古田武彦講演記録 日本の未来 -- 日本古代史論 古田武彦講演会 2009年6月20日 大阪市 東淀川人権文化センター 大阪市東淀川区西淡路1ー8ー5  第二部 古賀事務局長 司会 水野代表 あいさつ  古田史学の会代表の水野でございます。新型インフルエンザがはやっており、もし一ヶ月前であればたいへんなことになっていたと思われます。それでこの会に古田先生をなんとか引っ張りだそうと考えました。ご存知のように、古田先生は「講演会は行わない。本を書く。」と言われました。それで、ご存知のようにこの前に行われた九州の小郡市の飛鳥での実験。古田先生は飛鳥浄御原宮のあるところは奈良県明日香ではなく、九州の小郡市松崎井上であることを発見されました。その場所を、気球を飛ばされて空中から写真に撮ると言われ、古田史学会報に「生涯最後の実験」を書かれ金銭面でご協力をお願いしますと言われた。これに対し寄付が集まり会員が協力しました。古田先生、それに免じてこれに対するお礼を言ってくださいと言って、先生を引っ張りだすことに成功しました。(笑い)そういうことで先生の講演を始めていただきますので、よろしくお願いいたします。  一 はじめに  古田でございます。今日は、九州小郡市で行われた実験へのお礼ということで参りました。たくさんの人に協賛いただき、新東方史学会にたくさんご寄付もいただき、たくさんの人が九州飛鳥に来ていただき協力いただきました。  そのお礼をまず申し上げます。その上で、わたしの研究はたいへん好調です。わたしとしては毎日発見があるというか、二日に開けずに、こんなに新発見が続いてよいのか疑うぐらいあります。ですからご挨拶の近況報告とありますが、それではとても時間が足りません。そうは言っても時間には限りがありますから簡明率直に申し上げたい。  この場合「学問の方法」が一番大事だと思います。この「学問の方法」を取り違えると新しい発見は生まれないし、また新発見と思ったのが、ぬか喜びになる。最近の「偽装」というか砂の上にレンガを積み上げたということになる。この「学問の方法」について、質問時間になるかも知れませんが、ぜひとも申し上げたい。忘れたら言ってください。  さて、このような新発見が続くのはみなさまのおかげだと思っております。「みなさまのおかげ」というのは一つの社交辞令ですが、わたし自身は本当にそう思っております。その一つにへんな言い方で生意気ですが、さいきん頭が良くなった。一昨年の十一月東京八王子市の大学セミナーに群馬県の高木病院の加藤さんが参加された。わたしの話を聞かれていて終わった後、わたしに「古田さん、あなたの足どりを見ていると水頭症ですよ。わたしの病院にお越し下さい。」と言われた。はじめはそんなことは言われても考えていたが、最後は高木病院に行って診断をお願いし、結局そこで手術を行いました。手術は院長の高木さんではなく、若いほうの五十歳前後の高木先生。このかたは全国の水頭症の半分以上を引き受けておられる方です。それで手術そのものは、わたしは麻酔をかけられて7・8時間寝ているだけです。何も気がつかない。しかし手術が終わって翌朝歩いて驚いた。それで足を引きずって歩いていたのが、パッパと歩けるようになった。足どりが違う。しかし足どりだけでなく頭も良くなった。わたしは眠っていただけですが、手術そのものは、頭の動脈の血管を取り出して心臓につなげるというたいへんな手術だ。簡単に言えば血管が腐っているというか詰まっていた。しかし頭の血管と足の血管が別のものであるはずがない。足だけが血管が詰まっていたのではなくて頭の血管も詰まっていた。血流が悪い頭で考えていたが手術を行い、手術して頭が良くなった。そういう実感を持ちました。(笑い)  この手術の効果は、さっそく表れた。今ミネルバァ書房から全集の第一弾として『「邪馬台国」はなかった』『盗まれた神話』『失われた九州王朝』を出したいと言われいます。それで特に若い人向けに考えて、読みやすいようにカナをふり、また補注をつけています。今読みなおせば『「邪馬台国」はなかった』はけっこう難しい。補注さえ読めば、古田はこのことを言いたかったのか。そういうことがわかるようなものにしたい。しかしこり出すといつまでも片付かないからミネルバァ書房からある程度まとまったら早く出版したいと言ってきました。  とにかく30年前に書いた自分の本をもう一度読んだ。なぜこのようことに気がつかなかったか、あれもそうだ。穴だらけだ。このように、30年前の自分より、今の自分のほうが頭が良いということを自覚させられた。(笑い)  また水野氏を初めたくさんの方々に、たいへん面倒くさいと思いますが、いろいろなことを現地やインターネットでお調べいただいている。そのおかげでたいへん新発見にめぐまれるという状況に感謝しています。 2『魏志倭人伝』の「都市牛利(といちごり)」  『なかった』第六集で『万葉集』の問題を論じている古田史学の会九州の上条さんから、「都市○○」という名刺のファックスが送られてきました。ご存知のように『魏志倭人伝』には、ナンバーワンの使いが「難升米」、ナンバーツーの使い(次使)が「都市牛利」と書かれてある。ところが、いただいた名刺には「都市(といち)」とあり、古田武彦の「古田」のように、「都市(といち)」は姓にあたるのではないか考えた。 (昨年の六月『「邪馬台国」はなかった』の読みと補注はほぼ完成していたが、これは大変だということで、またストップしました。今年の夏には完成させたい。)  いまでも博多や松浦、九州各地には都市(といち)さんがに居られる。この都市さんのなかから、酒豪であるおばさんの都市さんに出会い、本家は長崎県松浦市の鷹島だと親切に教えていただいた。佐賀県唐津近くの高島ではなく、フビライによる蒙古軍の襲来で有名なモンゴル村の長崎県松浦市の鷹島です。それで昨年鷹島に行き、あらかじめ連絡を入れておいたら、わざわざ旅館まで代表して都市(といち)さんの一人が来られた。それでお話をうかがった。それからお墓にお連れいただきたいと言いましたら、明日朝早くから仕事があるので今行こうと言われ、ま夜中に一度連れていただきました。また翌朝ご紹介いただいた床屋さんの黒津さんと再度お墓に行きました。  それで結論から言いますと『魏志倭人伝』の「都市(といち)」さんは、松浦水軍の本拠地としての鷹島の「都市(といち)」さん。その結論に至る経過は省略して言いますが、『魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみか)の使いは松浦水軍の船で行っています。  また「難升米」については、「難(ナン)」が姓で、「升米(しめ)」が日本語の名前。「難」という姓は、中国の『周礼(しゅらい)』などを見ると洛陽の近く河南省あたりに占いの氏族としての「方相氏」と存在している。他方韓国にも「難氏」がいます。どうも中国の一派が韓国に行ったようだ。それでこれらを確認したい。方法として留学生に訳していただいた韓国語の文を東大の朴さんに監査していただき、その文章を『なかった』第六号の最後に掲載しました。また韓国に送りました。わたしは韓国の人々に秘蔵されているという「族譜(ぞくふ)」のなかに、「難」姓の有無を含め、その痕跡はないのか。また関連の伝承がないか詰めています。うまく行けば「難升米」が見つかるかもしれません。  ところで「都市(といち)」さんの問題について、あるきっかけから松本郁子さんから質問を受けました。『魏志倭人伝』に「難升米」が二回出てくるが、二回とも「難升米」と書かれてある。ところが「都市」さんのほうは、一回目は「都市牛利」と書かれてあるが、二回目に出てくるときは「都市」はない。「牛利」とだけ書かれてある。これはどうしてかと尋ねられました。それでわたしは『三国志』の「姓」と「名」を全部調べ、一回目は「姓名」、二回目は「名」だけ書かれているか本格的に調べてみなければわかりませんと述べた。それで彼女は沈黙した。理屈から言えばそうなります。彼女の質問を受けて調べ考えてみると『魏志倭人伝』の「都市」は、姓ではなかったのではないかという重大な問題にぶつかった。。今の九州博多や太宰府で使われている「都市(といち)」は姓です。しかし『魏志倭人伝』の「都市(といち)」の意味は、姓ではなくて職能ではないか。  それでわたしには「といち(戸市・都市)」そのものの意味は、以前から判明していた。『魏志倭人伝』には、「有邸閣、國國有市、交易有無使大倭監之」と市があったことが書かれ、かつ「大倭」がこれを監察していることは有名です。だから市があったことは間違いない。「と(都・戸)」は、わたしの判断では神殿の入り口にあたる「戸(と)」です。いまでも門前町が、神社や寺の入り口にある。それと同じです。ですから神殿の周りに出来た市が「戸市(といち)」です。そういう日本語です。  それで、これはたいへんな問題だと直感したのは「都市(といち)」の名刺からです。「都市(といち)」の「都(と)」は音仮名、市場の「市(いち)」は訓仮名です。「都市(とし)」と読むなら音音ですが、これを「都市(といち)」と読むとすれば『魏志倭人伝』では音訓両用で用いられていた。これにぞっとしませんか。『魏志倭人伝』にフリガナを付けていたが、そのようなことは思いもしなかった。そういう、ショッキングな内容です。しかし一年間で、この問題は解決した。  帰化した渡来人の「難升米」が卑弥呼(ひみか)の使いのトップにいるように、漢語は当たり前の世界。しかし漢語だけで、倭国のすべてのことが「音」だけで表せるはずがない。とうぜん「訓」が用いられていた。「都市(といち)」が「都市(とし)」と呼ばれたはずもない。つまり「都市(といち)」が倭語であり、三世紀の『魏志倭人伝』の世界が音も訓も、もちいられていた世界であることは理屈としてはそのとおりです。ですが、そのことは難(なん)氏が洛陽のそば河南省から来た渡来人であるという仮説を導入することにより解決の道が開かれてきた。  ところが松本郁子さんが質問された疑問のとおり、確かに「都市(といち)」は二回目は省略してある。姓名であるならば二回目が省略してあるのはおかしい。「難升米」は省略していない。すると「都市(といち)」、これは姓ではなく神殿の入り口に作られた市という職能を表すのではないか。そうしますと神殿の入り口に作られた市は一〇なり二〇なり多数倭国の中にある。また「といち(戸市)」は単数・複数両方に使える言葉である。ところがここでは「戸(と)」ではなく「都(みやこ)」という字をあてている。数多くある国々の中で都のある国といえば邪馬壹国。そこの市が一つだけ「都」を当てうる「都市(といち)」。そこを支配・監察する「牛利(ごり)」さんだから「都市牛利」。このことは、後代でいえば戦国時代にも例がある。「多平」と言っても誰も区別できない。豆腐屋の多平とか呉服屋の多平と言って区別する。牛利さんはたくさんいるが、邪馬壹国の市を監督する牛利さんだから「都市牛利」。こうなると完全に人物を特定できる。  ですから「都市牛利」さん。この場合、しかも詔勅という晴れがましい場面ですので姓なら繰り返す必要がある。しかし今言ったように職能の「都市」なら二回も繰り返すほうがおかしい。一回だけのほうが筋が通っている。このようなことが分かってきた。 さて都市牛利さんに率いられた松浦水軍。この場合戦争の時は軍隊です。平和のときは商業活動。『魏志倭人伝』に「乗船南北使糴」とあるように、韓国と対海国(対馬)・一大国(壱岐)をはさみ博多湾と交易が行われている。