。

〈刺史名〉

荊州 郢えい州 予州 雍よう州 南予州 益州 益・寧二州
 7   6   5  2  1   1  1
・・・

都官尚書 吐谷潭とこくこん 氏*胡ていこ
    
1    7     1

氏*は、氏の下に一。JIS第3水準ユニコード6C10

 これによって一目瞭然です。都(建康。今の南京)から見て“西方に当る地域”の刺史にこの称号が与えられています。ことに南予州などは、都のすぐ西側のお隣、といった感じです。
 夷蛮に当る吐谷潭、氏*胡の場合も、もちろん西方です。ただ一つの例外として都官尚書があります。これは当然都の任地ですが、これは“兼任”のようです。この点、倭国の場合は「東夷とうい」ですから、いささか異なっています。中国の都から見て倭国自体が「西」のはずはありませんから、これは明らかに“倭国内部”の視点です。いわば「メイド・イン・ジャパンの平西将軍」なのです。それに対し、中国の天子からの“追認”を求めているわけです。ですから、その「平西将軍の任地」は、「倭国の都から見て西方に当る地域」だということになります。
 これを今、具体的に考えてみましょう。博多湾岸の太宰府(だざいふ)あたりを都としますと、例の、かつて「一大率」のおかれていた伊都(いと)国。そこは都の西に当りますから、この地の軍事司令官はまさに「平西将軍」の称号にふさわしいものとなりましょう。もちろん、「平西」という言葉自体からなら、末廬(まつろ)国の故地、唐津(からつ)でも、いいわけです。壱岐あたりでも、不可能ではないかもしれません。
 だが、この「平西将軍」について、二つのヒントが倭国伝の文面に秘められています。
 第一。将軍号が「平西へいせい・征虜せいりょ・冠軍・輔国ほこく」と四つあげられていますが、その筆頭ですから、倭国内の臣下中では、最高位だと考えられます(「征虜」の「虜」については、『宋書』では北朝側を「索虜さくりょ」と呼んでいるごととの関連が注目されます。また「冠軍」は“武官の一種”、「輔国」は“国をたすける”の義です)。
 第二。これらの官号をもらった人について、「倭隋等十三人」と書かれています。その筆頭は「倭隋」です。この「倭」が“倭王の姓”であることは、すでに『失われた九州王朝』の中で論証しました(「倭王倭済」〈宋書、文帝紀〉という表現があります)。従ってここの「倭隋」も当然倭王の王族だ、ということになります(高句麗(こうくり)王は高[王連]〉、百済王は余映。夫余の余〉。でも、「高翼」「余紀」といった人物〈王族の臣下〉が国交の使者となったり、将軍号を与えられたりしています)。
[王連]は、JIS第3水準ユニコード7489

 倭王の一族の「倭隋」が「平西将軍」だったとすると、いよいよ倭国内部での、この称号の高さが分ります。以上の二点から見ると、「平西将軍」の拠点は、“都の西”に当るだけでなく、“倭国内第一の拠点”という性格を帯びてくるのです。

 

三世紀の読み

 実は、これに関連して興味深い話があります。倭人伝内の官名。これはわたしにとって“残された課題”です。たとえば、
○邪馬一国 ーー (一)伊支馬いしま、(二)弥馬升みましょう、(三)弥馬獲支やまかし、(四)奴佳[魚是]ぬかてい
[魚是]は、魚編に是。JIS第3水準ユニコード5A9E
 これを何と読むか。明治以来の「邪馬台国」論争では、国名・地名に劣らず、これらの官名にそれぞれ思い思いの“読み”をつけてきました。近畿説は近畿説なりに、九州説は九州説なりに、それぞれ自説にいわば“好都合に”読まれていることはいうまでもありません。しかし、わたしとしてはそれを警戒しました。“我田引水”に流れやすいからです。要は、三位紀における、その漢字の読み。さらには『三国志』における、その漢字の読み。それをハッキリさせ、その上に,立って読む。 ーーそれが肝要だと思ったのです。そしてそれが自分の都合、つまり先入観に合おうが合うまいが、そんなこと、知ったことではない。これがわたしの立場です。
 ところが「三世紀の読み」、これがなかなかの難事なのです。わたしは倭人伝を探究しはじめたころ、当然ながらこの問題について読みあさりました。しかし「これほど著名の言語学者が言っているのだから、これはまちがいないだろう」といった考え方、つまり“肩書主義”とキッパリ手を切っていたわたしにとって、明快な「三世紀の音韻史料に裏づけをもつ、三世紀の確実な読み」の解説には、どうにもお目にかかることができませんでした。それをのはず、「三世紀の体系的な音韻史料はない」のです。
 いや、正確の言えば『声類』という韻書が存在していたことは知られていますが、残念ながら現存せず、例によって断片が注記の中に姿を現わしているだけです(その断片の集成は玉函山房輯佚(しゅういつ)書、第七十七冊に収められています)。しかし、これらはあまりにも少量で、とても全体の音韻体系をうかがうに足りず、ことに倭人伝内に出現している文字の読みには直結しません。
 それだけでなく、わたしは次のような文章に遭遇しました。
 「『魏志』倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてあるのは有名な事実である」
 これは藤堂明保(とうどうあきやす)さんの名著とされる『中国語音韻論』(一九五七)の一節です。ここでは逆に「邪馬臺=ヤマト」から“三世紀の臺の音は『ト』であったろう”と推定され、これが好個の“音韻史料”とされているのです。
 この点、直接、藤堂さんに“三世紀に臺を『ト』と読んだという、三世紀の中国側の、確実な音韻史料が存在するか、否か”を問い合わせたところ、しばらくして丁重な長文のお手紙をいただきました。その要旨は、「音韻の変遷は、あくまで大勢上の議論です」 ーーですから、特定の時点(たとえばこの三世紀)にどう読んだか、という、その確証となると、資料上容易に確定しがたいと言わざるをえません」とのことでした。そこでその“特定の時点の読み”を“確定”するために、「邪馬臺=ヤマト」という日本史側の「定説」が使われた。こういう次第だったわけです。
 まだわたしの『邪馬壹国』(史学雑誌、一九六九)の出る前の本ですから、これを史学界の定説と藤堂さんが考えられたのも、無理からぬところかもしれませんが、わたしとしては、やはり倭人伝中の固有名詞(地名、官名など)解読のむずかしさを痛感しないわけにはいきませんでした。だから「今まで通念化されている読みに安易に依存すまい」。そう決心したのです。

