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2002年 8月 8日 No.51

古田史学会報五十一号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る梶井町 古賀達也

偽書の史料批判 ーー二つの偽書論ーー 古田武彦


新・古典批判 「二倍年暦の世界」1 仏陀の二倍年暦(前編)古賀達也


愛媛に古田先生を迎えて

松山市 合田洋一

 平成十四年五月十八日(土)、愛媛県北条市に於いて風早歴史文化研究会主催による、古田武彦先生の講演会が行われました。先生の愛媛へのお越しは、以前、松山市で開催された「万葉学会」についで二度目とのことです。
 このたびの講演会について、開催の経緯をまず申し述べます。
 平成十三年十月に、私は東京の叔父から一冊の本を渡されました。それが、古田武彦先生の著作『「邪馬台国」はなかった』であります。
 これを見て私は、青天の霹靂と言おうか、目から鱗が落ちたとでも言いましょうか、とにかくすごい本に巡り会ったと思い、すぐさま先生の著作をとりあえず三十冊購入し、仕事もそっちのけで貪り読んだわけであります。その結果、私のこれまでの曖昧模糊としていた古代史は、天地が動転するほどの驚愕と深い感銘で一変しました。遅まきながら、すっかり古田史学の虜になった次第です。
 そしてこのたびの講演会の切っかけは、先生の三部作『盗まれた神話』の中の「国生み神話」にある“伊予之二名洲”の比定地“双海町”にありました。
 私は、双海町は昭和三十年に町村合併により命名された新しい地名であるので、比定地とするのは間違いであると、生意気にも先生に一筆お書きしましたところ、先生より鄭重なお手紙を頂き、お付き合いが始まったのです。そして、古田史学の会へも昨年十一月に入会させて頂きました。
 これを期に私は、二名洲の比定地は自分で見つけようと思い立ち、浅学の身にもかかわらず研究に入ったわけであります。それ以降の経過については省くとして、「伊予之二名洲」の比定地が風早であると結論づけることができました。
 そのことがあって、風早歴史文化研究会二十五周年記念の講演者として私が依頼を受けたのですが、それならば古田先生にこそ是非お越し頂きたいということになり、このたびの講演会の運びとなった次第です(なお、この講演会は北条市立ふるさと館館長竹田覚氏の並々ならぬご尽力に寄ることを明記しておきます)。
 
 以下、古田先生の愛媛での三泊四日に亘るご活躍の一端を報告させて頂きます。

 ◎五月十七日(金)夜十時三十分、高知より高速バスにて松山着、撮影機材一式を入れた大きなバッグを持ち、お元気なご様子でバスから降りられるのを見て、私もまず一安心。
 先生は当日高知の南国市で、今年発掘された縄文人骨(新聞報道では戦争痕あり)を調査・撮影された由、講演会でもそのことに触れられ、新聞報道とは違う調査結果を具体的に述べられました。

 ◎五月十八日(土)午前十時〜十一時三十分、北条市庄の薬師堂にある謎の佛像群四十五体を視察。これらの佛像群は長らく放置されていたもので、昭和四十年に四十五体のうちの二体が国の重要文化財に指定されています。不思議な因縁を感ずるこの謎の佛像群を、先生は大変な興味をもって一体一体真剣な眼差しで調べられておりました。

