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KAPPA BOOKS 『吉野ヶ里の秘密』光文社

第5章 縄文文明を証明する「国引き神話」

古田武彦

無視された「出雲王朝」説

 なまいきなセリフの出たところで、ユー・ターン。もう一度、縄文の海へもどろう。
 昨年、五月のはじめ。躍(おど)りあがった。全身が酔っばらったようになった。まっぴるま。一滴のアルコールも、飲んでいないのに。早稲田大学の考古学実習室の中で。ソ連のR・S ・ワシリエフスキーさんの講演が終わった、途端のことだ。わたしの人生にも、前例のない経験だった。
 ことのおこりは、五年前。あの、出雲の荒神谷遺跡から三百五十八本の「中細剣」(わたしはこれを「出雲矛」と考える)が出土した。(昭和五十九年)翌年、さらに十六本の筑紫矛と六個の小型銅鐸。
 これらは、わたしにとって“意外”ではなかった。なぜなら、わたしは「出雲王朝」という言葉を使っていたからだ。
 これに対して、旧説の古代史学者、出雲研究の“権威”とされる学者たちは、嘲笑(わら)った。「古田も、もう駄目だ」と。出雲には、弥生期に、さしたる出土物はない。とても、記・紀神話の神代巻や出雲風土記に見るような、「出雲中心の時代」など、ありえない。これが彼等の、権威ある「卓説」、戦後史学の「定説」だった。
 戦争中の津田左右吉(そうきち)の説をうけついだ、「神話、造作説」だ。だから、神話世界の中で、出雲が出色の存在であること、それは、後世の大和朝廷の史官の「造作」のはずだった。
 津田流の学者だけではない。戦時中の「皇国史観」の中心的学者、平泉澄(きよし)。その学風をうけつぐとされる田中卓(たかし)氏まで、「出雲中心の時代」の存在を疑った。「大国主命(おおくにぬしのみこと)の時代」を、記・紀神話の原点とせず、かえって「大和中心の神話」からの投影(とうえい)と見なしたのだった。
 その田中説の、いわば「亜流ありゅう」、それが、有名な、梅原猛(たけし)氏の『神々の流竄るざん』だった。氏の神話学の出発点が、「大国主命、神話、作り物」説、大和中心神話からの「投影」説だった。
 こういう雰囲気の中で、わたしの「出雲王朝」説は出た。(古田『盗まれた神話』)だから、皇国史観の系譜を引く学者も、津田の「造作」説の系譜を引く学者も、その他の学者も、いっさい、わたしの「出雲王朝」説を非としたのだった。

 

イザナギ、イザナミの「国生み神話」は筑紫で作られた

 だが、わたしの場合、簡単だった。
 記・紀神話の中心に、国生み神話がある。イザナギとイザナミの男女二神が大八洲国(おおやしまぐに)を生む話だ。
  塩こおろこおろに、画(か)きなして引き上ぐる時、其の矛の末(さき)より垂(しただ)り落つる塩、累(かさ)なり積(つ)もりて島と成りき。(古事記)
 という具合に、国生みをする。
 そのさいの“小道具”は、
 天(あま)の瓊矛(ぬぼこ)
 天(あま)の瓊戈(ぬか)
 この二種類だ。(日本書紀の第一・一書が後者。戈は、「カマ」の柄の長い形の武器)
「瓊」は、「タマ」。管玉や勾玉の類。
 ところは、筑紫。(記・紀神話は、筑紫が主舞台)
 これを見て、わたしは思った。
 「どこかで見た、セットだな」
  矛 ーー 戈 ーー 筑紫
 この三点セット。八一ぺージの図(北部九州の・銅器の鋳型分布図)だ。弥生時代の筑紫を中心とする世界だ。これは、鋳型だが、実物も、当然ながら、この鋳型の筑紫を中心としている。
 この文献(伝承)と、考古学的出土物との一致、これを知ったとき、わたしの日本列島の古代学は、出発したのだ。
 なぜなら、
 戦後史学は駄目。それは、津田左右吉の「造作」説をうけついで、記・紀神話は、「大和朝廷の史官」のデッチ上げた、作り物。そういう立場に立っているからだ。
 大和で、六世紀以降にデッチ上げたもの、それが、弥生時代の、博多湾岸周辺の出土分布と一致する。そんな、ベラボーな話があるものか。
 この神話は、弥生時代に作られた。どこで。筑紫だ。筑紫の権力者が自分の支配を“合理化”するために、作ったのだ。自分は、イザナギ、イザナミニ神の子孫だ。だから、というわけだ。
 つまり、後世、「お話作り」が、うまくデッチ上げたのではない。筑紫の権力者が、自分の政治上の必要で、作らせたのだ。そう、自己P・R のためだ。


