古田武彦講演録 二〇一〇年一月九日午後一時半〜四時半 大阪市立総合学習センター 古田史学の会・新年賀詞交換会  『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判  一 『古事記』の「天の沼矛」は「天の沼弟」である。  さて一番目のテーマは『古事記』でございます。われわれが『古事記』と考えていましたもの、思わされていたものがぜんぜん違っていた。そのようなことにわたしは愕然(がくせん)と至しました。昨年の6月の講演会でも、その入り口だけ言いましたし、質問もお受けしました。その後調べてみますと、間違いなく本居宣長以後のすべての国学者が扱ってきた『古事記』の扱いはアウト。そのような結論になったわけでございます。その出発点は昨年もうしましたように『古事記』の「国生み神話」。天の沼矛を天空から刺し下ろして「国生み」ができたと本居宣長が解説し、われわれもそう思わされてきた。  ところが実は、『古事記』の一番古い版本である「真福寺本」。その「真福寺本」を見ますと、そこには「矛」ではなく兄弟の「弟(おとうと)」となっている。それでこれを怪訝(けげん)に思って、『古事記』全体の「矛」と「弟」を抜き出して調べ始めますと、まさに全体が「弟」であった。それを本居宣長が「矛」と書き直して解釈して「沼矛」と解釈してきた。 A 『古事記』「国生み神話」岩波古典文学大系準拠 是(ここ)に天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、伊邪那岐の命、伊邪那美の命、二柱神に「是(こ)の多陀用幣流(ただよへる)國を修(おさ)め理(つく)り固(かた)め成せ。」と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。故(かれ)二柱の神、天の浮橋(うきはし)の立たし【立を訓みて多多志と云ふ】。其(そ)の沼矛を指し下して畫(か)きたまへば、鹽(しお)許袁呂許袁呂迩【こをろこをろ 此七字以音】畫き鳴し(なし 【鳴を訓みて那志と云ふ】)て引上げたまふ時。其の矛の末(さき)より垂り落ちる鹽、累(かさ)なり積(つ)もりて嶋と成りき。是れ淤能碁呂(おのごろ 淤より以下の四字は音を以ゐよ】)嶋なり。  それでキーポイントのみもうさせていただきます。お手元にある(B)と(D)をご覧ください。(B)は神武東征のさいの兄宇迦斯・弟宇迦斯の一節です。兄宇迦斯・弟宇迦斯が罠を仕組んで神武らを殺そうとした。それを神武自身が見抜いて、逆に彼らを機(はた)のところに追い込んで、作った彼ら自身が追い込まれて死んでしまった。そこに出てきます。 B 『古事記』「神武東征」岩波古典文学大系準拠 爾に大伴連等(おおとものむらじら)の祖(おや)、道臣(みちのおみの)命。久米直等(くめのあたへら)の祖、大久米の命二人。兄宇迦斯を召(よ)びて罵詈(の)りて云ひけらく、「伊賀【いが 此の二字は音を以ゐよ】作り仕へ奉れる大殿の内には、意禮(おれ 【此の二字は音を以ゐよ】)先づ入りて、其の仕へ奉らむとする状(さま)を明し白(もを)せ。即ち横刀(たち)の手上(たがみ)を握(とりしぼ)り、矛(ほこ)由氣(ゆけ 【此の二字は音を以ゐよ】)矢刺(やざ)して、追ひ入るる時、乃ち己が作りし押(おし)に打たえて死にき。爾に即ち控(ひ)き出して(いだ)斬り散(はふ)りき。故、其地(そこ)を宇陀之血原(ちはら)と謂ふ。然(しか)して、其の弟宇迦斯が獻しき大饗(おをみあへ)をば、悉に其の御軍に賜ひき。此の時に歌曰(うた)ひけらく。  それを見ますと、「横刀(たち)の手上(たがみ)を握(とりしば)り、矛由氣(ほこゆけ)矢刺して、・・・・」とある。しかしここの「矛由氣 ほこゆけ」は、『古事記』真福寺本で見れば分かりますように、「矛」とは書いてなくて「弟」と書かれています。「矛由氣 ほこゆけ」でなく、「弟由氣 おとゆけ」なのです。  これは何かと言いますと、反りのある「横刀(おうと)」が「太刀(たち)」なのです。「矛」は直線ですから、振り回す「太刀(たち)」を矛のようには使えない。矛のように使えないことはないけれども、それなら最初から矛を用意すればよい。「太刀(たち)」を矛のように使うこと自身がおかしい。  では何か。音通の「弟行く(音行く)」は自動詞ですが、他動詞に使うと「弟行く(音行く)」は、「音を響かせて」となる。つまり「横刀の大刀(おおとのたち)」は突くものでなく、振り回すものです。つまり反りのある太刀を振り回すと「ビュン・ビュン」と音が鳴る。だからサウンドでなければおかしかった。それを「弟由氣 弟行く(音行く)」と表現している。それを宣長が「矛」に書き直した。  詳しい論証は書いたものを参照していただくとして、一番おもしろかったのは(C)です。 C『古事記』「隼人」岩波古典文学大系準拠 曾婆訶理(そばかり)「命(みこと)の隨(まにま)に」答へ白しき。爾に多(さは)に祿(もの)を其の隼人に給ひて曰(の)りたまひしく、「然らば汝(な)が王(みこ)を殺せ。」と曰(の)りたまひき。是に曾婆訶理、竊(ひそ)かに己(おの)が王(みこ)の厠に入るを伺ひて、矛を以ちて刺して殺しき。故、曾婆訶理を率いて倭に上り幸でます時。大坂の山口に到りて、以爲(おも)ほしけらく、曾婆訶理、吾が爲には大き功(いさを)有れども、既に己が君を殺せし、是れ義(みち)ならず。  そこでは隼人の曾婆訶理(そばかり)が登場します。南九州の隼人を悪者あつかいにしていることが『古事記』の一つの特徴なのですが、その曾婆訶理をだまして、彼が仕えているご主人に謀反を起こさせた。それが成功したら、良い地位を与えてやると裏切りをそそのかした。それを曾婆訶理が本気にしてご主人を殺した。 「是に曾婆訶理、竊(ひそ)かに己(おの)が王の厠(かわや)に入るを伺ひて、矛を以ちて刺して殺しき。  つまり自分のご主人がトイレに入ったときに矛で刺し通して殺したとある。ですが、これは話さなければ分かりません。今は水洗便所の時代ですから若いかたがたはご存じないと思いますが、我々の若いときはとうぜん水洗便所はないですから掘った便所でした。掘った便所では大事なことがありまして、お尻からウンチ(糞)を落としますと跳ね返る。ですから便所の水面が一メートルぐらいでしたら、跳ね返りがお尻に当たり気持ちが悪い。最低一メートル半から二メートルぐらいの下のところ水面がなければならない。それならお尻に水滴が跳ね返らない。昔はふつう、母屋から少し離れたところに便所があります。ところがこのような深い便所の穴は、まっすぐに掘れませんから、大きな穴になり、とうぜん大きな空白ができます。その空白に隠れる。そして汚い話ですが、ウンチ(糞)が水面に落ちると「ポチャン」と音がします。その音に合わせて、空白に隠れていた彼が刀をお尻に向けて突き刺して殺す。矛は長過ぎてまったく使えない。このように非常にリアルというかおもしろい話です。それを宣長が「矛」に書き直している。すべての国文学者がそれに従って書き直したものを読まされてきた。宣長の改竄(かいざん)に、みな従わされてきた。大ウソです。  以上印象的な例を二つだけお話ししました。  ですから『古事記』にある「矛」と「弟」を写真版からぜんぶして抜き出して並べてみる。番号をつけて解説する本を出します。小冊子でなく本になるかもしれませんが、このキーポイントがBとCの二つなのです。  ですから、ここでキーポイントして言いたいことは「(天の)ヌボコ 沼矛」でない。「ヌオト 沼弟」なのです。ここで「ヌ」は銅鐸のことです。  それで前回言いましたので、経緯は省略して簡単に言いますと、菅野さんという方に大阪府柏原市の鐸(ヌデ)神社の存在をご紹介いただきました。昨年の七月お祭りにも行きました。この神社は鐸比子・鐸比売を祀っている。ですからインターネットでも銅鐸のことを「ヌデ」と言うのではないかと言われております。  ですが、そこから「ヌデ」について調べ始めました。小銅鐸の穴・鈕(ちゅう)に紐(ひも)を付けたものを「ヌデ」と言います。その場合ぶら下げた紐(ひも)とぶら下げられた青銅部分の鐸(たく)を併せ、「紐にぶらさげた銅鐸」全体を、人の手になぞらえて「腕うで」ならぬ「鐸ぬで」と呼んだのではないか。それでは、あの「銅鐸(青銅部分)」は何と呼ばれていたか。この場合紐(ひも)の部分とあわせて「鐸(ぬで)」だから、人の手になぞらえて考えますと、ぶら下げた紐(ひも)の部分は「テ・デ」で、手のひらの部分は「ヌ」となる。だから青銅部分の銅鐸自身は「ヌ」である。これがわたしの独自のアイデアです。そうすると『古事記』には、「沼 ぬ ヌ」がいくらでも出てきます。その一つが『古事記』の「天沼矛 あまのぬほこ」でなく「天沼弟 あまのぬおと」です。その「沼 ぬ ヌ」が(小)銅鐸で、その「弟 おと オト」がサウンド(音)です。 (『古代に真実を求めて』第十三集古田武彦講演録「日本の未来」4『魏志韓伝』・銅鐸・『古事記』 あるいはTokyo古田会News No.127 July,2009学問論(第十五回)銅鐸論 古田武彦参照)  ですから「天の沼弟(ヌオト 鐸音)」。小銅鐸自身は武器でありません。楽器です。それに考えてみましたら、尊敬する宣長に悪いですが、何千メートルの天(空)の上から矛を突き刺すと考えること、そのものがばかばかしい話です。しかしそうではない。「天の浮橋」で使われるものです。 「天(海士)の浮橋」は、海士族が船に乗るとき使います。陸地から船に乗るとき二メートルぐらいの平たく細長い木の板を差し渡します。島根県の隠岐の島では現在でも「(天の)浮橋」と言って実用されて言葉が使われています。島根県美保関の東、美保神社のお祭でも「天の浮橋」が使われています。この橋そのものは浮いています。渡って、用が済んだらとりはずします。その「天(海士)の浮橋」の真ん中当たりに小銅鐸を付けて、掻き鳴らしたらコオロ・コオロと鳴る。「天の沼弟(ヌオト 鐸音)」なら、コオロ・コオロと鳴る。『古事記』に「許袁呂許袁呂 コヲロ・コヲロ」という表現があるでしょう。いや「天沼矛 あまのぬほこ」で良いのだ。そういう学者がいましたら実験して、矛を突き刺して、どうやったらコオロ・コオロと鳴るか見せてほしい。鳴れば宣長の解釈が正しい。わたしも実験してみたけれども、やはりコオロ・コオロと鳴らすことは無理だった。ところが小銅鐸なら二メートルぐらい板の真ん中のところに、小銅鐸を紐に付けて鳴らせばコオロ・コオロと掻き鳴らすことができる。ですから『古事記』は嘘を書いていると言わない以上は、わたしの理解が正しい。 ですから、『古事記』では「国生み」の原点とも言うべき、非常に重大な場面に銅鐸(ヌ)が現れていた。それを本居宣長が、銅鐸(ヌ)でなく矛と書き換えて、別のものに仕立ててコマーシャルに用いた。明治以後の学者が本居宣長の言うことを金科玉条にして、それを守り続けて一〇〇年以上経った。  このことは、今年のうちに、図録の形で誰も文句を言えないように、実証的に写真化してみなさんのお手元に届けることが出来ると思います。  二、海彦と山彦(「被差別部落の本質」)  さて『古事記』について、もう一つ言いたいと思います。われわれの『古事記』理解は大ウソだった。今の問題に劣らず重大なテーマがある。そういうことを申し上げたい。 「被差別部落の本質」(多元的古代研究会機関誌『TAGEN』No.95)として論じておりますので、長文ですので、詳しくはこれをご覧ください。今は問題のキーポイントだけ申します。 『古事記』上巻 (岩波古典文学大系、一三四ページ) (火照命、海幸)稽首(のみまを)白さく、『僕は今より以後(のち)は、爲汝命(いましのみこと)の昼夜の守護人と為りて仕へ奉らむ。』