とうぜん松浦水軍が交易を行っている。その松浦水軍のボスが都の市を支配する。こんな分かりやすいことはない。 (参考『なかった』第六集参照 連載 敵祭 松本清張さんへの書簡  第六回 古田武彦)  関連する問題では、『古事記』では、欠史八代とされている初代神武から十代崇神までの天皇の称号に「大倭」が四名います。 四代懿徳(大倭日子[金且]友命) 六代孝安(大倭帶日子國押人命) 七代孝霊(大倭根子日子賦斗迩命) 八代孝元(大倭根子日子國玖琉命)  この「倭」は「ちくし」と読むのだと思いますが、この「大倭」が四名いる。神武は「倭」だけで「大倭」になってはいない。これは『魏志倭人伝』のように「使大倭」に、大和・奈良県で任命されたから四名が名乗っている。「大倭」として市を支配する権限をもっているのは四名だけである。このように「都市(といち)」さんの問題は、さまざまなところに重大な影響を及ぼします。 3 北朝認識と南朝認識 ーー文字の伝来  さて、このような目からテレビで放映されている番組を見ました。  先日(二〇〇九年四月二六日)、 NHK教育、午後十一時~十二時半)テレビで「古代人々は海峡を越えた(日本と朝鮮半島二〇〇〇年第一回)」と題する番組があった。各大学の著名な学者たちが語った。昔からよく知った方々だが、最近の「お顔」が珍しい。自分も年を経ているが、さすがに歳を召された。なつかしかった。  その中で、特に山尾幸久氏が強調されていたのは、「日本には文字がなかった。百済から文字が伝わった。仏教により文字が伝わった。日本の国家そして律令の発展にも、『文字の存在』が不可欠であったこと、そしてその肝心の『文字の淵源』が百済から伝わったこと」を述べ、「百済から倭国へ」の文字伝来の歴史的意義を強調されたのである。  この文字の「百済起源説」には、有名な「典拠」がある。隋書イ妥たい国伝だ(通説では「イ妥」は「倭」に改定)。 「文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済において仏経を求得し、始めて文字あり。」  これを裏書きするように、韓国の学者が出てきてその通りである。「なぜ、百済の聖明王がそのような文化伝播に力を尽したか」を述べた。  この説には以前からおかしい。変な説だとは思っていたが、今のべた「都市」さんのように三世紀の『魏志倭人伝』では倭国では音訓両方を使っている事実からは決定的におかしい。それが百済から五世紀になって初めて伝わった。こんなバカな話はないじゃないか。ですが、このような説が流布する理由はなにか。それで考えてみると、これは北朝と南朝の問題が絡(から)まっている。  何回も言っていますからご存じだと思いますが、三一六年鮮卑が南下してきて中国の都洛陽を陥落させた。これが北朝の始まりである(北)魏という国を造った。そして(西)晋の一派が南京(建康)に逃れて、そこに都を置いた。これが南朝で(東)晋をなのった。南北朝の対立が、三百十六年から始まった。そして南朝が(劉)宋・斉・梁・陳と変わった。陳が五七九年に北朝の隋に征服され南北朝は解消した。北朝の隋が天下を統一し、それを唐が受け継いだ。  ところがその(北)魏が造った『魏書』という書物、そこには『高句麗伝』があるが『倭国伝』はない。この『高句麗伝』に好太王は何回も出てきて、中国と戦って負けるという変な役割で活躍します。ですが高句麗好太王碑に存在し、ライバルであり戦った『倭国伝』はない。つまり『魏書』には倭国は存在しないという立場で書かれている。なぜ『倭国伝』は『魏書』にないのか。理由はハッキリしている。北朝に朝貢してきた国は『高句麗伝』として存在する。朝貢してこない倭国は存在しなかったから『倭国伝』はない。たいへん明快な論理です。だから『魏書』には『倭国伝』はない。『魏書』には、歴史上倭国は存在しなかったことにされている。講演会で何度もこのことは言っていますが、この件はたいへんな重大な問題です。つまり隋も唐も北朝系です。この北魏の大義名分を受け継いだ国なのです。ですから北朝系の史書には「倭国」は存在しない。  『隋書』でも『三国志』などの「事項」そのものは採録しているが詔勅や上表文は書かれていない。魏の明帝が卑弥呼(ひみか)に与えた長文の証書のことは書かれていない。また卑弥呼(ひみか)・壱与が出した上表文のことも書かれていない。いわんや倭の五王、倭王武の上表文のことも書かれていない。なぜなら上表文を書くと、南朝や倭国は偽りの王朝や国でなくなる。北朝の立場からは、偽りの倭王が偽りの王朝の天子に出した上表文です。あれは文字とは呼ばない。偽物なのです。その立場で『隋書』は書かれている。  ところがいきなり「日出処天子」が『隋書』に出てきます。日本では唐にとって「日出処天子」はたいしたことはない文章であると言っている人がいるがとんでもない。『隋書』という本には、「日出処天子」のところはぜったいに必要な事項なのです。なぜなら『隋書』を出したのは唐です。この部分は『隋書』の中で輝いていて一番目に付くきらきらした文章で見過ごす人はいない。だから唐は『隋書』を一番に出した。なぜなら唐の天子は隋の一武将だった。それが隋に反逆し、しかも天子を殺した。部下がご主人を殺す。これは一大反逆罪です。二台目皇帝煬帝の息子を殺した。だから唐は、一大反逆国家なのです。だから反逆には名分がいる。それは隋が「日出処天子」と、蛮族の倭にのうのうと言われても、それでも平気で視察のためと称して使いを送ったり、少し機嫌を悪くしたぐらいの中国の面汚しの天子だ。だからわれわれ唐はご主人である隋をあえて滅ぼした。それは中国、中華にとってに立派なことである。大反逆罪をすばらしい行為に逆転させるために、あの「日出処天子」を使った。ですから日本の明治以後の対等外交という「日出処天子」の使いかたはわらうべきものです。  ところが、この「日出処天子」は唐には必要だが、困った問題がある。これは文字であり文書です。卑弥呼(ひみか)や倭の五王が出した上表文を文字と認めていないのに、いきなり「日出処天子」の文字・文書が出てくる。その説明が『隋書』にいる。だから『隋書イ妥たい国伝』で、「仏法を敬す。百済において仏経を求得し、始めて文字あり。」という形にした。  これは大嘘です。それは倭の五王が出した上表文を見れば判る。仏教の臭いのないどうどうたる上表文です。『三国志魏志倭人伝』でも同じです。  しかし現実に「日出処天子」の文書を書かなければならない。だが詔勅や上表文という公的な文書は認められない。だから「日出処天子」は「菩薩天子」と言っていますから、それにからめて五世紀に仏教伝来というプライベートな形で文字が伝来が存在したという、うそ話を造って「日出処天子」に接続した。五世紀に倭王武がいなかった。これはうそ話です。同じく文字がなかったと話もうそ話です。卑弥呼(ひみか)のいる『魏志倭人伝』や南朝劉宋の『宋書』を読めば文字があったことは分かりきっている。分かりきっているけれども、あの卑弥呼(ひみか)や倭の五王が出した上表文を文字と認められない。あれは偽物です。だから全体が、まさにつくりあげた造作の極地です。  ですから皆さんも、あのNHKの放映を見て、おかしいと思ったことでしょう。都市さんの問題は、今日聞かれたかたもありますが、あの『魏志倭人伝』を見て詔勅や上表文があるのに、倭の五王の上表文もあるのに、皆さんも五世紀以前に文字がないとは信じられないと思う。だけれども、なぜこのようなうそ話を造ったのかの種明かしが、北朝・南朝の大義名分論です。  それで日本側に関連する話が『古事記』の「削偽定実」問題です。少しだけ言います。この「削偽定実」に関しては、わたし以外のすべての学者は、天武天皇は正誤表を作れと言ったと解釈した。つまり、ここでは二人の息子とかいてあるが三人の間違いだ。皇子と書いてあるが皇女の間違いだ。これを校正しろと天武天皇は言われた。本居宣長以来、わたし以外のすべての学者はこのように解釈していた。  これに対してわたしは違うと言い続けている。南朝が「偽」、北朝が「実」です。南朝関係をカットしろ。北朝関係だけを残せ。そういう意味なのです。  これは『古事記』を見ていて分かりきっていることは、大陸との関係がまったくない。日本列島の中の近畿大和の権力の伝承の歴史を書いてあるが、それが中国のことをまったく知りませんでした。韓国のこともほとんど知りませんでした。そんなはずはない。中国のことを知らずに日本列島の権力が保てますか。ぜったい保てないと断言してもよい。ところがまったくない。初めからなかったはずはない。天武天皇の意志と称して南朝関係はのぞけとなった。だから南朝関係はカットされている。北朝との関係はもともとなかったのでない。  ところがこのような説を発表しても、学界は、古田説をいっさい相手にしない。確かに天武天皇は正誤表び興味を持つ細かい人物であってもかまわない。豪放な人だとおもうけれども、片方で細かい人物であってもかまわない。ただしその場合は、幹に当たることがあって、このような正誤問題にも気をつけろと言うべきだ。しかしそうではない。中心テーマが「削偽定実」でなければならない。正誤表が中心の歴史書はない。いくら本居宣長が言っても、小林秀雄が言っても、あらゆる国文学者・万葉学者が総がかりで言ってもダメなのです。わたしひとりが正しい。独断のようだが、このことをわたしは疑っていない。 参考『古代に真実を求めて』(明石書店)第十二集 講演記録 九州王朝論の独走と孤立について 古田武彦   二 古事記の撰録に於ける「削偽定実」の問題  古田はいっさい相手にせず。その相手にしなかった番組が四月二六日 のNHK教育テレビです。山尾氏は、歴史事実のように何回も「文字は百済から来た。」と繰り返された。また韓国の学者に裏付け役をさせた。それを日本人が見せられている。建前と歴史事実の区別がついていない。  このことはさらに新しい問題に発展し、さらに邪馬一国問題もほんとうに決着が着いた。  いまさら何を言うのかと思われるかもしれないが、「邪馬一国」と「邪馬台国」の区別が着きました。  これは京都大学人文科学研究所教授で、中国法制史を専門とする富谷至氏が『漢籍はおもしろい』(研文出版)に含まれた一篇でわたしを批判されていてたいへんありがたい。そこで言っていることは、「古田は「壹」が正しくて「臺」は間違いだ。」と言うけれども、『隋書』の先頭に「則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれている。『太平御覧』なども「臺」と書かれてある。そういうところを見ると、「邪馬臺国」がほんらいと考えるべきだ。古田の説は間違っている。 書評 富谷至「錯誤と漢籍」を読む 古田武彦(『なかった』第六号)  ところが、これらは駄目なのです。反論をよせられただけでもありがたいですが。  『隋書』『太平御覧』などは、これらは中国の北朝の本です。これらに対して中国の南朝の本はどうか。『三国志』は「邪馬壹国」です。  『三国志』で書いてあるのは、七万戸の国を「邪馬壹国」と呼んでいます。はっきりしている。それを一五〇年たった『後漢書』を書いた南朝劉宋の范曄(はんよう)はとうぜん見ている。彼は『魏志倭人伝』を読んでいるし、また読者も『魏志倭人伝』を読んでいる。「邪馬壹国」が七万戸もあることは、みんな知っている。