古賀達也の洛中洛外日記
第474話 2012/09/26

前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾

 過日の二回目の大阪歴史博物館訪問で貴重な知見を得たのですが、最大の収穫は大阪歴史博物館研究員の伊藤純さんのお話を聞けたことです。
 伊藤さんへのわたしからの質問は、須恵器編年において、1様式の継続期間が平均30年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、もしそうであればその根拠は何かというものでした。残念ながら、伊藤さんは小森さんの著書をご存じなく、須恵器の平均継続期間について明確な見解はお聞かせいただけませんでした。もしそういう見解があるとすれば、須恵器製造職人の寿命や製造に携わる期間から導き出されたのかもしれないとのご意見でした。こうした返答から、思うに須恵器1様式の継続期間平均30年というのは、小森さんのご意見であり、考古学界全般の共通「常識」ではないように感じました。この点、引き続き他の考古学者にも聞いてみたいと思います。
 この後、質疑応答は前期難波宮造営年代へと移りました。わたしは当然のごとく伊藤さんも前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子が違うのです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。いわく「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。」とのこと。更に「学問は多数決ではありませんから」とも付け加えられました。
 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(土器編年・634年伐採木樋:年輪年代・「戊申」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは「明瞭」でした。もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。
 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったからです。すなわち、7世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)だったからです。
 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、太宰府「政庁」よりも格段に大規模な前期難波宮が大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だったとする九州王朝説そのものが揺らぎかねないからです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した回答が前期難波宮九州王朝副都説だったのです。
 わたしは伊藤さんへの質問を続けました。
考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか。この問いに対して、伊藤さんは孝徳期説の方が「おさまりがよい」と述べられたのです。自説は「天武朝説」であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。
 最後にわたしは、「大阪歴史博物館の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しました。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」とお礼を述べました。そして、この矛盾を解決できる仮説は前期難波宮九州王朝副都説しかない、と改めて確信を深め、大阪歴史博物館を後にしたのでした。


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