神武はインベーダーだ

 同じく、皇国史観流(こうこくしかんりゆう)の「大和中心主義」も、駄目だ。ここでは、「大和中心」ではない、「筑紫中心」だ。日本列島の歴史を、なんでもかんでも、「大和中心」の一手で、おしとおそうとする、やり口。これは駄目だ。
 大和には、大和の悠遠の歴史がある。神武が九州の一角、宮崎から「侵入」してくる、それよりはるか前から。
 九州にも、九州の悠遠の歴史がある。その悠遠の中から出た、一分派、日向(ひゆうが 宮崎県)の別派、それが神武なのである。インベーダー(侵入者)だ。
 なんでもかんでも、天皇家を尊み、日本の歴史はここからはじまるていのやり方。これは、いまも流行(はや)っている。当然だ。いまは、明治の薩長政権以後、「天皇家」を錦(にしき)の御旗(みはた)とおしたてた、維新権力の後継者だから。「天皇家中心」の立場に立つ歴史学、つまり御用歴史学者を優遇する。当然のことだ。
 ちょうど、お隣りの韓国。反日政権として、戦後誕生した。だから、「反日P・Rのための歴史学」を優遇する。それと同じことだ。何の変わりもない。それぞれ、歴史学を権力が利用しようとしているだけのこと。
 だが、人間は国家より大きい。人間が国家を作ったのであって、国家が人間を作ったのではない。だから、真実を守るために、国家の愛好する御用歴史学に対して、ノーと、首を横にふる、そういう人間が出て来るときがくるのだ。
 そのとき、国家には、うつ手がない。せいぜい“殺す”ことくらいしかできないであろう。しかし、国家に、真実を殺す能力はない。


「国ゆずり神話」のしめす「出雲中心」時代

 オクターブが高まったところで、局面をすすめよう。
 「筑紫中心」の時代が実在した、とすれば、その前に「出雲中心」の時代が実在せねばならぬ。わたしはそう考えた。
 なぜなら、有名な「国ゆずり神話」。天照大神が、出雲の大国主命にせまって、「国ゆずらせ」に成功した話だ。そして孫のニニギを「筑紫」に派遣したのである。(天照大神の原産地は、壱岐・対馬。古田『盗まれた神話』参照)
 だから、「筑紫ちくし中心」の「国生み神話」が真実(リアル)なら、つまり、歴史の背景をもつなら、「国ゆずり神話」のしめすところ、「筑紫中心」時代の前に、「出雲中心」時代の実在したことも真実。わたしはそう考えざるをえなかった。
  「だって、筑紫とちがって、出雲には、たいした出土物がない」
 この嘲笑の声を、三百五十八本の「銅剣」(「出雲矛いずもほこ」)の出土が粉砕したのだ。この大出土の研究史上の意義を、このような形で“とらえまい”とするのが、大多数の研究者の「暗黙の了解」となっているかに見える。たが、それはしょせん、無駄だ。


出雲風土記の「国引き神話」の謎

 やっと、本題にめぐりあうことができる。
 わたしが新たに対面したのは、出雲風土記の「国引き神話」だ。
 八束水臣津野命(やつか みず おみ つ の みこと)が、小さな出雲を大きくしようと、次の四カ所から国を引っぱった。