しかし范曄は、『三国志』で七万戸の「邪馬壹国」のことは書いてあるが、その中心の大倭王一人のいる場所は書いてはいない。それをわたしは補おう。前の歴史書にないことを付加することに意味がある。それで「其大倭王邪馬臺国居」(其の大倭王邪馬臺国に居す。)」と、七万戸の「邪馬壹国」の中の大倭王一人がいる場所として「邪馬臺」の情報を漢代の資料により付け加えた。  だから范曄は、「邪馬壹国」を「邪馬臺国」に、「壹」を「臺」に書き換えたわけでは、まったくない。七万戸の首都「邪馬壹国」を書いたわけではまったくない。  この問題はまた発展もありました。  この「邪馬臺」というのは、倭人側日本語の表記ではないか。日本語では低湿地である。関東では特に明確で利根川の「○○台」はみんな低湿地である。関東だけではなくて、九州博多から糸島平野における地名は、普通のところより一段低い低湿地である。(明治前期字調査票にもとづく地名)ようするに「タ」は田んぼの「タ」、「イ」は井戸の「イ」です。日本語の、「タイ・ダイ」は、低いところ・低湿地である。それに中国の「臺(ダイ)」という字を当てただけです。中国の漢字としての「臺(ダイ)」は、高台の意味ですが、日本語の「邪馬臺」の本質は低湿地です。 『後漢書』の書かれた南朝劉宋の時代には「臺(ダイ)」は、忌避される言葉ではなかった。  これに対して三世紀の魏の時代には、この「臺」の字が、『三国志』では「天子の居するところ」の意、つまり特殊貴字として用いられているのに、気付きました。  魏の老臣高堂隆は魏の天子、明帝のことを「魏臺」と呼んでいます。その上、肝心の倭人伝でも、「臺に詣る」の一句を、「天子の宮殿」に至る、との意味で使用しています。そのような「魏時代の用語」の中で、史官である陳寿が「かりに『ヤマト」であっても、これを『至高の臺字』を用いて表記することは、絶対にありえない。  この論理を、松本清張さんを筆頭に誰も知らないふりをしている。 (歴史の曲り角(三)ー魏志倭人伝の史料批判ー(古田史学会報2003年 6月 8日 No.56)を参照)  このように南朝系列では「邪馬壹国」「邪馬臺国」はキチンと区別され使われて読まれていた。そこへ北朝がきた。今まで倭国とまったく交流がなかった鮮卑の一族がやってきた。だから彼らは、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」の区別が付いていない。だから『隋書』の先頭では、「魏書曰邪馬臺国」と『魏志倭人伝』と南朝劉宋の『後漢書』を区別せずに書いています。『隋書』や『太平御覧』は、南朝・北朝を区別せず書いています。これらを元に、日本の学者は、『三国志』はやはり「邪馬臺国」で良いんだと無理に論陣を張っています。  わたしを無視したつけが今来ている。文字の問題だけではない。木村さんが造っていただいた古田史学の旗のようにやはり「壹(壱)」に帰る。「邪馬壹国」の「壹(壱)」に帰らなければ、日本の歴史は分からない。そういう結論になるわけでございます。   三 はありません。   四 『魏志韓伝』・銅鐸・『古事記』  最近『三国志魏志韓伝』を読み直しました。ここに「鐸舞」のことが出ています。中国の使者が韓国に行って記録している。年に二回、彼らは休んで飲めや、謡えやの大騒ぎをする。その光景を実に生き生きと描写している。これは二倍年歴と関係があると思っています。この「鐸」は、馬鐸のように権力者が馬に付ける風鈴のようなものです。小銅鐸、それを鳴らしながら、そのリズムに合せて踊ったり飲み食いする。声を高くしたり、低くしたりリズムに合わせて踊る。見ていなければ書けないと思うように正確に書分けている。それが書いてあるということは行っているということです。中国で行われている「鐸舞」によく似ていると書いてある。  『三国志』の「魏志韓伝」では、  「五月を以て下種し訖(おわ)る」 とあったあと、  「鬼神を祭る。群聚して歌舞・飲食し、昼夜休(や)む無し。」 そして  「其の舞。数十人、共に倶に起ち相随い、地を踏み低昴(ていこう)し、手足相応ず。」 とある。  そして「節奏。鐸舞に似たる有り。」 とあり、この上で、  「十月、農功畢る。亦復(またまた)之(これ)の如くす。」と二倍年歴の世界を表している。  この文章を改めて読んで「邪馬台国」近畿説はもうダメだと。  もし三世紀魏の使いが、仮に韓国から近畿に来たとします。近畿では銅鐸を見ずに帰れますか。近畿説では行っていますから。そうしますと「倭人伝には、なぜ銅鐸のことが書かれていないのか」という、基本的な「問い」をなぜ、避けることができるのだろうか。わたしには不明です。近畿では、弥生中期から後期にかけて中型や大型や巨大型の銅鐸が発達しています。これらはみなお祭りをしていたはずです。そっとおいて隠して楽しむものではない。それが使者がお祭りにまったく気がつかずに、大和に行く方法があれば教えてください。わたしは無理だと思う。あんな小さな馬鐸の踊りすら関心をもって生き生きと記録しているのに、まして中国にないようなあんな大きな銅鐸を造ってお祭りをしているのに、中国の使者がまったく知らないとは理解不可能です。  だから近畿説の人は、まずその説明から始めなければならないと思う。わたしの見た範囲内では近畿説の人が銅鐸に触れている人はいない。これが不思議です。  そう言いますと、内藤湖南氏、白鳥庫吉氏などが銅鐸に触れていない、書いていないという人がいます。ですがそれは当たり前です。彼らは文献の専門家です。銅鐸は考古学です。明治の専門家は、銅鐸にふれないのが職業倫理、エチケットです。文献の専門家は、銅鐸・考古学にふれないのがエチケット。あとお弟子さんもそのようにしている。直木孝次郎氏のように鏡のことを一生懸命書いた人もいますが、ほとんど例外。文献の専門家は考古学にふれない。また考古学の専門家は文献の解釈にはなるべくふれない。お互いにエチケットを守りあっている。これが大学の講座専門制度です。だから考古学と歴史学が交流しない。  しかしおかしいのは、大学で講座制という専門の区分けをしているのに、小・中・高校の教科書はそうではない。「邪馬台国には近畿説と九州説と、二つある。」と書かれている。これはインチキです。大学の中で建前としての専門意識で許されたことが、高校以下の教科書が別であり、それで通ることが変です。そう思いません。だいたい、おかしいと言わないことがおかしい。  だから生徒はほんとうは先生に質問しなければおかしい。生徒は別に専門で区分けされない。博物館に行けば銅鐸が並んでいる。「なぜ倭人伝では、銅鐸について書かれていないのか。近畿に来たんでしょ。」そう質問しますと先生は困る。また先生は困るべきだ。困らずに来ているということは、教える先生もインチキで、生徒もインチキだ。  明治以後の専門家が作った教科書を覚えることが勉強であり、教育であると覚えさせられている記憶人間、コピー人間が大量生産されている証拠です。コピー人間でなければ今のような質問をしないほうがおかしい。ですから教育も、明治以後の教育はアウト。ものを考える教育になっていない。口先だけで「ものを考える人間を造らなければいけない。」という人がいるが、これは大ウソです。そういうことを本当に考えているのなら、今の問題をだせばよい。これはわたしも含めて国民も同罪です。つまり近畿説は成り立つと覚えさせられている。新聞に書いてある。教科書に書いてあるから、おそらく成り立つだろうと、何となく覚えている。覚えさせられている。考えているわけではない。  もし、ものを考えているなら分かりきった問題である。先ほどの質問が近畿説には出る。『魏志倭人伝』に銅鐸がないことは、みんな知っている。これがおかしいということはみんな知っている。だから近畿説は、ほんらい成り立たない。そのことに、おそまきながら気がついた。  それから、その話はさらに進展した。『倭人伝』の話は、もし外国人が大和にやってきた場合の話です。観光ではなく公的な使者として来て詳細な記録を残している。韓国の「鐸舞」にあれだけ詳細な記録を残している。だからもし近畿大和に来た場合には、なぜ銅鐸に関する記録が『倭人伝』にないのかという問いからです。  ですがそれ以上におかしいのは『古事記』です。『古事記』は旅行者が書いたものではなく、大和の人間が書いた。しかし大和には銅鐸もたくさん出ている。全国に五〇〇体以上銅鐸は出てきている。その五倍・十倍作られたはずだ。また弥生後期にも、あの巨大銅鐸は作られ続けていた。その中で『古事記』の伝承が成立してきた。『古事記』偽作説や平安時代成立説などなくはないが、言葉使いや伝承の内容から見ても、その説は成り立ち難い。ですが近畿に住んでいた人々の銅鐸世界の中で、『古事記』の伝承は引き継がれてきた。このように銅鐸に取り囲まれていて、銅鐸のことが『古事記』に出ないのはおかしい。それで最近の問題は、『古事記』になぜに銅鐸がないのかに移っていった。  それで、もったいぶって言わないでストレートに言いますと『古事記』に銅鐸が存在した。最近、管野拓さんのおかげで発見できた。大阪府の柏原市にお住まいの方で、たいへん漢文が強いかたです。『なかった』第六集にも「日本における書写材料についての一考察」という論文を書かれています。そのかたからのお手紙で、大阪府柏原市にある「鐸(ぬで)神社」の存在を知りました。銅鐸の「鐸」と書いて「ぬで」と読む。鐸比古・鐸比売神社があり、その上に古墳か洞窟か知りませんが鐸(ぬで)遺跡がある。七月末には神社で盛大な祭礼が行われている。この「鐸(ぬで)神社」の存在を知ってハッとした。 まず「鐸」を「ぬで」と読める可能性はまずない。中国人が「ぬで」と発音することは絶対にないと言ってもよい。ということは、事実は逆である。まず「ぬで」という日本語がまずあった。そうしますと「ぬで」とは何物かというと「鐸」だ。木鐸。普通にあるのは銅鐸でしょう。木鐸というのは、中の舌(ぜつ)が木で出来ているだけで全体は銅です。「ぬで」という日本語は、銅鐸を意味するとして「鐸」という漢字を当てたと考えました。「鐸」という字があって、それを「ぬで」と読んだということはまず考えられない。もちろん銅鐸という言葉は、明治以後の考古学者が考えた言葉であり、弥生時代に「どうたく」と発音していたはずはない。それではいったい何か。銅鐸の日本語は「鐸(ぬで)」ではないか。このように考えの糸をたどった。  そこから先は、わたしの考えです。われわれは青銅製の「鐸」を「銅鐸(どうたく)」と言い「鐸(ぬで)」とも考えている。その銅鐸には穴が開いている。鈕(ちゅう)が付いている。初期の段階では紐(ひも)を付けて、これをぶら下げる。巨大銅鐸ではぶら下げるのは無理かもしれませんが、初期の段階ではぶら下げていた。その場合、ぶら下げた紐(ひも)とぶら下げられた青銅部分の鐸(たく)を、合せて「鐸(ぬで)」と言っていた。人間の手それになぞらえて、「紐にぶらさげた銅鐸」全体を「鐸(ぬで)」と呼んだ。実際使っているときは必ず紐を付けて使っていたのでないか。使っていた紐は残っていませんが。また巨大銅鐸にもその痕跡は残っています。  それでは、あの「銅鐸(青銅部分)」は何と呼ばれていたか。この場合紐の部分とあわせて「鐸(ぬで)」だから、紐(ひも)の部分は「て・で」で、人間の手と類似して考えていた。だから青銅部分の「鐸」そのものは「ヌ」と呼ばれていたのではないか。  それで『古事記』に、やっと言いたいことにたどり着いた。お手元の資料を見て下さい。 