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倭(ヰ)人と蝦(クイ)人会報52号
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KAPPA BOOKS 『吉野ヶ里の秘密』光文社

3章 古代先端技術ハイテク列島・日本

古田武彦

腰岳こしだけを中心とする古代文明圏

 弥生の熱い論争の頭を冷(ひ)やすため、しばらく悠遠な、縄文の歴史へと、目を向けよう。
 吉野ヶ里をおとずれた人は、そのプレハブ展示場の中に入る。その途端、まず、縄文土器が目につく。順路の最初に並べてあるからだ。
 これが重要。吉野ヶ里の歴史を辿(たど)るための、こころにくい展示。佐賀県の県教委、文化課の方々(武藤佐久二(むとうさくに)さん、高島忠平さん、七田(しちだ)忠昭さん、その他の方々)に脱帽する。
 もっとも、これは、吉野ヶ里遺跡そのものから出たのではない。近所からの出土。だが、当地域の歴史にまちがいはない。
 実は、この佐賀県。九州の縄文いや、旧石器以来の歴史にとって、重要な“発祥点”をもつ。古代文明のキイをにぎっていたのだ。それは何か。 ーー 腰岳(こしだけ)
 この二字を忘れて、九州の縄文、ことに北部九州のそれは語れない。
 伊万里(いまり)富士と呼ばれる、美しい山。のちに伊万里焼で有名になった、この焼き物の町に来てみると、すぐ目の前に、やさしげな、この山が見える。南側だ。
 この山の頂上には、トラピストの修道院が建っている。おいしいお菓子を作っている。ビスケット。先日も、下関(前田博司さんのお宅)で、そこから「輸出」されてきたそのお菓子の御馳走(ごちそう)にあずかった。
 それは、今の話。
 昔は、黒曜石の山だった。もちろん、いまもたくさん出る。真っ黒くて、良質。大量に出る。それは、下関にも、釜山(ふざん)にも、「輸出」された。下関では、黒曜石の塊りをそのまま運んできて、岬の近くで“製造”されていた、という。(先の前田さんにお教えいただいた)
 釜山でも、あるいは、そうであるかもしれぬ。
 かつて釜山で、黒曜石の鏃(やじり)が出土し、それが日本列島の腰岳のものであることが分かったとき、韓国の新聞が「日本からの輸入」として報じた。日本の新聞も、そのまま報じていた。
 この韓国の新聞記者は、ユーモアを解する人らしい。当時、縄文時代、「韓国」と「日本」との国境線が、玄界灘に存在したわけではない。それは、現代の話だ。
 だから、当時は、「輸入」も、「輸出」もない。もし、使うとすれば、唐津へもってゆくのも「輸出」、博多湾岸へもってゆくのも「輸出」。それと同じ意味で、釜山へも「輸出」されたのだ。
 要するに、釜山も、下関も、腰岳を中心とする、古代文明圏に属していた。それだけのこと。
 この“それだけ”の事実が重要だ。その後の歴史を“暗示”する。否、「規定」するものだからである。いいかえれば、その後の弥生文明は、この縄文文明を“継承”して、うけついで、成立しているからである。
 次の図を見よう。
 (A) 図は、腰岳の黒曜石の製品(鏃やじり)の分布図。
 (B) 図は、弥生の金属器(銅剣)の分布図。
 両者が見事に一致し、対応しているのが知られよう。なぜか。

腰岳の黒曜石の分布 古代先端技術ハイテク列島・日本 古田武彦 『吉野ヶ里の秘密』

 

人類「突出」の秘密兵器、黒曜石こくようせきの鏃やじり

 これに答える前に、黒曜石という不思議な石について説明しておかねばならぬ。純黒で美しい、この石は、火山の産物。かつてその爆発のあと、急速に冷却させられる、そういう大自然の、地球形成時に“作り出され”た。「造化の神」の作りたもうた「製品」だ。
 この「製品」が、人間に対する、こよなき贈り物となった。
 鋭く、かたい。そして割りやすい。「割れやすい」のではなくて、「割りやすい」のだ。
 ただ、コツがある。「目」にそって、たたくのだ。読者は、「マキ」を割ったことがあるだろうか。もう、若い人、都会に住んでいる人には、そんな経験はないだろう。
 斧(おの)で、やみくもにたたいて、木がはねかえり、自分の膝(ひざ)にあたって、それこそ「痛い目」にあわされた経験もないだろう。
 あれにも、コツがあった。木のにそってたたけばいいのだ。キレイにグサリ。気持ちいいように割れる。いや、割(さ)ける。
 それと同じこと。黒曜石にも、「石の目」がある。それにそって、他の石でたたく。キレイに、“割ける”のだ。
 かたくて、割りやすい。この性質は貴重だ。何しろ、金属器のない時代。「鏃やじり」などを作るため、これは最高の秘密兵器だった。
 もちろん、人間は、はじめ、「弓矢」などもっていなかった。まだ、その発明以前の、長年月が流れていた。何十万年という「弓矢なき時代」だ。
 この間、人間にとって“苦しい”時代だった。人間には、さしたる、飛び抜けた能力はない。他の動物に比べて、だ。走る速さ、遠くを見る力、飛び上がる力、など、など。人間よりすぐれた動物は、たくさんいる。そういう、他の動物と、闘いつづける毎日だった。
 ところが、ある日、「弓矢」を発明した。「ある日」というのは、短絡(たんらく)したいい方、つづめた表現。実は、長い、長い、試行錯誤の末だ。パチンコ状の武器から、「進化」したものであろう。
 ともあれ、この「弓矢」の発明により、突如(とつじょ)、 ーー これも、「短絡」 ーー 人間は強くなった。人間をあなどっていた、他の動物も、あなどれなくなった。人間には、目に見えぬ能力、「智慧ちえ」があったのだ。
 この「智慧」で、弓矢を発明した。それによって、人間は、他の動物から“突出”しはじめたのだ。逆にいうと、他の動物にとって、「長い、受難の歴史」がはじまった。もちろん、今も。
 その、弓矢という武器にとって、肝心のところ。それは「鏃」だ。いわゆる「石鏃せきぞく」。わたしたちは、この言葉を聞くと、“野蛮”のイメージをうける。とんでもない。文明の最先端。人類「突出」の秘密兵器だった。その中で、最高の秘密兵器、それが、黒曜石の鏃だった。