  (1)志羅紀の三埼(しらぎ の みさき)
  (2)北門の佐伎の国(きたど の さき の くに)
  (3)北門の良波の国(きたど の よなみ の くに)
  (4)高志の都々の三埼(こし の つつ の みさき)

 この中で、(1) と(4)とは、異論がない。
 (1)は新羅。今の慶州あたり。朝鮮半島の東岸部、南半。要するに、韓国の日本海岸だ。
 (4)は越前・越中・越後の「越(こし)」。能登半島あたりだ、といわれる。

 異論があるのが、(2)と(3)。たとえば、岩波書店の日本古典文学大系本の注。
 (2)は鷺浦(さぎうら)
 出雲大社の真北、日本海岸にある。ここだという。
 (3)は野波。
 松江の真北、これも日本海岸。この野波を、「よなみ」と、“まちがえた”と。
 あやしい。ことに、(3)の“まちがえ”説など。邪馬壱国は、邪馬台国の“まちがい”という、あの手だ。
 それに第一、これらはいずれも、レッキたる出雲。そこから、国を引っばっても、出雲が大きくなるはずはない。まるで、タコの足喰い。
 これに代わる説として、出雲の隠岐島説が出た。島前(どうぜん 三つ児の島)と島後(どうご 西郷町のある方)と、二つある。これだ、というのだ。
『市民の古代』(大阪市民の古代研究会発行、一九八一、第三集、新泉社刊『合本市民の古代』第一巻所収)で、清水裕行(ひろゆき)さんの発表した説。
 あとで、出雲の速水保孝氏、出雲研究で名のある門脇禎二(かどわきていじ)氏もつづいたが、これも、わたしの目からは、不満。なぜなら、この隠伎島は、黒曜石の産地(島後)として、古代出雲繁栄のもと。古代出雲の心臓部だ。(八世紀に、行政区画として、隠岐国と出雲国が分けられたにすぎぬ)
 だから、ここから、「国」を引っばったのでは、「タコの足喰い」ならぬ、「タコの心臓喰い」。
 タコは、死んでしまう。神話も死んでしまう。


「北門きたど」はウラジオストックだ

 では、どこか。わたしは考えた。考えるだけが、わたしの得手。

 問題を整理してみた。異論のない、(1) と(4)をもとにして。

 第一、出雲以外。(ここは、数学の「以上」「以下」とちがい、出雲をふくまない「以外」)
 新羅も、越も、出雲ではない。

 第二、現代の日本国家の中でも、外でもいい。
 越は中。新羅は外。

 第三、出雲から見て、北。「門」だから。

 第四、大きな、出口・入口。「北」だから。
 四回のうち、「北門」が二回。新羅や越より、大きい国だ。
 以上の条件に合うところ、どこ。
 いっぱつで、決まり。ウラジオストック。
 ここしかない。地図をあけてみたら、何と、出雲大社の北に当たっている。ここまで、律儀でなくてもいいのに。
 日本海の北側では、ここしかない、といいたいほどの、大きな港。もちろん、ナホトカもふくむ、いわば、大ウラジオ湾。

 では、分けてみよう。

 (2)は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の東岸部。ここには、ムスタン岬という、巨大な岬が突出している。
 これだ。大ウラジオ湾の一翼、そう見なしているのだ。

 (3)は、これこそ、ウラジオストックを頂点とする、沿海州。「よなみ」とは、“良港”の意であろう。「よ」は“良”。「な」は“那”。「那の津」などの「那」だ。港湾部をあらわすことば。「み」は“海”か、“神”か。先に出た「野波」と、同類語だ。

 さて、全体を見よう。
 出雲を原点として、左(西)に新羅。上(北)へ行って、北朝鮮の東岸部。さらに上右(北・東)ヘまわって、沿海州。そして右(東)へさがって、能登半島。
 つまり、これは、世界だ。古代出雲をめぐる、世界の各地から、「国」を引っぱってきて、大出雲は生まれた。
 これは、そういう壮大な神話なのだ。