『古事記』上卷 是に天つ神諸の命以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に「是の多陀用幣流(ただよへる)國を修(をさ)め理(つく)り固め成せ」と詔(の)りて、天の沼矛を賜ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。故(かれ)二柱の神、天の浮橋に立たし【立を訓みて多多志タタシと云ふ】て、其の沼矛を指(さ)し下(お)ろして畫(か)きたまへば、鹽許袁呂許袁呂迩【しほこをろこをろに 此七字は音以ゐよ】畫き鳴し【鳴を訓みて那志ナシと云ふ】引き上げたまふ時、自其の矛の末(さき)より垂(しだだ)り落つる鹽。累(かさ)なり積(つも)りて嶋と成りき。是れ淤能碁呂嶋なり【おのごろしじまなり 淤より以下の四字は音以ゐよ】 於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立 『日本書紀』巻一第四段本文 伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋の上にたして、共に計(はから)ひて曰(のたま)はく。「底下(そこつした)豈國(あにくに)無けむや。廼(すなわち)天之瓊〈あまのぬ 瓊は玉也。此をば努ヌと云う。〉矛(ほこ)を以(も)て、指し下(おろ)して探(かきまぐ)る。是(ここ)に滄溟(あをうなはら)を獲(え)き。其の矛の鋒(さき)より滴瀝(しただ)る潮、凝(こ)りて一の嶋に成(な)れり。名(なづ)けて[石殷]馭慮嶋(おのごろしま)と曰(い)ふ。二(ふたはしら)の神、是に、彼(その)の嶋に降(あまくだり)居(ま)して。因りて欲共夫婦(みとのまぐはひ)して洲國を産生(う)まむとす。 伊弉諾尊・伊弉冉尊。立於天浮橋之上共計曰。底下豈無國歟。廼以天之瓊〈瓊。玉也。此曰努。〉矛、指下而探之。是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮。凝成一嶋。名之曰[石殷]馭慮嶋。二神於是降居彼嶋。因欲共爲夫婦産生洲國。      [石殷]は、JIS第3水準、ユニコード78E4  『古事記』の国生み神話。そこには「天の沼矛(あまのぬぼこ)」とある。この「沼(ぬ)」はなにものか。本居宣長以来のこの「沼(ぬ)」の解釈は「玉(たま)」である。解釈としては『日本書紀』に、「天之瓊〈あまのぬ 瓊は玉也。此をば努ヌと云う。〉矛(ほこ)」と書いてある。それで『日本書紀』の原注「瓊は玉也」と書いてあるから、『古事記』のほうの「沼(ぬ)」も「玉」だと解釈した。本居宣長以来の現在のすべての古事記学者・古典学者は、この説を継承している。  この場合史料批判が欠けています。『日本書紀』では、瓊(ケイ)という発音で、「瓊は玉也」と書いてあり、「天之瓊矛」のとおり玉と矛と考えてもよいと思います。ですが下註の「此をば努ヌと云う。」は問題です。『日本書紀』は造作だと問題にされますが、「天之瓊」の原注〈瓊は玉也。此をば努ヌと云う。〉は、八世紀の大和の学者の解釈です。八世紀の学者の解釈に従って読むかどうかの問題です。八世紀の学者の解釈は原文とイコールである。疑うことは許されない。つまり八世紀の学者の解釈を認める立場に立つか立たないかという問題です。  ですが資料を見れば、明らかに違っています。『古事記』のほうを見れば「天の沼矛(あまのぬぼこ)」となっている。「沼(ぬ)」と「矛(ほこ)」です。だいたい普通「玉」のことを「ぬ」とは呼ばない。「玉」は「たま」と呼びます。これもひと言を言いますが、「たましい」や「あたま」と言いますが、魂(たましい)があるところが頭(あたま)です。心臓ではない。同じく「玉」を人の魂(たましい)と見なして「たま」と言います。ですから「瓊(ケイ)」を「玉(たま)」と見なすことは賛成です。しかし「沼(ぬ)=玉(たま)」ではない。  ですから、この場合『古事記』の「沼(ぬ)」は銅鐸のことです。この場合、もちろん小銅鐸であり、馬鐸などです。  この場合「馬鐸」は、権力者が馬のしっぽにこの鐸をつけます。平時には木の舌(ぜつ)を付けて、穏やかに鳴らし権力者が来たことを知らせる。木鐸とあるとおり、人を集め道徳・倫理を説く。また火急の場合、銅(鉄)の舌(ぜつ)の付けて半鐘のようにならし戦時になることを知らせる。このように「馬鐸」は権力者のシンボルです。  これが『古事記』の「沼(ぬ)=鐸(ヌ)」なのです。だから『古事記』の「天の沼矛(あまのぬぼこ)」は、「鐸(ヌ)」と「矛(ホコ)」です。  そのように考えますと、福岡県の弥生銀座と言われた須久岡本遺跡から矛がたくさん出てきています。それと馬鐸が出てきております。このような考古学の物と対応しているのが『古事記』です。  この場合「天(あま)」は、海人の天族(あまぞく)のことです。ですから天族のシンボルは「鐸(ヌ)」と「矛(ホコ)」です。それが国生み神話に活躍したと『古事記』では言っております。  本居宣長は、銅鐸が出てきたことは知ってはいましたが考古遺物に関心をはらった形跡はない。すばらしい人だけど、その点はまったくダメな人です。だから『古事記伝』にも考古学にはあまり関心がない。八世紀の学者も銅鐸に対する観点を持たずに註をつけた。だから『古事記』に『日本書紀』と同じ註をつけた。その八世紀の註に本居宣長もだまされた。  ですから物(考古学など)と対応するのが文献です。これだけではないが、今これだけにします。 「『古事記』に銅鐸は出ない。」これはウソ話です。要所要所に出てきます。顕宗記などにも「故、鐸縣大殿戸」と出てきますが、それを説文などを引いて大鈴であるという違った解釈・読み方にして疑わなかった。 (仁徳天皇陵の陪陵・馬鐸については略) (Tokyo古田会News No.127 July,2009学問論(第十五回)銅鐸論 古田武彦参照)  それでは後半に入らせていただきます。  後半のハイライトは錦の話です。カラーコピーを持ってきておりますので、これをお回しください。一枚目のほうが日本で一番早い有田遺跡の絹。後の二つが、中国の絹であると布目順郎さんが鑑定された須久岡本、青い絹と紫の絹で印象的なものです。  もう一つは、先ほど横の机に並べた本の案内です。昭和四十年頃、生きていたらわたしと同年の和田喜八郎さんが、明治写本を一生懸命勉強するため写したノートです。大量に送ってもらって持っているが、代表的なものを今八冊持ってきた。それと、これが「寛政原本『東日流[内・外]三郡誌』(株式会社オンブック 古田武彦/竹田侑子)」の本です。コロタイプ版で全部載せています。江戸の中期の終わり寛政年間に造られた本です。見られたらわかるように、これと和田喜八郎さんが昭和四十年頃書かれたものとはぜんぜん違う。見られたらぜんぜん違うものを、いまさらお見せしますのは、このあいだ聞いて驚いたからです。東京の朝日カルチャーの講演で安本美典氏が『東日流外三郡誌(和田家文書)』について、これらは和田喜八郎さんが書いたものだ。このようなきれいな字を書くと言っているようです。こう言わざるを得ないのでしょうね。  例をあげますと「高句麗好太王碑」、現在では偽作説はゼロに等しいですが、李進熙さんはいまだに偽作説です。なぜなら李進熙さんは、日本の軍部が改竄して造ったという偽作説を撤回されると研究史から消えてしまう。撤回しなければ李進熙説として、かろうじて残っている。好太王碑のある現地に行ってみて、言われている「倭」が存在した以上、彼の説は成り立たない消えた。しかし彼はいぜん建前上、いまだに日本の軍部が偽作したという立場に立っている。  それと同じように安本美典氏が、『東日流外三郡誌(和田家文書)』は偽物ではなかった、と言えば彼の名前は研究史上から消えてしまう。あくまで和田喜八郎の偽作だ、彼は字がうまかった、そう言うしかない。また「寛政原本『東日流[内・外]三郡誌』の最後に和田喜八郎さんの書いたたくさんある荷札の一枚の写真を入れておきました。そうしますと、あれは古田がウソを付いている。他の人のへたな字を喜八郎の字だと、古田は言っている。またインターネットでは同様のことを原田実が言いまくっているようです。  そういうことがありますので九月に新・東方史学会を開催する気はなかったが、このようなことがあったので九月十九日に東京で開催し、皆さんに秋田孝季、和田吉次、和田末吉、和田長作さんの字と共に、喜八郎さんの字もお見せします。ぜんぜん違うことがお分かりになるとおもう。それで大阪のかたにも和田喜八郎さんのノートを持参して見ていただきました。  これで研究史上偽作説は完全にアウトになった。それだけでなく続々とおもしろい問題が見つかった。それは後に述べたいと思います。   五 『魏志韓伝』鐸舞と君が代  『魏志韓伝』「鐸舞」について、調べている内におもしろいことが、たくさん出てきた。非常にリアリティーを持って韓人のお祀りを書いている。魏の使いが見て書いている。たいへん臨地性がある。ということは魏の使いが韓地を通っている。  もちろんわたし以外のすべての学者は、韓国の西海岸を水行して釜山に来て、対馬・壱岐を通ったと言っています。  それでNHKが「魏使が韓国の西海岸を水行した」という、わたしから見ればウソの放送をかって行い、これには学者の反対はありません、そういうコメントを入れていた。そのことに対して何年か前、これは放ってはおけないとNHKに電話をしました。わたしは韓国内を階段状に釜山まで行っていると告げた。学者の中に反対説はありませんというコメントは間違っていると連絡した。それだけ言っておこうと連絡した。  そうしますと電話に出られたかたが古田であることを知って、えんえんと四十分ぐらい電話でお話しして下さった。何を喋ったかというと、「邪馬台国」について二回にわたり放映するために、十ヶ月ぐらい前から会議を二十回ぐらい開いたそうだ。その会議の大半は、古田説をどう扱うか、最大の問題として議論したと語られた。結局その会議の結論は、古田説を扱う場合は二回で終わらない。もう一回放映しなければならない。だから今回はキャンセル。そういう結論になりましたと言われた。  わたしとしては古田説をそれだけ議論しておいて、西海岸水行説に「学者の中に反対はありません。」というあのコメントはおかしい。しかもこれで放映は終わりと、勝った人はウソを流している。古田説はなかったという形で放送した。天下のNHKともあろうものが、これはいけませんね。しかし、このようなNHKの内幕をわたしに四十分も喋られたかたは、よほど義憤に燃えていたのだろう。電話をしたのがわたしだ。そういうことを知って夢中になって喋られた。本当は知らん顔をしなければならないのだと思う。そういう記憶がある。  それはさておき、今の問題に関連する「韓国陸行」について、『魏志倭人伝』に「歴韓国(韓国を歴るに)」と書かれているように、明らかに魏の使いは内陸を歩いている。海岸を通っているという表現はない。『魏志倭人伝』は「韓国陸行」というわたしの立場から見るとよくわかる文章です。これがひとつ。  もう一つおもしろいことがある。陳寿が「鬼神」という概念について書いている。『三国志』の「魏志韓伝」では、たとえば「鬼神を祭る。群聚して歌舞・飲食し、昼夜休(や)む無し。」と書いてある。  この「鬼神」の概念については、孔子が書いていることで有名です。孔子が「鬼神」に仕えることを季路に聞かれた。