古田武彦講演会 「九州王朝論の独創と孤立について」 二〇〇八年一月十九日(土)午後一時三十分~五時 大阪天満 大阪国労会館大会議室 水野代表あいさつ  ようこそたくさんのかたがお越しいただきありがとうございます。古田氏学の会代表の水野でございます。いま古田先生は「大化の改新」を中心にして研究されています。先ほど古賀が紹介しましたように、最近本を出されていないので執筆活動に専念したいということです。それで、もしかしますと、この講演以降講演がないという状態とご理解いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。   一 日文研フォーラムより  古田でございます。よくおいでいただきました。お久しぶりでございます。よくお越しいただきました。これは過去に対してもそうですが、未来に対してもそうである、と思っております。先ほど紹介にありましたように、わたしの気持ちとしては執筆活動に専念したい。ですが、そうは言っても先約もあったりしますので、例外のケースもありますが、できるだけ控えたいと思っております。ようするに本を書きたい。今まで考えてきたことを、あるいはこれから考えることを、本にまとめたいというのがわたしの突き上げてくる今の気持ちでございます。 それで本日の講演会はわたくしにとってもたいへん幸せな一日ですが、もしかしたら皆さまにも印象に残る時間になるかも知れません。申し上げたいことは、たいへんございますが、どうせ時間はとても足りない。質量ともに足らない。それでキーポイントのみ申しあげて、あとは雑誌『なかった』や本を見ていただく。そのように考えております。  まず第一は、わたしに取ってというべきか、わたしたちに取ってというべきか、非常に喜んだ件が昨年あったわけです。二〇〇七年十二月十二日(水)に、京都駅の近くキャンパスプラザ京都(四階第四講義室)で日文研フォーラム「中国出土の文物から見た中日古代文化交流史 ー和同開珎と井真成墓誌を中心としてー」という催しがあり、テーマに関心があって覗いてみました。講演は西北大学国際文化交流学院教授・副院長(国際日本文化研究センター外国人研究員)の王維坤氏という中国のかただったわけです。そこでスライドにより説明されていましたが、いきなり「古賀達也氏の九州王朝説」という大きな文字が目に飛び込んできました。「これは古田武彦氏も賛成」という形でスライドが出て、やがて消えていきました。それだけのことと言えばその通りですが、画期的なことです。学界ですよ。学者が半分、市民も半分近くいましたが。それだけのことと言えばその通りですが、わたしは今まで経験したことがない。どんな学会へ行っても九州王朝説にはふれない。賛成も反対もなく取り上げられたことはない。それで後の質問の時には、さっそく九州王朝説を取り上げられたことを讃めました。日本の学会は「九州王朝説」にはいっさいノータッチ。わたしの説を除外している。ところが中国のかたである王氏は、日本の学界のいじましい慣習に従わず、九州王朝説として古賀氏やわたしの名前を挙げられたことにたいへん感謝しますと質問の冒頭に申し上げた。  このように最初は良かったのです。ですが質問そのものは講演に対して述べたものです。それはあまり感心した質問ではなかった。簡単に申しますと王維坤氏は、日本では和同開珎と読んでいるが、旧説の和銅開宝で良いのだ。なぜなら珎の字は、旧漢字「寳(ホウ)」の字から宀(ウカンムリ)と、下の貝の字を取ったものと考え、その字に似ている。同じ字ではない。それを日本側が間違えて、あのように書いたものと考えるべきである。そういう結論を述べられた。これはわたしから見ればいただけない。なぜなら、これには栄原永遠男(大阪市立大学教授)さんの詳しい研究がある。ようするにあらゆる文書や木簡を集めて「寳(宝 ホウ)」の字と「珎」は違うのだと論じた。同じと考えることはできない。そういう非常に精密な論文が出ています。ところが王氏は、それをぜんぜん見ていない。中国のかただから見ておられないとは言えない。同志社大学に長くおられ博士号もそこで取得され、森浩一氏などに師事されていながら知らなかったのは残念です。ようするに知らないままで、栄原永遠男氏に完全に論破されている考えを、ご自身の発見のように言われた。この「寳(宝 ホウ)」と「珎」の字の問題は完全に解決されている。だから内容的には、あまり感心しなかった。  すこし横道にそれますが、この栄原永遠男氏の貨幣の論文を読んで、たいへん感服した。たいしたものだ。その当時、貨幣のことを研究していて、いちどお会いして指導をあおぎたいと、初めてだと思ってお電話しました。そうしますと、そのかたが「古田さんですか。お懐かしいですね。」と言われてびっくりした。聞いてみると、このかたは京大におられ『史林』という史学雑誌の編集を担当されていたかたでした。このときに「邪馬壹国」問題で、わたしは上・下二回にわたり反論を書いた。この雑誌に、現役の京都大学教授と名誉教授に対して ーーその方たちは「邪馬台国」で良いと言ったのに対して、わたしはなぜ「邪馬壹国」でなければならないのかーー 長文の反論を書いた。そのときの担当が栄原氏だった。  それでわたしはわかりました。何がわかったかと言います、栄原氏が「和同開珎」に対して行った方法は、わたしが「邪馬壹国」に対して、行った方法と同じである。つまりわたしは「壹」や「臺」の字を全部拾いあげた。同じように栄原氏は、「寳(宝 ホウ)」の字と「珎」の字を、あらゆる資料を調べられ写真化して比較された。だから非常に説得力があった。わたしの説を知っておられ、それの方法を利用された。立派にわたしの方法を採用され、非常に嬉しかった。 だから当然ながら、王維坤氏は、わたしのほうの説もご存知なかった。唐の高宗が「寳(宝 ホウ)」という字を貨幣に最初に使った。それまでは「寳(宝 ホウ)」という字は、決して使われなかった。なぜなら「寳(宝 ホウ)」という字は、仏教の「三寳(佛・法・僧)」に用いられていた。貨幣ごときに、そのような漢字を使うものではない。中国では、それまでそのような立場から使われなかった。それに対して唐の高宗がなぜ使ったか。「寳(宝 ホウ)」という字は、仏教の独占物ではない。むしろ天子が出す貨幣こそ「寳(宝)」である。古来の考えに対して、そういう新しい主張をこめて貨幣に表した。仏教に対して挑戦的な態度で貨幣に「寳(宝 ホウ)」という字を使った。これに対して仏教側は怒り心頭というか、猛然たる抗議行動に走った。それを唐の高宗は待っていて仏教を鎮圧した。排仏毀釈。すべてのお寺を廃止して、一つの州に一つのお寺しか残さなかった。それに仏教を統合にして国家が仏教を支配する。その引き金に開元通宝を使った。そういう経緯(いきさつ)がある。 それに対して和同開珎を九州王朝が造った。これも不思議なことに、いろいろな古典から「和同」の意味を引用していました。しかし、だれもが知っている『論語』から、だれも引用していない。しかしその和同開珎(わどうかいちん)の「和同」の意味は「和して同ぜす」 。ーー この「和して同ぜす」とは、われわれ九州王朝(倭国)は、唐に対して和することはしますが同ずることはしません。つまり倭国は「三寳(佛・法・僧)」をうやまい仏教を大切にします。「寳(宝 ホウ)」という字を貨幣に使って仏教を貶めるようなことは同意しません。ーー それが「珎」という字を使った意味なのです。「珎」という字を使ったこと、そのものが 「和して同ぜす」の内容です。そういうことは古田史学の会の皆さんはよくご存じですが、王氏はご存じない。「和同開珎」は、そういう意思表示としての貨幣です。この問題自身も続きがありますが、時間がないので省略します。  次に、王氏は「井(せい)真成」墓誌の問題を取り扱われた。「唐日本留学生井真成改名新証」(中国文物報 1906.9.15)の中で、王氏自身の新発見と考えられたのは円仁の「入唐求法巡礼行記」(唐開成三年八七八 八月十八日条)、のなかに、「井[イ求]替」という人物が出てきています。これを「井真成」と姓が同じである。だから同一人物だと考えられた。 井[イ求]替の[イ求]は、人編に求。JIS第4水準ユニコード4FC5  この論説そのものは王氏の説である。問題は、「井(ゐ)」姓についてです。わたしは寺沢さんというかたが論じている明治大学で、故高田かつ子追悼記念講演というかたちで「井(ゐ)真成」の問題を発表しました。これは、「井」姓が日本に存在する。だから日本人の姓である。寺沢さんをはじめ、中国人をふくめ多くの人が言っているように、「井上」などの姓を略して姓にしたという意見は当たらない。そういうことを質問の形で申しました。 ーーそれとは別に、最近ミネルヴァ書房から出た内倉武久氏の著著『卑弥呼と神武が明かす古代』(ミネルヴァ書房)で、残念ながら同じ時期に「井」姓について別の人が見つけたように論じておられる。内倉武久氏は、わたしの説を知らなかったので、連絡しましたら知らなかった。すみませんと言っていました。ーー  以上で、王維坤氏という中国のかたの述べられたことについては簡単で終わります。しかし「九州王朝」ということをクローズアップされたことは評価したい。その意味では記念すべき日でした。   二 古事記の撰録に於ける「削偽定實」の問題  次は、梅沢伊勢三氏の「古事記の撰録に於ける「削偽定實」の問題」(藝林第三巻、六 一九五二年六月)です。  わたしの先生が村岡常嗣氏であることは申し上げるまでもありませんが、その村岡先生の学生(東北大学日本思想史学科)であったとき、助手されていたのが梅沢伊勢三氏です。小学校の教員をしておられて、それから東北大学に入られたかたです。たいへんわたしをかわいがってくれた東北大学の先輩です。東北(仙台)に行くたびに泊めていただいて、わたしの説を報告していた。「また新しい発見がありましたか。」など、行くたびに聞かれる。ほんとうに徹夜直前まで議論し、朝になったらまたこのような考えもあると議論しておりました。とにかく九州王朝説をいちばん早く聞かれていたのが梅沢氏だった。  ですが梅沢伊勢三氏の「古事記の撰録に於ける「削偽定實」の問題」(藝林第三巻、六 一九五二年六月)という論文を読み返してみると、たいへん問題がある。「削偽定實」、これは天武天皇が『古事記』序文に使っている言葉です。偽を削り、實を定める」、これに対する今までの理解は、○○天皇の皇子は、二人と書かれているが、これは三人の間違いである。○○天皇の皇女は、○○のお母さんの皇女であったと書いてあるが、こちらのお母さんの娘の間違いである。 ーー など、そういうことが帝紀に書かれてあったから、そのような間違いを天武天皇が直させた。ほとんど九〇パーセントの学者の解釈がそういう立場である。これも意地の悪い表現をすれば、天武天皇を校正係のボスと見ている。変な表現をすれば天武天皇は校正を命じている。そのように理解されている。はたして天武天皇はそのような人物かという問題になってくる。  こんどは梅沢伊勢三氏自身はどうかと言いますと、一般には有名な「紀前記後説」を唱えた学者として知られている。学者のあいだではそのように言っていますが、梅沢氏ご自身はこの表現に納得されていないですが。それで普通には、『古事記』が先で、七年後『日本書紀』が後にできた。『古事記』が七一二年、『日本書紀』七一八年にできたと書かれてある。ですから『古事記』が先で、『日本書紀』が後にできたことは明白です。ところが梅沢氏は逆に『日本書紀』のほうが古いのだ。『古事記』のほうが新しい。初めて聞かれたかたは、そんなばかなとお思いでしょうが、実質内容についての話です。実質内容は『日本書紀』のほうが古い。『古事記』のほうが新しい。そのことを『古事記』『日本書紀』の各所について微に入り細に入り、とことん実証された。(例『古事記と日本書紀の検証』『古事記と日本書紀の成立』吉川弘文館) ーー梅沢氏ご自身は一生『古事記』しか研究しませんと断言されて、晩年は古事記学会の会長を永らくされていたかたです。ーー ですから、この精密な論証自身には反論はありません。この論証に対して、わたしの立場からはそのとおりだと思ってきた。なぜなら『日本書紀』の内容は九州王朝の歴史書からの盗作。九州王朝の歴史書を『続日本紀』にあるように元明・元正天皇の時、「山沢亡命」した人々から手に入れた。それを元にして作り直したものが『日本書紀』です。元本は九州王朝の歴史書である。九州王朝の歴史書だから、とうぜん『古事記』より古い。だから梅沢氏が逐一確認されたように、内容から見ると『日本書紀』のほうがだんぜん古い。『古事記』が新しい。これは当然のことです。だから梅沢氏の言っていることは正しい。このように考えていました。  