古田武彦講演記録 日本の未来 -- 日本古代史論 二〇〇九年一月一〇日 古田武彦 新年賀詞交換会 午後一時~三時 於:京都府向日市物集女公民館  第一部 (二〇〇九年)新年賀詞交換会ということで、新年おめでとうございます。 さて皆様に今からお話することは、学術論文に書き上げているところです。いずれまた学術論文か本をご覧になってください。それで十二分に理解することができると思います。要旨をのべて、この問題に対する論理性についてお話しさせていただきます。 「小野毛人墓誌」について 最初にとりあげますのは、京都市崇道神社から出てきた「小野毛人墓誌」です。 「小野毛人墓誌」(崇道神社の金銅銘版)  飛鳥の浄御原の宮に天の下を治(し)らしし天皇、朝に御(ぎょ)し、太政官、兼刑部大卿位、大錦上に任ぜらる。  小野の毛人(けひと)朝臣之墓。營造、歳次丁丑年上旬、即(そく)葬る。  (表)飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官刑部大卿位大錦上  (裏)小野毛人朝臣之墓 營作歳次丁丑年上旬即葬  この中で、「毛人」を「えみし」と読むのは後世の解釈です。また「即(そく)」という字は非常に大事だ。  これに対する従来の解釈では「飛鳥浄御原宮治天下天皇」というのは天武天皇である。その天武天皇から「太政官、兼刑部大卿位、大錦上」に任命された「小野の毛人(けひと)朝臣」の墓です。年は丁丑年上旬に即(そく)葬った。  このように最初理解されていた。ところが、これについて発見された江戸時代から異論続出、明治維新後そして第二次世界大戦前と後、いくらでも論文が出る。いくら論文を書いてみても話が合わない。  すでに伊藤東涯(一六七〇~一七三八、寛文一〇~元文元)は「[車酋]軒小録」において次のように論じ、合わないと書いている。 「此中疑べきこと二つあり。天武帝十三年に小野臣等五十三氏に姓を賜ひ朝臣と云。牌(はい)丁丑年に造時は、白鳳六年也。朝臣を賜より前八年也。然るに小野朝臣と書するは何ぞや。亦続日本紀に小錦中毛人と書く。然るに牌に大錦上と有り。此二ついぶかし。」(百本随筆大成」第二期十二巻)      [車酋]は、JIS第三水準ユニコード8F36  なぜ合わないか。まず第一に「朝臣」と書いてあるのがおかしい。なんとなれば『日本書紀』では、天武天皇が小野氏等五十三氏に「朝臣」の称号を与えたのは小野真人が亡くなった八年後である。毛人が死んだ八年後、「朝臣」という制度が出来ている。しかるに、この銘文では毛人が死んだ八年前に「朝臣」と称せられている。  次に「大錦上」という位がおかしい。『続日本紀』に小野毛人の息子の記事がある。そこに小野毛人の息子が、おやじの毛人のことを書いている。そこでは「小錦中毛人」と書かれている。ところが、この銘文では「大錦上」となっている。これもおかしい。「小錦中」と「大錦上」では違う。『続日本紀』は実録性が高く信用できるということになっているが、これとも違う。  それで論議は繰り返されてきた。これに対していくら論議しても、その答えは決まっている。『日本書紀』の天武紀や持統紀は正しい。信用できると各学者は言ってきた。その『日本書紀』と合わないのはおかしい。いわんや『続日本紀』に合わないのは話にならない。それでこの金石文は間違いだ。これは息子が追葬、ようするに後でいれなおしたものだ。そのときに間違えた。それが、だいたいの結論になった。他の推測や考えはたくさんあるが、だいたいそれで大筋は一致している。  これに対し、ここに来ておられるみなさんもそうでしょうが、現代のわれわれから観ると、根本的に学問の方法論が間違っている。なぜなら『日本書紀』が正しい。特に天武・持統のところは、間違いなく正しい。『続日本紀』が正しい。そういう立場に立っている。  しかしわたしは、これと異なる。すでに「新庄命題」によって、持統紀成立の「真相」を知ったのです。