 

中国大陸、朝鮮半島に近かった腰岳の運命

 かたくて、割りやすい。つまり、鏃を作るうえで最良の材質、黒曜石を見いだして、当時の人間たちは、“狂喜”したことであろう。しかも、美しいのだ。
 この黒曜石をめぐって、古代信仰の世界が開かれたこと、それは確実だ。黒曜石文明のはじまりだ。
 しかも、この黒曜石は、どこにでもある、というものではない。産地が特定されている。ことに、良質のものが大量に、という条件がみたされるところ、ということになると、日本列島でも、ごく、限られる。
 北は、北海道の十勝岳(とかちだけ)。本州では、長野県の和田峠。諏訪(すわ)盆地と松本盆地の間だ。
 そして島根県の隠岐島(おきのしま)。西郷町のある島後(どうご)のほうだ。相対する「三つ児みつごの島」(島前どうぜん)のほうからは、まったく出ない。両方とも、火山が海に没してできた島のようだ。だが、その「冷却」の時期やスピード(冷却度)にちがいがあったためか、後者にはまったく出ず、前者には、各地にさまざまの美しい黒曜石が出る。
 わたしは、海岸を歩きながら、拾っては歩き、歩いては拾った、忘れえぬ記憶がある。十数年前のこと。すぐ、ポケットがいっばいになって、いままで拾ったのを捨て、もっと大きいのにかえた。少年の日々のように。楽しかった。
 次は、姫島。大分県、国東(くにさき)半島の眼前にある。ここは、白い黒曜石。いつ書いても、変な気がする。いっそ、曜石、と書いた方が、スッキリする。この島の特産だ。この「白曜石」も、独自の分布圏をもつ。もちろん、瀬戸内海や九州。その周辺にかけて、だ。この島も、古代信仰を語るさい、見のがせぬ所であろう。
 そして、腰岳。出雲の隠岐島ほど多彩ではないけれど、良質・大量。この二条件にピッタリだ。長崎県の島原半島のほうに向かって、産地はひろがっている。縄文人、あこがれのメッカであろう。
 しかも、この腰岳には、他の黒曜石の産地にない特徴があった。それは、中国大陸に近い。朝鮮半島にも近い。この一点だ。
 だから、朝鮮半島、釜山への「伝播でんぱの道」があった。「伊万里→釜山」という、直通海路もあるだろうけれど、西から東へ流れる対馬海流の方向を考えると、「伊万里→五島列島→釜山」というコースのほうが、いいかもしれぬ。
 しかし、結局は、「伊万里→唐津→壱岐→対馬→釜山」のコースとなったであろう。こちらのほうが、陸地と陸地の間が近いからだ。とくに、向こう(釜山)から、黒曜石の伊万里をめざす場合、「釜山→五島列島」など、まったく無理。やはり、「釜山→対馬→壱岐→唐津→伊万里」がメイン・ルートとなったであろう。

 

縄文時代、日本列島は文化の“輸出国”だった

 ここで、わたしたちは、倭人伝に出合った。
 倭人伝では、「対海国」(対馬)と「一大国」(壱岐)について、それぞれ、
  南北に市糴(してき)す。(「市糴してき」は、産物交流の意)
と書かれている。この行路が、日本列島と朝鮮半島との交流のメイン・ルートだったというのだ。
 人々は、ここから「朝鮮半島→日本列島」という、文化の流入をイメージする。それは正しい。すくなくとも、弥生の世界では。
 しかし、弥生は六百年。その前には、一万年の縄文がある。その前には、旧石器。「文化の流入」方向は、逆向きだったのだ。「日本列島→朝鮮半島」この方向である。
 “たかが、石くらい”といいたまうなかれ。それは、“金かねに目のくれた”人間のせりふだ。金属器文明に“酔い痴しれ”、それ以前の長大な文明に対し、その時期の人間の、孜々(しし)たる進歩の足跡に“目のない”、哀れな人の目だ。
 そうだろう。もし、現代の先端技術、二十世紀のテクノロジーの立場を基準として、弥生、古墳、奈良と、各時代にわたった、朝鮮半島や中国大陸文化の流入に対し、“何だ、あんなもの、たいしたもんじゃない”などという人があったら、その人は歴史を語る資格がない。否、人間を語る資格がない人だ。“近代テクノロジーに、目がくれて、のぼせあがった”人なのだ。
 同じく、“なんだ、石なんて”という人は、“金属器文明に、酔い痴れて、のぼせあがり”、歴史と人間の真相が“見えなく”なった、哀れむべき人間。
 おまけに、弥生より後(あと)は、千七百年、縄文は一万年。けたがちがう。まして旧石器となれば。
 要は、“どちらがえらいか”なんて、ケチな話じゃない。人間の歴史は、「時間差」によって向きが変わる。それだけのことだ。
 その変化は、金属器によっておきた。向きが逆転したのである。その時期に、倭人伝は書かれた。それを読んだ、わたしたちは、とらわれた。そして「文化の向きは、一方向」、それは“大陸・半島から”と思いこんだのだ。
 今、小学・中学・高校の教科書も、そういう向きで書かれている。歴史の教科書が、自分の列島の歴史を知らない。教えない、のである。