ところが読み返してみると、今や「梅沢学批判」というものを行わなければならない。『新・古代学』最終号(八号 新泉社)に「村岡学批判 ー日本思想史学の前進のために」というものを書きましたが。これと同じくします。  梅沢氏の場合は、「九州王朝」という言葉は一言も出ない。言葉だけでなく概念もない。だから「九州王朝」という概念なしにすべての論文は出来あがっている。ところで、この「削偽定實」問題ですが、わたしは「偽」=南朝、「實」=北朝である。このように理解しました。繰り返しますが校正係の用法ではなく、「偽」は南朝、「實」は北朝であるイデオロギー用語。だから「偽」である(中国の)南朝関連は、偽(いつわ)りであるからまったく認めない。全部除けと天武天皇は言った。そして「實」である北朝関連は、ぜんぶ正しい。だから全部採用する。そういう目で見ると、問題が次々解けてくる。日本の史書には、「太宰府」「牙頭」のみならず、南朝の影が色濃く残っている。そればかりでなく中国の南朝が滅んだら、九州王朝は、ただちに天子を自称した。これは、中国の北朝にとって「偽の偽」である。それを除けと天武天皇は言った。これは校正係どころではない。大注文。これこそ天武の位取りにふさわしい。  今問題にするところを言いますと、わたしの主張をいつも聞いているから、梅沢伊勢三氏はそのようなわたしの主張をご存知だった。しかし一回もわたしの名前や「九州王朝」という言葉を発せられたことはない。わたしは、梅沢氏は東北大学の大先輩であるから、後輩のわたしの説に触れられなくとも結構だ。別にクレームを付けたことはことはありません。ですがいま考えてみると、たいへんな大きな禍根を残した。なぜなら後、他のかたも、その方法をまねした。日本思想史学会の事務局のある東北大学でも、古田説はよく知っている。事務局にうるさいことを言ったり、逆に応援もした。けれども古田説に賛同する論文は一回も出なかった。歴史学の雑誌のある東大(『史学雑誌』)も京大(『史林』)も、わたしのことは良く知っている。投稿した論文もある。よく知っているけれども、わたしの説は彼らの論文には一回も出ない。アウトサイダーにした。その方法の原点が、わたしの大好きな東北大学の先輩である梅沢氏にある。あえて言えば、それらは梅沢氏の方法論の継承です。おそまきながら、ようやくそのことを確認した。  梅沢伊勢三氏自身は、わたしを認めていました。かならず古田は学問の世界に帰ってくる。そのことをわたしが、松本深志高校におる時代から公言されていた先輩です。それだけに簡単には古田の説には触れることは出来ない。善意ではありますが、結果として恣意的にわたしを除外されていた。東北大学のかたでも、梅沢氏が古田さんの説を知っていたとは、そのことに驚いていました。ですから梅沢氏がかかれた論文の中に古田の立場はいっさい入っていない。その証拠はメインの一つであるこの論文である。わたしの主張にはいっさい触れられていない。  梅沢氏自身の主張はと言いますと、天武天皇はたんなる校正係ではない。正確に言えば『日本書紀』の元をなす文章は、中国の影響が深い文章であり思想である。これに対して『古事記』は国粋主義の文章である。国粋主義の立場だった。『古事記』は、そのような中国の影響を「偽」として削って、国粋主義の立場を取った。たしかに校正係という立場ではないですが、そのようなレベルで解決できる問題ではない。しかし梅沢氏の「削偽定實」の内実は、そのようなものです。  しかし『古事記』には具合の悪いところがある。東アジアの歴史と何の接点もない。天武の意思により(中国)南朝を全部カットしてある。推古天皇や聖徳太子は出てきています。しかし「日出処天子」は出てこない。ましてや「倭の五王」は一切出てこない。これは偶然忘れたのではない。「日出処天子」や「倭の五王」を削れと天武天皇が命じたから削られている。その「削偽定實」の立場は、そのまま『日本書紀』にも引き継がれている。東アジアの歴史と何の接点もない歴史書ではダメだ。だから九州王朝の歴史書を持ってきて、『日本書紀』に全部はめ込んだ。だから見せかけだけは、中国の歴史書に対応している。しかしそれは(中国の)南朝を相手にしている形ではない。南朝はカットしている。これは天武の意思によるものだ。  この天武天皇の「削偽定實」の指示ですが、すごいですが手本はあります。手本にしたのが三世紀の『魏志倭人伝』の「魏」ではなく、(北)魏の歴史書の『魏書』。この(北)魏の歴史書を読んでビックリした。この(北)魏の歴史書には、高句麗や新羅・百済は存在するが、倭国は出ていない。つまり倭国はなかった。好太王は存在するが、戦った相手の倭国は存在しない。そのような形で出来ています。すごいですね。この理由ははっきりしています。つまり(北)魏に朝貢して来た国は存在する。倭国は(北)魏に一回も朝貢しなかった。だから倭国という国はなかった。歴史書に書かれなかった。これは日本人の感覚にはありませんね。しかし世界には、この感覚はありますね。そのような(北)魏の方針を元に、『日本書紀』という歴史書を作った。だから南朝はカットする。これだけでも論じ尽くせませんが、これだけにして割愛します。 ようするに梅沢学の問題点は、誰よりも古田武彦の歴史観をだれより一番早く詳しく知りながら、論文のうえでいっさい古田の説には言及しなかった。古田をアウトサイダーの位置においたと言っても、そう間違いではない。  ーーこのアウトサイダー問題についてもう一言いいますと、この方法について、たいへんな学界に貢献したかたがいる。それは安本美典氏です。つまり古田は偽書の支持者、場合によれば古田が偽書を作った。そういう情報を流した。わたしから言えば、バカもいい加減にしろ。わたしを知っている皆さんも、とんでもないと考えられるでしょう。しかし、それで良いのです。なぜなら学界は古田を相手にしない大義名分ができる。つまり偽書を作ったという情報さえある古田は除外していい。NHKでも民放でも偽書を作ったという噂がある古田は外してもよい。つまり古田武彦は除外してよい。つまり「古田外し」は、世界中からは、みっともないと言われる。民主主義の常識に反する。そんなことは誰でもわかっている。それに対する大義名分を与えた。そういう意味で安本美典氏の「『東日流外三郡誌』偽書説」は学界にたいへんな貢献をしている。そのことを付け加えておきます。ーー   三 「 大化の改新」批判ー津田左右吉氏・井上光貞氏の方法論に対して  いよいよ本日の主題について述べさせていただきます。それは「大化の改新」の問題です。今まで断片的に述べたことはございますが、本日のように本格的に取り上げたことはありません。初めてと言ってもよい。  そこで今回愛読しましたのが『大化の改新と東アジア』(山川出版社 一九八一年)です。朝日新聞が主催で、出席者は井上光貞氏が司会で、出席者も青木和夫、門脇貞二、武田幸男、西嶋定生、横山浩一、このようなかたがたです。もちろん中心にいるのが井上光貞氏。わたしは自宅に井上光貞全集を揃えていて見ています。改めて読み直してみて感嘆いたしました。  なにを感嘆したかと言いますと、井上光貞氏の方法論です。ご存知のように井上氏は、津田左右吉氏の方法論を受け継いでいる。直接の恩師である坂本太郎氏ではなく、早稲田大学出身の津田左右吉氏の方法論を継承する。津田氏の間違いは、わたしの間違いでもある。喜んで間違おう。そういう名文句を書かれた。ところがその場合、津田左右吉氏は皇国史観の持ち主である。皆さんは初めて聞いたら、なにを言うかと言われる。世間ではいかにも反皇国史観のナイト(騎士)のように言われている。ところが津田左右吉自身は、いや違う。わたしの学問・研究は天皇家のためである。それ以外に何もない。そういうことを頑強に主張する。これも有名な話で少しふれますが、敗戦後(一九四五年)岩波書店が論文を書いてもらい、雑誌に載せようとした。出てきた論文を見たら天皇家讃美に満ちている。岩波はがっかりした。これでは困ると書き直して欲しいと依頼した。津田左右吉は書き直しはダメだ。わたしは天皇家を尊崇している。このような話がある。家永三郎氏にも同じ目に遭った。家永氏も津田左右吉氏を尊敬していたが、会って話しをしたら、がく然とした。家永三郎氏は左翼の色彩を持ったかたですから。津田左右吉は断固として天皇家を尊崇している論旨を変えなかった。これには家永三郎氏は手を焼いた。津田左右吉は頑固な人ですから。これも有名な話だ。  このことは津田左右吉氏の本を読んでみると良くわかる。六世紀前半の大和朝廷の史官が、『日本書紀』のお話を造った。このように津田左右吉は言っています。この六世紀前半に『日本書紀』を造ったという説には意味がある。すべて述べる時間がないので、一つだけ理由をあげると、「継体紀」の前の「武烈紀」。実にいやらしいことが出てくる。あれが事実だったら、天皇家にはサディズムの血が流れている。最近の遺伝子がどうのこうというなら、天皇家にはサディズムの血が流れていると、余計に言える。ところが津田左右吉にはそれは我慢できないことだった。だから「造作」である。もちろん戦前の皇国史観は、知っていても相手にしなかった。それを戦後は「津田史学」として、架空の話として処理できることになった。こんなありがたいことは無い。そうすれば津田史観に基づいている最近の教科書でも削ることができる。  ですから誰一人として真剣にこの問題を扱おうとはしなかった。もちろん実際に武烈がサディズムの一人だったのかは、別にビデオで写しているわけでもなく、他の証言があるわけでもないので分りません。しかしはっきりしていることは、『日本書紀』を造った人々、元明・元正の時代の人々が、武烈をサディズムの一人として描きたかったということは明らかである。武烈というサディズムの跡継ぎが、天皇家であると言いたいわけではない。簡単に言えば、継体の即位はいかがわしい。継体の即位を美化するために、その前の武烈をサディズムに描いた。これだけ武烈はダメな人物だから、継体が北陸から入ってきて天皇に入れ替って即位しても無理はないでしょう。そういう説得のために武烈はサディズムにさせられた。これの持っている意味を、ほんとうは歴史学の問題として追求しなければならない。しかし戦前の学者も戦後も追求した学者はいない。津田左右吉は、これを造作であると削った。  そして「磐井の乱」。これが本当かどうか議論のあるところですが、これを津田左右吉は歴史事実にしたかった。考古学上の痕跡は何もありませんが、あれを事実にしておけば天皇家は九州を支配したことになるから、天皇家には都合がよい。ですから津田左右吉にとっては、継体の前・磐井の乱の前から造作したことはたいへん意味がある。とにかく、わたしは津田左右吉の説、六世紀の大和朝廷の史官が『日本書紀』のお話を造ったのであろう。というこの説の意味をじゅうぶん理解していなかった。ですから津田左右吉の立場は、反天皇家ではない。  同様に本日のテーマである七世紀なかばの事件である「大化の改新」についても津田左右吉は肯定する立場に立つ。部分的には、詔勅がこれだけ並んでいるのはおかしい。屯倉(みやけ)の記事についてもおかしいと言っています。しかし基本的には造作が終わった後ですから。ですから、この「大化の改新」という事件が天皇家の事件であることは疑っていない。具体的に言いますと、「御名代部」「御子代部」の地名がある。これは天皇の名前を取って地名を付けている。そのような地名説話は信用できる。他のことは信用できないことが多いけれども、この件は信用できる。井上光貞氏は、この手法を原点として採用した。それにすがりつき、そこから話を始めた。津田左右吉が言ったとおり、そのような地名説話は信用できる。のみならず津田左右吉が否定した「大化の改新」のところに書いてある他の件も認めていいのではないか。そのように井上光貞氏は拡張して採用しいった。そうして、さらに井上光貞氏は「大化の改新」肯定論に転ずる。さらに津田左右吉の説を「大化の改新」に拡張していった。 その肯定論を論ずる論拠として、『日本書紀』などの説話はすべて信用できない。だから中国史書の「倭の五王」が、『日本書紀』に出なくとも説話は信用できないのだから問題ない。(中国史書の「卑弥呼(ひみか)」「壱与(いちよ)」が、神功皇后一人になっていても問題ない。)ところが系図は信用できる。○○天皇の次は○○天皇である。それは信用できる。これを日本歴史の幹にする。系図を木の大きな幹と考える。そういう立場に立った。  そこから再び「御名代部」「御子代部」など皇子・皇女の名前を取っているとする説話を、その説話が成立した年代が○○天皇の時代の説話として出来ていますから、小さな枝として再び接続した。