「国引き神話」は縄文時代に成立した

 もっと、こわいことがあった。
 わたしは、この神話を「縄文時代の成立」、そう考えた。いや、考えざるをえなかった。なぜか。
 思い出してほしい。あの記・紀神話の中の「国生み神話」は、「矛」と「戈」を“道具立て”としていた。弥生の銅矛、銅戈だ。だから、「弥生時代の成立」、そう考えた。
 では、今度は。
 金属器が登場しない。“道具”は、つなと杭(くい)だ。どちらも、金属器じゃない。「乙女の胸[金且]むなすき」という形容句みたいのが出てくる。「[金且]すき」というのは、その文字で見れば、金属器。「金へん」だから。だが、この“文字当て”は、八世紀。出雲風土記の書かれたとき。
[金且](すき)は金編に且。JIS第3水準ユニコード924F

 これに対して、大切なのは、実体。「すき」というのは、木製もある。むしろ、木製が元祖。縄文時代から、ありうるもの。
 つまり、どれをとっても、「金属器でなければならない」ものは、ないのだ。あの「国生み神話」と、えらいちがい。
 さて、考えてみよう。
 弥生時代に、中国大陸・朝鮮半島から、金属器が入ってきた。えらいカルチャー・ショックだ。いや、カルチャーどころじゃない。政治ショック、軍事ショック、宗教ショックだった。
 剣や矛や戈は、本来、武器。宗教的儀礼にも使われた。鏡は、本来は日用品だが、わが国では、太陽信仰(天照大神)の“小道其”、太陽を“うつすもの”として使われた。いずれも、権力者のシンボルとなった。
 だから、「国生み神話」には、このショックをもたらした、矛(ほこ)や戈(か)が主役を演じたのた。
 とすれば、こういう金属器がいっさい登場しない「国引き神話」これは、「弥生以前」、つまり、縄文時代に成立した。そう考えざるをえない。
 そこで、「国引き神話」は、縄文時代の成立という、途方もないテーマが成立したのだ。
 こわかった。だが、論理を避けることはできない。誰にも、それはできない。できたように見えるのは、当人が自分の両手で、自分の目を、ただおおっているだけだ。わたしはすでに少年時代の終わり、次の言葉に接した。広島の旧制高校、一年生。十六歳のことだ。