とまをしき。  故(かれ)今に至るまで、其の溺(おぼ)れし時の種種(くさぐさ)の態(わざ)、絶えず仕へ奉るなり 也。  何かと言いますと、 『古事記』は、上巻・中巻・下巻とありますが、上巻の最後の部分は「海彦・山彦」の話です。神話の巻を書く目的は、「海彦・山彦」の話にあった。これがポイントです。  山彦が兄のほうで、海彦は弟のほうです。弟が「潮ひる珠、潮みつ珠」を手に入れて、弟の方が勝った。負けたほうの兄は、天皇になった弟に対して、昼も夜も、昼夜を問わず、守護する人となったと、このように書かれているのが「神代の巻(上巻)」の終わりでしょう。 それで上巻は終わったと皆さんは読まれたが、そうではありません。この結論が中巻・下巻の前提なのです。位置から言ってそうでしょう。これは何かと言いますと中巻・下巻では、天皇の話が並んでいる。天皇陵の話が並んでいる。これにお仕え続けたのは、「守墓人」たちが居るのはご承知のとおりです。その話は、この通りです。  あれだけ上巻にはっきり書いてあり断っているのに、皆それを忘れた別のものとして読んでいる。これが宣長にだまされている。  これに大きなヒントを与えてもらったのは、高句麗好太王碑です。高句麗好太王碑論争では、たいへん攻撃された。古田は反韓国主義の男だ。だから酒匂大尉の犯行であるという李さんの説に反対するのだと、路上までも面罵された。しかしそんなことに関わっていても仕方がないから、本丸である好太王碑を見るために、現地集安に藤田友治さんと行った。行って好太王碑を見たら、確かに九個以上の「倭」が確かにあった。問題の「任那(みまな)」も石碑に存在した。そこで決着がついた。決着がついたと思ったから、一番大事な話をそこから大事な話を追求せずに終わっていた。ところが、そこから先が大事だったのです。  簡単に言いますと、四面に全部文字が書かれているが、よく問題としてよく論議されているのは一・二面ですが、分量的には三・四面のほうが分量的に多く、かつその両面にわたって書かれているのは「守墓人」の件です。要するに高句麗『好太王碑』に書かれていることは、われわれ高句麗は、韓・穢そして倭をも滅ぼした。「高句麗広開土王」という意味は、今までに高句麗の土地ではなかった土地を征服した大王という意味です。その場合、その土地はとうぜん無人の土地ではなくて韓・穢の人々が居た。倭人もいた。韓・穢を征服した高句麗は、韓・穢の人々を捕虜にして、その人々を「守墓人」にした。「墓守」の役割を与えることにした。そういうことが延々と書いてある。しかも何戸、何戸と場所をこと細かく、これ以上書く必要があるのかと思うぐらい三・四面に渡り、しつこく書かれてある。これをぜったい曲げてはならぬと言う言葉で終わっている。これはなにかと言いますと、高句麗好太王が活躍したのは四世紀後半で、石碑が出来たのは四一四年・五世紀の初めです。同じ時期に日本では天皇陵がある。ここに出てくる倭は、近畿の天皇家ではなくて、九州王朝であるというのが年来のわたしの立場です。  だいたいあれだけ朝鮮半島に出兵して絶えず戦争をしながら、片方で応神・仁徳稜などのあれだけ大きな天皇陵を造るというのは神業であって、人間の業ではない。事実、高句麗や新羅などには、あれだけ大きな古墳はない。小さい。九州も小さい。ですから近畿にあれだけある大きな古墳そのものが、少なくとも朝鮮半島に出兵した主たる勢力でないことを示している。  問題はそれはそれとして天皇陵を造り放しで、放置していたか。だれも守護させないでいたかという問題です。高句麗は墓を大事にしたが、日本人は墓を放置しておいた。そういうことは言えないと考える。とうぜん天皇陵の場合も、守護する人がいたと考えるのが常識中の常識。しかも高句麗の「守護人」は理屈を言えば墓だけ守ればよい。後は知らないと言えないこともない。しかし日本の「守護人」は、昼も夜もお仕えする奴隷のような人々が居るのは、『古事記』では海彦と山彦の件から以後永遠に続いていると主張している。それでは天皇陵の周りに何もないか。まさに被差別部落の存在が満ちている。  大阪にいる藤田友治さんが、京都のわたしの自宅に来られたのは、まさにそれが理由だった。大阪の府立高校に勤務していて、生徒の父兄である被差別部落のところに行った。こんなところに住んでいるのかというところに住んでいる。ところがその後ろに立派な天皇陵がある。はじめは「へえ?」と思っていたが、別の府立高校に移って別の被差別部落の生徒のところに行くとまた天皇陵がある。また被差別部落のところに行っても、また天皇陵がある。これはおかしいということで、何か被差別部落と天皇陵には関わりがあるのではなかろうか。しかしその点分からないので、『失われた九州王朝』を書いた古田武彦が京都に居るというので聞いてみよう。奥様の旦那さんである今井久順さんと一緒に、この問題で訪ねてこられたのが最初だった。わたしはおっしゃるとおりとご返事した。  被差別部落の発生は江戸時代に、人によっては鎌倉時代だという人がいますが、その説明は大ウソです。お回ししますが早稲田大学が造った被差別部落の分布図を見ますと、当時高校で教えていた古墳の分布図とそっくりです。(当時の分布図には)東北や沖縄には被差別部落や古墳もない(除かれていた)。 全国未解放部落分布図 早大部落問題研究会文学班(製作) 昭和36年11月12日 (製作日時) 昭和11年現在   (表記年代)  そうしますと被差別部落が江戸時代に出来たという立場に立つならば、江戸時代に古墳の分布図を手に入れて、それにあわせて被差別部落を作ったと口先だけでは言えるが、そんなばかばかしいことはあり得ない。これだけ相似形を示しているにもかかわらず関係ないとは言えない。少なくとも古墳時代には被差別部落が存在したという証拠以外の何ものでもない。  いわんや『魏志倭人伝』にもなりますと、大人と下戸、弥生時代に階級差別社会であったことは明らかである。  同和教育で、被差別部落は江戸時代に発生した。そういうことを言っているのは、遠慮なく言わせてもらえば、天皇制に対するおべっかである。つまり江戸時代・封建時代が過ぎて、明治時代・天皇中心の時代になった。だから古くさい封建時代の遺制は止めましょう。天皇の時代になったから関係ないのだという天皇に対するおべっかです。同和教育を行っている人は、そんなつもりはないが結果的にやらされてきた。歴史の真実には合っていない。そのようなことをお話しした。  元に戻り、天皇陵の周りには奈良県でも大阪府でも被差別部落が取り巻いているのは、みなさんご存じの通りだ。 印象的な例をもう一つ挙げますと、角川書店から県別の地名辞典が出ています。その最後には、小字(こあざ)の地名が並んでいる。これがわたしには、たいへん役だった。ところがないのが三巻だけ。大阪府と奈良県と福岡県の三巻だけない。なぜないかも説明が付いていない。聞いてみても知らないと回答される。ところが関係者の話では明らかである。結論から言えば、それぞれの教育委員会から協力するという回答がない。つまり各県の教育委員会が協力してくれないと、市町村の字地名が手に入れられない。だから出せない。その理由は、表面はわからないことになっている。各地でクレームがあったか、クレームが出ることを予想してなのかわからないが、とくかく協力は拒否された。説明がつかないから黙って削ってある。  それぐらい大阪府と奈良県と福岡県には被差別部落が満ちあふれている証拠でもある。天皇陵があるところでもある。古墳も同じです。それぐらい被差別部落が満ちあふれている。  その事実に立って考えると、だいたい『古事記』に被差別部落のことが書かれていないのはおかしかった。『古事記』の内容は神話時代は福岡県、後の時代は奈良県・大阪府の話が多い。しかもひじょうに素朴でリアリティーを感じられる話がたくさんあるにもかかわらず、しかも被差別部落がたくさんある中で、被差別部落のことが書かれていないのは奇跡であり偽善です。偽物と言っても良い。ところが実際は宣長のようにカットしなければ「神代の巻」に「守護人」の話がきちんと書いてあり、昼夜を問わず天皇に仕えなければならないのが「守護人」ですよ。天皇陵を護らなければならないと書かれてある。それを頭の中でカット、カットし続けて疑わずに読まされてきたのが、明治以後の皆さんであれ私たちであった。思い違いをして、読まされてきた。これが事実です。  「守護人」の話も、史実の基本は権力者に(弟)に、昼夜(四六時中)奉仕する役割の人々(兄)がいる。その人々が、守護人・「兄」である。すなわち先進王朝の人々である。そして権力者の弟のほうが新しき征服者である。  怖いですね。あまりに明確なこと、あまりに重大なことは、誰も気がつかない。これが本当の話である。あまりにも重大なことは、あまりにハッキリしすぎていて誰もが気がつかない。「ウソのようなホントの話」なのです。  三 魏志倭人伝の国名(固有名詞)  それでは『魏志倭人伝』の問題に移らさせていただきます。  『魏志倭人伝』には三十国の国名がございます。里程付きの国名が九国ありますので、後二十一国あることはご承知の通りだ。それをわたしが読めなかったとしてきたのはご承知の通りだ。他の人はそれぞれに当てはめてきたのは知っているが、わたしから見るとそれはぜんぜん信用できない。近畿中心とか島原半島中心とかに得手勝手に読んできた。しかしそういう当てはめるのではなく、一定の原則を立てて読む。間違っているなら原則が間違っているという批判が出来る。そういう形で読まれてはいなかった。わたしは今まで、そのように見えていました。これが昨年来から幸いなことに読めてきた。そのように考えてきました。その読めてきた理由は、次の四項目です。 倭人伝の読み方(固有名詞) 1中国側の表記(最初) 2 「倉田命題」の出現 ーー(倭人側)の登場 3 「都市(といち)問題」 4 「尾崎命題」ーー「支音」の転換 以上の問題が解決しましたから、一定の読みが出来ると考えた。  わたしは最初『「邪馬台国」はなかった』を書いたときは、昭和四十四年当時ですが、中国側がこれを表記したと考えていました。 これに対して当時佐賀地・家裁の判事をされていた倉田卓二さんからお手紙をいただいた。『「邪馬台国」はなかった』を読んで非常におもしろかった。もし仮に法廷で、今邪馬台国か邪馬壱国かを争うならば、わたしは邪馬壱国の方に裁定をおこなうと言われました。ところが一つだけ反対のところがある。古田さんは、倭人伝の国名表記は中国側が表記したと書かれているが、あれはおかしい。倭人側が表記したものと考えます。なんとなれば、壱岐のことを「一大国」と書いてある。あのような小さな島を中国側が、「一大国、一つの大きな国」と表記するはずがありません。倭人側の表記と考えるべきです。言ってみれば簡単なことですが、裁判官ですから、そこに至る論証が懇切丁寧に述べられており、最終的には決め手として、この一大国問題が取り上げられていた。わたしは直ぐご返事を差し上げた。「あなたの言うとおりです。ただわたしにはそれに代わる対案がありません。今後勉強させていただきます」とご返事した。そして今後の勉強が、今朝まで続いた。  ですから倉田さんが言われる通り、対海国(對海國)・一大国、いずれも倭人側の表記である。  対馬に対する表現が對海國ですが、この「對」は、海に面するという意味ではありません。『諸橋大漢和辞典』などを引けばお分かりになるように、「對」は「(神様に)こたえる。対面する」という意味です。そうなると「海」は海上の神、そのものを表しています。我々が考える「塩辛い海」という答えは、なれの果ての意味です。ですから対海(對海)は、「海神の心霊に天地神明にお答する」という意味です。