同じ方法で、職名、官名、地名といったいろいろな「単語」を、全部天皇家の系図という大樹の木に、中枝・小枝としてぶらさげる。そうして『日本書紀』の系図から、日本の歴史を再構成する。そのような道を開いたのが井上光貞氏である。このような立場で井上光貞氏は問題を考え、「国造性の成立」(『史学雑誌』六十 ー 一一。一九五一年)などの論文は述べられていた。  次に井上光貞氏が取り組まれたのが、有名な「郡」の問題である。「大化の改新」で、「郡」が造られたように書いてあるが、それは少しおかしい。系図や金石文でみると「評」しか出てこない。だから「郡」でなく「評」であるべきである。これが有名な郡評論争です。それで学界は二分されて、坂本太郎氏は「郡」でいいのだ。井上光貞氏は「評」でなければならない。決着がついたのは、七〇〇年といってよい干支をもった「評」と書いた木簡が、藤原宮の一番下の層から出てきた。それで「評」であることに決着がついた。井上光貞氏の説が正しかった。坂本太郎氏の敗北ということになった。  そのときの坂本太郎氏の言葉は、たいへん意味深い。「確かに、わたしのほうが間違っていた。井上君の言う通りだ。しかしわたしは、それでは『日本書紀』は、なぜ「評」を「郡」として「大化の改新」のところから書いたのか。今でも解せない。」と。これは、その通りです。しかし学界は坂本太郎氏の疑問を、負け犬の遠吠えという形でしか受け取らず、これに答えることはなかった。今でも学界ではこれの答えは出ていない。  のみならず、これを今からわたしの立場から見直しますと、確実な一点がある。それは何かというと「九州年号」。わたしは『二中歴』にある九州年号。それの最後が「大化六年」、正確には「大化七年」の春ぐらいまでのようですが、そこで九州年号が終わっている。それと藤原宮から出てきた木簡の「評」の最後と一致している。(浜松市から出てきた木簡とも。)そこで「評」がストップしている。それまで年号は連続している。  評の終結と九州年号の終末が一致している。これはたいへんな事実である。これは偶然の一致といわない限り、「必然の一致」である。  これに対し学者の説に、室町時代の坊さんが九州年号を偽作したという雑ぱくな説がある。それでは室町時代に坊さんや学者が藤原京を発掘して、「評」という木簡を見つけて、それで偽作したという事実があるのか。そんな事実はまったくない。しかも平安の年号が連綿と続いて『二中歴』に出ている。  さらにもう一つ、それを支える論理がある。「評」の責任者は、「評督」です。これはだれもが認めている。「評督」の上部単位が「都督」である。「都督」のいるところが都督府である。都督府は日本の中で九州にしかない。難波都督府や飛鳥都督府はない。筑紫都督府があり、都府楼跡がある。都府楼は都督府の略です。都督がいるところが筑紫都督府であり、その都督が全国の評督の親玉であり原点。そうすると「評」という制度は筑紫都督府から出された行政制度である。この「評」という制度は九州王朝の制度である。だから近畿天皇家は「評」を無視した。このように考えるのが筋である。だから九州年号の終結と評の終結が一致するのは当然です。偶然の一致とはとんでもない。ですから、この問題に目をそらすことは出来ない。ですからわたしの論理が間違っているなら、今の論理に反論してもらえば、それでよい。  この論理が、今の学者には見えないのです。なぜなら明治以後「九州年号」は相手にしなくてもよい。そういうことになったからです。水戸学の栗田寛が東大教授になって、そのように方向を切り替えた。明治の何年かには、教師用の教科書に「九州年号」のことは出ていた。国学の平田篤胤派の弟子たちが文部省の全身である教務省の責任者になって、教科書から「九州年号」を排除した。なにも議論して除かれたのではなく天皇家中心の学問であるから「九州年号」を排除した。ですから現在の学問が本当の学問であれば、原点にもどって「九州年号」を再検討すべきである。しかし井上光貞氏、青木和夫氏、門脇貞二氏も明治以後の教育で洗脳され育った人々であるから、「九州年号」を排除して考えている。  それに一番おかしいことがある。「評」が終結したのなら、「評」の終結宣言の詔勅がないのはおかしい。これをみてもおかしい。『日本書紀』や『続日本紀』のどこにもない。また「郡」を開始する宣言の詔勅がなければならない。あれだけ大化の改新の詔勅があるのに、「評」の開始や廃止の詔勅もない。また『万葉集』にも「評」がない。七〇個ぐらいの「郡」しか『万葉集』にない。『万葉集』には八世紀以後の歌を集めたのではないでしょう。七世紀段階の歌もあるでしょう。しかし『万葉集』には一回も「評」がない。作為以外の何ものでもない。とにかく大化の改新で、「廃評建郡」の詔勅がなければならない。『日本書紀』も偽である。『万葉集』も偽である。   四 国造性の史料批判 ーー井上光貞氏の方法論に対して  それで井上光貞氏の全集を克明に読んでいます。、井上光貞氏の方法は徹底した演繹です。帰納に対する対する演繹です。なぜなら天皇家の系図という大樹があります。それをもとに、小枝・中枝として説話や官職名や地名を単語として、どこにぶら下げるかというアイデアの連続である。結論が先に決まっている。天皇家の系図という大樹があり、天皇家以外に大樹はあり得ない。それを大前提にして、その立場から単語を、それにいかにうまく合わせるかということにつきます。一見精密な文章は、一〇〇パーセント今言ったような仕掛けで出来ている。これは皆さんが、井上光貞全集をお読みになればお分かりになると思います。  それでは、うまくいかないケースもとうぜん出てきます。たとえば井上光貞氏が大事にしておられた『出雲風土記』。「国造」記事を根拠にしておられる。ところがそうして扱ってみると、うまくいかないケースも出てくる。 『よみがえる卑弥呼』(駿々堂 古田武彦)「国造性の史料批判」より引用 (原文)国之大体、首レ震尾レ坤、東南。宮北属レ海。東、一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。 (国の大体、震(ひむがし)を首(はじめ)とし、坤(ひつじさる)を尾(をはり)とす。東と南なり。宮の北は海に属す。東は一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。) 〈細川本・倉野本・日御埼本・六所神社本とも、皆右が本文である。万葉緯本も、本文は同じ。ただ「宮」の右横に「陸乎」と注し、「東」の右下に「西乎」と注す〉 (改訂文)国之大体、首レ震尾レ坤、東南山、西北属レ海、東西一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。 国の大き体(かたち)は、震(ひむがし)を首(はじめ)とし、坤(ひつじさる)のかたを尾(をはり)とす。東と南とは山にして、西と北とは海に属(つ)けり。東西(ひのたて)は一百卅九里一百九歩(あし)、南北(ひのよこ)は一百八十三里一百七十三歩なり。〈岩波古典文学大系本、九五ぺージ〉  この原文と改訂文を比べると、原文に「首レ震尾レ坤、東南。宮北属レ海。」とあるように、明らかに「宮」がある。この宮は何か。「天の下造らしし大神、大穴持命(おおなむちのみこと)」の居る杵築の宮。この宮の北は海に属す。そうでしょう。出雲大社の北は海です。それに東は書いてあるが、西は原文にはない。書いていない。これは海しかないためです。写本は幾つかありますが、古い写本ほど、特にはっきりしている。  ところが岩波古典体系本では改訂してある。それを初めて行ったのは荷田春満(かだのあずままろ)など江戸時代の国学者です。このようなところに「宮」があるのはおかしい。「宮」は「山の西」の間違いだろう。「東」は「東西」の間違いだろう。そうなると岩波古典体系本のように、「東と南とは山」、「西と北とは海」となる。このように読むと、大穴持命のいる杵築の宮はカットされて単純な地形説明になる。ですが南はそのとおり「山」、中国山地ですが、東は「山」とは単純に言えない。おかしい。鳥取県の大山(だいせん)は、だいぶ向こうになる。東が山というのは事実に合っていない。そして「西と北とは海に属(つ)けり。」と読む。そうすると西が広がり「西と北」は大穴持命のいる杵築の宮ではなくなる。そして出雲の真ん中から見れば西も北も陸地が海まで広がっている。このように国学者が次々直したものを岩波古典体系本は使っている。それを井上光貞氏も使っている。『出雲風土記』のこれらの文章には大穴持命は存在しないという立場に立つ。なぜ、このことが大事で改訂するかと言えば、それは次の文章です。 (原文) 1, 国造神吉調望、参二向朝廷一時、御沐之忌玉、故云二忌部一。〈意宇(おう)郡、忌部の神戸。細川・倉野・日御埼・六所、の四古写本〉 2. 故国造吉事奏、参二向朝廷一時、其水活出而、用初也。〈仁多(にた)郡、三津の郷〉 (改訂文) 1, 国造神吉詞望、参二向朝廷一時、御沐之忌里、故云二忌部一。 2, 故、国造神吉事奏、参二向朝廷一時、其水活出而、用初也。〈仁多(にた)郡、三澤の郷〉  『出雲風土記』中、「国造 ーー 朝廷」間の関係を具体的に記述した、二個のフレーズが存在する。当問題の基本をなす史料として左にかかげる。  これは部民制を論じる場合たいへん重要な文章です。そのとき改竄(かいざん)された文章を井上光貞氏も使う。「調」というのは具体的な物質です。それを「詞」という言葉に替える。そして「玉」を「里」に替える。キーポイントは、「朝廷」。国学者も井上光貞氏も「朝廷」と言えば、大和朝廷であるという立場に立つ。だから大和朝廷に出雲国造が行くときに、具体的な「調」である品物を運ぶのは大変だから、言葉である「詞」を献上する。八世紀段階にはそういうことがありましたから、それに合せて、この原文を改訂する。  しかしわたしは、実際に出雲に玉造温泉がありますように、玉(ぎょく)の産地です。玉(ぎょく)を「調」として朝廷である杵築の宮へもっていく。だから「忌部」というと書いてある。すでに「忌部」という概念が、出雲で大穴持命の存在するときに造られていた。そういう文章なのです。それでは工合が悪いから「朝廷」を大和朝廷と解釈して原文を改訂する。  次は、三津の郷を三澤の郷と改訂してあるが「三津の郷」が原文なのです。これは何の話であると言うと、 大穴持命の子に口の利けない子供がいて、三津の郷に行ったら口が利けないという唖が直ったという話が書いてある。それから以後、出雲国造が出雲朝廷に参向するとき、縁起のよい三津の郷の水を酌んで持っていく。三津の郷から朝廷である杵築の宮へは、川を下れば、すぐに行ける。今は揖斐川は宍道湖に注いでいるが、昔は西に向いており、出雲大社側の近くを通る。半日もかからないうちに到着して朝廷に参向できる。  ところが、その「朝廷」を大和朝廷と解釈する。そのときの出雲国造が大和朝廷に参向する折り、三澤の郷で、手を潤し、それから大和に向かうと解釈する。わたしも行きましたが三澤の郷は、難所というか山の上の大変な場所です。しかも大和に行く場所でもない。広島県に行くなら、まだ別だが。ですから出雲国造が大和朝廷に参向するために、いったん訳のわからない場所に行き、そこから大和朝廷に行くという変な国学者の解釈に、井上光貞氏も岩波古典体系も従っている。  この天皇家中心という大樹は、津田左右吉氏、井上光貞氏だけが立てたのではない。門脇貞二氏、岸俊男氏も、同じ立場で議論されている。自分たちの都合のよい文面で議論している。しかしわたしの立場は、イデオロギーで改竄(かいざん)するという立場ではない。  すでに出雲の中で「朝廷」という概念があった。この出雲朝廷のもとの「国造」という概念。この「国造」という概念も、今の国という概念でなく「仁多の郷」ぐらいの狭い範囲の「国造」がたくさんあって、それを統括するものとして「天の下造らしし大神、大穴持命(おおなむちのみこと)」がいる出雲朝廷となる。この原文の構成はそうなっている。出雲朝廷であって大和朝廷ではない。それを江戸時代初期の国学者が、「朝廷」と言えば大和朝廷。それいがいの「朝廷」を認めないという立場で、それに矛盾する文章があれば遠慮なく削って、使うという立場にたつ。改竄することを躊躇しない。「邪馬一国」を「邪馬台国」に代えるのはとうぜんであるという立場である。  この件は一九八七年に出版した『よみがえる卑弥呼(ひみか)』(駿々堂)の中に、「国造制の史料批判」(正続)、「部民制の史料批判」として、かなり長い論文ですが出ています。それをご覧になれば、実証的に版本をあげて説明してあります。ですがこれは発表して二〇年以上になりますが、だれ一人反論は、いっさいございません。  ーーこれは東大史学雑誌に出しましたが、ぜんぜん返事が来ない。