古賀達也の洛中洛外日記
第489話 2012/11/01

紫香楽宮跡を訪れて

先日、紫香楽宮跡に行ってきました。近くまでドライブしたことはこれまでもあったのですが、同遺跡を見学したのは初めてでした。それまでは紫香楽宮は信楽町内の一角に宮殿跡があるのだろうと想像していたのですが、実際に訪れてみると、かなりの広範囲に寺院跡や各種建物跡が散在しているという遺跡状況でした。やはり、歴史研究は自分の足で実物を見て回ることが大切だと改めて実感しました。「歴史は脚にて知るべきものなり」(秋田孝季)ですね。
 ご存じのように、紫香楽宮は聖武天皇により造営された複数の宮殿の一つですが、なぜこのような山の中に宮殿を造営したのか不思議です。しかしもっと不思議なことがあります。それは、近畿天皇家はなぜ聖武天皇の時代になって複数の大規模な「都」「宮殿」を次々に造営できる財力を持つようになったのかという疑問です。たとえば、後期難波宮・難波京や恭仁京、そして紫香楽宮です(東大寺の大仏殿もこの時代の造営です)。
 こうした問題意識を抱いた歴史研究者が今までにいたのかどうかは知りませんが、この答えもやはり多元史観・九州王朝説に立ったとき明確にできると思います。すなわち、701以前の九州王朝は唐や新羅との戦争にかかる戦費、神籠石山城や水城・大野城築造にかかる防衛費を負担するために、全国から集めた「税収」をつぎ込んでいたのでしょうが、701年に政権交代した近畿天皇家は戦費負担が減り、防衛費も大幅削減が可能となったので、次々に短期間で「都」「宮殿」を造営することができたと思われます。
 逆にいえば、古代日本列島(倭国)において、代表権力者に集まる富の大きさがこれらの事業規模からわかるのではないでしょうか。こうした視点からすれば、九州王朝が7世紀中頃、難波に大規模な朝堂院を有する画期的な副都前期難波宮を造営できる財力があったとしても不思議ではありません。

 紫香楽宮から帰ると、冨川ケイ子さん(古田史学の会々員)からメールが届き、第487話の内容に誤りがあることをお知らせいただきました。当初、わたしは庄内藩々主を本間家と書いていたのですが、本間家は大地主で藩主は酒井家であるとご指摘いただきました。これは全くわたしの思いこみによるミスで、横田さん(古田史学の会・全国世話人、HP担当)にお願いして、大急ぎで訂正していただきました。読者の皆さんと山形県の皆さんにお詫び申し上げます。そして、誤りを指摘していただいた冨川さん、ありがとうございます。
 なお、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」というような歌が江戸時代に作られたほど、庄内の本間家は裕福で立派な地主だったとのことで、藩や領民の危機をその財力で何度も救った名家です。今回の誤りのおかげでこうした山形県の歴史を勉強することができました。


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