「論理の導(みちび)くところへ行こうではないか。たとえ、それがいずこに到ろうとも」

 岡田甫(はじめ)先生が、ソクラテスの言葉(趣旨)として、紹介してくださったもの。以来、わたしの根本指針となった。


出雲の漁民が作った「国引き神話」

 作ったのは、誰か。これは、簡単だった。出雲の漁民だ。この神話全体が、漁民の生活の中から生まれている。労働の歌だ。
 彼等の、一番の道具。生活の基本をささえる道具。それは、舟だ。一日、舟を使う。夕方になって、舟をおさめる。つなで引く。杭(くい)にしばりつける。そうしないと、夜のうちに、波で舟が流されるおそれがあるからだ。
 瀬戸内海のような、内海なら、いざ知らず、日本海のような外洋に面し、対馬大海流を眼前にした、この出雲では、不可欠の用意だったのであろう。
 わたしの祖先は、土佐。高知県だ。まさに太平洋という、外洋に面した海洋民だった。だが、わたし自身は、広島県。呉市や広島市といった、瀬戸内海の港湾都市で育った。海は、やさしかった。
 はじめて、日本海を見たとき。沖合に流れる、黒い流れに目を奪われた。いや、心を奪われた。
 この黒い海流を前に、それを思った。日本海南部沿岸人の生活は展開された。古(いにしえ)も今も、喜びも悲しみも。
 この「国引き神話」は、その海の民の産物なのであった。古代の出雲の漁民たちにとって、日本海の西半分、それが「世界」なのであった。
 以上の考えを、わたしは話した。昭和六十年、島根県仁多(にた)郡横田町の講演会、そして翌日、斐川(ひかわ)町主催のシンポジウムで、それを話した。(古田『古代の霧の中から−出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店刊、所収)
 これに早速、噛(か)みついてきたのが、出雲研究の老舗(しにせ)風の門脇禎二氏。
 「新説で面白いが、結論への論証過程に疑問が残る」(『検証・出雲の古代』学習研究社刊)
 言葉は、学者風だが、“片腹いたい”と一蹴(いっしゅう)した感じ。さらに「古田はこっびどく批判された」などと書く人物まで登場する騒ぎとなった。(藤岡大拙氏。山陰中央新聞昭和六三年一月十一日)
 そんな騒ぎは、御愛嬌。問題は、真実。とるに足るのは、真実だけだ。わたしのほうは、門脇氏の懸念(けねん)は、先刻承知。いままでの常識、学的常識といってもいい、その常識では、「縄文に遠洋航海なし」が、不動の信念だった。
 だから、わたしが倭人伝中の「裸国らこく・黒歯国こくしこく」をめぐって、アメリカ大陸との大交流を説いたさい(『「邪馬台国」はなかった』)も、これを多くの学者は、一笑に付し、嘲罵をわたしにそそいだのだ(たとえば、藤間生大とうませいた氏)。これと同じだ。


出雲とウラジオストックの交流の証拠

 わたしは、ソ連に向かった。ウラジオストックヘ。昭和六十二年の夏。門脇氏や藤岡氏等が“語り”はじめる前だった。
 わたしの目ざすところは、黒曜石。出雲の隠岐島産の黒曜石を、ウラジオストック近辺に求めることだった。もちろん、縄文時代の遺跡の中から。
 岩崎義(ただし)氏や藤本和貴夫(わきお)氏の御好意で、訪ソの学者グループに入れてもらった。他の方は、政治学・経済学の方が多く、古代史はわたし一人だった。
 わたしの旅行の目的は、こうだった。

 「もし、わたしの分析が正しければ、縄文時代に、出雲とウラジオストックとの間に交流がなければならぬ。新羅や越との古代交流に関しては、異論がない。とすれば、四回のうちの二回の『北門』つまり、ウラジオストックは、それと同じく、あるいは、それ以上に、出雲と交流していたこととなろう。
 とすれば、その痕跡、証拠となるものは、何か。土器など。しかし、一番いいのは、黒曜石だ。腐らず、顕微鏡による屈折率の検査で、産地が分かるから」と。

 そこで、黒曜石を求めて、ウラジオストックへと向かった。
 この旅行のことを書き出すと、きりがない。毎日、毎日が逆転劇だった。しかし、いま必要なのは、最後。失敗だった。
 他には、いろいろ、貴重な収穫があった。前に書いた、ハバロフスクで見つけた「女性骨偶」も、その一つ。
 しかし、最後の日、念願のウラジオストックに入れて(これが大変だったのだ)、市長や各研究所で大歓迎をうけて、そして最後の瞬間に、黒曜石はスルリと、わたしの手から脱(ぬ)け落ちた。「いまは、歴史博物館は、改築中だから、見せられない」といって、なんと、「日露戦争以後の展示室」へ連れて行かれたのだ。一緒に行ってくださった、二人のソ連の学者は、わたしの目的を百も承知。だから、何回も、交渉してくださったのだが、答えは、くりかえし「否ニエット」。
 建物を見にきたのではない、黒曜石を見にきたのだ、という言い分は、「上司の許可がない」の一言に勝てなかった。
 あと、三人で海岸に出て、タ方の海を見つめた。一人の方がつぶやいた言葉が忘れられない。
「モスクワは、遠いです」
 連日の“逆転劇”の中で、わたしは了解していた。「モスクワ」とは、ペレストロイカ。“お役所流儀をやめよ”という通達を指していた。それは、なお、いまだしーー 、だったのだ。
 しかし、この旅行は、収穫があった。たとえぱ、海。このとき、行きも、帰りも、すばらしい天侯に恵まれた。日本海はいつも上機嫌だった。
 わたしは、甲板にいた。船室にいても、くりかえし、海を見つめていた。飛びこんでも、泳げそうたった。もちろん、それではつづかないけれど、舟なら−− 。縄文の舟だ。舟なら、やすやすと、対岸、つまり沿海州へ行ける。わたしは、それを確信した。
 荒れた日の日本海。これはすさまじい。瀬戸内海人間には、思いもつかぬ荒れよう、狂いようだ。「海の神の怒り」そういう言葉や観念は、誇張ではない。実感だ。
 だが、このときわたしの径験したような、絶好の日和(ひより)。それも、あるのだ。わたしたち、現代の都会人間とは異なり、古代、縄文の漁民は、その日和の来る、季節と風向き、それをよく知っていたのではあるまいか。老人たちは熟知していたことであろう。


