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市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年
古田武彦を囲む会「市民の古代」編集委員会 編集

中国の研究者との文通

いき一郎

 古田さんの研究態度である安易に原文を改定しないという原則は私たちジャーナリストにとっても大きな教訓であった。「『邪馬台国』はなかった」が発刊された七一年、私は、日中邪馬台国問題シンポジウムを考え、東京から福岡の九州朝日放送本社へ提案した。社では創立二十周年記念事業のひとつとして、かつて九州大学に学んだ郭沫若氏が院長をしている中国科学院(現在は社会科学院と科学院に分かれている)に社長名の正式文書を送った。社内に博多っ子の溝口という重役がいて日中問題に理解を示していた上、「日本人にわからんことは正直にきくとよかたい」という態度であった。古田さんの原則とこの溝口氏の率直さは、私に倭入伝を書いた漢民族の子孫に訊ねる気を起こさせたのである。
 七二年暮れ、日中文化交流協会の白土吾夫氏はその文書を中国側に手渡してくれた。
 七三年六月、訪口した王冶秋氏(文物管理事業部長)は、飯塚市立岩の鏡を見た後、福岡市で、九州の邪馬台国熱に応えたいと語った。が、日本側の條件が整わなかたようである。
 七六年秋、東京で古田さんの会が発足した。
 七七年、福岡で第一回邪馬台国シンポが開かれた。もちろん、中国とは無関係であった。
 秋、大阪の会が生まれた。
 七八年、私は東京にいて、友人の藤岡ディレクターが、第二回シンポをテレビ化するのを手伝った。「邪馬壱国」論の存在することを公平に扱うようアドバイスした。この二月、私は「日中古代交流史」を書いて訪中する予定だったが、九州転勤のため原稿だけが成り、中国研究所入会記念論文となった。
 七九年秋、福岡で発刊されている「九州と中華人民共和国」紙から、古代交流史の連載を頼まれた。下関、博多で「古田武彦氏をかこむ会」が誕生した後である。
 八○年初め、上述した新聞の主筆松本勇氏(フクニチ新聞OB)から中国の研究者を紹介され、いままでの放送人や各機関をふくめて、半年間に数十の書簡が日中間を往来した。
 七月には、中国で「日本史研究学会」が発足した。全中国三十の大学、研究所から代表が集まり、役員が選ばれ、事務局は天津市の社会科学院におかれることになった。

 中国の日本史研究は今年の学会創設によってにわかに盛んになってきた。会報に掲載される予定の論文は、邪馬台国の位置的位置の考察から明治維新の近代化性格論などまで、日本人の耳目を集めるものばかりである。(以上、松本勇氏から「中国通信」を私が電話で受けた)
 そのほか、近年、中国における日本古代史研究に対する協力は大いに強くなった。
 「人民中国」の錘華記者は、七七年二月から五月まで三回にわたり、「中国二十四史の整理、出版」を連載した。氏が、中華書局で専門家にインタビューしてまとめた好論文であリ、私の見方では、古田さんの考え方を補強するものである。なお、人民中国社へことわれば、錘華論文は転載可能だと思われる。(約七十枚くらいか)
 七七年から、私は中華書局に手紙を送り、その労苦を謝し、本八〇年の「ヤマタイ国研究会」(福岡)発足に当たっては、コピーの許可を求め、返信を受けた。いわゆる標点本=中華書局版が廉価で手に入ることによって、私などはどのくらい恩を受けたか、筆舌につくせない。
 中国社会科学院の院長は胡喬木さんという大物である。(郭沫若さんは七八年没)幹部に、昔、放送代表団長で訪日した梅益さんや、外事局長に故劉少奇夫人の王光美さんがいる。日本史などを研究しているのは、院の中の世界歴史研究所である。ここには、「鑑真」を著わした江向栄さんがいる。氏は邪馬台国についても造詣が深い。
 ほかに私の文通を始めた大学は、長春市の東北師範大学・外国問題研究所である。この研究所には邪馬台国問題に熱心な研究者がいる。参考までに記すと、「大阪の会」の有志が訪ねたいという広開土王碑に最も近い大学のひとつであろう。
 「大阪の会」は全国の会の重鎮である。
 市民の「歴史を詔る会」として、中国との定期交流を考える時期にきていると思われる。私は、倭人伝などを記録した民族の子孫に最も誠実な日本の研究者は、編修では、邪馬台国論者だが扶桑国論を掲載した故太田亮氏(一八八四 ーー 一九五六)であり、記述では古田武彦さんだと考えている。
 私たちの市民的な歴史科学の会が、中国の研究若と隔年ごとの単位で交流し、研究することの可能な時代がきたといえよう。
 古田さんと古代史を研究しようとする会員は全国で三百以上と少なからぬ数を示している。多くの職業をもち、平均して数十年の実生活を体験した市民である。いうならば知識の泉であろう。そこには、おばあちゃんの知恵袋があることを信じたい。
 私は、おばあちゃんの知恵袋といった庶民の情報力と中国正史の情報力によって、古代史の状況をよりより正しくつかむことができると考えている。
 古田さんをかこむ会は、その意味で貴重な財産を有している。この会が、七〇年代のはじめの「東アジアの古代文化を考える会」につづいて、その後半に結成され、拡がっていることを高く評価する次第である。
 さる九月六日(土)、大阪における私の初めての発表会には、新人の有料溝演にもかかわらず、百二十五名をこえる方々にお集まりいただき、頭の下がる思いである。古田さん、中谷さん、藤田さんはじめ、多くの方々に心からお礼申し上げたい。あの翌朝、日曜朝の十時半に朝日カルチャーセンター受付けを数百名の人々が埋めつくしているのに出合い、私は関西の方々の文化への熱意を痛く感じた。「古田村塾」の可能性をそこにも見て、大阪を辞したのである。
      (九・一〇)

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 古田批判は、『季節 ー古田古代史学の諸相ー』 (第十二号1988年8月15日 エスエル出版会)の「古田武彦批判」を参照して下さい


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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