これに同じく『古事記』では、「次に津(つ)島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ」とあり、まさに海神の島として対応する。「狭手依比賣さでよりひめ」と言いますのは、「狭手 熊手 さで」を、神代(よりしろ)にしている女神。この「熊手(さで)」を、海や山や河や大きな木などに立てて、祭る海の神様。その海の神に對面する島が対馬です。  同じく一大国は壱岐に対する表現です。「次に伊技(いき)島を生みき。亦の名を天比登都柱(あめひとつはしら)と謂ふ。」と『古事記』に書かれてある。この「天比登都柱 あめひとつはしら」が「一大国」に対応します。「天」は海部人の海部(あま)です。「比」は太陽を意味する「日(ひ)」であり、「比」を当てることがあります。「登」は、これは戸口の「戸」であろう。「都」は都(みやこ)という字を当ててありますが、これは港を意味する「津」である。「比登都 日戸津 ひとつ」と言うのは、太陽の戸口を成す港という用語である。漢字の方は当て字です。それで「柱はしら」とは何かと言いますと、「ハ」は「葉」で、木の葉のように広い場所が「葉 ハ」である。「シ」は、省略して言えば「人間が生き死にする広い場所」である。「ラ」は接尾語です。そうしますと「ハシラ」というのは、人間が生き死にする広い場所という意味の地名である。ですから「比登都柱(ヒトツバシラ)」というのは、「太陽の戸口をなす港の側の人が生き死にする広い場所」と理解される。そして、それはどこかと言えば壱岐原辻(はるのつじ)遺跡である。その原辻遺跡の東側には間道のような狭い道が、渓谷に沿いすぐ港につづいている。あれが「比登都 日戸津 ひとつ」で、太陽の戸口を成す港であり、港から日が昇ってくる。  ですから「一大国」とは、原辻(はるのつじ)遺跡を倭人が「比登都柱(アメヒトツバシラ)」と言っているとしますと、「日戸津(比登都 ヒトツ)」というのは、「太陽の戸口をなす港」という意味がありますが、同時に、数字の「一(いち)」でもある。意味は違うが同音ですから、「ヒトツ」を「一」で、倭人が表記した。倭人が語呂合わせした。今度は「人が生き死にする広い場所」という意味の「ハシラ」を、「大」で表記した。海部人の倭人にとっては、壱岐は一番大きな島です。中国人から見たら、ちっぽけな島ですが、あの周辺の倭人にとっては、一番大きな島ですから「大」と表記した。ですから「一大国」は倭人が名づけた漢字の国名である。倭人の漢字使いを表している。このように『魏志倭人伝』の「一大国」は『古事記』の、またの名の「天比登都柱(あめひとつはしら)」と同じ意味を表している。。ですから倭人が当てはめたものです。中国人はそのような当てはめはできない。倭人の漢字使いのゴロ合わせをしめしている。 参照:神話実験と倭人伝の全貌(ぜんぼう)二、一大国と対海国 (古田武彦講演会二〇〇二年 七月二八日(日) 於:大阪市 天満研修センター)  このことは早く気づいておりましたが、全面展開するのには時間がかかりました。  次は3の「都市(といち)」問題です。  昨年の六月二十日ごろにぶつかった問題です。そのとき『「邪馬台国」はなかった』の復刊本の読みと補注は、ほぼ完成していたです。ですが、これは大変だということで、またストップし探求に向かいました。  『なかった』第六集で『万葉集』の問題を論じている古田史学の会九州の上条さんから、「都市佳江といちよしえ」という方の名刺のファックスが送られてきました。わたしは、この名刺が送られてきた意味がすぐに分かりました。ご存知のように『魏志倭人伝』には、有名な「都市」という名前がある。ナンバーワンの使いが「難升米」、ナンバーツーの使いが「都市牛利」と書かれてあり、「としごり」などと読まれていた。これとの関連はどうか。そういう上条さんからの問いかけです。これがわたしの研究を一変させた。  今でも博多や松浦、九州各地には都市(といち)さんがに居られる。この都市さんのなかから、酒豪であるおばさんの都市さんに出会い、本家は長崎県松浦市の鷹島だと親切に教えていただいた。佐賀県唐津近くの高島ではなく、伊万里湾の北端部、フビライによる蒙古軍の襲来があった有名なモンゴル村の長崎県松浦市の鷹島です。それで久留米大学の講演の後、昨年鷹島に行き、わざわざ旅館まで代表して都市(といち)さんの一人が来られた。そこでお話をうかがった。それからお墓にお連れいただきたいと言いましたら、明日朝早くから仕事があるので今行こうと言われ、ま夜中に一度連れていただきました。また翌朝ご紹介いただいた床屋さんの黒津(くろつ 姓)さんと再度黒津(くろづ)にある江戸時代まで屋敷があったところとお墓に行きました。  それで経過と論証は省略して結論から言いますと、この「都市といち」は、松浦水軍の「都市 といち」であり、『魏志倭人伝』の「都市」でもある。しかも三世紀において、この「都市」が使われていた。これはたいへんなことで、「都と」は音である。「市いち」は、訓である。音なら「シ」ですから。ですから音訓両用で使われていて、しかも姓に使われている。これは、三世紀の倭人の文字認識について、われわれに再検討を迫り、今までの考えを一掃するような迫力を持っている。  さらに、この「都市(といち)」さんの問題について、松本郁子さんから質問を受けました。『魏志倭人伝』に「都市」のほうは、最初出てくるときは「都市牛利」と書かれてあるが、二回目に出てくるときは「牛利」とだけ書かれてある。「都市」はない。「難升米」の方も二回出てくるが、二回とも「難升米」と書かれてある。これはどうしてかと尋ねられました。それでわたしは『三国志』の「姓」と「名」を全部調べ、一回目は「姓名」二回目は「名」だけ書かれているか本格的に調べてみなければわかりません。そういう公式論というか一般論でお答えした。それで彼女は沈黙した。理屈から言えばそうなります。それが半年後に調べて解決した。  これはなにか。彼女の質問を受けて考えてみました。たとえば「豆腐屋の甚兵衛」さんを呼ぶときがあるとします。一回目に言うときは「豆腐屋の甚兵衛」と職能付きで名前を呼ぶが、二回目・三回目は「豆腐屋」は付けない。二回目からは「甚兵衛」さんで良い。これと同じく「都市牛利」の「都市」は三世紀では姓ではない。現在は姓ですが。ではなにか。三世紀の世界では、「豆腐屋」さんと同じく職能としての「都市」です。  それでわたしには「といち(戸市・都市)」そのものの意味は、以前から判明していた。『魏志倭人伝』には、「有邸閣、國國有市、交易有無使大倭監之」と市があったことが書かれ、かつ「大倭」がこれを監察していることは有名です。だから市があったことは間違いない。「と(都・戸)」は、わたしの判断では神殿の入り口にあたる「戸(と)」です。いまでも門前町が、神社や寺の入り口にある。それと同じです。ですから神殿の周りに出来た市が「戸市(といち)」です。そういう日本語です。「といち 戸市」そのものは、各地にあり、十市之入日賣(『古事記』崇神天皇)も居る。しかし、これらの「十市といち」は、倭国の中の分派である。各地にあった。市場ですから。しかし「といち(戸市)」の中で、都という文字を当てることができるのは、一つだけ。女王国の「都市といち」だけ。職能だから『魏志倭人伝では、』二回目は省略されて「牛利」だけ。「難升米」のほうの「難」は、姓だから省略されていない。  「難升米」の件も、今簡単に述べますと、中国の『周礼(しゅらい)』などを見ると洛陽の近く河南省あたりに占いの氏族として「難氏」が居りました。他方韓国にも「難氏」がいますが、どうも周代から、中国の一派が韓国に来ていたようだ。朝鮮半島には、今でも難氏が居ます。ところが三年ぐらい前、洛陽の近くから「難氏」の由来を含めた系譜が書かれた石碑が発見された。韓国の難氏は大喜びして、先祖と仰ぎ集団で先祖詣りを行った。そのような記事が中国の雑誌に載っていた。このことは水野さんから教えていただいた。 それを元にて、わたしが考えてみたのですが、「難升米」については、韓国の「難氏」の一派ではないか。とすると彼の本家は洛陽にある。卑弥呼(ひみか)の使いで洛陽に行ったという話は、中国の本家のところに行ったという話であり、洛陽に行くルートをよく知っていたということです。  しかも、その場合、ナンバーツーが「都市牛利」。先ほどの長崎県松浦市の鷹島は、松浦水軍の根拠地。対馬海流は黒潮の分流ですが、それの拠点が「黒津くろづ」。「くろ」はブラックではなくて、「神聖な」という意味です。ですから「黒潮」は、神聖な潮(うしお)。いい言葉ですね。この「黒潮」という言葉はまぎれもない旧石器・縄文語。その旧石器・縄文語を元にした地名「黒津くろづ」。その「黒津くろづ」が松浦水軍の拠点の鷹島にある。卑弥呼(ひみか)や難升米が船を漕ぐことが旨かったということはない。海流の論理を知っていた松浦水軍の船「都市牛利」に導かれて洛陽に行ったということになる。  「都市牛利」の船に導かれて洛陽に行ったということになる。  これは短絡的に申しますが、彼の船に導かれて洛陽に行っただけではないだろう。本来洛陽という大陸国家である魏に対して、海流に対して東シナ海を突っ切るという行動をサポートしたのは松浦水軍。魏はそのようなノウハウをもたない。あの東シナ海は、黒潮の分流が大陸にぶつかって引き返す海流があります。ひじょうに錯辣した海流になる。海域地図と気象配置からくる海流の論理やその航行法を知らなければ、東シナ海を突っ切るという行動は出来ない。持っているのは松浦水軍。同じ黒潮の分流ですから。ですからこの松浦水軍の海流のノウハウによって魏軍は海流を突っ切って東側に向かい、朝鮮半島側に到着した。公孫淵を裏から囲んで“挟み撃ち”にした。これが魏の三国統一のキーポイントです。そのキーポイントを提供したのが松浦水軍だった。だからこそ卑弥呼の使いが最初行ったときは、貢ぎ物は布などホンの僅かなのに、魏はごっそりとおびただしいお礼の品を送ってきています。それは松浦水軍のお陰で、魏は最終的に三国を統一することに成功した。そのテーマを抜きにして説明できない。とうぜん戦中献使です。  それだけではなくて、わたしにとってより重要だったのは、「難升米」は洛陽からの渡来人というべきか帰化人というべき存在である。とうぜん漢語が出来た。としますと、『三国志』に書かれてある明帝のどうどうたる漢文の詔勅は読めた。読めなければ豚に真珠だ。また上表文を卑弥呼が送っている。それも漢文で書かれた。『魏志倭人伝』そのものの文面を素直に読めば、そのように解釈するしかない。隋の時、百済から漢字がもたらされたというばかばかしい話が通るはずがない。  しかし正面から理解できて反論する裏付けが出来たのは「難升米」の存在である。難升米は漢文が読める。しかも「難升米 ナンシメ」と、名前の「升米 シメ」は訓の日本語である。日本で生活する場合は、「難」という音だけで生活できない。とうぜん「シメ」という訓が要る。このように三世紀に倭人において、「音」と「訓」が両用されていた。そのようなテーマが発展してきた。大分省略しましたが、これが都市問題です。  それからお話ししたいのは「支」音の定理についてお話ししたい。  わたしは『三国志』では、「支」を「キ」とは読めない。「シ」と読むべきだと早くから考えていました。 いきさつを述べますと『三国志』紹熙(しょうき)本の「公孫[王贊](こうそんさん)伝」の先頭に出てくる。 「公孫[王贊](こうそんさん)、字(あざな)は、伯珪(はくけい)・遼西、令支の人なり。〈注〉令音、郎定反。支音、其児反。