 

世界の中で、圧倒的に古い土器を持つ日本列島

 ことは、黒曜石にとどまらない。一番の問題は、土器。人類最古の工業製品。それが土器だ。石器や木器は、製造前と製造後と、まったく材質は変わらない。ところが、土器はちがう。土に高熱を加え、材質をかえる。そして使う。これが、言葉の正確な意味で、工業製品。
 なぜなら、現代のどんな工業製品でも、
 (1) 大自然の「物」を原材料とする。
 (2) それに、高熱や高圧を加え、材質に変化を加え、人間の利用しやすい性質に変える。
 (3) そして使う。

 この三原則に反するものはない。これが工業製品だ。
 人間にとって、最古の工業製品は、文字どおり、土器以外にない。人類が「土器」という名の工業製品を作りはじめてから、いままで、たったの一万四千年くらい。あっというまに、現代文明に到達した。
 なぜ、一万四千年が「あっ、というま」か。誇張も、いいかげんにしろ、というだろうか。
 しかし、「土器発明、以前」、人類史はすでに、何十万年も、経(た)ってきた。とすれば、「一万四千年」など、なんと短いことか。比較すれば、の話。
 だから、「あっ、というま」というのは、客観的、かつ、正確な話なのである。
 この土器の絶対年代が分かりはじめたのは、長崎県の福井洞穴(どうけつ)からである。もちろん、「絶対年代」というのは、放射能測定の年代である。敗戦前、アメリカのシカゴ大学の学者、W・F・リビー(一九〇八〜一九八〇)が開発し、ノーベル賞をうけた、例の方法だ。
 福井洞穴の第三層(隆線文りゅうせんもん土器と細石器。前一万年)の土器を発見されたのは、芹沢長介(せりざわちようすけ)さん。明治大学出身。あの岩宿(いわじゅく)遺跡における旧石器発見。相沢(あいざわ)忠洋氏による、その発見を、学者として支持し、定着させた業績で知られる。
 ここでも、地元の郷土史家の通報によって現地に至り、その深層から発掘した隆線文土器。それを学習院大学の木越研究室に送ったところ、紀元前一万年前後、という、驚異の数値をえたのである。
 その後、同じ長崎県の泉福寺洞穴の豆粒文(とうりゅうもん)土器は、さらに古い、前一万五百年前後の数値をしめした。麻生久(あそうひさし)氏の発見だ。
 そのあと、各地で、近畿・東北・北海道と、近似した時間帯の数値があい継いだ。日本列島は、世界各地の中で、圧倒的な“古さ”をしめしたのである。なぜか。

 

「中国や朝鮮半島から、日本より古いのが出てくるよ」

 この点、わたしにとって、忘れられぬ思い出がある。
 個人のお宅にうかがってお聞きした、その点では、「私談」だ。だが、研究史上、重要な意味がある。そこで、敢えて「公開」させていただく。ただし、A氏とさせていただく。
 そのA氏は考古学者。上記の、古い土器の存在を世に紹介された学者の一人として、著名だ。
 わたしが、このA氏のお宅をおとずれたのは、他でもない。福岡県の博多湾に浮かぶ能古島(のこのしま)、ここから出土した黒曜石の鏃等の写真をあらかじめお送りしておいた。それについての所見を求めた。が、「分かりません」の一語。
 「ああ、同じ黒曜石でも、時期によって『専門』がちがうのか」内心、そう思って、問い直した。
 「どなたにお聞きしたら、分かりましょう」と。ふたたび、「分かりません」の一語。とりつくしまもなかった。

 総計、所要時間、二分弱。遠路はるばる、この地をおとずれた、その「用務」は、終わった。いささか、当方、もじもじしていると、途端に、A氏の“懸河の弁(けんがのべん とうとうと話しまくること)”がはじまった。
 「わたしは今、困っているんだ。考古学界で、えらい目にあっている。みんな、わたしのことを、『あいつは、皇国史観の持ち主だ。だから、何でも、日本のものを、世界一だ、といいたいんだ。だから、放射能だなどと、わけの分からんもんをもち出した。あんなのを相手にしちゃ、いかん』こういうんだな。
  正々堂々、論文に書いてくるのならいいが、そうじゃない。口から口ヘ、裏で連絡しているんだな。まったく困ってしまうよ」

 次々と、言葉は出るものの、本当に苦しそうに見えた。
 「しかし、わたしは、そんなことはない。皇国史観なんて、とんでもないよ。今に見ていてごらん。中国や朝鮮半島から、日本より古いのが出てくる。きっと出てくるよ。
  彼等は、今は、金属器や、大きいものに目を奪われているが、やがて、古い土器に目をむけるようになったら、もう、日本なんかより、ずっと、ずっと、古いものがたくさん出て来る。まちがいない。
  わたしが、皇国史観だなんて、とんでもないことだよ」