普通は長くても半年ぐらいのうちに、掲載するとかしないとか連絡がくる。一年近く音沙汰がない。それで『よみがえる卑弥呼(ひみか)』の出版の話が持ち上がり、そのほうが後になるだろうとOKした。しかしそれ以後も連絡がなく、出版が先になりそうなので、東大史学会に取り下げる由の話をしました。そうすると直ぐに送り返してきた。今から考えると連絡しないで放置しておけばよかった。後でひとに言われてわかったことなのですが、学術雑誌に掲載される意味と、市販の単行本に掲載されるのとは意味が違う。学術雑誌に掲載されると反応があると人にも言われた。そのような考えも本当かなという気もするが。たとえば「多元的古代の成立」という論文は、学術雑誌に掲載されたがぜんぜん反応はなかった。これもその時はそのような考えはなかった。気には留めなかったが今から考えてみると、東大史学会のほうは困っていたのだと思う。なにしろ通説の学者、わたし以外の全部の学者が採用している文章の原文が違うと言ったのですから。自分で言うのもなんだが、わたしの説のほうが筋が通っていると思う。イデオロギーや主義主張に従って考えるのではなく、古写本の事実を揚げて精密に実証的に論理を展開していったのだから。ですから、この主張を受け入れざるを得ない。ですが、この主張を受け入れたらどうなるか。頭の悪いひとではないから分かる。それで店晒しにして放置していた。ーー  ですから論理は動かない。論理的には井上光貞氏の提起した天皇家の大樹は倒れている。実証的に、その基礎がない。「神部」や「忌部」の問題は、井上光貞氏の提起した基礎の問題ですから。  それでこの問題の結びで言いますが、井上光貞氏の論理は逆立ちしている。皆さん、お考えになってもわかると思う。天皇家には皇子がたくさんいる。ヤマトタケルには皇子が一〇〇人ぐらいいる。それらの皇子が全部散らばって、「御名代部」「御子代部」のように各地に地名を残している。そんなことがありますか。常識としてありうることではない。当然ながら史実は逆です。地名というのは、人々の生活する実用品。しかるべき理由があって地名が成立している。その中から、その地名を取って皇子の名前を付けるのが当たり前の姿。皇女の名前を付けるのが普通。中には逆に皇子・皇女の名前を取って地名を付けるケースが、ないとは言えない。それは例外的、特殊のケースである。基本的には、地名が先で、皇子・皇女の名前が後。それにちなんで皇子・皇女の名前が付けられているのが、世界の常識だと考える。しかし津田左右吉・井上光貞の論理の大樹の逆の構成になっている。地名と天皇家の名前に共通するものがあれば、「御名代部」「御子代部」のように天皇家から来ているとして、天皇家に関係する大樹に接続する。この方法で歴史は構成できる。  この方法は、よくぞ明治以来戦前・戦後も行っていて、ここまで来たものだと思う。しかし、この方法はもうおかしいよという人々が出始めたら、この方法はもう通用しない。裸の王様なのですから。そんなことは分かっていると思うからこそ、古田をシンポジウムに呼んだり討論するとやばいということが分かっている。古田の言うことに答えられないということが分かっているから、アウトサイダーにしている。そのように考えます。  五 大化改新はなかった  さて、それでは古田の考えでは「大化の改新」の詔勅とはなにか。それについてどう考えているか聞きたい。それについて述べたいと思います。  そこに縦軸と横軸のグラフが書いてありますが、松本郁子さんの『太田覚民と日露交流』(ミネルヴァ書房)というすばらしい本がありますが、そこで最後に論じている方法論の問題。食い違い・ズレが生じていますが、そのズレがたいへん大事なのだ。タイム・ラグの問題。「縦軸と横軸」ーー時間と空間のラグ《ズレ》」、これを解明することが事実が見えてくる。そういう方法論上の論理を展開された。  そこで論じている方法論の問題にたって考えてみますと、明らかに「大化の改新」の詔勅にはズレがある。というかズレが多い。そのズレは何かということです。結局これは七〇一以後の(近畿)天皇家が、『日本書紀』という歴史書の形をとって八世紀の元明・元正たちのやり方を合理化する弁護するためのものである。歴史書の形をとって、八世紀という現在を合理化する書物が『日本書紀』。皆さん、一体何を言っているのかと言われますが簡単なことです。  例を言いますが「万世一系の史料批判」(古田史学会報七三号、『古代に真実を求めて』第十集掲載)で述べましたことです。これは何かと言いますと、「万世一系」ということを言い始めた人がおり、昨年来流行りましたが。これは日本が「万世一系」の国であるという言い方を復活させて言い始めた。ですが、わたしから言うと「万世一系」という言い方はたいへんおかしい。別に女系が良いとか男系が悪いとか言うつもりはありませんが、たいへん論理としておかしい。なぜなら明治以後、男系の天皇が継ぐことを宣言した理由ははっきりしている。これは江戸幕府の模倣としての明治政府である。軍事力を統率するための征夷大将軍。だから江戸幕府の将軍は男系ばかりである。軍事力を統率するための将軍であることは、みんな知っている。しかしその(徳川)将軍家ではダメだよ。天皇家が今後全軍を率いる。この体制が明治以後の体制です。だから明治以後の天皇は、大元帥陛下になった。大元帥陛下だから男性、男系でなければならない。そういう立場を取った。それが一番の理由である。何も『古事記』『日本書紀』を調べたり、遺伝子を調べたりして決めたわけでない。その証拠に江戸時代には天皇は女系もいた。第一、一番の始祖に天照大神がいるが、天照は女系に決まっている。天照大神(あまてるおおかみ)の子孫であることを『日本書紀』では一番強調している。だから「男系でなければならない。」と、よくも言えたものだ。しかも明治以後「万世一系」と言っているが天照からの万世一系。天皇家が直接の祖先と言っている神武も、天照大神を皇祖として祀っている。その皇祖天照(あまてる)からの万世一系と言っている。もちろん、このこと自身は嘘(うそ)ですが、建前として採用した。  こんどは、また『軍人勅諭』で我が国の天皇は、代々兵士を統率して、天皇自ら国を率き給もう。これが我が国の伝統であると、このように強調した。戦争中さんざん聞かされたが、これももちろん嘘です。神武天皇は自ら率いて行ったようだが、その他の天皇が、先頭にたって刀を振って行ったという記録はない。しかし『軍人勅諭』を見れば、そのように国民が錯覚するように書いてある。これも嘘であることは、当時のインテリならすぐに分かった。『古事記』『日本書紀』に書いてあることとは違う。しかし明治以後の体制を合理化するために言っていることは分かり切っています。『古事記』『日本書紀』に書いてあることとは違うといえば、野暮ったいというか、言うほうはそんな嘘は分かっているから、いちいち文句は言うなということになる。だから問題は明治以後の体制を美化し合理化するために、歴史を曲げてというか、歴史を部分的に都合の良いところを取って、さも伝統であるかのように言っていることは明らかである。  最近もそうです。逆に天皇は古来から象徴だった。それが日本の伝統だと言い始めている学者・評論家もいる。それも嘘です。それでは神武天皇は象徴ではない。軍を率いて飛び回っている。また平安・鎌倉時代には、親鸞を流罪にしたり、住蓮・安楽の首を切ったりしている。象徴天皇がそんなことを出来ますか。別に親鸞だけではない。奈良・平安時代にはいつも流罪にしたり死刑にしている。しかし、これも嘘に決まっている。それを敗戦(第二次世界大戦・太平洋戦争)後の体制は象徴天皇です。それを美化するために、嘘でもよいから歴史をさかのぼって美化しようとする御用学者が言っているだけの話だ。要は現在の権力を合理化し美化するために、歴史を利用する。曲げて使う。嘘を平気で言う。それは言葉が悪いですが、それが権力が行ってきたことです。  それで今偉そうに言っていますが、わたし自身が大きな思い違いをしていたことがわかってきた。わたしが内心たいへん悩んでいたことがある。それは歴史観が劇的に変動するのはいつのことだろうか。明治維新にしても、江戸幕府から明治維新に政治体制が変ったときに歴史観が変動した。また戦争(第二次世界大戦・太平洋戦争)中から敗戦後、天皇からアメリカ(マッカーサー)に支配者が替ったから歴史観が変動したと考えたこともあった。いろいろ理屈を言ってみても政治的な大変動がなければ、歴史観が変動するのは無理ではないかと内心考えていた。  しかし今考えてみますと、ぜんぜんナンセンスな悩みだ。まったく無意味な悩みだった。なぜかと言えば結局明治維新の時は、江戸幕府に都合の良い学問は朱子学でした。それが今度明治維新以後は、天皇中心体制に都合の良い歴史観に変わったわけです。それで江戸時代の体制に都合の良い歴史観をA歴史観とします。明治維新以後には天皇家中心史観であるB歴史観に変わった。それが敗戦後はアメリカ(マッカーサー)に都合の良い象徴という歴史観に変わった。蛮族を討伐するような天皇家中心史観であるB歴史観から、アメリカに都合の良い象徴天皇になったから、それに都合の良い歴史観として津田史学が利用された。だから何も降って沸いたように、ぜんぜん別の歴史観に変わったわけではない。戦前・戦中の権力に都合の良い歴史観から、戦後のアメリカに都合の良いC歴史観に変わっただけです。だから政治体制で変わるのはあたり前です。三つともそのサンプルに過ぎない。いずれも偽の替り方です。嘘から嘘への替り方です。  それに対して権力にかかわりなく、人間の理性として本当はこうだよと言い始めて変るのが、本当の変りかただ。今ごろ気がついたのかと笑われそうだが、やっと気がついた。おそらく、これは日本だけではないだろうという予感を持っている。今まで歴史は権力者が正当化のために利用してきた。おそらく外国の場合も例外はなかろうと、ひそかに推察している。また外国の歴史書を見ていけば、おそらくサンプルは見つかるだろうと推察している。政治的な大変動がなければ歴史観が変動するのは無理ではないか、という権力に頭が縛られた状態にわたしはいた。しかしそれでは人類は幸せにならない。国家のロボットとしての国民に過ぎない。その国民を超えて人間ととして目覚める時がきた。もちろん宗教からも目覚める。宗教が自縛している世界観から自らを解放する。そのための学問がいま始まる。そのように考えております。  それで元に戻り、「大化の改新」の詔勅はどうなっているのか。七〇一年以後は、完全に(近畿)天皇家の支配体制になった。それを合理化するために『日本書紀』は書かれた。その材料として使われたのは九州王朝の歴史書である。これも繰り返し言ってきましたので、手短に言います。『続日本紀』にあるように「山沢亡命した人々」である九州王朝の残党から「禁書」を提出させた。次には武器も提出させましたが。それで大量の歴史書が手に入った。それで東アジアの歴史とは関わりがない形になっていた『古事記』をやめて、『日本書紀』の形にした。材料として九州王朝の歴史書に書かれていた事がらの単語だけを使って、近畿天皇家の事がらにして『日本書紀』に散りばめた。グラフで言いますと、横軸は七百一年で、ここから下が「大化の改新」の内容で合理化したい事がら。縦軸が材料として九州王朝の歴史書の用語。そのようなグラフとして『日本書紀』を造った。  具体的に一つ申しますと、「大化の改新」の詔勅の中にシンボルとして「公地公民」の詔勅がある。これでたくさんの学者が悩んでいた。最初「大化の改新」は奴隷制からの開放だというたいへん勇ましいことを書いた戦前の唯物論の学者からあった。今はそれほどは言わないけれども、天皇家の直属としての「公地公民」になったのだ。それまでは豪族の所有であったという考えは認める。そのような考えであった。門脇氏や原さんなどは、時代を少しずらして天智の「近江令」、天武の「 浄御原令」の詔勅であるとずらして考えています。ですが天皇家の「公地公民」という考えは変っていない。  これらは、いずれもダメなのです。なぜなら、これらは大変革です。このような大変革が六百四十五年(虫のごとく入鹿を切る)に、起った形跡は考古学的に何もない。天智の「近江令」、天武の「浄御原令」に持ってきても、何もない。それではどこに持って行くしかないか。岸俊男氏などが一部触れられていたように七〇一以後大宝律令に持って行くと、だいたい合う。  だいたい合うと言ったが、大事なことが一つある。それは「公地公民」とは何か。「私地私民」とは何か。これを国語的に解釈したのではダメです。「私地私民」とは、九州王朝とそれに協力した豪族たちとその土地が「私地私民」。「公地公民」とは、近畿天皇家とそれに協力した藤原氏たちとその土地が「公地公民」。