(魏志八) 公孫[王贊](こうそんさん)の[王贊]の(さん)は、JIS第3水準ユニコード74DA  これは何かと言いますと、ここで「反」というのは、中国独特の発音表記法です。詳しくは「反切」と言い、「二音を使って一音を表現する法」です。右の「令」の場合、「ロ ウ、テイ」でローマ字で書けば“ro-tei”ですが、これを“つづめた”「レイ」(rei)という音を表現しているのです(ローマ字ですからもちろん中国音そのものの完全な表現にはなっていませんが)。従って「支」の場合、「其児」(キジ“ki-ji”)、「巨児」(キョジ、“kyo-ji”)とも 「キ」(ki)の音を現わしているのです。けっして「シ」ではありません。『三国志』では「支」を「キ」と読む。これは『三国志』の一番古い版本に出てきますから、そう思ったのです。これを三十五年ぐらい前、『「邪馬台国」はなかった』を書いたとき、見つけて喜んでいた。しかし、これを尾崎雄二郎さんという当時音韻の専門家にお話しした。そうしますと専門家の目では真反対で、ここ以外のところは「支」を「シ」と読まなければならない根拠なのです。ここの「令支」の場合は「レイシ」でなく、「レイキ」ですから、ここは「支」を「キ」と発音します。ですから『三国志』では、一般に「支」は「シ」と読まなければならない。そういう意味の注記だ、 というわけです。一般の通音とここはちがう。『三国志』には、ほかにも「支」字はたくさん出てきます。わたしは「支」を「キ」と読むと書いてあるから、「支」を「キ」と読む保証が見つかったと喜んで訪ねたら逆だった。なるほど専門家たる由縁というのは、このようなところが違うと思って感心していた。  ですから『三国志』の「支」は「シ」であると、今まで思い込んでいた。だから『魏志倭人伝』は読めなかった。  何かと言いますと尾崎さんの考え、わたしの考えも同じでしたが、『倭人伝』を書いたのは中国側が書いたと考えておられた。そうでしょう。中国側が表記したと考えておられた。そうすると今の論理となる。ですからここだけここは「支」を「キ」と読む。すると『三国志』のほかの「支」は「シ」と読む。西域伝などにも「支」はたくさん出てきますから、『三国志』の読みはそれで成り立つ。  ところが今のわたしの考え、「倉田命題」によって倭人側の表記である。そうしますと、今の中国側が全部表記したという解釈は成り立たないことになる。倭人側の表記・解釈まで、陳寿が逐一調査して中国側の解釈を入れて表記したということはありえない。ですから『倭人伝』は尾崎雄二郎さんなど中国学の解釈では、解釈出来ないことを意味している。「尾崎命題」は成り立たない。そのことが三十数年を経て理解できてきた。  最近は物忘れがひどく、直ぐ忘れる。二階に本を取りに行ってみて、さて何の本を取りに来たかも忘れることは常だ。しかし逆に古いことは、逆に回復して思い出すことがたびたびです。どういう脳の働きかは知りませんが。そのうちにおかあさんのお腹にいたときの話を思い出すかもしれないぐらい、昔のことを思い出す。(笑い)このことを思い出して再確認した。  それはともかく最終的に、結論としては『倭人伝』を読むのに「尾崎命題」に縛られる必要はない。『倭人伝』の「支」は「キ」と読むことができる。このことから『倭人伝』を読む世界が、一気に広がってきた。  さてそれで、結論として読んでみた例を挙げさせていただきます。あくまでも例ですよ。 『魏志倭人伝』国名部分(紹熙本では、一般に言われている「都支国」でなく「群支國」となっています。)  次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有群支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡  1番目斯馬(しま)国、これは福岡県糸島市志摩半島の志摩(しま)。  2番目巳百支(いはき)国、同じく糸島市(前原市)の井原(いはら)遺跡。支(き)は、城・要害の城(き)であり接尾語。「ら」も接尾語。「いは 岩」が共通している。三雲遺跡のあるところ。  3番目伊邪(いや)国。これが、最近の発見として大切だと思ったところです。これは他になくて徳島県にある。しかも祖谷(いや)として郵便番号帳にもある。地図にも、もちろんある。四国随一の山、剣山の麓(ふもと)。それで剣山は、わたしにとって思いで深い山なのです。なぜなら父親・母親とも土佐の出身で、幼いときは、父方のおばあさんに可愛がられ、面倒を見てもらったおばあさん子なのです。そのおばあさんから絶えず剣山のことを聞かされた。彼女は富士山のことは知らないが、土佐ですから常に剣山のことに、あこがれを持って語る。すばらしい山だということを。実は祖谷(いや)は、剣山の麓(ふもと)。祖谷川が流れ出して東祖谷山と西祖谷山、そして剣山に囲まれたところ。ですから伊邪(いや)は剣山を示しているのではないか。この問題については、後で論じます。  4番目群支(ぐき)国。これはだいぶ困っていましたが、こう解釈しました。佐賀に千栗(ちりぐ)神社があります。これも栗(くり)と読まずに、「りく」と読みます。千(ち)は、神様の「チ」。「リ」は、吉野ヶ里の「里 リ」です。ですから固有名詞は「グ」です。一方の群支(ぐき)国、一般に都支国となっていますが、一番古い版本「紹熙本」では「群」となっており、これが正しいと考えています。支(き)は、城・要害の城(き)という接尾語。語幹は「グ」が共通して持っている。これは太宰府と久留米との間、西寄りの場所です。  5番目彌奴(みの)国は、(中部地方の)美濃国ではないか。  6番目好古都(ここと)国は出雲。好ましき古き都。これを三世紀の倭人が書いている。三世紀の倭人から見て、古き都に見えている。それはどこか。とうぜん出雲。出雲からの国譲りを肯定的に捕らえ、古き都と表現している。 ここで、先ほど述べたように小銅鐸を「ヌ」と言いますが、これはほんらい楽器です。編鐘(へんしょう)と言いまして、鐸を並べて音階を造る。これが本来の小コトではないか。事実出雲から小銅鐸がたくさん出土する。そのような好ましき古き都(小こコト)。表音と意味当てを倭人が行っている。中国人では出来ない。国譲りを受けた自己賛美。卑弥呼(ひみか)の邪馬壹国が自分の権力を美化するために出雲を誉めている。  7番目不呼(ふか)国は、前原の西に深江(ふかえ)があるが、そこではないか。「江 え」は接尾語。  それから、一言入れておきますが、『倭人伝』に日本語が使われている証拠がある。  「倭人伝」の中に、「下戸、大人と道路に合逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲り、あるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という。比するに然諾の如し。」  大人が通ってきたら、下戸が草むらに伏せて噫(アイ)と言う。とある。噫には「アイ」と「イ」という発音がありますが、岩波文庫でも、「アイ」と読ませているが、それでよいと思う。これが日本語であることには、皆さん反対はないと思う。つまりわれわれが今使っている「ハイ」と同じ意味である。この場合、まったく同じではない。われわれは「ハイ」と言いH音をプラスして言う。子供は「アイ」と言いますが。この場合、語幹は同じであることを示している。つまり日本語であることは間違いないが、現代の日本語に対しては、プラスアルファされて違う。どうように違うか。接尾語や接頭語が付いて使っている。その証明です。大人もそれを聞いて使っているから同じ日本語です。 今の場合、接尾語の「江 え」を接尾語だから除けた。勝手に取っても良いと言えないと言うかもしれないが、接尾語や接頭語を除いて考えるということの証明を説明したしました。  8番目姐奴(せの)国は、広島県の瀬野(せの)ではないか。広島県の北のほうです。  9番目對蘇(たそ)國、「蘇 そ」は、阿蘇の「蘇」です。これは熊本の海岸部。阿蘇山に対する国です。  10番目蘇奴(その)國は、阿蘇山近辺。蘇(そ)は、とうぜん阿蘇山。奴(の)は、原野の野(の)。九番の對蘇(たいそ)國は有明海近辺。  11番目呼邑(かふ)国、呼(か)は、神聖な水の出るところとしての「カ」です。今の背振山脈のところに水無洞窟がありますが、博多に大量の水を供給しています。邑(ふ)は、村・集落。神聖な水の邑(むら)。  12番目華奴蘇奴(かのその)国、この国の理解も一つのキーポイントとなった。長らく分からなかったがこのように考えてみました。蘇奴(その)は阿蘇山の原野です。それでは「華奴(かの)」とは何か。「燃える火の原野」ではないか。中華の「華 か」と、燃える火の「火 か」は中国人から見ると発音が違うと思う。同じではない。しかし日本人から見ると似た音です。倭人のほうは、燃える火の原野の「火」に、華やかな意味の「華 か」を当てた。燃えている阿蘇山を中心にした原野の地帯。「か」と「そ」の順序の問題もありますが今は省略します。これも解読の一つのポイントになりました。  13番目鬼(き)国、これはご存じの福岡県筑前の基(き)山。  14番目爲吾(いご)国、これは奈良県の北西側生駒である。後の邪馬(やま)国は、大和(奈良県)であることは、初めから考えていた。神武東征は三世紀より早いのだから、三十国(二十一国)の中に大和が出ないはずがない。ところがそれだけではなかった。生駒(いこま)の「マ」は接尾語、語幹は「いご」です。「いご」の場合は、普通に濁音になることもありますから「いご」でも良い。思いがけなかったのですが、これは大事なポイントです。つまり邪馬(やま)国のほうは、大和三山のほうを言っています。爲吾(いご)国のほうは、別の名前が付いています。この場合、「山 やま」がたいへん重要な固有名詞の基本となっていると考えます。爲吾(いご)国と伊邪(いや)国の存在で、このように考えました。  15番目鬼奴(きの)国、岡山県総社市、鬼ノ城のあるところ。  16番目邪馬(やま)国、とうぜん大和(奈良県)である。  17番目躬臣(くし)国、これはこの読みしかないと思います。これは筑紫(ちくし)と考えて博多湾岸。それで筑紫(ちくし)は地元の呼び方。外からは筑紫(つくし)と呼びますが、「チ」は神様の「チ」。「ツ」は津の「ツ」。語幹は、「クシ」です。「躬」を辞書で引いてみますと、これの意味はかなり限定され、「躬」は、「自ら」という意味しかありません。もちろん「臣」は「臣下」という意味です。するとこれは、「躬臣國」は「自ら臣下となった国」という意味を持つことになります。そうしますと「躬臣」は「国譲り」の意味を持ち、天孫降臨。実際は征服ですが、筑紫・博多湾岸を「躬臣國、自ら臣下となった国」と言っています。  18番目巴利(はり)国は、これは尾張、愛知県と考えました。これは他も同じですが絶対はない。言葉当てだけですから。播磨の可能性も十分あります。一応の試案として申し上げます。  19番目支惟(きい)国、これは和歌山県の紀伊。このことは比較的早くから考えておりました。これは「支」を「シ」ではなく「キ」と読んだとたんに出てきます。  20番目烏奴(うの)国。これは岡山県の宇野(うの)。  21番目奴(の)国、これは初めは、京都府舞鶴の籠(コノ)神社のあるところを考えていましたが、現段階では、これは能登(のと)半島ではないかと考えています。「登 ト」は、神殿の戸口の「ト」と考えれば、能登半島でも良い。  繰り返しになりますが、これは現段階の一案でありまして、より良い案が出ることは大歓迎です。  ともかく日本語である。ですから倭人が付けた表記として理解できる。こんな地名は日本にはないよ。日本語では、まったく分からない。