 まとめて書けば、これだけの趣旨だが、この「趣旨」を、延々(えんえん)一時間二十分、わたし一人を前に、ぶちつづけられたのであった。
 さっきとは、えらい変わりよう。学者とは、自分の“気に染まぬ”ことと、“染む”ことでは、えらくちがうものだ。わたしは、自分のことは棚にあげて、感じ入ったものだった。
 当時、 ーー もう十五年くらい前のことだ。 ーー わたしは、縄文土器の始源問題には、関心がなかった。いまだ芽生えていなかった、といったほうがいいだろう。だから、この話自体、「面白かった」わけではない。ただ、“義理合い”上、いっときの聴講生となっただけだった。
 だが、後日、これが生きた。

 

火山が創造した世界最古の土器文明

 その後、A氏の著述が出るたびに、わたしの関心は、自然に、このとき聞いた話に焦点が集まった。「その後、中国や朝鮮半島から、ずっと古い土器は出たのかな」これだった。
 しかし、結局、その気配はなかった。いや、正確にいうと、「気配」はあった。日本側の「前一万年」に近づいてきていた。しかし、結局、越えるものは、ない。まして「ずっと、ずっと古い」ものなど、ない。
 一方、日本のほうは、そうでない。はじめはなかった、東北や北海道にも、ぐんぐん古いものが出た。
 そのうえ、ついに三年前、神奈川県の大和(やまと)市で出土した無文(むもん)土器。それは、実に紀元前、一万二〇〇〇年前後の数値をしめした。現在、日本列島最古、世界各地のなかでは、一段と飛び抜けて最古だ。
 だから、A氏の「予言」は、はずれた。だんだん「接近」する、というより、逆に「ひらく」傾向すらある。宮城県でも、前一万一〇〇〇〜一万二〇〇〇年という「動物土偶」が出た。
 わたしは、このような傾向を見た。そして考えた。なぜだろうなぜ、日本列島ばかり、こんなに「土器の成立」が古いのだろうか、と。
 一昨年、春から初夏、そして梅雨、夏に向かって、わたしの思索(しさく)はつづいた。1988年7月4日の夜、もう5日になっていただろう。縄文土器の各資料ととり組む、苦闘の日々だった。そして七月四日の夜、もう五日になっていたろう、突如、寝間の中でひらめいた。 ーー 「火山だ」と。
 火山が爆発する。熔岩(ようがん)をふき出す。熔岩流が流れ出す。延々(えんえん)と、低きに向かって流れる。
 その途中、岩を焼く。草も木も焼いて流れる。そして「土」も、焼くのだ。流れにつれて、だんだん温度が冷えてゆく。だから、いろいろな温度で「土」を焼くであろう。
 その「土」の中に、粘土質の土があれば、そこに、あの「土器」に生じたと、同じ化学変化が、天然の力で生じるはずだ。
 旧石器人は、それを見た。そしてその「土の変化」が、あの「火」によって生じたのを知った。それゆえ、それを模倣しようとしたのだ、人間の手で。「火」を使って。  ーー これが、「土器の誕生」だ。
 この仮説に立つとき、有利なこと、それは「なぜ、日本列島で、早く、土器が誕生したか」という問いに、うまく答えられる。この一点だ。
 なぜなら、ご存じのとおり、日本列島は火山列島だ。至るところに火山がある、といっていい。
 これに対し、中国大陸には火山がない。朝鮮半島には、北の白頭山、南の済州島などがあるものの、日本列島に比べれば、圧倒的に少ない。
 日本列島には、「土器の創造」実は「自然の模倣」のための、お師匠さんたちが、軒(のき)を連(つら)ねて、立ち並んでいるのだ。

日本列島各地に、ずば抜けて古い土器が輩出している「理由」

 もし、Aさんが「予言」されたように、もし中国大陸、たとえば、黄河の中流域で「土器の発明」が行なわれた、としよう。それは、次の状況を意味する。
“ある日、旧石器人の中に、天才がいて、「よし、わたしは土器を作ろう。そのためには、土に化学変化をおこさねばならぬ。火を使うのだ」そのように「思いつき」、そして実行した”と。

 もちろん、そのような「古今独歩の天才」が、黄河旧石器人の中にいた、としても、いっこうにさしつかえない。あるいは、長い「時間」を味方にした、黄河、天才集団の存在を“予想”してもよい。

 よいが、問題は次の一点だ。そのような「天才仮説」を立てるより、先にのべたように、

  第一、大自然が「お手本」をしめした。

  第二、人間がそれを模倣した。

  第三、それが人類文化の独創となった。

 そのような「仮説」のほうが、ずっと立てやすい。つまり、自然なのではないだろうか。無理がないのだ。
 そのうえ、「日本列島各地に、ずば抜けて古い土器が林立している」という「事実」を、うまく説明できるのだ。

「仮説」とは、「事実」と対応するとき、その価値をもつ。

 もちろん、これに対し、たとえば、「野火」のような、自然の「火」を考え、それをもって、人間が「土器製作」を思いついた原因、そう考えることもできよう。
 しかし、その「野火、仮説」に立った場合、「日本列島、古層土器、林立」の「事実」が説明できなくなってしまう。「野火」は、中国大陸でも、日本列島でも、“平等に”発生するのであるから。
 野火と熔岩流とでは、火の温度や質量、また持続力等、すべてにおいて、火の「力量」がちがいすぎるようである。
 ある人にこれを話したら、途端に機嫌が悪くなった。いつも、わたしの説をよく理解してくれていた人だったので、意外だった。
 どうも、その人は、「すべての文化は、中国大陸から」と信じていたため、わたしの話が、“飲みこみかねる”模様であった。
 昔は、日本中心の皇国史観がさかえ、それにさからう者は“にらまれ”た。
 今は、大陸文化中心史観がさかえ、それにさからう者は“白い眼で”見られる。そういう時代のようだ。
 だが、わたしは「無中心主義者」だ。日本列島中心主義でもなければ、大陸や朝鮮半島中心主義でもない。
 ただ、「事実」によく合致する「学問的仮説」を求める。それだけのことだ。その時代の「流行」より、真実は常に優先されねばならぬ。