すでに『壬申大乱』に詳述しましたが要点を列記します。新庄智恵子さんは現在九十歳近いかたですが、十年前お手紙をくださった。わたしは京都に生まれた。わたしの目から見て、あの吉野がそれほど頻繁に行くところとは思えません。あの文章に間違いがあるのではないか。九州博多湾岸など別のところに吉野があり、九州王朝の天子がそこに行ったのではないか。その記事をここに持ってきたのではないか。そのように書かれていて、わたしはたいへん驚いた。たしかに持統天皇が頻繁に吉野へ行っていたことは知ってはいたが、桜を見るのは個人の趣味と思っていたので歴史とは関係ありません。どうぞご勝手に、そのような感じを持って見過ごしていた。ところが言われて抜き出してみて、確かにそうだ。  持統天皇の「吉野紀行」は、三十一回に及んでいる。ところが、その「時期」が毎月二~三回、春夏秋冬とも、ほぼ平均して行っている。真夏や真冬も、桜のシーズンと大差ないのである。桜のシーズンでない真夏や真冬に行ってどうするのだ。確かにおかしい。さらに持統紀に、まったくない「丁亥」という干支が使われている。  これに対しわたしは、この「吉野」は、九州佐賀県の吉野ヶ里で有名な「吉野」ではないか。また時期を「白村江以前」に移すしてみた。そうしますと、  (1)都(太宰府)から吉野ヶ里まで、数メートルの高さの「ハイ・ロード」(堤上塁跡)が築かれている。その間の往還と見られる。この「堤上塁跡」は軍事用道路と見られる。(あるいは、久留米、小郡近辺より)  (2)その目的は「桜見物」などではなく、「海上・陸上の軍の査閲」である。有明海が海上の軍の集結場所となっていたのだ。それなら年間を通して行っても問題はない。  (3)「丁亥」という干支を「白村江の会戦」前で考えるとピタリと一致する。他の「吉野紀行」は「白村江の会戦」の数力月前で、右の往還は終結している。  ということで九州王朝の重要な記事を抜き取って、あろうことか時間帯もぜんぜん違う持統天皇の桜見物としてはめ込んだ。仰天したわけです。これはわたしにとって重要な発見でした。しかし学界は知らない。あるいは知らないふりをしている。  ですがこの考えが承認されれば『日本書紀』「天武紀」「持統紀」は、そのままでは使えない。学界では「天武紀」以降は、まあ正確だ。それで使える。「持統紀」はまあ大丈夫だ。そういう、まあまあ主義。まあまあ主義が通用しているのは学界だけです。わたしなどの方法論では、まあまあ主義はダメである。そのことはっきりしている。そういう、まあまあ主義の史料の使い方はわれわれは出来ない。もしそれが歴史事実だと言いたければ、その件は証明して使わなくてはならない。そういう方法論上の問題が出てきた。  そのことは、新庄智恵子さんに言われるまでもなく分かっていたことです。有名な「郡評論争」で、「七〇一」までが「評」だ。その後が「郡」だ。行政制度が一変したことは常識となっている。これに対し井上光貞氏は、これらの「郡」の一語だけを「評」として読み変えれば良いと言われ、ほぼ学界全体が従っている。しかしこの考えは、わたしからすれば、おかしい。なぜなら「郡」に関係する資料は『日本書紀』「孝徳紀」などにたくさんある。それらの記事は嘘で、造作された史料だとということになる。   そのような目から見れば、新庄さんに言われる前にはっきりしていた。新庄智恵子さんは、それをさらに具体的かつ印象的な例を提供した。  本来『日本書紀』は史料として使えない。史料として使う場合は「史料批判」を行った上で、論証を行った上で、使わなくてはならない。そういう性質を示している。そう考えますと「小野毛人墓誌」の取り扱いがぜんぜん違ってくる。金石文と『日本書紀』の記事が違っているなら、金石文が合っている。  それに八世紀の段階で息子さんが追葬した。後でいれなおしたものというなら、いよいよもって『日本書紀』『続日本紀』に合わせるべきです。作り直した金石文が『日本書紀』『続日本紀』に合うように合わせるいうの良いが、合わないように合わせるというのはありえない。