そういう類の話ではない。日本語で類似の音も含めて倭人が付けた国名として理解できる。このことはわたしは、たいへん大事なことだと考えています。  かって新井白石が中国文献の研究をおこなった。それにはわれわれが使っている和臭の発音ではダメだ。現地の中国人の発音を聞かなければダメだ。そのように考えて中国人を呼んできて、『三国志』はもちろんのこと、代々の歴史書を中国語で発音してもらった。この話です。非常に立派な態度である。ですが態度としては立派であるが、方向としては間違っている。  なぜ間違っていたかと申しますと、周・漢・魏・西晋と、みな倭国と交流・関わりを持っていた。皆倭国と関わりを持っていたということは漢字文化にふれて、その読みを学んでいたということです。ところがその後三百十六年、夷蛮といわれた鮮卑が南下してきて、洛陽・西安を征服して支配した。そこで北魏という国が出来た。そこで発音も、そこから鮮卑混じりの中国音に変わった。字も変わった字が、つぎつぎ造られた。有名な羅振玉の『増訂碑別字』が示しているように、異字として変わった漢字がつぎつぎ造られた。漢字もそれ以前と、おおきく変わった。  さらに南朝と北朝。南朝のほうは、漢・魏・西晋系列の東晋になった。ところが北朝は鮮卑混じりの発音や漢字が続いた。そして北朝が勝った。唐は北朝系です。ですから中国語は大きく見れば、元は鮮卑混じりの発音や漢字を現在まで引き継いで現在に至っている。もちろん元や清の侵略もある。  そういう繰り返し夷蛮系が中国に来る前に、倭人が漢語を学んだ。だから混じりけ以前の発音や漢字は日本語に残っている。ですから日本語の発音は、(古代)中国語を学ぶ時には日本語は不可欠の言葉である。混じりけの中国語で十分だ。本来の中国語・漢字には関心はない。そういう人は、それで結構です。本来の中国語・漢字を知りたい人は日本語を学ばなければ絶対に分からない。もちろん日本語だけではない。ベトナムなどにも残っているだろう。漢字付きで行ったわけですから、固有名詞の表記には残っている。それはすべて意味がある。その中で、特別に大量に、質的にも量的にも残っているのが日本列島であることは間違いがない。だから中国語・漢字を本気で究めようと考える人は、日本語から始めなければならない。別に威張って言っているわけではない。筋から考えればその通りである。  ですから『魏志倭人伝』に関しては、われわれが読めるように読むべきだ。それを新井白石が行ったように、わざわざ中国から人を呼んできて、混じりけ音の中国語で読んでみてもチンプンカンプン。意味がない。明や清など後のものなら意味はありますが。『三国志』や『書経』を江戸時代や現代中国語で読んでみても、残念ながら何の意味もない。ぜんぜんダメなのです。新井白石は、わたしの尊敬する人物ですが、これではダメなのです。  ですから先ほどよりお聞きになって、古田は固有名詞としての国名を、現在の知っている音で読んでいた。あれで大丈夫なのかと危ぶんで聞かれたかたもおられますが、わたしは注意する必要はあるが問題ないと考えています。   四 三十国の使いと「生口」  これには更におもしろい問題を提起できます。  一昨年群馬県の高木病院で、わたしは手術をしました。その前の大学セミナーで加藤院長と薬剤師の青年が参加されていた。わたしが段を降りたり上がったりするのに、足を引きずってヨタヨタ歩くさまを見て、これは水痘症ではないかと言わた。そして高木病院に来ることを進められた。そして年が明けてから行きました。高木病院というのは、群馬県で一二を争う有名な病院。実際の手術をされたのは、水痘症の専門とされる高木清医師です。その方の手術のあと、目がさめて翌日歩いたらタッタッタと歩いた。ぜんぜん足を引きずらない。  簡単に言えば、足の血流が悪くなっていた。それに頭と心臓の血流をつなげるという「大手術」を行った。それで足の血流は良くなった。ところが足だけではない。足に流れる血流と頭脳に流れる血流は同じ血流です。だから頭も良くなった。(笑い)だから『「邪馬台国」はなかった』など復刊本に取り組んでみて、三十年前はこんなことも気がついていない。あんなことも気がつかなかった。今からみれば穴だらけです。そういう大変幸せな経験をした。  ところでその前の夏、手術の検査入院では、昼はあらゆる検査を行い、夜になると加藤院長が病室に来て、わたしが古代史の講義をする。そういう面白い経験をした。  そのとき加藤院長が言われたことの一つに、『倭人伝』に有名な三十国がありますが、あれは倭国から三十国の使いが中国に行って、各国の特産品を献上した。その献上した国の名前ではないでしょうか。とうぜん献上すれば国の名前があるわけで、それが国名として並べられている。その三十国(二十一国)ではないか。このように言われて、わたしは本当に驚いた。そのように考えたことはなかった。  ところが調べてみると、この貴重なアイデアにはひとつの問題があった。わたしは卑弥呼(ひみか)と壱与(いちよ)両方共に、上表文を送ったように考えていた。ですが、しっかり『倭人伝』を読んでみると、壱与のときには上表文を送っていない。卑弥呼(ひみか)のところで二回目に、一回だけ上表文を送ったとある。ところが、そのときには大したものを送っていない。一回目の「班布二匹二丈」ほど酷(ひど)くはないが、それでも「倭錦絳青[糸兼]緜衣帛布丹木付短弓矢」など大したものは送ってはいない。それに対して壱与のときは、「白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹」など書かれている。ですがそこには上表文は送ったと書かれていない。実際は送ったけれども書くのを省略したということはありえない。特に西晋ですから陳寿が居るところですから忘れるはずはない。ですから上表文を送ってきたけれども書かなかったということはありえない。      [糸兼]は、JIS第三水準ユニコード7E11  ですから加藤さんのアイデアは非常に面白いのですが、そのままでは通らない。  ですが見ていきますと、『魏志倭人伝』の最後のところで「献上男女生口三十人」とある。具体的な国名の数として、二十一国プラス九国は三十国となり、生口三十人となり同じ数です。偶然の一致か、どうかという問題です。 『諸橋大漢和辞典』および漢書の用例 生口 セイコヴ (1) とりこ。捕虜。俘虜。〔漢書、李陵傳〕捕得生口言、李陵教二單于爲レ兵、以備二漢軍一。〔孩*餘叢考、生口〕生口、本軍前生擒之人、云々、皆謂三捕二獲生口一也。 (2) 家畜。馬・騎馬の類。牡口。・・・ ____________________ 漢書巻五十二韓安国伝、・・・安国為材官将軍、屯漁陽、捕生口虜、言匈奴遠去・・・ 漢書巻五十四蘇武伝、・・・後陵復至北海上、語武、『区脱捕得雲中生口、言太守以下吏民皆白服、曰上崩。』武聞之、南郷号哭、欧血、旦夕臨・・・  さらに考えてみますと、「生口」というものを「捕虜」と解釈していた。『諸橋大漢和辞典』、さらに元をなす『康煕字典』でも一番目は「捕虜」と書いてある。二番目は「牛馬」と書いてある。しかし文例をよく読んでいくとおかしい。何がおかしいかと言いますと、文例では「生口を捕得する」と書いてある。「生口」が捕虜なら、「捕虜を捕得する」という意となり、「馬から落ちて落馬して」というような変な文章になる。このような漢文には成り得ない文章の解釈です。そうしますと、「生口」が捕虜であるという解釈は、『諸橋大漢和辞典』の、さらにその元をなす清の『康煕字典』のイデオロギー解釈にすぎない。本来は「生口」は捕虜ではないのではないか。そのように考えてきた。 それで結論から言いますと、その通り。本来の「生口」は牛馬であれ人間であれ「生きとし生けるもの」という意味である。今残っている言葉から斟酌しても、たとえば「人口」は人間の数。「人が何人居るか」であり、「捕虜が何人居るか」ではない。ここでも「口」が生きている人間に使われている。現在でも使われて残っている例である。それを勝手に「生口」を『諸橋大漢和辞典』は捕虜にしてしまった。『諸橋大漢和辞典』にはたいへんお陰を被っていますが、それでも元をなす『康煕字典』のイデオロギー解釈を丸呑みにして『諸橋大漢和辞典』は書いていた。  ですから生口とは捕虜という意味ではない。本来は「生きている人間」という意味である。三十人というのは、各国の代表の人間の三十人。これが第一のポイントです。  二番目のポイントは「献上」という言葉の意味です。これは中国の歴史書では、一番嫌らしいイデオロギー用語です。つまり中国では、自分の国と他所の国をかならず対等とは見なさない。歴史書では必ず上下関係、支配被支配の関係で書く、というイデオロギーで充ち満ちている。『尚書』などは別である考えますが、だいたい『史記』『漢書』以後の話です。  その証拠というか、変な証拠をあげます。 『日本書紀』巻十一仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月 冬十月。呉國。高麗國並朝貢。 『日本書紀』巻十四雄略天皇五年(辛丑四六一)四月夏四月。呉國遣使貢獻。  『日本書紀』では呉の国が二回だけ天皇家に貢献・朝貢しています。それでは書いてあるから近畿天皇家は、呉の国のご主人であった。そういうことを言う人は誰もいない。ようするに近畿天皇家が中心というイデオロギーに対して、国交のあったことを「貢献・朝貢」という表記で表したことは、おそらくご異存はないと思う。その元です。このやりかたを『日本書紀』が独創したわけではない。その元は、中国の歴代の歴史書です。つまり他の国との交流はすべて「貢献・朝貢」。上下の隷属関係の形で書くという、中国人はイデオロギーの流儀を持っている。それを中国人のイデオロギーに酔っ払って、読むというのが従来の日本人の読み方。『康煕字典』もそうです。『諸橋大漢和辞典』もそれで来た。それをもう一回史料批判を行わなければならない。  これも考えたら当たり前です。有名な『後漢書』倭伝を見てください。 『後漢書』倭伝 安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。  これが捕虜ならばおかしい。だってそうじゃないですか。捕虜百六十人なら、捕虜でない倭人を千人ぐらい連れて行かなければ、いつ反乱を起こされるか分からない。書いていない。倭人は省略するのですか。  ですから本来、「捕虜百六十人」と読むほうがおかしい。今になっての話ですが、倭国の使節百六十人が来たというのを、「献じ、請見を願う」とイデオロギー用語で、中国人は中国人らしく、いやらしく書いているにすぎない。  同じく、もう一つの裏付けをなす証拠は、『倭人伝』の先頭にあります。 漢の時百余国あり、今朝見し使訳通づる所三十国  この百余国の使いが百六十人です。百国全部から一人来たら百人ですが、一つの国から二人あるいは三人と来る国があれば百六十人ぐらいになります。このときの話を陳寿は、百余国の使いが漢の時に来たと言っています。別の話ではない。  そうしますと肝心の話に移りますが、『倭人伝』では三十国の使節が行ったと書いています。そうしますと、仮に「百余国」を百二十国とします。九十国は行かなかったということです。なぜ行かなかったか。魏・呉どちらが勝つか分からないから。公孫氏やどちらが勝つか、分からないから。  完全に敵対する呉に付いた拘奴(こぬ)国もいた。とうぜん呉に付いた国もある。それらの国は、魏には行かない。仮に二十国が呉に付いたと考えますと、後の七十国はどっち付かずで行っていない。まだ魏が勝つか呉が勝つか、分からない。公孫氏が勝つか高句麗が勝つか、まだ分からない。