わたしは人に仕えることは出来ないのに、どうして鬼神に仕えることは出来よう。そう謙遜したような答えをしていることを、みなさん記憶されていると思う。ところが、『論語』に関しては、あそこだけではない。別のところにシッカリ書いてある。  『論語』(岩波文庫) 一二 季路問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死。  季路問う、鬼神に事(つか)えんことを問う。子の曰(のたま)わく、未だ人に事うること能(あた)わず。焉(いずく)んぞ能く鬼(き)に事えん。曰わく※、敢(あ)えて死を問う。曰(のたま)わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。  ※曰わく ーー 通行本ではこの字がない。  季路(きろ)が、神霊に仕えることをおたずねした。先生はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう。。」「恐れいりますが、死のことをおたずねします。」というと、「生もわからないのに、どうして死がわかろう。」 二一 子曰、禹吾無間然矣、菲飲食、而致孝乎鬼神、悪衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫、禹吾無間*然矣      間*は、門の中に日の代わりに月、ユニコード9592  子曰(のたまわ)く、禹は吾れ間然(かんぜん)すること無し。飲食を菲(うす)くして、孝を鬼神に致し、衣服を悪(あ)しくして、美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(ひく)くして、力を溝洫(こうきょく)に尽くす。禹は吾れ間然(かんぜん)すること無し。  先生がいわれた、「禹は、わたしには非(ひ)のうちどころがない。飲食をきりつめて、神々に(お供え物を立派にして)まごころをつくし、衣服を質素にして祭りの黻(ふつ)や冕(べん)※を十分立派にし、住まいを粗末にして灌漑(かんがい)の水路のために力をつくされた。禹はわたしには非のうちどころがない。」   ※黻(ふつ)や冕(べん) ーー 祭礼の時につける黻膝(前だれ)とかんむり。 二二 樊遲問知、子曰務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣  樊遅(はんち)、問知、子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰(のたま)く、仁者は難(かた)きを先にして獲(う)るを後(あと)にす。仁と謂うべし。  樊遅が智のことをおたずねすると、先生はいわれた。「人としての正しい道をはげみ、神霊を大切にしながら遠ざかっている。それが智といえることだ。」仁のことをおたずねすると、いわれた、「仁の人は難しい事を先にして利益は後のことにする、それが仁といえることだ。」  「而致孝乎鬼神 孝を鬼神に致し」のとおり、「孝」は鬼神にたいする概念です。われわれは後の漢代などに概念となる忠君愛国の一環の「親に孝」だと覚えさせられているがそうではない。本来の論語で出てくるのは、堯・舜・禹の禹のところに出てくる「鬼神に仕えるのが考」という概念なのです。「禹吾無間然矣 禹は吾れ間然(かんぜん)すること無し。」と、文句がつけようもないと禹を絶賛するところに「鬼神」が出てくる。自分はもうそこまではいかない。鬼神に仕えるのが精一杯です。そう謙遜する話は後に出てくる。本来は、禹が鬼神に対して「孝」として祀った。  その「鬼神」が『魏志韓伝』に出てくる。とうぜん陳寿は『論語』を読んで書いている。「鬼神」という概念はその孔子の『論語』などよりも、ずっと古い概念です。それはよいのですが、『論語』に出てこない概念が『魏志韓伝』にある。 『魏志韓伝』一部 常以五月下種訖、祭鬼神、群聚歌舞、飲酒晝夜無休。其舞、數十人倶起相隨、踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。十月農功畢、亦復如之。信鬼神、国邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸国各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。 五月を以て下種し訖(おわ)る。鬼神を祭る。群聚して歌舞・飲食し、昼夜休(や)む無し。其の舞、數十人倶に起ち相隨い、地を踏み低昂(ていこう)し、手足相応ず。節奏、鐸舞に似たる有り。十月農功畢る、亦復(またまた)之(これ)の如くす。・・・  それが「祭天神」「名之天君」。これは中国には出てこない、『魏志韓伝』独自の用法。このことは三十年前に分かっていましたが、これらの概念はぜんぜん分かっていません。今読めば、これらは日本語です。「天君」とか「天神」が韓国語で使われたわけではない。これらは隋書のごとく「天君=阿毎鶏彌(あまきみ)」であり、「天神」は天津神です。つまり『魏志韓伝』で天神を祀ったり「鐸舞」を踊っているのは倭人なのです。少なくとも倭人と同一言語、同一文明の人々です。だから「都市」さんの問題で触れましたように、博多で使われている言葉が、玄界灘の両岸で使われている。現代でもハングルで韓国を「かんこく」とは言わない。  だから「天君」の「天(あま)」と言えば「海士(あま)」のこと。「君(きみ)」と言えば女性の神。イザナギは男性の神様、イサナミは女性の神様ですが、「君(きみ)」と言えば、女性の支配者を指す。  これは「君が代」問題と絡まってくる。『古今和歌集』の巻七の先頭にあまりにも有名な歌があります。 わがきみは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで  『隋書イ妥国』でも「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩鶏*彌、遣使詣闕・・・王妻號鷄*彌後宮有女六七百人」とあるが、「阿輩鶏彌(吾が君)」と言えば男の多利思比孤(たりしほこ)、ただの「鶏彌(君 きみ)」と言えば女性です。女性主導の「後宮有女六七百人」について、最初私は非常に誤解しておりまして、「王を取り巻いている女六七百人」と考えていました。つまりハーレムのようなイメージを考えておりましたが、文章をしっかり読めば、王の妻である鷄*彌(キミ)を女性六七百人が取り巻いている。つまり妻の周りの「後宮」。「後宮」というのは中国風の表現であり、実体は王の妻の鷄*彌(きみ)を女六七百人がとりまいている。これも『倭人伝』を考えてみると、卑弥呼(ひみか)を取り巻いて女(卑)千人が取り巻いている。      イ妥*:人偏に妥。「倭」とは別字。      鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE  ですから鷄*彌(きみ)は、女性が本来であり「君 きみ」と言えば女神。縄文・弥生の女神。その女神を讃えている歌なのです。  そこから先について少し言いますと、「千代、八千代」の「千代」は、九州福岡県庁のそばにある。そこに被差別部落がある。そこから糸島半島唐津湾の入口船越の苔牟須売(こけむすめ)神のところに行く。その真ん中にあるのが室見川の下流域の有田。その有田が、人の首を切る刑場であり被差別部落。そこが日本最古の絹の産地。  下賤なものを醜女(しこめ)、端女(はしため)と言いますが、もっとも貴いものを逆転させて卑しめたものです。ほんらいは、「苔牟須売(こけむすめ)神」というのは縄文の女神。「わがきみ」と言っているのは、本来は女神。「君が代」問題が被差別問題に進展して、これから絹の問題にたどりついた。  この歌が近畿天皇家の歌と見ることは出来ない。詠み人知らず、題知らずになっているのは九州王朝の歌だったから。これは以前からの主張ですが、ところが、今度分かってきたことはそれにとどまることは出来ないということです。ですから「君が代」は、たいへん国歌にふさわしい。この「君が代」がすばらしいのは、大和朝廷に終わらず九州王朝を示している。九州王朝に終わらない被差別部落を淵源にもつ輝ける被差別部落の時代を賛美している歌だから素晴らしい。国歌に値する。それが現在のわたしの到達点です。  もう一度振り返ってみます。対岸の韓人が「天君」と言っているのは女神。それを漢字で表記した。これらは訓音の「あまきみ」です。「天神 てんじん」はいうまでもなく天津神であり倭人が祀っている。海人の神様を祀っている。玄界灘の北岸と南岸だから同一言語、同一文明であるというのは、ある意味で当たり前だ。このことは分かりきっている話だ。二十世紀の現代の国の意識で、韓国だ、日本だと理解しようとすることが無理なのです。二十世紀の国家関係で、弥生時代や縄文時代が縛られているはずがない。分かってみれば当たり前。『魏志韓伝』から出発して「君が代」にたどりついた。 (参考 部落言語学(V) 古田武彦 TAGEN No.92 Jun, 2009)   六 「寛政原本」(『東日流外三郡誌』)について  今回出された寛政原本の一つは、「寛政五年七月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三郎」(コロタイプ版、一〇九頁)の表紙をもったものです。これに対して、一つの問題が出されました。とにかく一枚目の表紙は、和田長三郎と書いてある。もし欠けているところを推定すれば、この年代から「吉次」と判断されます。二枚目からはガラッと代わって、和田長三郎よりもっとうまい筆跡が並んでいる。最後の一頁は、また代わって下手な筆跡。おそらく禅宗の坊さんの筆跡です。ですから先頭に「東日流外三郡誌」と書きながら、内容は関係のない仏教文書である。だからこの文書は偽物ではないか。つまりこの文書は、喜八郎さんなどの現代の人間やあるいは明治の末吉さんなどが、古い仏教関係の文書に表紙だけを偽作し縫綴った偽物ではないか。そういう疑問を持たれたかたがいます。形そのものから言いますと、この疑問そのものは一応もっともな疑問でした。  ところがこれは形の上からそう見えますが、実質はそうではなかった。詳しくは『東日流[内・外]三郡誌』(株式会社オンブック 古田武彦/竹田侑子)に書いていますから見て下さい。  簡単に言いますと、まず三春藩の秋田家は天台宗に帰依している。その帰依していた天台宗のお寺の文書、それに表紙をプラスしたものである。『東日流[内・外]三郡誌』の解説には、そこに出てくる固有名詞などから論証したものです。たとえば当本末尾の一葉の漢詩の第一句に、「秋水玲瓏月下泉」(一六七)の字句があるけれど、これは秋田県の秋田市の郊外ある補陀寺の「月泉」であることを、補陀寺の住職の御指摘を得た。  荒吐神要源抄(『和田家資料1』編者藤本光幸 二二四) 日本国之国、坂東より丑寅を曰ふ。 ・・・ 今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては南藩民航着し、筑紫を掌握せり。 天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。 高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。  筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと、自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。  智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕の暦を覚る故に地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば天岩戸の神話の如し。当時とては、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべしと、天皇記は曰ふなり。 ・・・ 世の流転にしては、古きは滅び、新興の建つるはよけれども、祖起の基にありきを忘れずや。荒吐神の資源は是くありけりを至極せむは子孫に神にしてあやまらざる戒めを求べ置く為のものなり。 ・・・   天正五年九月一日     行丘邑高陣場住 北畠顕光  ところが問題は、それだけではなかった。東京古田会の藤沢徹会長は、たいへん鋭い視点をお持ちの人であるが、その人が発見して教えて下さった。発行された『東日流外三郡誌(和田家文書)』には、市浦村版・地元の出版社で出した北方新社版・東京の出版社で出した八幡書店版と三種類ある。その続編として藤本光幸さんが出されたものが四冊あります。『和田家資料1~4』(北方新社)です。その『和田家資料1』に興味深い資料がある。それが「荒吐神要源抄」です。  ここに「今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては南藩民航着し、筑紫を掌握せり。」の記載がある。  これを読んでみてあれっと思った。二種類の方向から稲作が入ってきたと書かれてある。北方(玄武)から稲作が入ってきた。もう一つは揚子江の南、江南から入ってきた。これはその通りなのです。現在稲作の渡来について、考古学者と人類学者が論争している。考古学者は、平壌・京城のほうから博多や日本列島に来たと考えている。理由はハッキリしていて稲作に使う石包丁、それが形式編年では日本に近づくほど時代が新しくなっている。だから稲作に使う道具が北から来ている以上は、博多湾岸の稲作は北から来たものだ。そのように考古学者は判断した。これに対し人類学者は違う判断をした。人類学者は稲そのものを調べる。そうしますと博多の板付遺跡、それより前の糸島の曲田遺跡、また唐津湾の菜畑遺跡、これらの一連の稲が江南の稲です。平壌辺りの北の稲ではない。だから博多湾岸の稲は中国の江南から来た。これも筋の通った主張ですね。  これに対して、わたしは折衷案のような仮説を提起しました。北からお米、南から来たお米、いずれも周の国である。だから周の国の中で、博多湾・唐津湾と同じ暖かさを持つ緯度の江南のお米を持ってきた。ところが「支那玄武方より稲作・・・渡来筑紫にては南藩民航着し、筑紫を掌握せり」と、その通り書いてある。どちらにしても周米です。(笑い)  さらに「東日流及筑紫にその実耕を相果したり」と書かれている。青森県津軽と福岡県筑紫にその稲作が渡来したと書いてある。九州板付遺跡などから水田があることは古くから知られていたが、一九八二年青森県垂柳遺跡から水田の遺構が出た。つぎつぎ他のところ、たとえば砂沢遺跡でも確認された。その時もう二十年以上前になりますが、考古学者がこれから北陸山陰から出てくるであろう。つまり福岡県と青森県は離れすぎているから、ぐうぜん出て来ていないだけで、今後途中から出てくるであろう。一流の考古学者は自信を持って言っており、みなそのように予言した。しかし予言はすべて外れた。まったく間からは出なかった。いぜんとして青森県と福岡県。しかしここには「東日流及筑紫」と書かれてある。すごいでしょう。  もちろん、この話は『東日流外三郡誌』では有名な話だ。安日彦・長髄彦という兄弟、この二人が『東日流外三郡誌』では元祖にあたる。その安日彦・長髄彦は、筑紫から津軽(東日流)に亡命してきた。筑紫の日向(ひなた)の賊に追われてやってきた。この賊とは何者か。ここでいう日向(ひなた)の賊とはニニギのことです。『古事記』『日本書紀』では輝ける存在である天照大神の命によりニニギが天降った「天孫降臨」という事件のことです。九州王朝の元祖、近畿天皇家の崇拝する対象、それを海賊・山賊の類である「賊」と言っている。不当に侵略してきた天照(あまてる)らに追われて、安日彦・長髄彦らは稲作を持って津軽に移動した。稲を持っている安日彦、長髄彦の図がある。「東日流及筑紫」であることは、考古学的事実も二十年経ってもその通りです。しかも今では途中から出てくるという考古学者はいなくなりました。その通りでしょう。  さらにわたしはエッと思ったのは「今より二千五百年前」と書いてある。「今」というのはいつかと言うと、最後に書いてある「天正五年九月一日」の日付の文書です。「今」は西暦だと一五七七年です。ここから「二千五百年前」を引くと、BC九二三年という時期になる。この時期に北方(玄武)から、稲作が九州筑紫へ来た。今では、この通りです。つまり二〇〇三年千葉県佐倉の国立東京博物館が稲作の伝来について発表した。それで、このことは現在の知識で分かっている。(笑い)ですが藤本光幸さんが『和田家文書1』を出したのは、この十年ぐらい前より早い。だから藤本光幸さんが、このことを知って書いたという説はないが、偽作説の人はそう言いたいでしょうが、それは成り立たない。この『和田家文書1』は、一九九二年に出た。千葉の発表はその後です。もう和田喜八郎氏は亡くなっている。  ですから現在の最先端の科学的知識と『東日流外三郡誌(和田家文書)』は合致したという、おそべるき事です。わたしは驚嘆した。  しかもそれだけではない。次がある。 「天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。  高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。」  これは天正五年九月一日、青森と弘前の間にある行丘邑高陣場に住んでいた北畠顕光が書いたものです。勝手に書いたのではなくて「天皇記」の引用です。それで「天皇記」という問題にぶつかった。  わたしは『東日流外三郡誌(和田家文書)』に「高砂族」とあちこちに書いてあるから、これは少しおかしいよと考えていた。高砂族と言えば台湾ですから、いくら秋田孝季でも信用できないという頭がずっとあった。ところがそうではなかった。わたしの考えが浅かった。  つまり高砂族というのは、本来台湾ではなくて杭州湾にいた。地図を見れば判りますが、揚子江の少し南、舟山列島が有名ですがその対岸が杭州湾。寧波(ニンポー)あたりが中心。その一体が安日彦・長髄彦などの高砂族がいた故地。その一派が台湾に行った。そこから高砂族が筑紫にやって来た。「筑紫にては南藩民航着」と、そういうことが書かれている。  さらにその杭州湾に浙江が流れ込んでいる。その浙江の中流域に有名な天台山がある。最澄が行って天台大師に学び修行した天台山がここにある。  だから天台文書というのは、何も秋田孝季や和田長三郎吉次が仏教に関心があったから、資料を集めたのではない。安日彦・長髄彦の出身地、さらに近畿天皇家で言えば祖先にあたる「始祖」の出身地としての揚子江の下流域の一帯。その浙江周辺の地理が書いてある。きれいに書いてあるのは天台山回りの地名。その地理・地名にかれらは関心があった。それに関心を持っていた和田長三郎吉次がその資料を手に入れた。  だから天台の文書を貰ってきて、本当は写そうと思った。当のお寺は禅宗に代わっていて天台文書は入らない。持って行けということになった。それで持って行って表紙を付けた。他の例も『なかった』(第六号)にあげてあります。『東日流外三郡誌』には、そのような文書はたくさんあるから不思議に思わなかった。しかし見たことがない人は、中身と表紙はまったく違うから、これはおかしいと考えても不思議ではない。形だけをみれば一応もっともだ。しかし内容はぜんぜんそうではなかった。自分たちの祖先に当たる安日彦・長髄彦。その安日彦・長髄彦の始祖にあたる「佐(さる)」。その「佐(さる)」捜しのために高砂族がいたという天台文書を手に入れようとした。しかし禅宗の寺で要らないと言われたから、貰ってきて表紙を付けた。こういう性質のものだった。  それから更に面白いのは、「高天原寧波(タカアマハラニンポー)」の存在です。これは何のことだ、と思われるかたがいるかも知れませんが、何もおかしくはない。  それよりも戦前の『古事記』「高天原(たかあまはら)」の理解がおかしい。「高天原」が天(てん)にあって、ニニギが天から降りてきた。その子孫が天皇家である。明治以後の教科書では、挿絵付きで教えられた。それをマッカァサーが来て、教科書のその挿絵のところを、墨に塗らされたという屈辱的な事件があった。わたしは幸いというか不幸というか、そのような事件は遭遇しなかったが聞いた事件です。  ですが「墨で消した」という、この事件には功罪がある。「功」の方は、こんな話は嘘(うそ)に決まっている。天皇家が天(heaven)から降りてきた。大ウソ話だ。よくもこんなことを戦前は、教科書に載せたものだ。そうお感じになると思う。だから墨で消したこと自体は正しい。「それは神話に過ぎない。」と言えば、嘘に決まっているという意味に今でも使われているように。ところが、この大ウソ話であるという認識そのものは正しいが、欠落している認識がある。本居宣長いらいの「高天原」が「空(sky&Heaven)」であるという解釈はそのまま生き残っている。だから「高天原」という言葉自体の解釈、本居宣長いらいの「空(sky&Heaven)」であるという認識、その認識がインチキであるという概念が成立していない。そのことは考えてみれば直ぐに分かる。弥生時代の人も奈良時代の人も平安時代の人も、人間が空から降りてきたと考える人はいない。弥生時代の人が、空から降りてきたとうっかり思いこんでいた。そのような可能性が本当にあると思いますか。わたしはないと考える。  それでは何か。いつも言っていることですが、「高(たか)」の「た(太)」は、太郎の「た(太)」で一番の意味、「か」は、神聖な水がでるところ。漢字の「高(たか)」は当て字です。highな場所と思うほうが間違っている。「高(たか)」は、神聖な水の出るところです。「原」は、原野の「はら」でなくて、九州では「原(ばる)」と言いますが「集落」のことです。やはり「原」も当て字です。「天(あま)」も同じく当て字です。「天(あま)」は、何回も言っているとおり、海洋民族である「海士(あま)」のことです。奄美大島の「あま」であり、島根県隠岐の海士町の海士(あま)のことです。黒潮の分流が海士(あま)族が活躍する舞台。海士(あま)族が活躍するといっても、海の上で寝たり生活は出来ない。とうぜん水のある生活の拠点の陸地が必要です。水があればよいというものではない。つまり水の豊富な海士(あま)族の生活の拠点が「高天原(たかあまばる)」。だから「高天原(たかあまばる)」という拠点は複数あり、かつたくさんある。だから実際は海流で活躍したと言っても、これは言葉のあや。陸地に水が豊富な拠点がなければ活躍できない。だから海流の両岸に「高天原」が各地に存在する。だから「高天原(たかあまばる)寧波(ニンポー)」もその一つ。何もおかしくはない。  本居宣長はそれを知らなかった。