さんざん苦労しているが、いよいよおかしい。  それでは何か。ことは簡単なのです。金石文が正しい。『日本書紀』『続日本紀』が間違っている。  『日本書紀』に合うから良い。これはダメです。『続日本紀』に合うから良い。これもダメです。そのことが判ってきた。なぜなら『古事記』が八世紀に造られたことが確実になった。ですが『古事記』が造られたことは『日本書紀』『続日本紀』に書いていない。意図的に改竄されている。他で意図的改竄がなかったと、なぜ言えるか。『日本書紀』もあやしい。とうぜん『続日本紀』もあやしい。方法論上、これが基本にならなければおかしい。今の学界はそのようになっていない。  われわれの方法論からすれば、金石文と合わないということは、合わないほうが間違っている。『日本書紀』のほうが間違っている。『続日本紀』のほうが間違っている。  「小錦中」と「大錦上」という位が違っているのは、七〇一を境にして位が変更になった。九州王朝から近畿天皇家になって位が下げられたと考えれば何の問題もない。  「朝臣」についても、何回か論じたことがある。今簡単に言いますと紀貫之が「柿本朝臣人麿」と何回も書いている。『万葉集』も「朝臣」と書かれている。ということは、人麻呂は「朝臣」だった。あれは嘘だ。間違えている。「正三位」だと書かれているが、学界はこれも嘘だと言っている。「朝臣」は九州王朝の官職。それを『日本書紀』が時間帯をずらして天武天皇が位を与えたように書いているだけだ。この銘文に書かれているとおりがふさわしい。  次に問題となるのが「飛鳥浄御原宮治天下天皇」です。『万葉集』について古田史学の会・九州の上条さんが『なかった』第六集に書かれているが、彼が問題にしたのは「飛鳥浄御原宮治天下天皇」です。  この「飛鳥浄御原宮治天下天皇」は天武天皇ではないのではないか。そのように言われた。このことは『壬申大乱』で書いていたが上条さんは、わたし以上に読み込んでおられて気が付かれた。  その証拠を挙げましょう。 『万葉集』一六七番 日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首 并びに短歌 天地之 初時 久堅之 天河原爾 八百萬 千萬神之神集 集座而 神分 分之時爾 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 瑞穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 神下座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮爾 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 上座奴 ・・・ 天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に 八百萬 千萬神の 神集ひ 集ひ座(いま)して 神分(はか)り 分りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極(きわみ) 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別けて 神下し 座(いま)せまつりし 高照らす 日の皇子(みこ)は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神あがり あがり座(いま)しぬ ・・・  この作歌の表題は「日並皇子尊の殯(あらき)の宮の時」だとされている。天武天皇と持統天皇との間の皇子、草壁皇子の死に対して、人麿が作った歌だというのである。草壁皇子は持統三年(六八九)四月十三日没とされている。  しかし、万葉集の歌、特に巻一~三などの掲載歌は、「表題」と「歌の中味」とが矛盾し、“くいちがって”いるものが多い。