その時に敢然と行ったのが三十国。  これを上田正昭氏は、百余国が統一して三十国になったと考えています。統一したとは書いていないのに、勝手に自分で統一させている。この考えはダメです。国が統一したのではなくて、大部分の国は日和見で行かなかった。これらの問題は、次の段階で重要な意味を持ってまいります。  これに関連して、面白い問題を加えます。広島県に生口(いくち)島という島があり、実は谷本茂さんの出身地です。このかたとは『古代史のゆがみを正すーー「短理」でよみがえる古典』(新泉社)という本を出しましたが。ところで、この島は「生口島」と書かれています。なんとなくおかしい。よく考えてみれば「生口」という漢字が、捕虜の意味なら使うはずがない。「いくち島」という呼び名のほうは、今は明確です。「い」は先頭に付けて、神よりもたらされたという神聖さを示す言葉。壱岐・伊予・伊勢など、たくさんある。「く」は不可思議の意味の誉め言葉。「ち」は神様の意味。神よりもたらされた不可思議な神様の島。そのすばらしい言葉が、なぜ「生口島 せいこうとう」になるのか。従来の捕虜や牛馬という考えではダメです。ところが「生きとし生けるのもの」という本来の用法から見ると、生口(いくち)島はすばらしく素直です。ですから「いくち」に「生口」を当てたのは、『諸橋大漢和辞典』や『康煕字典』より正しく、より正しい古い表記が明らかに日本に残っている証拠なのです。ベトナムや中国にも残っていると思います。他にもとうぜん残っています。ですから漢字を勉強する人は日本語を勉強して、そのような例を大事にしなければと考えています。そうしないと本来の漢字は分からない。   五 邪馬壹国とは何か  そういう目から、残された官職名を考えてみたい。  まず邪馬壹国には四つの官職名がある。  伊支馬(いきま) ーーこの場合伊支(いき)は、明らかに壱岐・対馬の壱岐です。馬(ま)は接尾語。邪馬壹国は壱岐から来た軍団が、天孫降臨という名前で支配した。板付や曲り田という縄文水田を支配した。その支配の先頭に立った軍団が、邪馬壱国の官職のトップになっている。露骨ですね。  彌馬升(みまし) ーー尊敬の意味が「ミ」、真実の意味が「マ」、ですから語幹は「シ」で、これは筑紫(ちくし)の「シ」です。筑紫(ちくし)の「チ」は神様の「チ」。「ク」は神聖な不可思議さの意味。「シ」も「人が生き死にするところ」です。  彌馬獲支(みまかき) ーー「ミ」は尊敬の意味。「マ」は真実の意味。「カ」は、神聖な水のあるところ。「キ」は城・要害の意味。神聖な水のある要害、これは太宰府の水城のこと。われわれの知っている水城は、七世紀段階で知っているが、七世紀に初めて水城が重要になったのではなくて、それ以前から水は、たいへん大事なものです。博多湾岸に、たくさんの人口を養う場合、水を貯めるのは重要な施設である。太宰府の周りには私たちが知っている水城だけでなく、周りにダムとしてのたくさんの水城がある。その命綱の水を支配するのが彌馬獲支(みまかき)。これは大事なポイントです。  奴佳[革是](ぬかで) ーー福岡市早良(さわら)区に、額田(ぬかた)というところがある。水の豊富な沼がたくさんあるこの地に、最古の三種の神器をもつ神殿が吉武高木に存在する。そこを取り巻く奴佳[革是](ぬかで)です。  以上、邪馬壹国ではこの場合、長官は壱岐に居て、中心地帯である筑紫を押さえているのが、伊支馬(いきま)・彌馬升(みまし)。水城を初めとして、博多湾岸などに水を供給するところを押さえているのが彌馬獲支(みまかき)。そして最古の三種の神器をもつ神殿の吉武高木を押さえているのが奴佳[革是](ぬかで)。  皆キーポイントのところを押さえている侵略者集団。  この点、ほかの国の官職は違っている。たとえば投馬(とうま)国は、彌彌(みみ)・彌彌那利(みみなり)。「ミ」は女神で、「ミミ」は、南方系のダブル言語。その副官が彌彌那利(みみなり)という、バランスのとれた官職としての用語です。耳(みみ)は、日本にはたくさんある。大阪にも「耳原」などがある。  同じく倭国側でも長官が卑狗(ひこ)、副官が卑奴毋離(ひのもり)。太陽の男という意味の長官が「卑狗 日子 ひこ」。卑奴毋離(ひのもり)を「ヒナモリ」と呼んだのは天皇家一元主義。宣長などのねじ曲げた読み方。太陽の原野を護るもの。これが対海国・一大国にある。これも素直な表現として、おそらく縄文からある古くからの名称に対して、新しく侵略者用語で四つとも固めたのが邪馬壱国。そういうことを感じさせます。  ですからあえて言うならば、ここでは国生み神話は肯定的に捉えられている。好ましき古き都から国譲りを受けたという形で表現されている。それに対して神話では、天照(あまてる)は立派な姉さんで、出雲の素戔嗚(すさのお)は、乱暴な弟だ。そういうイデオロギーで作られていることはご存じの通りだ。あの話は、三世紀より後に造られたと考えます。出雲は乱暴な弟の子孫だから、中心の地位を失ったのだ。それで良き姉の子孫である天照の子孫が、正しい王統を伝えている。そういうコマーシャル。ところが三世紀には、そのコマーシャルは、未だ出ていない。だからあの話は三世紀以後に造られた、筑紫中心主義のイデオロギーで作られた神話なのである。ところが「国譲り」そのものは、三世紀以前すでに存在している。その場合出雲はすばらしい国だ。そのすばらしい国を受け継いだのが、われわれ倭国だ。自己コマーシャルのようなものですが。そういう神話の編年が、『倭人伝』によって知ることが出来る。そういう副産物もある。  さてキーポイント、「邪馬壹国」とは何かという問題です。「邪馬 やま」が日本語であるということは、皆さんは疑ってはいないと思う。しかも今となって考えてみますと、『倭人伝』で書かれているのは、「山 やま」というかmountain用語が主である。平野用語が主ではない。先ほどの爲吾(いご)国と伊邪(いや)国がそうです。剣山、生駒がそうです。考えてみますと当たり前です。縄文が二万年として、その前に旧石器があります。それでは弥生は三世紀までわずか何百年。地名というものは弥生の何百年に、あわてて付けられた名前であるはずはない。縄文だって絶対に地名はあった。旧石器にも地名はあった。そういう何万年の歴史ある地名を元に、『倭人伝』の地名は書かれている。弥生になって稲作のため、平野が大事になって、あわてて付けられた地名ではない。『倭人伝』の「邪馬壹国」の四つの官職名は、弥生になってあわてて付けられた。しかし大部分の地名は縄文地名。縄文時代は、山こそが生産の中心地。一番安全で敵の襲来を防ぐことができる安全な場所です。平野は、泥沼で危ない。だから山岳を中心に付けられた国名が、『倭人伝』の国名の大部分を占めている。これは考えてみると当たり前の話ですが。わたしは何を言いたいか。要するに「邪馬壹国」は山が中心地。山は平野ではない。それでは「壹 いち」とは何か。「イ」は名詞に付けて神聖なものを表す言葉。先ほどの壱岐・伊予・伊勢であり、アイヌ語で残っているような、古い名称の日本語で付けて用いる。「チ」は言うまでもなく、古い神様の名称。「カミ」の前の古い神様が「チ」。そうしますと「壹 いち」というのは神聖な神様。しかも山におられる神聖な神様の意味の国名が「邪馬壹国」。それで不弥国まで来て、ここから南が女王国の中心だと言っています。  それで不弥(ふみ)国。「ミ」は女神の意味で、海岸部が「フミ」。固有名詞は「フ」なのです。そして同類の言葉として、有名な天孫降臨の地として、繰り返し強調されている高祖山連峰にクシフル岳の「フル」ある。「ク」は何回も出てきますが神聖な不可思議さを表す。「シ」も「人が生き死にするところ」「フ」は広がった領域を言い、「ル」は接尾語。「ツル」という言い方が山梨県にあるが、同じように「フ」に「ル」を付けて「フル」。「フル」と言っている、このクシフル岳は原田大六さんに教えてもらった。木が串のようになっている。あそこが「クシフル峰だけ」です。第二峰ですが、現地の中世文書にも出ていたので『盗まれた神話』で紹介しました。今考えますと、半分ダジャレの混じった話でしたが、それではダメです。「クシ」は不可思議なる人の生き死にするところであり、「フル」はその広がった領域を表している。その「クシフル」の一端が不弥(ふみ)国です。不弥国に来れば、もう女王国の中心に来た。このように山の呼称の形で表現している。  重なりますが、東の板付(博多)と西の曲り田(糸島)という両方の縄文水田を押さえる高祖山連峰のクシフル岳。「邪馬壹国」は、その「山 やま」では一番の国。倭人のダジャレというかこじつけを含む倭人風の漢字使いです。「やま 山」というのは、その土地そのもので決まる。京都だったら「山 やま」と言えば比叡山。ほかにも山はあるけれども、それを「山 やま」とは言わない。親鸞文書で「山を下る」と言えば、比叡山から降りることに決まっています。太宰府では、宝満山(三笠山)が「やま」である。その地域で、山というものは決まっている。ですから不弥国まで来ました。この地域で「やま」と言えば高祖(たかす)山。天孫降臨の地が「山 やま」である。 同じことですが、杭州湾からやってきた安日彦、長髄彦が、たとえば「筑紫高千穂山に降臨せし天孫なり」と、そこに陣を置いたと書いています。東の板付(博多)と西の曲り田(糸島)という両方の縄文水田に居た人々は、高祖山連峰を原点にしていた。そこを海上の天族、天照の侵略軍がニニギを派遣して押さえたという話になる。 以上述べましたように、『倭人伝』の話は正確に天孫降臨の話がバックになって、非常に正確に書かれていると考えています。 (参照 機関誌 多元No.96 Mar.2010 元素論(XXVI) 登頂「邪馬壹国」ー倭人伝への挑戦 古田武彦)  六 崇神の命運  第三番目に申し上げるテーマは崇神天皇についてです。  崇神天皇について、江上波夫さんから有名な騎馬民族説が出された。これははっきり言ってダメです。  佐原真さんが、断種云々の問題を指摘された。それもたいへん意味があることですが、わたしの目から見ても結論を言えばダメです。  なぜかと言いますと、もし日本に騎馬民族が来ていたなら、高句麗好太王碑に書かれていないはずがない。江上さんが本来言われていたのは、五世紀の初めに乗り込んできたと言われています。それなら好太王が活躍したのは四世紀の後半ですから。もし騎馬民族が日本列島に乗り込んで行ったのを、好太王が知らなかったはずがない。好太王碑が出来たのも、四一四年で五世紀の初めです。それが忘れ去られたはずがない。ところが一言も「倭人はわれわれの分派である」という言葉は出てこない。新羅・百済に関しては、これはわれわれ高句麗の属民であり、彼らが刃向かうのはけしからんと大上段に構えて言っております。ところが一番のライバルである倭人については、いっさいそのようなことは言ってはいない。あれ一つみても騎馬民族説は成り立たない。江上さんがご健在の時お手紙を出しましたが、ぜんぜん返事がない。わたしの手紙を読まないことにしたとしても、事実は消えるものではない。  次にもう一つ重大な事がある。江上さんは、御眞木入日子(みまきいりひこ)について、任那(みまな)の生まれである。これが結論の原点になっている。  しかし任那(みまな)という言葉は日本語です。  先ほどの『倭人伝』では、邪馬壱国のNo.2は彌馬升(みまし)、No.3は、彌馬獲支(みまかき)です。任那(みまな)と同じ語幹の「ミマ」です。彌(み)も馬(ま)も美称です。  それと同類の言葉である任那(みまな)が玄界灘の北側にある。倭国の親衛隊のような存在が、玄界灘の両岸にある。九州側に二つ、朝鮮半島側に一つある。  