 

「縄文人は、絶対、アメリカ大陸へ渡っている」

 わたしは「土器の誕生」について、「火山一点張り」とは考えていない。一昨年、考えつめていたとき、最初に思いついたのは、「海流」問題だった。
 日本列島は、二つの長大海流にはさまれている。対馬海流と黒潮だ。ここに原因があるのではないか。そう考えた。なぜか。
 かつてわたしは、青木洋さんのもとに、おたずねしたことがある。大阪府堺市におられた。海の知識を聞くためだった。
 青木さんは、二十歳代のはじめ、手作りヨットで世界一周をされたので有名だった。そのときは二十四、五歳くらいだったろうか。とても、気さくに話してくださった。
 「縄文人は、絶対、アメリカ大陸へ渡っている。僕はそう思いますよ」
 青木さんは、いきなり、そう話しはじめられた。
 そのとき、わたしは、瀬戸内海の航行について、おたずねしに行ったのだが、いきなり、青木さんが話の口火を切られた。
「黒潮に乗ってゆくとき、必要なものが三つあります。一つは針、一つは糸、もう一つは、つぼです。
  針と糸は、魚を釣るため。食料ですね。えさはなくてもいいんです。舟の中に、元気のいい魚が時々飛びこんできます。それをつかまえて、肉や内臓を切って、えさにするんです。すると、面白いくらい、かかってきますよ。ですから、飢え死になんて、絶対にしませんよ」
「なるほど、黒潮なんかの魚は、無邪気というか、大らかなんですね。それに比べると、沿岸部の魚は、人間にいつもだまされているんで、すれているのかな。きっと、『人間にだまされるな』っていう、親から子への家庭教育が徹底しているんですな」と、わたし。
「もう一つの『つぼ』。これは、ドラム鑵かんでも、何でもいい。要するに、水を入れるんですよ。海の上には、一週間に一回くらい、スコールっていうか、大雨が降るんです。そのとき、口をあけて、飲んでも、知れていますけど、『つぼ』にためておけば、チビリチビリと飲みつなげます。どんなに降らなくても、二十日もすれば、かならず降りますからね」

 実地の経験に立った、お話だった。
 そのときは、瀬戸内海の鳴門海峡について、その航行の仕方をお聞きしに行ったときだったから、“聞き流し”ていたが、今回、これが役に立った。
 このとき、青木さんからお聞きした、とてもいい話。記させていただく。(御免なさい)
サンフランシスコに着いた。もう、いやになった。家に電報を打った。「もう、世界一周はやめた。帰る」と。親父殿(おやじどの)から返電が来た。「やめるな。男子がいったん思い立ったことだ」と。泣く泣く、また皿洗いなどをして金をため、次の寄港地へとむかった。
 「あのとき、止めなくてよかった、と思いますよ」
 語る青木さんの顔、最上にさわやかだった。

 

日本列島人にとっての「つぼ」は生命にかかわるものだった

 今回、思い出したのは、最初の部分。
 日本列島人にとって、魚は不可欠の食料だ。それを採りに舟出する。もちろん、遠洋漁業ではない。たとえば、海岸線から三〇メートルか、五〇メートル沖合へ出ようとする。そこで採れる魚もあろう。
 ところが、眼前は大潮流だ。黒潮か、対馬海流。ちょっとした風に流されて、この大潮流に乗る。期せずして「遠洋航海」だ。
 そのさい、もっているもの。もちろん、針と糸らしきものはあろう。魚を釣るためなら。
 問題は、「つぼ」だ。これのありなしが、いのちを分ける。
 ということは、何か。日本列島人にとって、「つぼ」は、生命(いのち)に関する、救命袋だった。 ーー そういうことだ。
 もっとも、赤道付近の海洋民の場合。やしの実や大きな貝があった。いずれも、水を貯える、器(うつわ)となろう。
 だが、日本列島の大部分には、ない。沖縄近辺の島々や宮崎など、若干の例外があるだけだ。ここに、「つぼ」の必要があった。いのちにかかわる必要だった。
 もちろん、木をくりぬいて「水入れ」にする。動物の皮を剥(は)いで、皮袋という手もあろう。竹、ひょうたん。いずれも、「水入れ」として貴重だった。
 だが、足らなかった、何が。天から降ってくる雨を、そのまま受け入れる、それには、まだ不足だったのではないか。 ーー わたしはそう考えた。
 この点も、たとえば、中国大陸の、どまんなか、黄河流域などの場合。たしかに、「つぼ」は、あったほうがいい。便利だ。
 しかし、それの「有り無し」がいのちを分ける。生と死の境に「つぼ」がある、そういった切実さはないのではないか。
 「生命にかかわる切実さ」の有り無し、そのいずれに「発明の女神」はほほえむいうまでもない、切実なほうだ。
 日本列島人のほうが、“頭がよかった”などという問題ではない。ただ、“より切実だった”だけ。わたしはそう考えた。

 