したがって「表題」を“分離”し、歌の内容そのものを“純粋に”論ずる。これがわたしの万葉分析、その史料批判の方法だ。『古代史の十字路 ーー万葉批判』『壬申大乱』(いずれも東洋書林、二〇〇一年)はいずれも、この方法で一貫している。今、問題の、この「一六七」歌も、その典型なのである。  この歌には「下座」と「上座」という言葉が散りばめられている。ところが「下座」「上座」という言葉は奈良県にない。福岡県にはある。和名抄の九州筑前国に「上座郡(カムツアサクラ)」「下座郡(シモツクラ)」と書いてある。「下座郡(シモツクラ)」と書いてあるけれども、おそらく省略されていていて「シモツアサクラ」でしょう。  その隣に九州小郡市井上の飛鳥(あすか)がある。この飛鳥は奈良県の飛鳥ではない。奈良県の飛鳥には「下座」「上座」はない。九州にはある。これを見ても「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは、奈良県の天武天皇ではなくて、九州小郡市の飛鳥の天皇である。そのことは証明できている。  もう一つ「浄御原(きよみがはら)宮」については、わたしは「浄御原(ジョウミバル)宮」が良いと考えます。  「浄(ジョウ)」については、古田史学の会機関誌担当の古賀さんが久留米高専の出身ですが、下宿していたところが「城(ジョウ)」と呼ばれていた。当たり前に使っていたが、そこは城(しろ)ではなかった。宮崎県の都城も「城(ジョウ)」です。字地名に「ジョウ」が三ヶ所ありました。行きましたがそこは田畑で、城(しろ)ではなかった。サッカーで活躍した鹿児島実業に城さんがいる。学校にたくさんの城さんがいるか確認したら、それほどたくさんはいないが、  奄美大島に行けばたくさんの城さんがいるとご返事された。同じく鹿児島も城(ジョウ)さんがいる。  ですから「ジョウ」という地名は南九州を中心に分布している。柵に囲まれた集落という意味の「ジョウ」で、かなり古い言葉。  それに対して今度は、北九州中心の集落の名前が「原(バル)」です。前原(まえばる)や平原(ひらばる)などが分布している。  ですからこの小郡市井上の「飛鳥」は、水路に沿った湿地帯です。そこに柵が付いた集落である「浄(ジョウ)」と「原(バル)」がある。実は「飛鳥」の地の上の三井高校が、「飛鳥浄御原(アスカジョウミバル)」だった。そこにいる天皇が「飛鳥浄御原(アスカジョウミバル)天皇」。  それで最後は天皇問題について、どうしても言いたい。九州王朝が天子を名乗ったことはご承知の通りだ。ところが白村江で負けて、それ以後は天子を名乗ることは出来なくなった。唐の占領軍が九州に来ていますから。それではなんと呼ぶ用になったか。「天皇」ないし「大王」。  このような天皇が九州などに存在し、かつ『日本書紀』『古事記』に存在しない天皇が出てくる。印象に残っている例をあげますと「安徳天皇」。かって九州太宰府近くの地元の郷土史家のかたにお会いして、お話しをお聞きしたことがある。実は「安徳天皇」が、この林の木の下で敵の弓矢に囲まれ射られてお亡くなりになられました。そのように言われた。  われわれの知っている安徳天皇は、子供で壇ノ浦で平家とともに滅びた天皇です。名前は「安徳天皇」と一緒ですが、この天皇とは別人です。太宰府の西に安徳台という高台のところがある。また四国愛媛にも、合田さんによれば「斉明の墓」がある。どうも我々の知っている斉明天皇ではなさそうだ。ようするに○○天皇が九州を中心に、山口県や四国などに分布している。それらは白村江以後の九州王朝の天皇や大王だと考える。そのように考えないと解けない。  さて、そこで「小野毛人墓誌」に出てくる「飛鳥浄御原宮治天下天皇」は天武天皇ではない。この九州福岡県小郡市井上、県立三井高校のところにいた九州王朝の天皇だった。  このようになるが、三井高校から車で五分のところ、側に正倉院が出てくる。