古賀達也の洛中洛外日記
第411話 2012/05/10

筑紫君の子孫

 仕事で香川県宇多津町に来ています。新幹線で広島県福山市まで行って、そこから車で来たのですが、瀬戸内海の夕焼けと瀬戸大橋、そして讃岐富士(飯野山)のシルエットが絶景でした。
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この20年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかず・高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明したことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社)青柳種信著に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。
 「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」
 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャスターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。


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