つまり天皇家に協力した人々とその土地が「公地公民」なのです。「私地私民」から「公地公民」へとは、九州王朝から天皇家に様相が一変した。そんなことが、なぜ六百四十五年に言えるのか。今までに「公地公民」と「私地私民」を、このように解釈した論文は見たことがない。ですが、このような解釈しかない。そのような解釈に立てば、七〇一にドンピシャリ。従来の六百四十五年にすれば豪族はいなくなったか。とんでもない。蘇我氏の一族なども、まだがんばっている。また七〇一以後も藤原氏が土地を独占する。それでなぜ「公地公民」なのか。それでは理屈は合わないから、いろいろへ理屈をつけて、こうであろうと手直しした微差調整の固まりの学者の論文が毎年出ている。  そんなことが、なぜ言えるのか。そのように言われるだろうが、この「公地公民」と「私地私民」の手本として用いたのが、先ほどと同じく倭国が出てこない(北)魏の歴史書『魏書』。  『魏書』で、この(北)魏は、北方の蛮族と言われていた鮮卑が南下して洛陽に侵入した。それまでの漢・魏・(西)晋の土地を支配した。それで晋の一部が南京(健康)に行って南朝を称し(東)晋を造った。それで、この北朝を称した(北)魏を考えてみます。天子は鮮卑です。また鮮卑の部族の長が大臣になったりした。そのような支配下になった。それまでは(西)晋の天子の土地だったり、豪族の土地だったりした。その(西)晋の土地をぜんぶ取り上げて、侵略者である鮮卑の土地にするわけですから名目がいる。それが「公地公民」という正しい土地の支配なのです。そしてこれまで正しいと言われていた漢・魏・(西)晋の土地が「私地私民」、偽りの支配なのです。彼らの場合騎馬民族ですから、馬の管理から始まり土地も行う。これをやらなければ(北)魏という王朝は成立しえない。これが先例です。この話に、何とべらぼうの話だと皆さん言われますが、明確でたいへん分かりやすい。「公地公民」は、九州王朝の支配から天皇家の支配に代えた。このような話である。  このことから何が言えるかといいますと、「評」は、九州王朝の制度である。だから「評」が施行されていた時代は九州王朝の時代である。この論理通り、「藤原宮」はほとんど最後まで九州王朝の時代である。ほとんど最後までというのは、文武天皇から何年かは「藤原宮」にありますので。そこは例外の移行期なのでしょうが、それ以外は「評」、九州王朝の支配のもとにあった。論理の導くところへ行こうではないか。たとえ如何なるところへ行こうとも。岡田甫(はじめ)先生からお聞きした言葉に従うかぎりはそのようになる。  しかし皆さんは「藤原宮」「「浄御原宮」「難波宮」は、それなりにあるではないか。それらはどうなるのか。これらの「宮」には大極殿がない。正確に言うと、大極殿という地名の伝承がない。わたしのいる長岡京には、薮と田んぼのなかに「大極殿」という地名の伝承があり、発掘してみると文字通り大極殿が出てきた。また平城京では、「大極の芝」という伝承があって発掘したら大極殿だった。ただの地名でも残っているのに、まして「大極殿」という地名が残らないはずがない。ところが「藤原宮」「浄御原宮」「難波宮」にも「大極殿」という地名の伝承はいっさいない。その事実に目をそむけてはいけない。現在の学者が『日本書紀』にしたがって名付けた。それは問題にならない。今の天皇家の大樹を信仰する人はそれでもよいが、信仰しない人にとってはまったく意味がない。  それに対して、九州太宰府では、「紫宸殿」という字地名が残っている。この地名は七〇一以前に決まっている。それ以後につけても残るはずがない。九州に「紫宸殿」があり、近畿に「大極殿」がある。この日本列島に、同じ時期に二つの天子の地名がある。そんなばかなことは絶対にない。そんな大極殿があるところに、「評」は用いない。その「大極殿」と「評」を混ぜて、「評」はあまり使われなかったのであるとか。へ理屈を言ってはいけない。やはり七〇一までは、九州王朝の支配下にあった。もちろん近畿天皇家には唐がバックにあったでしょうが。  もう一言別の観点から言っておきます。長岡京に「雲の宮」というところがあり、遺跡がある。ところがそこには祭祀土器ばかり出てくる。普通は生活土器が出てくる。ところがここは八・九割は祭祀土器ばかりである。発掘した教育委員会の人もどうしてか分からないと言っています。しかしわたしから見るとたいへん分かりやすい。これは天候の「雲(cloud)」ではなくて、「土蜘蛛」の「蜘蛛(クモ)」です。  不可思議を意味する「ク」、海の藻のように集団を意味する「モ」です。だから不可思議な集団の意味をこめて「くも」と言っています。「宮(みや)」は、宮殿を意味する「宮(みや)」です。だから弥生時代に宮殿があったから「雲の宮」です。だから、そこからは祭祀土器しか出てこない。たいへん分かり切ったことです。何をわたしが言いたいかと言いますと、弥生時代の地名が二一世紀、現在まで残っている。大極殿よりずっと古い。「藤原宮」「浄御原宮」「難波宮」よりずっと古い。その地名すら残っている。なぜ大阪府や奈良県で残らないのか。わたしには、そのようなことを信ずることは出来ません。   六 『日本書紀』は大胆で露骨で、かつ不器用である  「大化改新」の詔勅を考える上で、まず『日本書紀』全体の構造について申しあげます。『日本書紀』は大胆で露骨で、かつ不器用である。変な言い方ですが、大胆で露骨で不器用な造り方をしている。これが現在のわたしの感想でございます。たとえば有名な「屯倉(みやけ)」関係の記事、大半を短い治世の安閑天皇のところに投げ入れてある。これは有名なことです。念のため資料のレリーフを見てください。(資料略)そんなことはありえないと、津田左右吉いらい誰もがそう思っている。これはわたしどもの立場から見ると九州王朝の屯倉記事をすべてここに入れた。言葉は悪いですが「屯倉」の収蔵庫、一括して入れてしまった。いわば『事典』のように、屯倉関係はここをご覧くださいと集めて投げこんだ。ずいぶん大胆で露骨だ。  同じように『日本書紀』を見ると、大化二年の「大化の改新」のところに「詔勅」関係記事を投げ入れた。そのように考えると分かりやすい。六四五年に蘇我入鹿を切ってからあわてて「詔勅」を造ったとは考えられないし、逆に「詔勅」を全部造っておいてから入鹿を切ったと考えるのもおかしい。だから津田左右吉もおかしいと言っていますように、「屯倉」問題と同様「詔勅」関係記事を投げこんだ。わたしの立場から見ると九州王朝の歴史書から持ってきて入れた。もちろんあちらこちら手直しを最低限行っている。それだけにとうぜんボロも出ます。  1 東国問題  そのボロの一つが東国問題です。だからプロの学者たちを悩ませると同時に喜んだのが、東国問題です。「大化の改新」の詔勅の最初が、東国らの国司に対する詔勅。このなぜ詔勅の一番始めが東国なのか。おかしいですね。しかも後二回ほど、八番目・九番目の詔勅も東国の国司に対してです。なぜ東国の国司ばかりで西国の国司はないのか。  他方近畿地方が「畿内」であるという概念がある。五番目の詔勅に「凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしふち)より以来、北は近江(あふみ)の狭狭波の合坂山(あふさかやま)より以来を、畿内國(うちつくに)とす。」と「畿内」の概念が書いてあります。それがほんとうに「畿内」が中心なら西国があってよい。  変ですがこれも九州王朝の歴史書から持ってきたと考える。そうすればたいへん自然です。九州(島)を原点とすれば、東はすべて東国しかない。先ほどの出雲風土記の解説と同じように。もちろん九州の記事をはカットしてありませんが、東国から始まっていることの意味がわかる。  それでこの問題について古賀さんと話をしていましたとき、画期線である「七〇一年」問題を確認するため、東京で九〇年代行われた「共同研究会」で、そのとき話が出ていましたと話された。それで当時の会長である高田かつ子さんは亡くなったので、多元的古代研究会の会長安藤哲郎氏に資料について問い合わせを行ったら見当たらないとのご返事だった。もちろんこれは資料が見当たらないというだけで、議論されたことは確かです。九州王朝ということを考えればなぜ「東国」かという疑問はとうぜん出ますが、今日のように進んで論議の対象になったことはなかったと思います。とうぜん九州王朝説という立場に立てば、この「東国」は、九州を原点にする「東国」ではないかという疑問が出てきて当たり前です。今回良く見るとみれば、やはりそうだった。 岩波古典文学体系に準拠 (一番目)孝徳紀・大化元年(六四五) 八月の丙申の朔日庚子に、東國の國司を拝す。・・・ (八番目)孝徳紀・大化二年(六四六) 三月の癸亥の朔甲子に、東國の國司等に詔して曰はく。・・・東(あづま)の方の八道を治めしむ。・・・ (九番目) ・・・辛巳に東國の朝集使等(まうでうごなるつかひたち)に詔して曰はく。  これに対して、孝徳紀・大化二年(646)三月二十二日の条に、「畿内より始めて、四方(よも)の國に至まで・・・・・畿内に告へ。其の四方の諸國の國造等にも、・・・」とあり、これで見ると、「畿内」対「四方(よも)」という概念になっています。ですが詔勅の具体的な事例には「東国」の概念しかない。変です。ですから「東国」ということが「四方(よも)の國」に当たっている。「四方(よも)」が本当の四方なら、西国にあたる九州を始め、中国・四国地方もあってよい。だから合わない。  ところが九州島が原点であれは、「四方」は「東国」に当たる。九州王朝の歴史書という元に還せばわかる。近畿が原点なら理屈に合わずギクシャクする。この「東国」問題については学者の論文もたくさん出ているが、わたしから見ると、いろいろへ理屈を付けているようにしか見えない。  2 「墓」の規模問題  次に「墓」の規模の問題について論じます。身分によって、大きさを違えています。「王」から、「大仁」・「小仁」、「大禮」から「小智」まで、身分によって、墓の大きさを決めている。 大化二年(646)三月二十一日 「夫れ、王より以上の墓は、其の内の長さ九尺。濶(ひろ)さ五尺、其の外の域は、方九尋(ひろ)、高さ五尋。役一千人、七日に訖しめよ。・・・・・大仁・小仁の墓は其の内の長さ九尺。高さ濶さ各四尺、封つずして平はらしめよ。役一百人。・・・・・大禮より以下、小智より以上の墓は大仁に准へ。役五十人。・・・」  ところが、この墓の大きさとは何か。尋(ひろ じん)というのは、周代の八尺で日本では六尺に当たる。一尺は約三十センチで、六尺は約一・八メートル。これは辞書に書いてある通りです。ですから九尋(ひろ)というのは一六・二メートルになり、陵墓そのものは縦一六メートル・横九メートルぐらいの大きさです。これが一番身分の高い人の墓です。近畿にいる皆さんは信じられますか。そんなばかなと思われるでしょうが、このように書いてあります。第一孝徳天皇自身がこの規定を破っている。大阪府太子町にある孝徳天皇の陵墓は、この規定をはるかに上廻る直径三五メートルの円墳です。これも考古学に詳しい伊東さんに問い合わせて、七世紀段階の墓の規模を教えていただきました。孝徳天皇陵だけでなく、天皇陵でない墓もすべてこれを上廻っている。  だから『大化改新と東アジア』(山川出版社 一九八一年)では、わたしの旧制広島高校の先輩に当たる九州大学教授であった考古学担当の横山浩一氏は、 「この薄葬の詔を起草いたしました人物、この人物は古墳築造についての実際的な知識をもたなかった。古墳をみずから設計したこともないし、また施行にたずさわったことのない人物であることは確かなようです。」(一〇八ページ) と発言している。そして皆さん賛成されている。異論は出ない。これもおかしい。頭の中で想像したぐらいで書けるはずがない。 (α)『隋書』イ妥国伝 内官に一二等有り。一を大徳と曰い、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義。次は大禮、次は小禮、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定數なし。 (β)『日本書紀』推古紀十一年 十二月の戊辰の朔壬申に、始めて冠位(かうぶりのくらい)を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并て十二階。並びに當れる色・・・        イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO  しかもここには、重要なメルマークがある。「大仁」・「小仁」、「大禮」から「小智」までの十二階の官位により墓の大きさが違っている。