孔子も気づかなかった「器うつわの重要性」

 ちょっと、遊んでみよう。
 今日、ちょっと、必要あって、桑原武夫さんの『論語』(ちくま文庫)を読んだ。
 「桑原さん」などと、気やすく呼んでいるけれど、わたしの東北大学の学生(文学部)時代、フランス文学の先生だったから、直接習ってはいないけれど、「恩師」だ。当時、「俳句第二芸術論」で著名、意気軒昂(けんこう)だった。
 その桑原さんが、次の語を「論語」から引いて、解説しておられる。
  子曰わく、君子は器ならず。
 「君子は専門家ではない。道はすべて特定の用途のために作られ、それ以外の用途には適さない。舟は水に浮べるが山には登れない、車は陸を行くが海は渡れない。君子はそのように用途のせまい器うつわのような専門家であってはならない」(四九ぺージ)
 そしてこの章の結びに、桑原さんはいう。
 「 ーー 『不器』とは特定階層の人々にとってのみの専門技能の否定ではなく、すべての人が技能を当然持ちながら同時に広い視野と行動力を持ちうるようでありたいという希望を示すものと、今日では受けとっておきたい」(五一〜五二ページ)
 賛成だ。技術者が、いわゆる「専門バカ」におちいらず、広い視野をもつ。大事なことだ。
 技術力をもって、世界に抜群の「富」を気ずきつつある、今日の日本人。「一般教養」や「教養主義」を軽侮する、「専門慢まん」(専門うぬぼれ)の傾向の見える昨今、ことにこの言をよし、としたい。
 わたしが今、在職する学校の学生は、「薬学」の専攻。自然科学系だ。自然科学系らしく、真面目で、実直である。それだけに、いつも「広い視野を」と願っている。
 さて、それはいい。いいけれど、「いい」と、しっかり認識したうえで、「孔子先生」に、一(ひと)文句つけてみたい。許してくれたまえ。
 「君子」。これは、孔子にとって、“いい”言葉だ。プラス・イメージ。とすれば、「器ならず」とされる、「器」とは、マイナス・イメージとなろう。これは避けがたい。
 「器」は“器物”、“うつわもの”だ。これを、マイナス・イメージに使うとは。
 ズバリ、言おう。今、のべた、“生死を分けるうつわ”すなわち、「つぼ」。この重要さ、不可欠さを知った人なら、とても、こんな“用い方”はできないのではないか。
 孔子は、大陸人間。そのうえ、インテリ。出身は卑いやしく、ために、いろいろの“能力”をもつ、と述懐しているものの、しょせん、海洋民にとっての「器の重要性」には、気づかなかったのではあるまいか。

 

大陸人間・孔子の“差別発言”

 ちょっと、駄目押し。
 『論語』に、次の句がある。
  子曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。

 桑原さんは、これについて、
「この章では知者と仁者を高低なく、むしろ人間類型における二つのすぐれたタイプとして提出しているものとみたい」(一五六ぺージ)

 と、“公平を期した”解釈を下している。しかし、正直にいって、わたしには「?」が感ぜられる。

 なぜなら、『論語』の中で、「知」というのは、いろいろの意味に使われる。たとえば、

  子曰わく、民は之これに由よらしむ可し。之これを知らしむ可らず。

などというとき、「由」は、「根源を明らかにし、これを深く知らしめる」意味。「知」は、「表面的な、通りいっぺんの知識」を意味する。
 けっして、一般に誤解されているように、“盲信させろ、知識を与えるな”なんて、意味ではない。
(この点、広島の旧制高校時代、恩師の岡田甫はじめ先生に教えていただき、深い印象をうけて、今に至っている)
 ともかく、ここで「知」が、あまりいい意味で使われていないこと、疑いない。
 これに対して、「仁」は、いつも、いい意味。これを疑う人はあるまい。『論語』中、「最高の文字」を、一つだけ、抜き出せ、といったら、この文字をあげる人は少なくあるまい。
 となると、やはり、「知者」より、「仁者」の方が、分(ぶ)がいい。
 そこで、実は、わたし。若い頃から「悩んで」いた。なぜなら、「海」が好きなのだ。少年時代、瀬戸内海のほとり、「呉」で過ごしたせいか、あるいは、先祖が高知県、あの土佐男の、荒海の国の出身のせいか、「海」が好き。
 二十代、信州の松本(深志ふかし高校)で教師をしていたとき。朝夕、眼前の乗鞍岳にほれぼれしながらも、「海」のことを思うと、胸が痛んだ。
「おれは、せいぜい『知者』。とても、『仁者』じゃないな」そんな思いが胸をよぎっていたのである。
 今になってみれば、「バッカみたい」。孔子は、大陸人間なのだ。海洋人間じゃない。だから、こんな「差別発言」をしていたのだ。(これが、中国の古言である、との説を、桑原さんは紹介しておられるが、それならいよいよ、そうだ。それに、孔子は「反対」していないのである)
 もし、海洋の国、日本列島に孔子が「生まれ」たら、逆に、
  知者は山を楽しみ、仁者は海を楽しむ、
 といったかも、しれぬ。それだけのことだ。(もちろん、こういったら、信州人は、大いに「反対」しよう。それも、よし、だ)
 孔子は、すばらしい。わたしは好きだ。しかし、同時に、時代の、地域と風土の、制約をもつ。当たり前のこと。「聖人扱い」していては、それが「見え」なかっただけだ。
 イエスだって、マホメットだって、マルクスだって、例外ではない。