この任那(みまな)が高句麗好太王碑に出てくる。  任那(みまな)という言葉は、倭人が造ったという厳たる証拠がある単語なのです。「任」という漢字は意味が分からない。ところが人偏を取ると「壬 しん」の意味は、北方の一つしかない。これは『三国志』でも海を三回渡ってくるのに、初めの「渡る」は三水偏がない「度 わたる」です。二回・三回目は三水偏がある。同じ意味ですが、時代によって表記が変わることが正確に表現されている。金印の「倭」も人偏がない「委」であることも有名です。それでもう一度言いますが、人偏を取ると「壬 しん」の意味は、北方の一つしかない。  「那な」は大地の意味です。任那(みまな)は「北方の大地」という漢字名です。北方の大地と表現するのは、韓国側が呼ぶはずはないし、中国側が呼ぶはずもない。日本側が造った用字である。その問題は早くから気がついていた。その問題を広げる論理がなかった。その一点に留まっていた。  今となっては見たら四一四年、五世紀の高句麗好太王碑という金石文に、「任那みまな」という日本側の用字が厳然と出てくる。これは凄い意味を持ちます。『三国史記』には早くから出てくる。『日本書紀』にも、もちろん出てくる。ですから「任那みまな」は日本語です。 これは何を意味するか。もし任那(みまな)の御眞木入日子(みまきいりひこ)が騎馬民族であるなら、彼は日本語に自分の名前を代えて日本に来た。(笑い)「任那(みまな)」に来るまで日本語を使っていたはずがない。中央アジアなら騎馬民族語、高句麗なら高句麗語を使っていたはずだ。それがなぜか「任那(みまな)」に来たら、いきなり被征服者の言葉に変心して日本に入って来た。そんなことありますかね。わたしには考えられない。  その証拠に、高句麗好太王碑の先頭には「鄒牟すうほう王」が出てくる。中国製の名前が「朱蒙」ですが、高句麗製の名前が「鄒牟すうほう王」です。。高句麗語で自分たちの王様を表現しています。これが本来です。  それが何を狂ったのか、いきなり負けたほうの日本語を使って「御眞木入日子(みまきいりひこ)」と名乗り、あとそれしか使わなかった。そのような話はあり得ない。これ一つとってみても、江上説はアウト。  ですから崇神が騎馬民族であるという話は、金石文である好太王碑の面からもアウト、「任那(みまな)」の問題からもアウト、どちらもアウト。  江上さんも、騎馬民族が日本に来たのが四世紀の終わりだと変更されましたが、なおさら好太王の全盛期で同時代です。高句麗好太王碑に書き忘れということは絶対にありえない。  ところが『東日流外三郡誌』に、面白いことが書いてある。       丑寅日本国史抄  倭国の天皇記に曰く  韓国より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて兵を遣して敗るが故に、河内王和珥帝と和睦せんとせるも、和珥帝、元より膽膽駒王富雄郷乃長髄彦系なりせは、春日穂無智別を遣して崇神天皇を討伐せり。  和珥帝に縁れるは宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏ありて、蘇我郷の崇神天皇と常にして、攻防の戦を相争うたり。崇神天皇に加勢せるは、葛城王にて日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井氏に滅亡さるまま崩壊せる後に猿田氏が地配せり。是また薩陽王隼人王併軍押領に屈したり。  筑紫にては熊襲王、邪馬壹王と併せて奴国王を亡し、茲に立国せり。崇神天皇とは伊理王の事なり。天皇系にして景行天皇、倭武、神功皇后ぞ実在せざるとぞ。天皇記に記述ありき。   文正丙戌年二月七日          船史恵尺之流胤 竹内宗達  ここに「韓国より渡来せる崇神天皇」と出てくる。これは江上さんの説通り騎馬民族説が裏付けされているではないかではないかと言いますが、そんなことはない。先ほど述べましたように、「任那(みまな)」は日本語ですから。しかし崇神天皇は韓国にいた。「任那(みまな)」は韓国ですから。そこから来ましたと書いてある。また「蘇我郷の崇神天皇と常にして、攻防の戦を相争うたり」と、崇神が生き残ったさまがうかがえる。  さてそこで、わたしとしては中途半端に終わっていたテーマがある。『盗まれた神話』などを読まれたかたはご存じのように、『古事記』と『日本書紀』では崇神天皇の書き方が違っている。つまり『日本書紀』は四道将軍と言って、東西南北に軍を派遣したと書いてある。ところが『古事記』では西に派遣したという記事が欠けている。東海と北陸と丹波に、討伐したが、西の岡山のほうは討伐したとは書かれていない。それでわたしは、これは『古事記』のほうが本来の形ではないかと論じた。なぜかと言いますと、ほんらい『日本書紀』の四道将軍なら、わざわざ後で一方を抜いて書き直すというのは意味がない。ほんらいは三方だったのを、机の上で完全な形にするため、西を加えて四道将軍に書き直すというのは意味がある。  そこまでは論じたが、そこでストップしていた。それならば、なぜ崇神は西に征伐の軍を派遣したとを書けなかったのかという問題がある。 ところが先ほどの『東日流外三郡誌』の言い方によれば、韓国から、近畿に攻め上ってきたと書かれている。当然大和にいた神武以後の近畿天皇家の後継者と衝突して勝った。最後は討伐した崇神が生き残ったと書いてある。これなら分かる。  そこで皆さんに注目してもらい史料がある。百も承知の史料ですが。   開化天皇 若倭根子日子大毘毘命。春日の伊邪河(いざかはの)宮坐して、天の下治らしめしき。此の天皇、旦波(たには)の大縣主、名は由碁理(ゆごり)の女。竹野(たかの)比賣を娶して、生みませる御子。比古由牟須美(ひこゆむすみの)命【一柱。此の王の名は音を以ゐよ】又庶母(ままはは)伊賀迦色許賣(いかがしこめの)命を娶して、生みませる御子。御眞木入日子印惠命【みまきいりひこいにゑのみこと 印惠の二字は音を以ゐよ】、次に御眞津比賣命【みまつひめのみこと 二柱】。  これは皆さん、百もご承知のところです。第九代開化天皇のところです。「庶母(ままはは)伊賀迦色許賣(いかがしこめの)命を娶して、生みませる御子。御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)、次に御眞津比賣命(みまつひめのみこと)。」とある。  ここでは庶母(ままはは)と書かれている。開化天皇は、親父のお母さんと結婚した。正確には第二夫人でしょう。それを自分の女にして、生ませたのが御眞木入日子印惠命と御眞津比賣命です。  ところが「庶母 ままはは」のところに岩波古典体系の注釈がありまして、“三 書紀には「立二伊香色謎命一為二皇后一。〔是母也庶〕」とある。上代においては、継母や異母妹との結婚は不倫とされなかった”とある。  今まで、この注釈を読んで分かった、分かったと思って読んでいた。これが大間違い。嘘でしょう。  いきなり言えば何ですが、『古事記』には書いてある。神武の奥さんは九州にいて、そして大和に来て、神武は伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)と結婚した。神武が死ぬと、九州の奥さんの息子當藝志美美(たぎしみみ)命は、親父の未亡人である伊須氣余理比賣を奪って自分の女にした。そこで後の綏靖天皇(神沼河耳命)と安寧天皇(師木津日子玉手見命)は、悪者の兄貴をそこで殺した。こう書いてあるではないか。明らかに兄貴は悪者扱いで殺されている。不倫はたいしたことでなければ、そんなことはしない。たいしたことだから、殺されかつ悪者扱いされている。この岩波の注釈は明らかに間違い。宣長以来、天皇家はすばらしいという前提で厚化粧の嘘の説明に皆が納得している。このような仕組みに明治以後成ってきている。  當藝志美美(たぎしみみ)命の話は、これが大嘘であることを示している。誰が考えても、親父の若い未亡人を、第一夫人の息子が、自分の女にしたら気持ちがいいはずがない。古今東西どこを探しても、嫌になるのに決まっている。 ということは、崇神(天皇)の場合は、そういう不幸な運命が待ち構えていた。  兄貴のほうは、とうぜん大和を受け継ぐ。それに対して、不倫の子である崇神と妹は、九州王朝の任那(みなま)に追いやられた。崇神は御眞木(みまき)へ、妹は御眞津(みまつ)とに追いやられた。  正確に言えば、任那(みまな)は御真(ミマ)とあるとおり、かなり広い領域です。崇神は「御眞木入日子印惠命」と言われていますが、木(き)は城・要害の「キ」であり、「入」は入り江だと考えます。伊万里も湾のことですから。そうしますと崇神は「任那(みまな)」の一角、しかもそのまた入り江の海岸部の一武将に追いやられていた。妹も、一緒に追いやられた。大和から見れば端に、本人の責任ではないですが不遇の運命にあった。  それが第一点。正確に読めばそうならざるを得ない。  ところが、そこへ持ってきて問題が生じる。先ほど言いました『三国志』の呉の滅亡。魏に使いを出したときは、魏・呉どちらが勝つか分からない。その段階で、すでに三十国は魏にはせ参じていた。茨木市あたりの拘奴国は呉に味方した。どっちつかずが後の大部分の国々。ところがそこに持ってきて、二六二年呉が滅亡する。これも年表では二六二年ですが、実際は孫権が死んだのは二五二年。あと次々変わって滅亡する。これがとうぜん日本列島に激甚な影響を与えた。想像だけれども、影響を与えないと想像が出来ますかね。わたしはあり得ないと思う。つまり魏に味方した三十国は、それみたことかと考える。呉に味方したほうは、どうしようもない。日和見していた国は、それぞれ三十国にすり寄った。要するに日本列島がガタガタに陥ったのが二五二年に、孫権が死んで呉が滅亡するまでの一〇年間の日本列島。  そのときに、「任那(みまな)」の一角にいた海上の一武将の崇神が大和を目指した。そしていわゆる正統な兄貴の軍隊と戦って、これと勝った。  わたしは何も勝手なことは言ってはいませんよ。『古事記』に書いてあるとおりであり、かつ呉の滅亡も想像ではない。呉が滅亡しても日本列島に影響はないですよ。そう言うほうがおかしい。その時に崇神は大和を目指した。  このような大事件を、従来日本の歴史はまったく扱わずにきた。(近畿)天皇家はすばらしい。ゴマすり三昧の、万世一系の日本史。それが明治以後の学界とマスコミの主目的だった。今のようなことを誰も言おうとしない。戦前はもちろん戦後も言おうとしない。  津田左右吉は、自分の主張は天皇家のためだと言って、岩波書店や家永三郎さんを当惑させたがそのとおりです。  彼はイデオロギー、天皇家はすばらしいと言おうとした。そのために、このようなリアルな問題はまったく扱われてこないかった。  この問題は、あまりにも大きな問題を含んでいますが、ここで終わらせていただきます。  七、人麻呂の命運  人麻呂は石見で生まれた。亡くなったのも石見ですが、七歳頃まで居て歌の天才ぶりが都に知られ、都に呼ばれ詩文の才能を磨いた。 最後の晩年は、生まれたところに帰ったとなる。  その場合問題がありまして、都とはどこか。  もちろん従来の(近畿)天皇家中心主義の考えでは、都は大和と考えられている。わたしは、そうではなくて、彼の歌の圧倒的多数が、筑紫を中心として歌われているから太宰府を中心とした都で考えていた。ところが大阪府柏原市船王後墓誌。これが非常にありがたいのが、年だけでなく干支が書いてある。七世紀の前半の後。  その時代の都は山口県の豊浦。下関の下。  白雉がでた。  人麻呂の生まれた浜田市の戸田から、歩いて一日で行ける。そこで人麻呂は、彼の人生を輝かした。  