この十二階の官位が、『隋書』イ妥国伝に出てくることは有名です。『隋書』イ妥国伝は、「徳」に「仁義礼智信」が接続されている。『日本書紀』推古紀十一年では、ほぼ同じですが、順序が一部入れ替っている。つまり『隋書』イ妥国伝の最後にあった「信」が四番目に格上げされている。見れば分かるように、両者がまったく別のものであるいう人はいない。どちらかが先で、どちらかが手直しされた。とうぜん元は、「徳仁義礼智信」です。中国の儒教にある「仁義礼智信」を「徳」に接続し作成したのが『隋書』イ妥国伝の表記です。その後何らかの理由で、「信」を上にあげ手直して倭国風に変えた。これはなんらかの理由、実勢力の変動上あるいは「儒教」の理解の上の教義上の変動で起ったものだと思います。元も倭国(九州王朝)、手直ししたのも倭国側です。これを『日本書紀』にはめ込んだ。一時は悩んでおりましたが、今は悩んでおりません。官位十二階の実施は「評」の時代ですから、筑紫が原点。九州太宰府に紫宸殿があり、とうぜん九州王朝が「官位十二階」を作成し手直しした。それを大胆に露骨に不器用に九州王朝の史書から『日本書紀』にはめ込んだ。  という考えに立ちますと、とうぜんこれらの墓は、九州の墓になる。大和の墓ではない。考古学でも九州の墓は小さい。特に七世紀はたいへん小さい。この理由は明らかです。この時期は高句麗と唐が準戦闘状態に入る。任那が陥落して新羅とも準戦闘状態に入る。この状態で大きなお墓を造る余裕はない。のみならず軍事要塞としての神籠石山城。学者はみんな無視していますが、この神籠石山城はたいへんな労力を必要とする。経済力が必要である。ですから神籠石山城を造っていて、かつ大きな古墳を造る余裕がない。理屈の上で薄葬令を発布したように書いてあるが、実体は準戦闘状態における墓として大きさを極力抑えてある。その点、分家である近畿天皇家では直接の戦闘状態でなかったので、かなり大きな古墳が造られている。九州なら実体とあう。近畿ではまったくあわない。  ですから、墓の規模の問題(薄葬令)から論じた「官位十二階」の問題は、九州王朝で造られた官位であることを証明している記事なのです。  この問題は、とうぜん有名な「十七条の憲法」も九州王朝側で造られたことを意味する。「君は天なり」と言っている。天子は一人と言っている。それでいて神籠石山城が、太宰府(紫宸殿)を取り囲んでいる。天子が近畿に居れば支離滅裂です。そんなことはありえない。天子が神籠石山城の中心にいる時に詔勅を発布している。ですがそのとき九州を脅かす勢力が、すでに近畿や吉備に現われている。しかし倭国の中心は九州にしかない。九州が中心であるという意思表示が「十七条の憲法」なのです。それを大胆に露骨に不器用に『日本書紀』に持ち込んで書いてある。  3 九州の吉野  以上で、有名な「東国」問題と「墓」の規模問題について述べました。それでも納得されない人もおりますでしょうから、もう一つ「九州の吉野」について論じておきます。これは京都生まれの新庄智恵子さんから、お手紙をいただきました。   “持統紀は、持統天皇がくりかえし、何回も吉野へ行幸されているけれど、わたしには吉野がそれほど魅力のある、行かねばならぬところとは思われない。   これはもしかすると、あなたの言われる九州王朝の天子が、太宰府から香椎の宮あたり「美野 よしの」へ行かれた記事を焼き直して、持統天皇の行幸として「はめこん」だのではないでしょうか”  わたしはそう言われてビックリした。そんなことは思ってみたこともなかった。しかしその目で見ていくと、確かにおかしい。わたしの『壬申大乱』(東洋書林)で詳しく論じていますので概略を述べます。  それで持統天皇は、三十一回行っているが平均して行っている。奈良県吉野なら桜の季節に行くのが普通だ。それが冬にも、春と同じ回数行っている。なぜ冬に行くのか。のみならず日帰りで何回も行っている。確かに飛鳥から吉野へは日帰りで行けないことはないが、山道を急いで行って、着けばすぐ帰らなければならない。なぜ吉野へ急いで行き帰る必要があるのか。おかしい。それに天武天皇を追慕するためだと言っているが、退位したら、いよいよ吉野へ行くのが普通だが、行ってはいない。いよいよおかしい。  これに対し九州の吉野。新庄智恵子さんは、福岡近辺の吉野だと考えましたが、わたしは弥生遺跡で有名な佐賀県吉野ヶ里の「吉野」に当てました。ここなら太宰府から軍用道路が伸びている。太宰府方面から、有明海沿岸に向けて土堤が築造されている。「堤土塁跡」(佐賀県県指定遺跡)と呼ばれる。これは馬で行って帰ってくる軍用道路だ。何のために行くのか。とうぜん有明海に軍船が集結している。それらの軍船や兵士を閲兵するためである。九州の吉野なら簡単に日帰りできる。  以上、それ以外にたくさんの証拠を『壬申大乱』であげましたが、まさに九州王朝中心の「吉野」記事を、『日本書紀』に持っていって「持統紀」にはめ込んでいる。『日本書紀』の露骨で、大胆で、不器用の最たる記事です。器用にやれば、平均に吉野へ行くのでなく春のころ吉野へ行くように作り直してあれば、新庄智恵子さんにも解らなかった。あるいは日帰り記事をなくせば解らなかった。それを訂正せずに、そのまま吉野行幸として九州王朝の記事から持ってきて、はめ込んだ。  4 「大化」「朱鳥」「白雉」の三つの年号  もう一つ重大なことがある。当然ながら「大化」「朱鳥」「白雉」の三つの年号を、『日本書紀』で使ったことです。これらの年号を、意識して使っている。偶然使ったわけではない。これも『日本書紀』の三つの年号が「真」なら、(『二中歴』の)九州年号が「偽」であると考えていた時期がありました。しかし先ほどの論理で言えば、九州年号がリアルである。「評」と一致した。とうぜん『日本書紀』の年号群が「偽」となる。通説の学者は明治以来、九州年号が「偽」と思っている。近畿天皇家が、年号を造ったと思い込んでいるが。  そうしますと、九州年号の最後が「大化」である。『二中歴』では「大化六年」となっていますが、正確には「大化七年春」まで、それから「大宝元年」となる。これがまさに「大化改新」。以上「大化改新」で、「私地私民」が「公地公民」に代わった。その「大化改新」という言葉を五十五年持ち上げて、六百四十五年にはめ込んだ。すごい偽作ですね。この『日本書紀』が偽作でなかったら、他のものは何というのか。それ以上に『日本書紀』は、もっと質の悪い作り物ではないかと言えるかも知れません。   七 「乙巳(いっし)の変」はなかった  さてそのような目で見ますと、もう一つのおもしろい問題もある。今「大化改新」の詔勅については、六百四十五年はおかしい。そのように疑っています。だから、先ほどより「近江令」や「浄御原令」に移動させて考えています。しかしだれ一人疑わなかったのが「」、六百四十五年蘇我入鹿を切ったことです。あれがおかしいと誰一人疑わなかったのですが、本当にそうなのか。これも疑問を持った。  それで別に息子は歴史の知識があるわけではないが、息子に話した。息子は会社員です。そうすると彼が「六十年周期がずれていないか」と言った。しかし七百一年まで五十五年だから、六十年にならないと言ったら、そうかと言ってそれで終わった。  ですが後で見ると関係することがあった。今の学者は「大化改新」は疑わしいが、蘇我入鹿を切った「乙巳いっしの変」は疑いないと考えています。ところが六百四十五年(乙巳)から六十年、七百年から五年してみると「乙巳」となり、七百五年唐(周)の則天武后が「乙巳」で死んでいる。同じく六十年前の六百四十五年には、日本の女帝皇極天皇が退位して「大化」となる。そうしますと六百四十五年という地点自身が問題となる。六百四十五年蘇我入鹿を切ったことが伝承されていたと考えていた。しかし「乙巳」という干支そのものが、六十年周期で干支を合わす形で造られた可能性がある。これは絶対とは言いませんが、その可能性もある。  なぜなら考古学的変動が、六百四十五年の時点で何も起っていない。「詔勅」でもそうですが、何かの大変動があり、それがなんらかの反映されなければならない。しかし何も証拠がない。井上光偵氏などもあまり考古学的対応については論じてはおられない。文献だけで解釈される。しかし考古学と対応しない文献は偽物です。ですから六百四十五年時点「乙巳(いっし)の変」は、一つの可能性であるが確かと言えなくなった。これが一つ。 孝徳紀 大化元年(六百四十五年) 冬十二月乙未の朔發卯に、天皇、都を難波長柄豊碕宮に遷す。  もう一つ大きなことが出てきました。この「大化改新」が行われたのが大阪の難波宮です。『日本書紀』では「難波長柄豊碕宮」で行われたと書いてある。ところがこれがおかしい。皆さん、ご存知の大阪の地図がある。そこでは大阪の長柄と豊崎は、現在は別の町名を一つ挟んで隣あう別々の場所です。難波宮のある上町台地の北の端にある法円坂からは北にあり、かなり離れている。ですから「難波」は良いとしても、この(前期)難波宮が「長柄豊碕宮」となぜ言えるのか。それに地名が違うだけでなくて地形がぜんぜん違う。大阪梅田が、本当は「埋田(うめだ)」であり湿地帯であることは有名ですが、それに続く長柄と豊崎。それに対して難波宮のある法円坂は、大坂ならぬ高いところにある。法円坂は昔の地名ではありませんが、それにしても「○○坂の難波宮」と言いたい。このように地名としてはバラバラである。これもやはり「難波宮」は難波の中にあり良いとは考えていますが、「長柄豊碕宮」と言ってはダメです。当たらない。このようなたいへんな問題にぶつかった。  ところが先ほど来言っていますように、『日本書紀』は大胆で露骨で、かつ不器用である。墓の規模問題でも適当な数値に直せばよいものを、そのまま使っている。「九州の吉野」しかり。そうしますと、この「難波長柄豊碕宮」の名前でも同じではないか。そのように考えが進展してきました。  それでいきさつを省略して言いますと、やはり九州博多にあった。  「難波」については、ここは那の津です。「ナニワ」と「ナノツ」は一連の地名と考えてよい。字地名の「難波(ナニワ)」もあり難波池もあります。  次に昭文社の地図(例)で言いますと、福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。西の方に長垂山があり、東に「長浜」という地名もあり、「長柄(ながら)」と表記した可能性もある。  それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。しかし金印の問題に取り組んでいたときに、力石さん(古田史学の会・九州)と思い切って行ってみた。行ってみたら簡単に上れた。つまりエレベータがあって事務所に通じていた。一般の参詣する人は、足慣らしとして登って行くが、それでは事務所の方にはそれでは不便ですのでエレベータがあった。わたしのような老人も使える。それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。  それで考えてみますと、「難波長柄豊碕宮」を三段地名として考えてみるとおかしい。三段地名は余りない。二段地名はある。難波の「長柄」というところにある。問題は宮殿の名前です。この「豊碕宮」は住んでいた権力者が付けた名前でしょうが、「長柄」という場所の海を見下ろすところとして豊浜に突き出しているから「豊碕」。たいへん話としては解りやすい。  九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。それを大胆に露骨にも『日本書紀』はそのまま持ってきた。不器用に持ってきてはめ込んだ。だから大坂の「難波宮」と別宮というか離れてしまった。もちろん大坂難波にも、別宮や仮宮として「名柄」に「豊碕宮」があったと書けば良い。ですが、それでは実在の法円坂にある(前期)難波宮と離れた場所になる。もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。   八 太宰府紫宸殿と倭京  それで九州太宰府にある九州王朝の宮殿は、どうなっているか。『九州考古学論攷』(鏡山猛 吉川弘文館 昭和四十七年)の第6図太宰府政庁建物配置図によりますと、長方形で縦二〇〇メートル、横一〇〇メートルぐらいの大きさです。南門、中門がありその上に北の中心にある正殿があります。その正殿のある場所がちょうど地元の伝承では字「紫宸殿」の地名がある場所です。これも「大極殿」と同様、簡単に名付けられる地名ではない。これは北朝形式の宮殿様式です。  そこで問題になるのは、この形式が典型のように言われる。実はそうではない。北朝がこの形式を採用する。南朝がこの形式を採用したら、「北」方向が尊いとなり南朝が北朝の臣下となるから採用しなかった。