日本列島の旧石器人の成熟度

 よそ道をした。もとへもどろう。
 人類最古の工業製品たる「土器」。それを発明できた、その秘密。秘密のカギは何か。
 火山と海流。この二つか。 ーー もう一つ、ある。これがむつかしい。微妙だ。それは、「旧石器人の成熟度」である。
 旧石器といえば、野蛮。みんな、そう思っている。大部分の人が、そのように信じている。 ーー ウソだ。
 旧石器、何十万年。その間、ズーッと、「野蛮」ひとすじだったか。とんでもない。逆だ。
 その間(かん)いっときたりとも、休まなかった。何が。 ーー 進歩が。成熟が。わたしは、そう思う。
 だから、ある段階では、もし眼前に、熔岩流を見たとしても、はじめなかった、それを「お師匠さん」としはじめなかった。まだ、その発達段階に、達していなかったのだ。
 そして、ある段階に来たとき、眼前に、それを見て、それを模倣しよう、と模索(もさく)しはじめたのだ。 ーー わたしは、そう考える。
 もちろん、わたしたちは、まだ、旧石器人をあまりにも知らない。その証拠に何十万年もの長年月を、気の遠くなるほどの長年月を、ただ「旧石器時代」、この一語ですませているではないか。それほど、わたしたちは、無知なのである。
 しかし、この「旧石器人の成熟度」という概念は、この問題に必須(ひっす)だ。わたしは、そう思う。

 わたし個人の、つまらない経験を話させてほしい。
 いままで、何回も、何回も、くりかえしお目にかかってきたはずの史料、たとえば、古事記・日本書紀の中の「ありふれた」記事、それが、ある日“きらめく”ことがある。いままで、夢にも思わなかった真実、それがきらめくのを眼前にするのだ。
 なぜ、こんな。なぜ、こんなことをいままで気づかなかったのだろう。 ーー わたしは、自分でいぶかる。これほど、ハッキリと見えているのに。
 考えてみると、いままで、同じ、その場所を読みながら、目は上(うわ)すべっていた。“ふしあな”だった。それは、まだ、そのときが至っていなかったからだ。まだ、それが“見える”までの成熟度に、わたしが達していなかったからだ。
 だから、一番の「敵」は、わたしの中の「もう、ここは何回も読んだ。検討ずみ」という慢心だ。たしかに、昨日のわたしは読んだ。だが、今日のわたしは、まだ読んでいないのだ。
 たとえば、絶世の美女。人々の心をまよわせたという、あの俾弥呼そこのけの魅力あふれる女性に出会っても、こちらがまだ少年、そこまでの成熟度に達していなければ ーー 。といった話と、同じかもしれぬ。
 へんな、ちっぽけな、たとえ話ばかりもち出したけれど、この真理には、ちっぽけも、でかすぎもない。日本列島の旧石器人は、紀元前一万二〇〇〇年頃、その「成熟度」に達していたのだ。

 そこで定式を作ってみた。
  D=v・n・r(function)
 Dは、 「土器」の発明。(Doki)
 vは、火山。(volcano)

      nは、必要度。(need)
      rは、成熟度。(ripe)

 若干、説明を加えよう。
 vの場合、ただそこに、火山があればいい、というものではない。火山には、活火山の時代、休火山の時代、死火山の時代がある。その火山が爆発し、熔岩流の流れ出しているとき、ことにその末期、ちょうど、旧石器人の「成熟」した時期と合致する。そういう条件が不可欠だ。あまり、カッ、カッと爆発しつづけたり、ものすごい勢いで熔岩流が流れつづけているときなんて、とても、冷静に観察する、などというわけにはいかない。
 nの場合、一般的な「必要度」なら、どこの人類も、いっしょだ。土器があったらいい、に決まっている。その証拠に、現在、人類のほとんどは、この「土器」という、便利な発明物を愛用している。
 ところが、海洋民の場合、ことに「長大な大洋を縦貫する大海流」にはさみこまれた島国の場合、先にのべたように、その必要度は抜群だ。
 rは、すでに詳しくのべた。だが、旧石器時代全体の、そのありていな発展史、それはまだわたしたちの「歴史認識」にとって、理解の外。これからの楽しみだ。 ーー 「弓矢の発明」「神々の発見(神々〈発見〉した)」など、人類の貴重な発明や発見の数々は、この期間になされたのだ。これらの点、また語るときがあろう。
 いまは、「土器の発明」という人類の偉業が、すくなくとも、右の三要素の函数(function)として生まれた、この指摘で満足しよう。(「土器文明」という以上、ある程度の「人口」も必要であろう)
 念のためにいう。これは、多元説だ。右の三要素が満足されれば、当然、どこででも(日本列島以外で)「土器の誕生」は可能。そういう理論なのである。
 だが、実際上は、いまのところ、日本列島が抜群に古い。この列島は、右の三点に「恵まれ」ていた。いや、「恵まれていなかった」から、というほうが、正確なのかな。
 大海流に流し去られる恐怖や火山の爆発と熔岩流の怒り狂う流れ、それらに日常、おびやかされつつ、生きつづけ、だんだん賢くなっていったのだ、この日本列島の、わたしたちの先祖たちは。 ーー 深く敬礼しよう。

 