「常識」を覆(くつがえ)した黒曜石

黒曜石の道 5章縄文文明を証明する「国引き神話」 吉野ヶ里の秘密 古田武彦 光文社

 わたしが空(むな)しく日本に帰ってから、わずかに八カ月。向こうから、キューピッドの使者がきた。
 ソ連の科学アカデミー・シベリア研究所のR・S・ワシリエフスキー氏だ。
 それが、冒頭に書いた、早稲田大学の考古学実習室での講演だった。その結び、それは黒曜石だった。ウラジオストック周辺の三十数カ所の遺跡から出土した、七十数個の黒曜石、それをもって来日された。そして立教大学の原子力研究所の鈴木正男教授に、顕微鏡による屈折率検査を依頼した。
 その結果、約五割が出雲の隠岐島(おきのしま)の黒曜石、約四割が秋田県の男鹿(おが)半島の黒曜石、約一割が不明(中国と北朝鮮との国境の白頭山のものか)。この結果をしめした。これがワシリエフスキー氏の講演のしめくくりだった。

 しかも、氏が持参された黒曜石の遺物(鏃)の出土遺跡は、放射能測定によると、前二〇〇〇年から前一五〇〇年のものを中心にしている、という。日本でいう、縄文後期前半頃だ。放射能測定できぬ遺跡の場合も、新石器時代(日本でいう縄文時代)のものには、まちがいない、という。
 なお、ウラジオストック周辺というのは、一〇〇キロくらいはなれた地点をもふくむ、というから、かなり広範囲だ。(ただ、さらに広大なシベリア全体から見れぱ、もちろん、一部だ)

 以上の情報に接し、わたしに“酔っばらった”ような、昂(たか)ぶりが体内からつきあげてきたこと、御理解いただけよう。やはり、論理は、わたしをあざむかなかったのだ。
この「発見」は、日本の学界に対して、画期的な意義をもつ。

 第一に、「縄文は、沿岸漁業に限る。彼等に遠出は不可能」そのように主張してきた、考古学の旧常識、それは打ち破られた。

 第二に、「現在に伝わっている伝承は、せいぜい室町以降。ほとんど江戸時代以降である」といった、「伝承」に関する民俗学の常識は打ち破られた。

 第三に、日本列島の歴史を「大和中心」でまとめることは不可能だ。まして「天皇家中心」など、とても、とても。あるいは「出雲中心」あるいは「東北、中心」の歴史観、すなわち、わたしのいう多元史観が、やはり不可欠だった。

 第四に、何といっても、「シュリーマンの原則」は、ここでも貫徹していた。神話・伝承の記録と考古学的出土物との一致、この肝心の一事がここでも、立証された。

 まして、ずっとあとの弥生時代、その同時代史料たる倭人伝と、日本列島の出土物分布と、この二つが一致せぬはずはない。

 そして第五。どんなに、従来の常識から見て、突拍子がなかろうとも、論理に従いきる。それが学問の生き死にする、要(かなめ)の場所である、ということ。


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