もちろん南京には、南朝形式は破壊されていて、今残っているのは明王朝の時代とその直前のものです。北に倚っている北朝形式の宮殿しか残っていない。ですが南朝形式の宮殿はそうではない。事実洛陽でも、後漢時代の宮殿の跡が残っていて、それで見ると南の端の黄河に沿ったところにある。それを後で来た北魏が、北を中心にした宮殿を作り直した。思想の表現です。  新羅・扶余もそうです。新羅の始めは月城、これが中心です。南の端が中心、山城をバックにしている。扶余も西北にあり、西が中心です。つまり高句麗・新羅・扶余は山城形式。太宰府も本来は大野城をバックにした山城形式。これが最初に造られた。あとで七世紀の初めに北朝形式の宮殿に作り直してある。作り直した時期も判明した。(『二中歴』にある)九州年号の倭京元年(六一八年)です。この年は隋が滅亡し唐が始まった年です。この京は「日出処天子」が造り始めて、倭京元年に完成した。だから「倭京」と称した。  これも『日本書紀』にも「倭京」はたびたび出てきます。ですがどういう意味か解らず、変な感じがした。「浄御原宮」を造ると言っているのに、もう一度「倭京」と言い直す必要がどこにあるか。ですがこの「倭京」は、筑紫の京のことであり、この北朝形式の紫宸殿を中心にした宮殿形式を指す。それが出来たのが倭京元年です。その九州王朝の歴史書には「倭京」のことが書いてある。それを大胆に露骨に切り取って飛鳥近辺に、はめ込んだのが『日本書紀』の「倭京」なのです。おかしいと思うのは『日本書紀』を絶対化するからおかしいだけで、今の立場から見ればなんなく解決する。   九 立評問題について  ついでに、もう一言。正木裕氏が「常陸風土記に見る「天下立評」」という問題を論じていて資料をもらいました。これを見ますと、 『皇太神宮儀式帳』 延暦二三年(八〇四)八月二八日 伊勢大神宮袮宜等解 初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事 ・・・至于難波長柄豊碕宮御宇天万豊日天皇御世。・・・・・而難波朝廷時天下立評時 仁・・・ 『神宮雑例集』神封事。度会郡。多気郡 ・・・・・飯野度会多気評也。 ・・・難波長柄豊前宮御世・・・  この『皇太神宮儀式帳』や『神宮雑例集』は延暦二十三年という後代記事で、近畿天皇家中心の時代に書かれた後代資料であることに注意が必要です。その場合『日本書紀』を一方でにらみ、他方「評」のある九州王朝関係の史料を一方でにらみ、ミックスされて造っている。  その中に「難波長柄豊碕宮」や「難波朝廷」が出てくる。従来の近畿天皇家中心主義で考えれば、孝徳天皇の時と考えます。今の学者も、そう考えている。しかし先ほどの論理から見ればそうではない。これが実は博多の宮殿を指している。この「難波朝廷」は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に「評」が造られた。このように考えます。その記事と『日本書紀』とを、ミックスして造っている。九州年号の後代史料はだいたいそのようです。九州年号と近畿天皇家の天皇の名前と「治世」と結びつけた記事がほとんどです。それらの資料のone of themです。それをこのまま信用して使うと頭が混乱してくる。『皇太神宮儀式帳』や『神宮雑例集』全部を調べて、その史料性格を確認する史料批判を行わなければならない。これを行わずに史料として用いると失敗する。このことは前から考えていましたが資料をもらいましたので触れさせていただきます。   十 言語の問題について  最後に述べますのは、ここ最近気がついた、おもしろい問題について申しあげます。  姓(かばね)の研究が従来の学者にとっては大事な研究です。「伴」・「部」・「族」や「臣」・「連 」のおびただしい研究が井上光偵氏・直木孝次郎氏を中心にされています。これらは『古代の姓』(吉川弘文館)などに詳しく出ている。ところが結局井上光偵氏が言っている事は何かといいますと、あらゆる官職名「臣」・「連 」を初め「伴」・「部」・「族」は天皇家が造った。天皇家一元の大樹。これが大前提。津田左右吉もそうでしたが証明はなくとも大前提。それに官職名を各世紀に当てはめ演繹して解釈している。井上光偵氏は、これらの「姓(かばね)」は、「大化改新」前後に天皇家が造ったと解釈している。ところが直木孝次郎氏は「大化改新」前からあるよと言われています。ですが天皇家が造ったことは直木氏は疑っていない。天皇家が造った官職名がすべてである。そのような立場で日本の学界は動いてきている。  それで「部」とはなにか。議論があったが、中国語としての「部(ぶ)」が訛ったものである。それが「部(べ)」となった。津田左右吉が、         そのように論じて、結局今もその意見に固まってきたと書いてある。時代は早くても六世紀以後としている。  次に「族」という概念。これも大事な概念として『出雲風土記』に出てくる。これも先ほどと同様、間違いだと言って都合の悪いことは書き直す。書き間違いだといってカットする。ところが『東日流外三群誌』(『和田家文書』)を見ると、とんでもない。阿蘇部族や首相を辞めた阿部の「部」が出てきます。それで阿蘇部族と、「族」と書いてある。「出雲族」が出てきても、当たり前です。  それに時間もないのに、つまらんことを言いますが、井上光貞氏の弟子で北海道大学の教授だった佐伯有精氏というかたがいます。その佐伯有精氏が年賀状に『東日流外三群誌』は偽物であると、印刷の文字とは別に小さい字でたくさん書き込んできた。年賀状にこのようなことを書き込んでくる人は珍しいが、今研究中でご心配なくとご返事を差し上げた。ところがまた『東日流外三群誌』がいかに偽物であるか力説された葉書が来たことを覚えている。  ところが今考えてみると、佐伯有精氏のお弟子さんが、『偽書「東日流(つがる)外三群誌」事件』(新人物追来社)を書いた北奥日報の斉藤光政記者。確かに論理的につながっている。  考えてみますと、佐伯有精氏が井上光偵氏や門脇貞二氏と一緒に研究したのは、「部」というのは天皇家が作った制度であるという研究です。そうすると阿蘇部族というは天皇家が作った制度となる。(笑い)「族」も、もちろん天皇家が造った制度である。「出雲族」は間違いだ、誤植である。そのように論じている。そこへ『東日流外三群誌』では「阿蘇部族」と、どうどうと書いてある。だから佐伯有精氏は我慢できなかった。だから偽物であると言ったと推察する。このような背景があったとあらためて感じました。  ですから自分たちが造った歴史観にあわないから『東日流外三群誌』を偽書扱いする。そのようにあらためて思いました。  そういう前提をとって見れば、例として言えば「大王の辺・・・」の「辺」がダブって「部」になったと思います。ですが一つの集団を意味する  言葉として「部」は、「阿蘇部族」「阿部」などの言葉としてあったいうことは疑っておりません。それから『出雲風土記』に出てくる「部」は、出雲朝廷下の「部」である。  ですが井上光偵氏が「天孫降臨」などに書いていることは、すごいことを書いてある。これは天皇家が六世紀ごろに出雲を軍事的に征服した。    その征服したところに、あれだけのお話を造って入れた。津田・井上造作説の根拠は、天皇家が出雲を軍事的に制圧したことにある。はっきりそのように書いてある。よくも書いたものです。今のみなさんは、どのように考えられますか。これが現在の学問の正道です。わたしなどの考えを受け付けないのは当然です。  しかしわたしの考えるところでは『出雲風土記』は、史料として貴重なものである。しかも「部」も「族」も、あります。しかも「部」や「族」は、出雲朝廷下の「国造」より、もっと早い段階のものとして描かれている。早い段階と考えても当たり前で、「阿蘇部族」「阿部」のように出てきて存在する。そういう形で理解しなければならない。   ーー さらに申しあげますと井上光貞氏は、「部」は、「伴(とも)」と読むとも書いてある。これも天皇家が制定した制度であると書いてある。ですが、わたしどもから言いますと、「戸藻(トモ)」の「戸」は、神殿の戸口の戸(と)で神殿の入り口。藻(も)は、先ほどと同じ海の藻で大きな集団。「伴(トモ)」は、神殿の入り口を守る集団。そこから始って神殿を守る人々を「伴」と言っていると理解している。  他にもおもしろい考えに達したものもある。「評」を「コホリ」と読む。「郡」も「コホリ」と読む。発音は変っていなくて漢字表記が違っているだけす。七~八世紀一貫して「コホリ」と読む。なぜ「コホリ」か、考えてみると「コ+ホリ」。「ホリ」は、城郭の周りを仕切っている「堀」です。その元は「ホ」は優れた、「リ」は一点を指す。そして「ホリ」は「優れた箇所」。そこから発展して「ホリ」は、城郭を取り巻いた堀そのものを表す。それで「コ+ホリ」の元は天孫降臨にある「ソ+ホリ」ではないか考えている。「ソ」は古い段階の神様。阿蘇部族の「ソ」。木曽御岳の「ソ」。その「ソ」に「ホリ」に付けた。その「ソ+ホリ」ではないか。元の意味の神様の拠点としての「ソホリ」ではないか。岩波古典体系『日本書紀』上の天孫降臨の第六段にある。ご丁寧に訓注に「曾褒里(ソホリ)」とある。 岩波古典体系『日本書紀』上  天孫降臨の第六 一書〔第六〕に曰く、・・・ 時に・・・時に降至りましし處をば、呼ひて日向の襲(そ)の高千穂の添(ソホリの)山峰と曰ふ。・・・   訓注に「曾褒里能耶麻」とある。  ご存知のように九州王朝では、われわれは「天孫降臨」から始まったと言っています。これは『東日流外三群誌』から言えば、瓊々杵尊たち、筑紫の賊が来襲して筑紫を征服した。それに追われて安日彦・長髄彦は津軽(東日流)に来た。『東日流外三群誌』で賊といっているのを、『日本書紀』から見れば神聖な九州王朝の始まりなのです。その九州王朝の原点が「ソホリ」で誇りにしていた。この場合「ソホリ」を中心にした軍事拠点の始まりが「コホリ」。その「ソオリ」を取り巻く小さな軍事集団を「コホリ」と名付けた。それが九州王朝で制度として「コホリ」が造られた。この考えは絶対そうだと断言は出来ませんが、このように考えることが出来る。  「評」というは、当然中国の文字であり制度です。三世紀『魏志』にあるように、朝鮮半島の平壌付近にあった中国側の軍事と政治の権力者を「評」と呼んだ。現在「評決」と言っているが、元来はその軍事集団の決定。多数決ではない。その軍事集団が決定したら絶対である。この「評」が中国側にある。そして「評」の漢字を「コホリ」と読み、後に天皇家の郡県制度の「郡」に替えた。しかし「コホリ」という九州王朝系の呼び方はそのまま使っていた。  「姓(カバネ)」もどう考えるか。姓と書いて「カバネ」と読む。これも「カバ+ネ」ではないか。「ネ」は草木の根。枝葉末節の分かれているほうを「ネ」という。「カ」は川(かわ)で神聖な水の出るところの意味の「カ」。「ハ(バ)」は、葉のように川が平地に出た広いところ。神聖な水が出るところを「カハ」、そこから枝分かれしている姿を表すのが「カバネ」。  関連して言いますとと井真成の件で、熊本県阿蘇山のふもとにある産山村に行った。姓の井さんが集まっているところ。そこの乙姫神社に浦池比[口羊](かわちひめ)が祀られている。そこで亡くなられた高木博さんが、松田聖子(芸名)の本名は蒲池(かわち)聖子だと言われた。蒲池さんの姓は下流の久留米に集中している。久留米と阿蘇は離れているように見えるが、その乙姫神社の水源の川は筑後川に流れ久留米に注いでいる。わたしの土地勘と合わなかったのですが、回ってたどれば久留米にそそぐ。ここで上流に浦池比[口羊]がおり、下流に浦池さんがいる。この「カワチ」の「チ」は、古い「チ」の神様。神聖な水が出るところの神様。そこから分かれた「根(ね)」としての「姓(カバネ)」。本当かなと思いましたが、これらもアイデアとしてご紹介しておきます。    浦池比[口羊](かわちひめ)の[口羊]は、口偏に羊。JIS第三水準ユニコード54A9  次に、『出雲風土記』の「国造(くにのみやつこ)」。今までわたしは、この呼び名が嫌いだった。なんだかバカにしている。大名家の行列の一番前を行くのが「奴(やっこ)」です。「国造」を何かばかにした命名のように思え使ったことはなかった。しかしこの考えは間違いだった。  「ミヤツコ」というのは、「ミヤ」は宮の意味。「ツ(津)」は港の意味。「コ」は古田武彦の彦(ひこ)と同じで、『魏志倭人伝』の「卑狗(ひこ) 」と同じで長官の意味。だから「ツコ」は港の長官です。それに「ミヤ」が付けば、「ミヤツコ」は宮のある海岸の支配者。だから「ミヤツコ」は「国造(こくぞう)」と相対する存在となる。