皆さんは奈良県の正倉院は知っているが、それとそっくりの規模の正倉院の遺構が出てきた。  実はこの正倉院のことは知られていた。「筑後国交替実録帳」(仁治二年、一二四一)に「正院」と「正倉院」は「崇道天皇」の造営と書かれている。写した人は「実なし」と二回も書いている。書いてあるけれどもウソだと記されている。ウソだと言いながら、書いてあるところが、この史料の値打ちだ。つまり写した人たちには理解できなかったが、そういう史料はあった。  ところが今回、実が出てきた。まったく奈良県と同じ規模の正倉院の遺構が出てきた。すると、まったく同じ規模の正倉院が二つあるということは、前後関係が問題になってきます。そうすると奈良県の正倉院を造った後、同じ規模の建物を一田舎に造るはずがない。造れば不経済です。それに全国に「正倉」はあるけれども、 正倉院はない。当然逆である。九州筑後の正倉院が古い。それを真似して大和の正倉院が造られた。しかも元の正倉院は壊されて廃墟になった。こう考えざるをえない。しかも元の正倉院を造ったのが「崇道天皇」とある。そうしますと「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは「崇道天皇」である。  混乱していけないのは、われわれが「崇道天皇」と考えのは八〇〇年代の「崇道天皇」。桓武天皇の弟で追放された天皇。桓武天皇と父も母も同じ早良親王(七四九~七八五ごろ)。京都から淡路島に行くところで亡くなり、桓武天皇が「崇道天皇」と追号して祀った。「小野毛人墓誌」より一二〇年後の話だ。だから「崇道天皇」がいきなり正倉院を造ったというわけにはいかない。同名で、別の人物がそこに現れている。九州王朝の九州小郡市井上(県立三井高校)にいる崇道天皇と近畿の桓武天皇の弟の崇道天皇、同じ名前の人が二人いる。  このことは小野毛人墓を見るために、無理して上ったから分かった。皆に無理ですよと言われたが、大下さんのリードのおかげで上がれた。この上がる途中に気がついた。(京都市左京区上高野の崇道神社の小野毛人墓は、140メートルの高さです。)  これは良い意味で、犯人は桓武天皇。桓武天皇は大仏殿が開眼するとき二〇才だった。同じ時期に正倉院は完成している。つまり桓武天皇は奈良の正倉院を見ている。ということはこの正倉院は、九州の崇道天皇が造った正倉院の模倣だった。とうぜん桓武天皇はそれを知っている。しかし『日本書紀』のように、本来のお手本である九州王朝はなかったことにした。それに桓武天皇は正義感というか、これではいけないと感じた。それで弟にかこつけて同じ名前の「崇道天皇」を祀った。  われわれは、旅先で不遇の死をとげた天皇を祀った、と聞いて覚えさせられている。しかし歴史上そのような不遇をかこった皇子は早良親王だけか。聖徳太子の息子を始めたくさん居る。それらをぜんぶ追号し祀らなければならない。不公平でおかしい。いかに弟に対する愛情が深かったと解説していますが。  ですから桓武天皇が弟の死にかこつけて祀りたかったのは、九州の「崇道天皇」。偉大な正倉院を造りながら、近畿天皇家にそれをぜんぶ持って行かれた。これこそ一〇〇年後、二〇〇年後に怨霊が出ても不思議ではない。桓武天皇は、それを祀りたかった。  ここで完全に九州王朝と近畿天皇家の接点が出てきた。  近畿天皇家が、九州王朝をどう見ていたかは、ほとんど知らなかった。しかし桓武天皇が九州王朝を知っていて、弟にかこつけて「崇道天皇」として祀った。「名代論 ーー孝季と崇道天皇 古田武彦」(『なかった』第六号ミネルヴァ書房)、これです。自分の弟を名代にして、九州王朝の天皇を祀った。わたしは平安時代についてあまり縁がなくて知らなかったが、これからは平安時代をもう一度しっかり読み直さなければならない。  この立場に立てば、いろいろなことが判明する。『古今和歌集』の紀貫之。半分ぐらいは、「詠み人知らず」となっているが、これが九州王朝とつながってきた。柿本朝臣人麿が正三位である紀貫之は書いている。