『古事記』を読んで、文字通り「高天原」は、天上だと考えた。天上(Heaven)から人が降りてきたと考えた。「さかしらに疑う」のは唐ごころ。そのようなイデオロギー教育を貫徹した。その解釈が通って明治以後古典学者・文学者もそれに皆従った。墨で消したから、敗戦後も大ウソだと考えずにきた。考えなくともよいとなった。「高天原」の意味がおかしかった。意味も考えず、史料批判なしに今まで来ていた。考えずにきている証拠の大いなる一つです。  それを『東日流外三郡誌』が完全にそれを打ち破っている。そうじゃないよ。「高天原寧波」もある。これがウソでなく、ホントの話。本居宣長の解釈が大嘘です。それを受けて日本の古典学者が大嘘の解釈をした。「高天原」をHeavenと考えて大嘘を説明した。いくら小林秀雄が本居宣長を絶賛としても、「高天原」が大嘘であるというわたしの説は動かない。大嘘から出発することはできない。  ここで問題になってきたのが「天皇記」、恐るべきリアリティを持っている。「稲作の伝来」「高天原」と本物だ。それでは「天皇記」を捜せ。『古事記』『日本書紀』とは比較にならないことがリアルに書かれている。輝ける資料として「天皇記」が姿を表した。ですが、わたしは最初悲観論で、三春藩でも火事で焼けたりしているから、もう消えたのではないか。そのように考えていた時期もありました。  ですが反転させて悲観論は消えました。なぜなら、ここでは北畠顕光が引用している。他でも藤井伊予など何人かが引用している。この場合、引用の仕方を考える。どこかに原本があったとします。その原本を恐る恐る見に行って、関心のあるところを引き抜いて少しだけ写して引用している。そんなふうには見えないし考えられない。とうぜん全体を写す。巻数も二〇巻と、そんなにたいした量ではない。『東日流外三郡誌』の何千巻とは比較にならない。やはり全体を写した「天皇記」を手元に持ち、そこから引用するのが、普通の引用する人間の方法と考えるのリーズナブルです。ということは北畠顕光や他の人々には、全体の写しが手元にあった考えるのが普通です。それが全部消えてなくなるわけではない。『東日流外三郡誌』偽書説などに惑わされて、本気で探す努力をせずに来た。本気で探せば必ずある。わたしは今うれしいほうの楽観論に転じた。  さらに原本もある可能性がある。原本は、どこにあるか書いてある。 『日本書紀』(岩波古典文学大系) 推古天皇 二十八年(参考) 是歳、皇太子・嶋大臣、共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、巨連伴造国造百八十部并せて公民等の本記を録*す。 録*の異体字、3 9304 皇極天皇 四年六月 己酉に、蘇我蝦夷等、誅されむとして、悉(ふつく)に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る。  これもいきさつを言いますと、中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我の屋敷を襲撃する。ところが『天皇記』は焼けて『国記』は助かったと書いてある。しかしこれも変な話で『国記』が助かったなら、『日本書紀』に『国記』の引用を出しておけばよい。しかし『日本書紀』には、これらの記事以外、姿形もない。しかもこれは『日本書紀』の成立時からみれば、つい最近の話です。それが『国記』の姿がまったく現れないのはおかしい。しかし『東日流外三郡誌』では書いてあることが違う。中大兄皇子や蘇我入鹿が、蘇我の屋敷を襲撃したのは、天皇記・国記を奪いにきたと書いてある。それが目的だと書いてある。最近『東日流外三郡誌』の中にある『天皇記』『国記』関係の記事を、ぜんぶ挙げて送ってきたかたがいます。そのかたの意見を聞いて、えっと思った。石舞台など、がらんどうの古墳があるが、『天皇記』を探すのに古墳をあばいたという意見だ。そのように考えたことはなかったが、しかしあり得ないことではない。とうぜん蘇我氏の側も、事前にそれを察知して、『天皇記』『国記』をもって使者を関東に送ったと。これでも危ないから津軽石塔山に隠したと『東日流外三郡誌』は書いてある。  聖徳太子の息子の仇討ちだというが、間が開きすぎている。それなら直ぐ実行すればよい。思い出したら仇討ちが済んでいませんから襲撃しましょうではおかしい。これは口実にすぎない。『天皇記』『国記』を捜さすために蘇我の屋敷を襲撃したという『東日流外三郡誌』に書いてあることのほうがリーズナブルです。  それでは、なぜ中大兄皇子が『天皇記』『国記』を捜さなければならなかったか。  それは明確な証拠がある。『古事記』に武烈以前の伝承はあるが以後はない。そこでストップしている。中国南朝の話はカットしたという話とは別の話だ。武烈に子供はいなかったというが組織としての伝承であって、誰も子供はなかったということはありえない。組織としての伝承は続いていたはずだ。それがどこにもない。『日本書紀』は漢文だからぜんぜん違う。継体以後の『古事記』スタイルの伝承はどこに消えたか。それは『天皇記』であると考える。ですが、その中に継体はなかった。継体は北陸の豪族です。どれだけ輝かしかったか知りませんが、あったとしても『国記』にある程度だと考える。『天皇記』に継体の伝承はなかった。ですから継体以後・・・天武・天智・・・元明・元正の伝承は、『古事記』の伝承のような組織は持っていなかったからなかった。  一方『古事記』スタイルの伝承は、継体以後も継承され続けていた。それはどこにあったか。  これに関係して参考意見を一つ言いたい。古田史学の会伊東義彰さんが「神武が来た道」(『なかった』第一集~第五集)を掲載しておられる。そのなかで京都のお公家さんが書いた『吉野詣記』のことを書いた『橿原市史』の部分を第五集で引用しておられる。それが先ほどわたしが手術を行った群馬県の院長さんの加藤さんが「神武が来た道」に目を付けられて原本を欲しいと言われ、伊東さんに連絡してお調べいただいて『群書類従』にあることが分かりましたので、原本をお送りしました。 「天文十二年(一五五三)二月に、京都を出て吉野に向かった『吉野詣記』の筆者、三条西公条(きみえだ)は、二十九日、橘寺から安倍の文殊院に詣で、耳なし野の山陰を経て、高田に至っているが、途中、そが川を渡って間もなく‘いはれ野’に入ったと記していて、一六世紀の中ごろまで‘いはれ’という地名が残っていたことを知るのである。その『いはれ野』というのは、公条自ら、『蘇我と書ては、いはれとよめるにやと覚え侍りし』、といっているところからすれば曽我の村里近く、曽我川を西へ渡って、高田方面へ行く路にある野原でもあろうか」 (神武が来た道 4 伊東義彰 四、宇陀から奈良盆地へ4,磐余)  その加藤さんが注目された箇所がおもしろい。現在飛鳥川の隣に、曽我川がある。その隣に、‘いはれ野’がある。それに対して『吉野詣記』に書いてあるお公家さんの意見がおもしろい。『蘇我と書ては、いはれとよめるにやと覚え侍りし』、といっている。ピンとこないでしょうが、「蘇我」を「いわれ」と読む。「我」は「われ」と読み、「蘇」は「いきかえる」と読む。屁理屈だけど、おもしろい理屈です。それに加藤さんが関心を持った。これに対する意見を来週聞きに行きます。  それ自体はわたしは強引だと思います。ですがわたしの関心は、奈良県の「蘇我」という地名です。「蘇我」という地名は各地にある。神様にもいろいろあるというのがわたしの持論ですが、その中のもっとも古い神様の一つが「ソ」の神様。阿蘇山の「蘇 ソ」、木曾御嶽山の「曾 ソ」です。阿蘇部族の「ソ」です。「ガ カ」は、前から何度も言っているように、「神聖な水」です。「ソガ」は、「ソ」の神様が居られる神聖な水のあるところです。非常に古い地名です。  蘇我氏と関係の深いのは、関東だ、九州大分だ。議論はいろいろありますが、地名そのものは各地にたくさんある。やはり蘇我氏と一番関係の深いのは、大和の蘇我だと考えるのが第一です。非常に古い大和の地名をバックに持っていると考えるのがナチュラルです。賀茂氏も同じだと考えています。「カ」は、神聖を意味し、「モ」は、藻のようなかたまり、集落を意味すると考えます。ですから「カモ」は、神聖な集落を意味する。「カモ」と「ソガ」は同類の意味を持つ言葉であると考えています。  そうすると神武が入ってきたに、歓迎した人々と反対した人々がいた。  これも簡単に言いますと、奈良県吉野の山奥に行った測量会社の社員が驚いた。ある人が地元の人と懇意になり、朝まで飲み明かした。自分の先祖は大和に入ってきた神武天皇に反抗した家柄だ。だから近所の家からずっと差別されていた。つらい思いをずっとしてきた。戦争中はとくに辛かった。敗戦後には少しましになったけれども、それでも辛いのだと。そのように言い、涙を流して言ったのを聞いた。聞いているほうは、津田左右吉の説により、神武東征(侵)は架空だと思いこんでいるから、何のことだと思った。帰ってきて、わたしの本を読んだら神武東征(侵)は事実であると書いてあるから、初めて事情がわかった。真に迫っていたのが理解できたと手紙をよこした。わたしはその家は知らないが、神武に味方したという家柄を知っている。今でも名家として土地の信望を集めている。現代でも神武に味方した人々と反抗した人々との差は歴然としている。  それはともかく今の問題は、神武を受け入れた一派が蘇我氏です。その蘇我氏は、先ほどの論理から言いますと、神武から武烈までの『天皇記』の伝承をもつ甲系列の氏族です。途中から北陸から来た継体あたりの『天皇記』の伝承が乙系列。両方違うのではないか。  前方後円墳と言われる巨大古墳を持っていたのが神武から武烈までの甲系列の伝承。乙系列の伝承をもつ継体の古墳は、小さい古墳。今の考古学では継体あたりも巨大古墳に入れているが、これは間違いです。最近大和の箸墓古墳を七十五年遡らせた。ですが先頭を遡らせたら、お尻のほうも遡らせなければ空白ができる。先頭を遡らせたら北陸出身の継体あたりの古墳も乙系列の中に入ってくる。  今の問題に戻り、神武から武烈までの『天皇記』甲系列の伝承、それを蘇我氏が持っていた。ところがそれがあると、具合が悪いのが乙系列の伝承を持つ天皇、自分のほうは甲系列の『天皇記』に出てこない。『国記』に少し出てくるだけだ。たいした豪族でないかもしれない。そうすると乙系列の伝承を持つ『天皇記』を奪う。それで『国記』のほうは『日本書紀』に載せるようなものではない。だから知らない振りをしている。おまえのところは『国記』にあるよと言われても困るから知らない振りをする。  このように考えますと、『天皇記』『国記』の性格が分かってくる。  ですから最初に言った輝ける『天皇記』は、甲系列の『天皇記』。武烈以前も、南朝関係はカットしろと言ったものも入っていた。江南からの稲の渡来も南朝関係から入ってきている。  ですから心当たりをいろいろ捜してみて発見できなくとも、それ以外にどこかに写しが残っている可能性が十分にある。  『東日流外三郡誌』偽書説などに惑わされて、本気で捜す努力をせずに来た。本気で捜せば必ずある。内倉氏なども捜したが途中で止めてしまった。輝ける『天皇記』『国記』の存在は、日本の古代史を切り開く道である。現在は『東日流外三郡誌』は偽物だと言っているレベルの話ではない。  七 絹の問題について  大事な問題を逃すわけにはいかないので絹の問題について申し上げて質疑応答に入らせていただきます。 