だから大穴持(おおなむち)が天下を造った。それに対して単位は小さいが今の郡のような国を造ったのを「国造」と書いてある。「ミヤツコ」は宮のある海岸の支配者だった。その良い意味の「造(ミヤツコ)」が、尊敬の「御(み)」をはずした形となり、最後に「奴(やっこ)」となった。だから元は立派な良い名であった。その良い意味を造り変えて賎しい意味に使った。これは何回もわたしが言っていますが、現在非常に賎しめられて言っているのは、かって尊貴されていた証拠である。その尊敬されてものを、時代が代わったことを示すために、卑しめて表現している。何回も言っていたが、自分で忘れていた。「国造(くにのみやつこ)」は、出雲王朝では「津の長官」を示す立派な言葉だった。それが江戸時代になると、ひっくり返して将軍様の行列の一番前を行く者の呼び名に変った。尊敬されていた女神(めがみ)の「メ」が「婢(はしため)」と卑しめられる言葉に変ったのと同じである。  とにかく「郡(コホリ)」「姓(カバネ)」にしろ、九州を原点にすると説明がついてくる。大和や近畿では説明不可能。それは九州源流の言葉を、大胆で露骨でかつ不器用に取ってきてはめ込んだから不明になっている。元へ還すと明らかになる。とにかく言語の問題を解いてゆくと、どんどん解けてくる。16万以上する高い本ですが『言語大辞典』(三省堂)を初めから読みたいと思っております。またアイヌ語問題も進展しました。そのようなわけで胸を時めかしているわけでございます。  最後に言いたいのは、現在の歴史学、明治以後の歴史学、津田左右吉氏、井上光貞氏、門脇貞二氏、直木孝次郎氏など、すべての歴史学は天皇家から日本の歴史が始る、という立場で理論化している。  わたしの立場はそうではなくて、歴史の中から天皇家が始ったという立場である。(繰り返し)先ほどの官職名でも九州王朝から淵源するものもあれば、「国造(こくぞう)」のように出雲王朝から淵源するものもある。また「子代」など官職名も、それぞれの淵源がある。近畿天皇家に淵源するものもあってもかまわないが、すべて天皇家に演繹するというのは超皇国史観。今の歴史感は超皇国史観でできていると、わたしは明確に言えると思う。  またわたしが提起した問題を、若いいろいろな人に取り組んでいただきたい。新しく歴史を解明するためには、たくさんの人々の手が必要です。変なことを言いますが、よく自殺されるかたがいます、わたしは自殺されるエネルギーがあれば、そのエネルギーをこの仕事に参加して使って欲しい。また引き籠りが話題になりますが、働かないとはもったいない。ぜひそのような人々も、この仕事に参加して欲しい。大歓迎。わたしのような老人が、今この仕事がおもしろくてしかたがない。若い人が行えば、なおさらだと思う。ぜひとも、よろしくお願いします。 どうもありがとうございました。 (質問一)  「大化改新」の詔勅について、これが九州王朝から出されたものであると、お話を受け取りました。その件で確かに八番目の詔勅では、「代代(よよ)の我が皇祖等、卿が祖考(みおや)と倶(とも)に治めたまひき」と書かれており、これは「代代(よよ)の・・・治めたまひき」と書かれていたので、これは九州王朝のことではないかと感じていました。一方これとは違う感じで、違う表現と受け取ったのが一番目の詔勅です。その中に「天神の奉け寄せたまひし随に、方(まさ)に今始めて萬國(くにぐに)を修めむとす」という表現があり、「方(まさ)に今始めて・・・」という書きかたを見ますと、これは近畿天皇家ではないか。そのように疑って考えていたのですが、どのように考えておられますか。 (回答一)  分りました。まず「萬國」ですが、これは九州王朝中心の「萬國」でも問題ないと考えています。もちろん近畿天皇家中心の「萬國」でも、中国は「萬國」にあたらない。どの範囲を指すのかが問題となる。「代代(よよ)の・・・治めたまひき」も「方(まさ)に今始めて・・・」も、そうです。九州王朝でも永遠の昔から支配しているわけではない。九州王朝に「方(まさ)に今始めて」が、あってもおかしくない。このような言葉自体が近畿天皇家として判別する証拠にはならないと考えています。  先ほど述べましたように、九州王朝の歴史書から大胆に露骨に『日本書紀』へ持ってきながら、不器用に近畿天皇家のこととして周辺を埋めています。近畿の天皇家の名前が出てきます。そういう継ぎはぎが基礎に、竹に木を接いだ形になっている。それを九州王朝一色で、あるいは近畿天皇家一色で解釈しようとすると、いずれも不可能。  たとえば「天神の奉け寄せたまひし随に、方(まさ)に今始めて萬國(くにぐに)を修めむとす」では、「天神の奉け・・」がニニギの天孫降臨という九州王朝のことです。それで「方(まさ)に今始めて」は九州王朝が天子を称したことに当たると理解しています。九州王朝は昔から天子を称したのではない。天子を称して「萬國」を支配しているというたてまえを取る。その時点での「今始めて」ではないかと考えています。九州王朝で、「今始めて」という表現があってもおかしくはない。  それから「今始めて」の表現では、『続日本紀(しょくにほんぎ)』のことが頭にあるのだと思います。「初めて」という表現がたくさんあります。これを通説の学者は単なる修飾だと考えていますが、そうではありません。七〇一年から、はじめて自分たちの支配下になったという「初めて」の表現です。同じく、どの段階か今考えておりますが、九州王朝が天子を名乗ったときに「今始めて萬國(くにぐに)を修めむ」と表現していると考えます。「倭京」についても、四世紀や五世紀には「倭京」でない。七世紀になって、初めて「倭京」という表現を行った。これはやはり万国を支配する都だから「倭(ゐ)京」なのです。 (質問二)  「倭京」が六一八年制定されている。それは隋が滅びたことと関連しているというお話がありました。かつ太宰府の配置が北朝系のものであるとも伺いました。それでは太宰府が六一八年「倭京」となったと考えておられますか。また九州王朝は隋などの北朝系の都を見て同じ配置をした。これはどのような意図を持って、この「倭京」という都を造ったのか。 (回答二)  言われる通りだと思います。太宰府はA・B二つの層があります。六世紀以前「倭の五王」の時代ならば、都督府はあっても天子の都ではない。天子の都になったのは七世紀以後。もちろん六世紀、九州年号の時代とともに天子の都が始まっていたという見方もできないことはない。ですが完璧に天子の立場に立ったのが七世紀。その立場で「日出処天子」と言っているのは、北朝の隋に対して言っています。それで北朝の隋と同じような配置の北を中心にした宮殿を造った。A・Bに別けますと、A層は(大野城の)山城形式。高句麗と同じ山城形式、北を尊敬しているものではない。そこへ七世紀に造った倭(ゐ)京を、B層として北朝と対抗するために造った。われわれから言うと真似をしたというか、対抗する同じくする紫宸殿をもつ宮殿を造った。それが今のわたしの考えでございます。 (質問三)  正木裕です。始めに連絡です。わたしが「常色の宗教改革」(『古田史学会報』八五号)で、古賀氏が『皇太神宮儀式帳』 から「難波朝廷時天下立評時」について論じたことを書いていますので皆さん参照願います。  次に「大化改新」については九州王朝の事業であるというのが基本で、それに蘇我入鹿を切ったという近畿天皇家の事件を七〇〇年前後から『日本書紀』に持ち込んだものだ。そのように先生が言われたと理解しています。  ですが「大化改新」に関わった「高向黒麻呂」「僧旻」などが、六五〇年前後に亡くなっています。ということは、やはり六四五年から六五〇年にかけて、「大化改新」に匹敵するようなことが九州王朝で大々的に行われたのでないか。そのことは、「難波朝廷」の時代に、全国に「評」制を施行したのがその一環である。その考えが一つ。  それと六九五年の出来事をなぜ六四五年に持ってきたかを考えてみますと、六九五年に九州王朝から近畿天皇家への政権交代・政権奪取があって、それにともなういろいろな事件が起った。その事件をばっさり六四五年九州王朝の大改革の時代に持ち込んだ、そしてそれも近畿天皇家の治績であると言ったと考えています。そう考えないと、なぜ「大化」という年代を六九五年から六四五年に移したことが解けないのではないか思われます。先ほど先生が言われた七〇五年則天武后の問題では、なぜ「大化」なのか分らない。その辺りのことについて、どのように考えておられますか。 (古田)  最初の件で古賀氏が扱われた問題については、話として承知しております。ですがこの際言わせていただくと、「九州王朝の都が(大阪)難波にできた。」というお考えのようです。しかしわたしとしては賛成できない。なぜかといえば七世紀に難波に九州王朝の都があったのなら、七世紀段階で九州の出土物・土器などが難波に充ち満ちていることが必要です。都を持つと言うことはたいへんなことですから八角の建物が一つあるぐらいではダメです。とうぜん九州の影響があって当たり前ですから。  もう一つは、九州王朝の都が九州から大阪難波に移ったのなら、当時の中国や朝鮮の記録になければならない。唐や新羅は敵対国ですから、首都が移動するというのは大事件です。都が移ったことを忘れていましたということはあり得ない。わたしの見た範囲では、中国や朝鮮の文献からは、いっさい九州から大阪難波に都を移したという記録はない。だから、いまのところわたしは賛成できないという立場です。  もう一つは、古賀氏はあくまで『日本書紀』の「難波長柄豊碕宮」は大阪の難波宮であるという立場です。孝徳天皇の時「評」を施行したと理解されている。しかしわたしはそれは違うのではないか。先ほどのように博多の宮殿の名前ではないか。  それから今日、言い忘れたおもしろいテーマがある。わたしが『失われた九州王朝』(朝日文庫)で扱いました義慈王の問題です。『日本書紀』に(舒明三年、六百三十一年)「三月の庚申の朔に、百済の王義慈、王子豊章を入れて質とす。」とある。しかしその時の王は、義慈王ではない。その時の百済の文献は中国の文献はタイアップしていますから、この件について『日本書紀』が正しいというなら、この問題についての中国や朝鮮の文献が間違っているという証拠がいる。ですがこれは『日本書紀』がズレているとわたしは考えています。何年ずれているかと言いますと、少なくとも一〇年ずれている。一〇年経たないと義慈王にならない。『日本書紀』舒明紀は十数年ありますから、十数年下がらないと理解できない。これも反論はない。  そうしますと、六百四十五年(虫のごとく)も十数年ズレているのではないか。先ほどのように他の学者は、この件だけは絶対と言ってはいるが、そうとも言えなくなってしまった。わたしもそのように考えていました。しかし七百五年の則天武后の死から干支を六十年ずらすと、六十年、丁度ですねと考えるか、干支を合わせたのか。要するに乙巳の変の時点は絶対ではなくなった。  それに対して、「義慈王の問題」で十数年ズレている。下げてくると白村江の数年前にくる。  そうしますと、やはりこの事件が起ったのは白村江の数年前の事件である。場所は九州の「難波長柄豊碕宮」である。入鹿が切られたのはそこではないか。おそらく白村江への戦いに臨む態度として、そこで論議された。蘇我氏は百済を救援する立場。中大兄や藤原鎌足は唐と内通する立場。そして豊碕宮で入鹿を切って近畿に引き上げを決定した。このように理解したほうが良いのではないか。  斉明天皇が朝倉に行ったとする記事に対して、これが事実でないと反対するものは誰もいない。あれも斉明天皇一人が、九州朝倉に行ったのか。中大兄や藤原鎌足や入鹿も行っていたと考えるのが普通だ。同じく博多「豊碕宮」にも近畿天皇家の軍隊が集結していた。  白村江で大変動が起ったとする立場、ここで変動がないほうがおかしい。対して「大化改新」は、考古学的変動が何もない。  それと最後に忘れて欲しくないのは、「評」が行われている時代は九州王朝の支配下の時代である。これを動かさないで欲しい。そして評督府が動いたなら記録に出てきて欲しい。しかし出ていない。「評」が終わったら、すぐ「郡」が出てくる。「評」が支配している時代が七世紀末まで。これを大前提にして考えて欲しい。これがわたしの立場でございます。 (質問四) 省略 付記 1,引用は全て岩波日本古典体系に準拠 2,○○氏に統一。しかし呼び捨てのところもある。 3,井[イ求]替の[イ求]は、人編に求。JIS第4水準ユニコード4FC5 イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO 浦池比[口羊](かわちひめ)の[口羊]は、口偏に羊。JIS第三水準ユニコード54A9