そうなると非常に分かりやすいことがありまして、人麻呂の神社が、各地にある。  太宰府中心で考えられないことはないが、もう一つピンとこない。しかし豊浦宮を中心に考えるといっぺんに謎が解ける。しかも神籠石(山城)がたいへん重要でありまして、これと対応する。しかも、これとも対応が重要でありまして、近畿天皇家の天皇と考えればまったく対応しない。ところが太宰府中心の九州王朝の天皇と考えると、だいたい近い時期に合ってくる。和妙抄にある那珂川のところにある、  八 『天皇記』『国記』を探せ(略)  九 沖縄問題の本質(略)    戦争責任はだれにあるか 質問 (水野孝夫)  、わたしから質問します。古田史学の会では、遅れておりますが『九州年号の研究』という本を二年前から出そうと計画しています。わたしは序文を書けということで、いろいろ考えております。それでわたしは九州年号の中では「大化」という年号がいちばん問題だと思うようになりました。先生もいぜんから大化の改新について、いろいろ研究されており折りには触れられてはいますが、全体像がわたしたちには分かりません。  また『壬申大乱』という本を書かれましたが、わたしには壬申の乱も、どこでいつ起こったか先生の説明ではよく分からないと思います。『日本書紀』の説明では壬申の乱は理解できないということを『壬申大乱』という本では書かれているように思われます。  特に九州王朝説を唱え始められたのは古田先生ですから、どのように九州王朝が終わったか追求していただきたい。そのためには大化の改新を追求してもらいたい。それと古田先生に言われまして一年前ぐらい前に、大化の改新に関する本を集めてお送りしましたが、大化の改新の研究が進まない。それでお聞きしたら本日質問せよと言われていますので、大化の改新に関する研究は、今どれぐらい進んでいるのでしょうか。 (回答)  本日「大化の改新」に触れないのは、この時間内では証明も含めて難しいという意味です。わたし自身の考えは明快です。今言われた問題についてお答えいたします。  従来学界では、『日本書紀』の三・四世紀の古いところでは信用できない。しかし六・七世紀段階天武・持統のところでは確実である。事実である。従来の学界ではそのように考えてきた。わたしは反対なのです。いちばん怪しいのが六・七世紀段階天武・持統のところです。八世紀の天皇家が、自分たちの弁明のために『日本書紀』を造ったことは確実です。自分たちの弁明のために、事実を並べて弁明するするのか、嘘でも並べて弁明するのかという問題です。しかし内容を見るとかなり嘘が多い。そのことを新庄智恵子さんに教えていただいた。持統天皇の吉野行きはおかしいというご指摘を受けて調べたが本当におかしかった。持統は『日本書紀』の一番最後です。おかしかったのは持統天皇の吉野行きですが、一つや二つおかしいのではなくて全ておかしい。九州王朝の天子の佐賀県の吉野への閲兵記事全体を取り込んできて桜見物めかした件にしている。この件だけがおかしくて、ほかは全部正しいとは決して言えない。このようなことを行っている持統紀は信用できない。天智・天武紀も同じです。そのような史料批判にならざるをえない。詳しくは書きますのでご覧ください。  まず『日本書紀』を造る場合に、編纂したかれらは九州年号を知っていたことは間違いない。九州年号を三つばかり利用している。三つのうち、その中の二つは「九州年号」として、そのまま利用している。こう言いますと、いや古賀さんがたいへん鋭い議論で展開されたように「白雉」は二年のずれがあるよ。そして天武紀の「朱鳥」は一年ずれているよと言われるかもしれない。しかしわたしは、これは同じだと考える。なぜ同じかと言いますと、時間の関係でざっくばらんに言いますと、わたしは大正十五年生まれだ。ところが『東日流外三郡誌』の所有者であった和田喜八郎さんは昭和二年の元旦生まれだ。形の上では二年のずれがある。ところが実際和田喜八郎さんは昭和元年十二月三十一日大晦日近くに生まれている。わたしは大正十五年八月に生まれている。だから四ヶ月ぐらいしか実際の差はない。ところがわたしは大正十五年生まれ、彼は昭和二年生まれで、形の上では二・三年のズレがある。これは別に王朝が変わったわけではない。王朝が変わらなくとも、このようなことが起きている。  まして王朝が変わりますと、すっきり行くはずがない。中国南朝・北朝とあるが、南朝は漢・魏・西晋の暦で政を行っていた。そこへ当時夷蛮と言われた鮮卑が侵略して来た。そして北朝の暦を造る。その暦の中では、先祖の代々の鮮卑を皇帝に仕立てた暦を造る。そうしますと各代の皇帝の変わり目毎に、最大三年ずれが生じる。南朝・北朝の暦も同じです。  日本の暦は南朝系列の暦なのに対して、隋・唐は北朝系列の暦なのです。だから白村江の戦いは一年ずれていますがこれは当たり前で、同じ戦いが暦が違うからズレている。  そういうことですから、一見ズレと見える「白雉」も「朱鳥」も、九州年号(二中歴)と同じところに編者は入れたつもりだった。これが第一点。  それでは、なぜ「白雉」「朱鳥」を『日本書紀』は利用したのか。  まず「白雉」。「白雉」のところに「大化」を持ってきた。「大化」はもちろん六四五年ではない。九州年号が示しているように、七〇一年の直前のところに大化元年がある。それを四十五年遡らせたのはなぜか。いくつかの理由があるのですが、一つのおおきな理由をあげれば官職制定の問題がある。近畿天皇家の各豪族が官職を持っている。その官職が、どこで与えられたかを示さなければならない。そうすると「大化の改新」のところに官職制定の記事がある。表向きは六四五年「大化」で天智天皇のご意向により、決められかつ施行された。だから文句を言うな。そういう形になっている。官職の淵源を明らかにする、それが一つにある。それに関連して評制と郡制の問題もある。それまで評だったのが、郡に七〇一で変わった。それを結局文武天皇が、わたしたちが郡制に変えた。文句を言うな。そういう自信が天皇家にはなかった。それで編者は、何を隠そうこれらの制度は、天智天皇の時に造られて天武天皇の時に施行されたという制度に基づいている。そういう嘘を六四五年に置いた。その嘘の持ってくる方法として、七〇五年の乙巳(いつし)に、唐の則天武后(武則天)が死んでいる。その唐の則天武后が亡くなった干支を六〇年遡らせて、同じ乙巳に斉明、日本の女帝が終わったという形にした。偶然の一致で両方の女帝が、同じ干支の時に亡くなったというは嘘です。則天武后の干支を六〇年遡らせて、白村江の戦いのところに持ってきた。  このような形で『日本書紀』は、完全に八世紀の天皇家を合理化し美化する形で造られた。このような歴史書は庶民が読むものでない建前の歴史書です。それを造り上げた。  それで「白雉」記事は、山口県豊浦で行われた九州王朝の「白雉」記事を同じ年に使った。  次に「朱鳥」。一番重要なテーマがある。それは徳政令。今までの年貢はすべてご破算にして、これからの年貢だけにする。それは持統の時に修正していますが。あれはたいへん大きな事件です。これが常に行われたなら、国民やお金を貸すものは貸せなくなる。しかも、あれが行えるのは重大な権力の変動が大前提。これを一番よく知っているのがわれわれです。  何かと言いますといわゆる農地改革・解放。大地主が持っていた農地をぜんぶアウトにして、小作人がぜんぶ自分のものに出来た。これが一九四五年敗戦の結果です。これをアイデアした人はたくさんいますが、アイデアぐらいならいくらでも出せる。しかしこれを実行するのなら絶大な権力がなければ出来ない。マッカーサーが行ったからできた。だからマッカーサーが退任してアメリカに帰るときに、空港に何万人の人が押し寄せてマッカーサー元帥万歳と手を上げて送ったというのは有名な話です。農地改革を知らない人からみたら、なぜ日本人があれほど占領軍のマッカーサーに手を上げて送ったのか、日本人はバカかと言うかも知れないが、そうではない。やはり小作の人にとっては、あれほどの大事件はない。今まで小作に苦しんでおったのが、全部チャラにして自分たちの自作になったのだから。何回マッカーサーに感謝しても、足らないほどに感謝している。またマッカーサーの絶対的な権力がなかったら、大地主・中小地主が土地を手放すことを承知するはずがない。だから敗戦という時代のみに農地解放ということが実行できた。われわれは生きた証拠を、生きた時代に持っている。 大化の改新も同じです。天智の途中に、これを実行することはできない。これもやはり七〇一です。  七〇一年に九州王朝とこれに付属した勢力から借りていたものは全部チャラ。これからは天皇家の世だ。みな喜びますよ。九州王朝が滅んだことを一番実感を持って分かる。しかも、それが自分たちが決めたから行うという自信がないから、天武天皇がお決めになったことだからという嘘の理屈を付けている。  もう一つだけ言いますと、有名な大化の改新問題で、それまでの豪族の土地をすべて廃止して、天皇家の土地にした。このような問題がある。これには歴史家を初めたいへん苦しんだ。この記事を右翼も左翼もいろいろ解釈してきて全て失敗している。そのような証拠はない。六四五年以前に豪族のものだったものが、後は天皇家のものになった。そのようなことが行われた事実の裏付けはない。ないのに井上光偵・直木孝次郎氏など、みんなで屁理屈を考えた。みんなで屁理屈を付けても成り立つはずがない。  あれは何か。これは当然七〇一年です。だから、あそこで豪族と言っているのは九州王朝支配下の豪族。それをアウト。そして天皇家と言っているのは、天皇家の側の豪族。だから七〇一以後、天皇家だけで藤原氏も力はなくなったのか。そんなことはない。たいへん力を蓄えている。藤原氏は天皇家のお声掛かりの豪族だから、あれはセーフだ。言っていることは何も矛盾しない。  そんな無茶なという声もあるが、ぜんぜん無茶な解釈ではない。先例がある。これが中国の『(北)魏書』に書かれている。  北魏は鮮卑だから揚子江近辺に土地などを持っているはずがない。鮮卑が南下して洛陽を初めとして揚子江北辺を占拠した。それまでは漢・魏・西晋の豪族の支配下で、正確に所属関係は決まっている。それを全部チャラにして、北魏の土地だとした。北魏の土地が、正しい天王・皇帝の土地であり、今までの漢・魏・西晋の土地は、嘘の間違った豪族の土地である。 特に鮮卑は土地よりも馬が重点に書かれてある。かれらは騎馬民族ですから、馬が重点に書かれてある。これがわれわれの支配するものだと、それが明確に書かれている。  これを簡単に言うと、これまでの支配は嘘とする。これからのわれわれの新しい支配が、正しいのだ。そういうことを示すのが『(北)魏書』の大目的です。そういうことを『日本書紀』は学んで書かれた。 そして七〇一以前の九州王朝のもとでの豪族の支配関係についてはアウト。七〇一以後の天皇家、文武・元正・元明、それを支持している藤原氏以下の豪族の支配下に入っているのがセーフ。そのようなことを言っていると理解すると何もおかしくはない。 真面目に受け取る。天皇家はそれほど酷いことをしない。あれだけ書いてあるのだから、少しは本当だろう。あるいは根本は本当だろう。そういう形で受け取るから、やればやるだけ泥沼に入る。  今のように九州王朝の支配は終わった。近畿天皇家の支配の世になった。しかも近畿天皇家は、革命で九州王朝を倒して出来たのではない。唐の則天武后のお声がかかりで出来た。だから自信がないわけです。則天武后のお陰だと書けないから、天武・持統のお陰だと言う形で言おうとしたのが『日本書紀』である。わたしはこれが『日本書紀』の本質だと考えています。 そういう目で一つ一つ捉え分析したらどうかという提案です。