 

「西」の長官

 というわけで、わたしは『「邪馬台国」はなかった』のとき、この“官名の読み”にはふれませんでした。「おそらくこれはこう読むのだろうから」といった前提に立つことの、安易さを恐れたのです。そしてその安易さが邪馬一国のありかを、ミス・リードすること、それをわたしは避けようとしたのです。けれども今、わたしにとって邪馬一国のありかは、確定しました。博多湾岸を中心としてその周辺です。従ってこれからはこの官名問題も、ひとつひとつ“用心深く”ふれてみたいと思います。
 さて、前置きが長くなりましたが、今の問題は伊都国の長官です。
「(伊都国)官を爾支と曰(い)い、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と曰う」
 この「爾支」は何と読むのでしょう。従来、「ニキ」と読んで稲置(いなぎ)のこととしたり(内藤湖南)、「ヌシ・ニシ」と読んで県主(あがたぬし)の意か、と考えたり(山田孝雄)、していました。この「支」は果して「キ」と読むのか、それとも「シ」か。これがまず問題です。
 ところが『三国志』をしらべてゆくと、次の個所にぶっつかりました。
 (A) 「公孫[王贊](こうそんさん)、字(あざな)は、伯珪(はくけい)・遼西、令支の人なり。〈注〉令音、郎定反。支音、其児反。(魏志八)
 (B) 「韓当(かんとう)、字は、義公(ぎこう)。遼西、令支の人なり。〈注〉令音、郎定反。支音、巨児反。(呉志十)
公孫[王贊](こうそんさん)の[王贊]の(さん)は、JIS第3水準ユニコード74DA

 ここで「反」というのは、中国独特の発音表記法です。詳しくは「反切」と言い、「二音を使って一音を表現する法」です。右の「令」の場合、「ロウ、テイ」でローマ字で書けば“ro-tei”ですが、これを“つづめた”「レイ」(rei)という音を表現しているのです(ローマ字ですからもちろん中国音そのものの完全な表現にはなっていませんが)。従って「支」の場合、「其児」(キジ“ki-ji”)、「巨児」(キョジ、“kyo-ji”)とも「キ」(ki)の音を現わしているのです。けっして「シ」ではありません。
 「ああ、やっばり『三国志』では『キ』か」。そう思ったのです。そこで京大の尾崎雄二郎さんにお会いしたとき、お話したところ、意外にも、「いや、それは反対です。『三国志』では、一般に『シ』と発音するからこそ、“この令支の場合は『レイシ』でなく、『レイキ』だ”。そう言っているのです」と。
 「なるほど」と、わたしはうなりました。『三国志』にはほかにも「支」字はたくさん出てきます。「一般の通音とここはちがう」。そういう意味の注記だ、というわけです。この尾崎説に立ちますと、問題の「爾支」は「ニシ」です。博多湾岸の都の中心域(博多駅ー太宰府)から見ての“西の拠点”を意味する言葉となります。
 伊都国には「一大率」がいます。これがこの「ニシ」と深い関係をもつことは当然です。長官「ニシ」自身が「一大率」の軍事権力をもつ。そういう可能性も十分ありましょう。倭王が“東夷の国”としては風変りな「平西将軍」の称号を第一の臣下に対して承認するよう、中国側に求めた、その背景には、この「ニシ=西」の称号があった、こう考えるのは、うがちすぎでしょうか。
 しかし、このような、いささか不確定要素をふくむ推定(たとえば「爾」にも、他に「ジ」「ディ」「ナイ」の音があります)は一応別としても、いま確認できること ーーそれは、九州に「都」がある場合も、その西方に拠点をもつ軍事司令官(長官)がこの「平西将軍」の号をもつこと、それは中国本土における用例から見て、何の不思議もない。 ーーこの一点です。


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