参考『絹の東伝 ーー衣料の源流と変遷ーー』(小学館ライブラリー、1999.2.20 布目順郎)  そこに地図が出ています。布目順郎さんの作成された地図です。これは今まで何回も引用されております。わたしも引用しているし安本美典氏も引用されています。  ところが、この資料の解釈は、たいへん歴史の実体とは違っています。この地図を見ればお分かりのように博多湾岸が中心なわけです。決して朝倉や筑後川が中心になっていない。ですが安本美典氏や森浩一氏なども、この資料を元に朝倉や筑後川流域が、邪馬台国であると口をそろえて言っています。大嘘というか、ないものをあるものとして主張しています。ないものを想像で補って議論するのでなく、あるもので議論するのが考古学者だと思いますが。いずれ出てくるではダメです。あるもので議論すれば「三種の神器」一つとってみても、あらゆる重要なものが「糸島・博多湾岸」から出土している。ですが安本美典氏は、これを「北九州」と言い換えます。「北九州」と言えば筑後川や朝倉も中心に入らないことはない。それでは絹や「三種の神器」は、筑後川や朝倉を中心に出ているか。銅戈や銅矛、それらの鋳型もぜんぶ博多湾岸です。ですから出土事実に立つ以上は、糸島・博多湾岸が女王国の中心だと考えざるをえない。  それを近畿説を批判する上では、このような図を使う。そのうえで邪馬台国はどこかと言うときは、筑後川や朝倉と違うところを示す。それはおかしいというのが、わたしの主張です。このわたしの論文が出て、その三年後に安本美典氏が和田家文書偽作説を示した。理屈では闘えないから、九州王朝説に対して正面から闘えないから、和田家文書という、偽物を作ったあるいは応援したインチキな学者、だから古田は相手にするなという戦略的な方針転換です。今度の絹の問題を再度調べてみてよく分かった。  だいたい和田喜八郎さんによく言われた。「古田さん、ワシの『東日流外三郡誌』が攻撃されるのは古田さんのせいだよ。九州王朝説が邪魔だから安本美典は俺に文句を言ってくるのだ。」何回かそう聞いた。嘘ではないな、そうわたしは思っていた。たしかに和田喜八郎さんは難しい理屈は分からんが直感的に理解していた。  理論的には完ぺきに朝倉説や筑後川説では合わない、博多湾岸が中心であることを証明した。  それから三年経って『東日流外三郡誌』古田偽作説を持ち出した。正面からの議論では負ける。これも議論でなく事実なのだから古田に負けるに決まっている。だから古田を叩くのに、偽作を造ったかも知れない、という説をまき散らした。古田の説をペケにする。そういう作戦に出た。作戦とすればうまいかもしれないが、つまらない話だ。それが今度は、寛政原本の出現でダメになった。  わたしは字がへたでよかったと思う。字がうまかったら古田が書いたと言われる。きっとそう言われる。わたしの字がへたなのはみんなよく知っている。だから古田が誰かに頼んで書いてもらったのだろう。それに和田喜八郎さんのことや字は誰もあまり知らない。晩年の喜八郎氏はあのような字を書いたと大ウソを書いている。断末魔です。  さて元に戻り、布目順郎氏自身が大きな過ちを犯していた。そのことに気がついた。なぜなら歴史学の編年については、杉原荘介さんが書いた有名な『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版 昭和四七年)という本に準拠している。杉原荘介さんがこの本を出されたのは、昭和四十七年、わたしが『「邪馬台国」はなかった』を出した翌年です。そこで、下記のような編年を立てられた。布目順郎氏の著作は、その六年後です。   弥生前期BC300年~BC100年   弥生中期BC100年~AD100年   弥生後期AD100年~AD300年  布目さんは、この編年に従って絹を判別した。そうしますと、どうなるか。博多湾岸に集中して絹が出るが、『魏志倭人伝』の記述は三世紀ですから、この考古学の編年では弥生後期の後半となる。そうしますと、その考古学編年ではほとんど絹が出ない。残念だ。残念だと書いてある。この編年では博多湾岸に、弥生前期と中期に絹が集中している。  もう一つ布目さんが「北九州」と言わずに、「博多湾岸」とはっきり書けばよかった。この図の一端に朝倉にも絹が出ますが、あくまでも中心は「博多湾岸」です。それを「博多湾岸」と書かずに「北九州」とぼかしてある。それに安本美典氏が乗っかって、同じように「北九州」とぼかして、北九州の朝倉が中心だと主張した。  最近では、九州大学名誉教授の西谷正さんが『魏志倭人伝の考古学』(学生社、二〇〇九年四月)という本を出された。  それを見ますと、本居宣長の説に従い「那の津=奴国」を継承しています。そして九州の中に邪馬台国の候補地を(1)筑後・山門郡説、(2)筑後・甘木、朝倉説、(3)筑後・久留米説、(4)肥前・吉野ヶ里説、と四ヶ所あげて次のように論じている。  「私は『山門郡の考古学』という論文の中で、この地域に国があったことは認めようという立場を表明しています。しかし、だからといってここが邪馬台国ということにはならないと、結論で、まとめています。これまで見てきたように、邪馬台国九州説にとって有力候補地が四か所ほどあって、その例を、特に山門郡について少し詳しく見てきました。結局のところ、九州各地に国々が生まれつつあったこと、また奴国が九州最大であるとは認めるとしても、それら以上の大国である邪馬台国そのものは見つけ出せない、ということになります。」(三三五頁)  つまり西谷氏は、この四ヶ所の候補地は『魏志倭人伝』に書かれている「奴国」(第3位の国、戸二万戸)より、はるかに人口は少ない。だから四ヶ所の邪馬台国候補地は、邪馬台国ではあり得ない。そのことをたいへん強調されている。だから邪馬台国は九州でなく近畿、奈良県橿原市あたりだと論じている。  これもおかしいのは奴国を基準にするのなら、奈良県橿原市あたりに、弥生時代に三種の神器が出てくるのか。あるいは絹、特に中国の絹が出てくるのか。 それを論じなければならない。しかし、そこは今後期待されるで終わっている。  やがて出てくるというのは小説家の方法であって、それなら日本全国やがて出てくる。邪馬台国が日本各地に乱立したのは、やがて出てくると言い抜けた。やがて出てくるという理論を立てるのは、学問ではない。  一番出てきているのは、西谷氏の言う「奴国」であり博多湾岸です。古田の言っている「邪馬壱国」です。古田はいなかった。古田の説は引用しなくともよい。西谷氏のこの本も安本美典氏の著作は出ているが、わたしの著作は載っていない。ですが西谷氏が名誉館長をしている糸島歴史資料館に訪問すると、付きっきりで説明してくれる。わたしの説はよく知っているけれども論文や著作にわたしの名前はいっさい出ない。それが学問だと思っている。自分たちの派の学説、近畿天皇家中心の学説、それに反する説は存在しなかった。それが許されているのが、日本の学界であり学校の教科書です。  もう一度元に戻り、言いたいことははっきりしている。魏は女王国に絹を送っている。絹の出てくる中心は圧倒的に糸島・博多湾岸です。女王国の中心は糸島・博多湾岸です。有名な話ですが絹は漢代には、輸出禁止項目でした。それを三世紀の魏朝は破った。魏は漢のやりかたを否定した。だから絹が博多湾岸に一度に出てくる。それでわたしは、博多湾岸からどっさり出てくる絹の多くは、中国からもらった絹と考えています。   それで卑弥呼(ひみか)が使いを派遣したときは、「其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼・・・班布二匹二丈」と、絹は送っていない。  その内に倭国側でも作れるようになる。「其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青[糸兼]」とあり、その後二回目壱与のときは、倭絹、違った模様の異紋雑絹を献上している。魏から天子のシンボルである龍の模様の入った絹や平絹をもらった。倭国も平絹に龍でない壱与にふさわしい模様を付けて魏に献上している。  このように卑弥呼(ひみか)・壹与(いちよ)の時代に、倭国の絹から中国の絹へ転換を示されている。事実、吉野ヶ里の絹は百パーセント洛陽の絹。ところが博多湾の絹には、楽浪系と江南系の二種類の絹が存在する。つまり三回脱皮する蚕、三眠蚕(さんみんざん)の楽浪系の絹と、四回脱皮する蚕の江南系の絹である。ところが江南系の絹は、江南の非漢民族系の少数民族からもたらされたものであろう。そう布目順郎氏は書かれた。読んでみてその非漢民族系の江南の少数民族とは、おわかりでしょう。安日彦・長髄彦ではないか。  『東日流外三郡誌』では江南から稲作が来たと書いてある。ですが博多湾へ来たからといって江南と断絶したはずはない。とうぜん連絡はある。言い換えれば杭州湾の倭人です。とうぜん絹を知っている。その絹が入ってくる。  ですから布目さんの自然科学的研究と『東日流外三郡誌』に書かれた『天皇記』・『国記』の記載内容と合致した。これには驚きました。これらの問題は論じていてはいくら時間があっても足らない。詳論は本などを書きますのでご覧下さい。  ですから絹の問題でも女王国は博多湾岸で決まり。前にのべた「都市」ように首都も博多湾です。卑弥呼(ひみか)、壹与(いちよ)の時間帯も、三世紀を弥生後期というのは間違い。中期を含む時間帯である。そのように考えています。  絹は楽浪系と書いてあるが、植民地の楽浪郡が出発点のはずはない。ほんらいは洛陽系です。洛陽からやって来た系列の絹が博多湾岸にたくさん出る。ところが不思議なことに、その前夜に江南の絹がに存在する。それが『東日流外三郡誌』の安日彦・長髄彦の系列です。  もう一言すごい問題があるんですよ。博多湾岸に「日本(ひのもと)」という字地名が集中している。博多に二つ、室見川流域に二つ。壱岐に一つある。  そうすると、あそこを日本(ひのもと)と呼んだのはだれだという問題です。博多湾の人々が、あそこから太陽が出る、「日本(ひのもと)」と呼んだとも思えない。ですが江南の人たち、杭州湾の人たちにとっては、九州から太陽が出る。江南の人たちが博多湾岸を日本(ひのもと)と呼んだのではないか。 (黒田節の件は略)  今日の話はこれで終わらせていただきます。 質問 1) Chinaの件 略 2)方法論についてお答えいただきたい。  よい質問を忘れずしていただきました。今までの学界の方法は上乗せ主義です。井上光貞氏はこのように言っている。この上に立てばこうだ。上田正昭氏はこうだ。この上に立てばこうだ。  門脇貞二氏はこのように発言している。そう言えばこうだ。煉瓦の組み立てのように、近畿一元主義で組み立てている。それが今ガラガラと必然的に崩れてきている。  その場合九州王朝論者も、同じやりかたをしてはいないか。誰かがこう言った。その上にたてばこうだ。あの人がこう言った。その立場に立てばこのようになる。それが九州王朝という違うイデオロギーに立っているから違うと思っている人がいるが、九州王朝論者も方法としては近畿天皇家一元主義と同じやり方をしている。自分が扱おうとしている資料がどういう性質の資料かということを精密に検査する。これを抜かすと、大和朝廷中心のインチキ学問と同じ、九州王朝中心のインチキ学問になる恐れがある。それをやってはいけない。資料の性格を精密に調べて使う。この方法を絶対忘れてはいけない。言いたいことはそれだけです。