沿海州の「女性骨偶」と東日本の「女性土偶」の共通性

 しばらくして、自信をもった。この仮説に“自信をもたせる”発見があったのだ。もちろん、わたし自身の内部の、ささやかな発見にすぎないけれど。
 日本列島の地図を開く。そこに火山帯が記入されている。わが列島は、名にし負う火山列島なのだから。
 それには、二つの系列がある。
 一方は、北海道から、東北地方、そして関東地方・中部地方を南下してきて、伊豆半島から南方海上へ抜ける。その一つ、一つに名前はあるけれど、要するに、ひとつらなりの火山帯だ。
 他方は、九州の南方洋上より。桜島から阿蘇山を通って島原半島へ抜ける。その一方は、東へ分岐して山陰地方の大山(だいせん)に到達する。
 これらの火山帯には、いずれも温泉が湧き、恰好(かっこう)のリゾート地を提供している。
 さて、この分かりきった事実に、いまさら注目したのは、ほかではない。日本列島の縄文文明は、東日本と西日本と、両者大きく異なっている。名は、同じ縄文でも、実体はまったくちがうのだ。
 なぜ、「まったく」か。土偶、つまり「土のお人形さん」の有り無し、だ。東は、有り、西は、無し。
 「たかが、お人形さんくらい」というなかれ。これは、子供のおもちゃではない。信仰の対象だ。信仰、それは古代文明の心臓だ。だから、土偶の有り、無し、とは、両圏、信仰がちがう、ということ。つまり、“文明がちがう”のである。

 わたしは、この事実は、すでに知っていた。だが、なぜだか、分からなかった。「この小さい日本列島で、なぜ、二つに分かれているのか」そう思って、解(げ)せなかった。
 それが“解け”はじめたのは、一昨年、ソ連のハバロフスクヘ行ってからだった。そこの博物館の一室に、「骨偶」があった。アザラシなどの海獣の骨で、“女性の姿”を刻んであるのだ。
 このやり方には、伝統がいまに伝わっているらしく、同じ海獣の骨で作った装飾品をお土産として売っていとても、安かった。
 それはいいとして、問題は、その年代。放射能年代が書いてあった。いまから、約二万五千年前、ないし三万五千年前といった、途方もない数値。
 それを見て、わたしは瞬時に了解した。積年のナゾが解けた。なぜ、日本列島の東半分、山梨県の釈迦堂遺跡や関東・東北地方に「女性土偶」が氾濫(はんらん)しているのか。その系列が、この、お向かいさんの大陸、沿海州における「女性骨偶」の文明。この影響下に、日本列島東半分の「女性土偶」の文明は、成立したのだ。
 「骨製」と「土製」、自然製品と工業製品、このちがいこそあれ、文明の本質に変わりなし。女性偶像に対する信仰、それが生きつづけているのである。おそらくは、現在の、東北地方の「こけし」も、その影響下に立つものであろう。
 これで、東半分のナゾは解けた。

東日本と西日本は「火山帯」が違う 古代先端技術列島・日本 古田武彦 『吉野ヶ里の秘密』

 

土器文明以前から「東日本」と「西日本」の文明は違う

 分からないのは、西半分。なぜ、その狭い日本列島で、この「女性偶像」への信仰は、西日本へと伝わらなかったのか。シベリアから東日本への距離に比べれば、東日本と西日本との距離など、短いもの。なぜか。これが、新たな、ナゾだった。
 それが、今回、解けた。東日本と西日本、両者は、所属する火山帯が別なのだ。すなわち、「土器」は、それぞれの火山帯下で、それぞれに「発明」された。文明がちがう。だから、信仰の形態も異なっているのだ。
 九州では、縄文後期後半にならなけれぱ、「土偶」が現われない。それまでは、「無土偶文明」なのだ。
 現在でも、「神」を神像として形に現わす文明と、けっして現わしてはならない文明とがある。アテネやアフロディテやアポロンなど、すぐれた神像をもつ、ギリシャ文明は前者、そんなことは「神への冒涜ぼうとく」とする回教文明は後者だ。
 そういえば、西日本発生とおぼしき「天照大神あまてらすおおみかみ」の画像や彫像など、伊勢皇大神宮へ行っても、あまりお目にかかれない。なにか、かかわりがあるのだろうか。東日本風にいえば、「天照あまてらすこけし」なんか、あっても、楽しいと思うけれど、これは「神への冒涜ぼうとく」かもしれぬ。
 ともあれ、「狭い日本」というなかれ。この島には、二つの文明の系列があるのだ。おそらく「土器文明」以前から、その流れは存在したであろう。しかし、二つの火山帯のもとの、二つの土器文明。この成立とともに、そのちがいは、一段とクッキリとしてきたのではあるまいか。
 こう考えてくると、先に言った、「土器発明の多元性」という理論は、広く地球上に探し求めるまでもなく、「照顧脚下しょうこきゃっか」、足もとの日本列島内に「実現」されていた。いまは同じ「日本国家」内、ということで、わたしたちは「目をくらまされ」ていただけ。何しろ二つの火山帯といっても、地球の下の「根元ねもと」は同じ。同じ、今から一万〜二万年前に、火山の熔岩流の流出と冷却現象が見られたようであるから。
  (たとえば、町田洋氏『火山灰は語る -- 火山と平野の自然史』蒼樹書房刊参照)
 ことに、大切な点、それは「名」を同じ「縄文」という言葉で呼ぶのがふとどきなほど、本質のちがった「東日本」と「西日本」の両土器文明、この相違の事実が、今提出された「火山を背景とした、土器の発明」という仮説で、スッキリと説明できる。
 このことに気づいて、わたしは「ああ、やっぱり」と、意を強うしたのだ。自分のひそかに立てた仮説に「自信」をもったのであった。


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