言われればそうかも知れないがホントかなと、みなさんも思っておられたと思う。ここで桓武天皇が入ってくれば、紀貫之も平安前期の人ですので、これが骨髄のところで、つながってきた。  以上の問題は、いくら学界が解こうとしても解けない問題です。しっかり取り組みたい。 「「両京制」の成立ーー九州王朝の都域と年号論」(古田史学会報 2000年 2月14日 No.36) 時間になりましたので、「船王後墓誌」の件は省略します。 質問1)  交野市の加藤です。『壬申大乱』は、わたしも勉強させていただいておりますが、未だに分からない点があります。中大兄皇子の系統の大友皇子を、なぜ大海士皇子は滅ぼすことになったのかが判らない。中大兄皇子の系統は、唐朝と結んで九州王朝を倒す一番の立役者の人たちであったというのが、『壬申大乱』の趣旨でなかったのか。そのような中大兄皇子の系統を滅ぼすことを、なぜ唐は黙認したのか。どんなことがあっても唐朝は中大兄皇子(天智)の系統を擁護しなければならなかったのではないか。にもかかわらず、大海士皇子が大友皇子を滅ぼしたのか。ストーリーとして納得できないのです。その点が分かりにくかったのでお話ししてほしい。 (回答)  これはおもしろい重要なテーマをいただいた。要するに天武がなぜ天智の息子である大友皇子と戦ったのかということです。  これは元から、唐といわゆる倭国(九州王朝)との関係についてお話ししなければいけない。簡単に言うと、唐は倭国を滅ぼすつもりであった。「日出処天子」などと言うのは論外だ。とんでもない。それの方法として、倭国と同盟を結んでいた百済を侵略して、しゃにむに義慈王などを捕虜にして唐の都に連れて行った。目的は倭国と戦うことにあった。これに対して倭国はどうあるべきかで論が分かれた。百済と同盟関係だから、百済の要請に応えて戦うべきだという正当論。それに対して、しかし唐は戦いたくて仕方がないから、やはり戦うのは不利だと考えた人たちがいた。それが近畿天皇家の中大兄皇子(天智)や、藤原鎌足です。それで結局戦線を離脱して唐と戦わなかった。それで九州王朝側が戦った。このことを久留米大学公開講座2008「九州王朝論」で述べましたら、EUの憲法の専門家からご意見をいただいた。これは「義と利」の問題ですねと指摘された。「義」から言えば、唐と戦うべきだとなる。同盟国が理不尽に侵略されたのですから。ですが天智や藤原鎌足は今戦ったら不利になる。その立場が「利」です。ですから天智や藤原鎌足は「義」を踏みにじって「利」を取る立場を取った。とうぜん白村江の戦いがあって唐が勝った。唐が乗り込んできた。この場合、唐に対応する姿勢として、天武と大友皇子との間に対立があったのではないか。つまり唐に協力する立場の天武と、かならずしも協力ばかりする必要はないのじゃないかという大友皇子。親父は親父。自分としては、そういう屈辱というか、「義」をなげ捨てるばかりに終始できない。そういう対立が生まれたのではないか。それで天武は唐と直接交渉して、自分は唐の利益を守るということを保証して味方につけた。というか実際は唐の手駒になって、大友皇子側を叩くことを承知した。唐はそういう天武の提案に載った。簡単に言うと、そういうことだと考える。  もちろん大枠では、もう一度唐と戦うという立場ではないでしょうが、勘所を唐に従うという立場と、必ずしもそうでない立場との戦いではなかったか。そのあたりは『日本書紀』は天武系列や唐を背景にした歴史書ですから、その内容は、そのようなことを実証的に書かれているはずがない。現在でも戦後の歴史は、占領軍のマッカーサーを背景にした日本の歴史ですから、きちんと資料に書かれているはずがない。大筋ではこれと同じ問題です。同じく『日本書紀』から答えがすぐ出るはずはない。しかしそのような目で、歴史を見直してみれば、将来判明する可能性もある。たいへんあらっぽい考えですがそのような答えです。 質問2) 「皇都」については略。