 ◎同日午後一時四十分〜四時三十分、北条市立ふるさと館に於いて風早歴史文化研究会二十五周年記念講演会。一〇〇余名参加。

 演題(一) 「伊予之二名洲考(いよのふたなのくにこう)
 ─国生み神話の伊予之二名洲は風早郡─       講師 合田洋一

 演題(二) 「愛媛の古代」─瀬戸内海と太平洋の間─
 講師 古田武彦先生
〔男岩を背に左より竹田覚氏・筆者・渡辺 浩司氏・古田武彦先生。北条市新城山〕

◎同日夜八時〜十時、道後温泉・大和屋本店旅館にて、道後温泉旅館組合理事長奥村武久氏ほか幹部の方二名と私で、古田先生を囲んで座談会が行われました。
 それは「聖徳太子道後来湯説」を比定することになる、九州王朝倭国王“多利思北孤”についての古田先生の講話と討論でした。それと言うのも、現在道後温泉では町おこしの一環として、『伊予之風土記逸文』に出てくる「湯岡の碑文」の登場人物“上宮法王即ち聖徳太子”であるという古来よりの伝承を基に、太子を全面に打ち出し、町の活性化の計画が具体化されているからです。
 なお、蛇足ながら私は「道後温泉誇れるまちづくり推進協議会」の観光文化推進委員をしている立場でありながら、かねがねこれは由々しき問題であると考えていたので、この機会に古田先生をまじえての座談会をセッティングしたのです。

◎五月十九日(日)午前十時〜十一時、北条市善応寺(伊予国守護河野氏発祥の地で、河野氏の菩提寺)にある愛媛県で最も古い小金銅仏と河野氏の古文書拝見。

◎同日午前十一時〜午後三時、北条市新城山にある巨石群を調査。

 その際古田先生は、
「これは“古代えひめ文明の一原点”で風早の新城山に“鏡・女神岩”があったということは、まさしく縄文時代の巨石文明です。」と述べられていました。
 先生は、当初東予市の永納山にある古代山城を調査する予定でしたが、竹田覚氏が事前に撮影していた写真を見て、是非見てみたいとおっしゃり、急遽永納山に登る時間をづらしてまで新城山に登ることになったのです。なお、古田先生に同行したのは竹田覚氏・風早歴史文化研究会会員の平野環氏・長野邦計氏・渡辺浩司氏と私の計五名でした。
 標高百六十一メートルとのことだったので、気軽な気持ちで登り始めたのですが、そこは道なき道で、鎌で茨を切り開きながら、雨降りあとの滑る斜面を一時間かかってやっとの思いで頂上にたどりつきました。何とそこにはあまりにも見事な巨石群がそそり立っていたのです。北条市にとっても、愛媛県にとっても、まさに縄文遺跡の“大発見”の一瞬でした。

◎同日午後三時三十分〜六時三十分、東予市永納山にある古代山城を調査。古田先生ほか当方五名、東予市生涯学習課課長武田秀孝氏ほか三名、計十名参加。
 この永納山古代山城遺跡も、道なき道を約五十分かかって登りました。すっかり木立に埋もれ、どこに石垣があるのか全くわかりづらい状況にありました。先生は「ここの石垣は神籠石ではなく、自然石を積み上げたものである」と述べられました。なお、東予市では近々この遺跡を再調査するそうです。

◎五月二十日(月)午前十一時〜午後一時、愛媛県美川村の“上黒岩岩陰遺跡”を視察。線刻女性像(女神石)などの写真撮影、先生持参の撮影機材が大活躍。その後、美川村の面河川にある軍艦島(岩)や古岩屋などを視察。久万町の新岡正一氏(今年六月古田史学の会入会)のご案内で、竹田覚氏と私が同行しました。

◎同日午後三時〜、しまなみ海道(今治・尾道連絡橋)を私の車で帰路に着く。途中、能島村上水軍の根拠地・能島を遠望、午後七時尾道着、新幹線にて帰京されました。
 三泊四日の愛媛滞在中過密なスケジュールで、先生は大変お疲れになったことと思います。七十五歳とご高齢にもかかわらず“現場は自らの目で確かめる”。その学者としての姿勢は、私達にとって大きな教訓となりました。私もいまだかって経験したこともない、一日に二つの山を登ったのであります。粉骨砕身、研究に徹底される先生のお姿には、私達一同唯々驚きと尊敬の極みでありました。

追記 私の講演の内容については、近々小冊子として刊行する予定であります。


古田学説の剽窃を黙過しないために

横浜市 安藤哲朗
〔『多元』No. 四九、二〇〇二年五月より転載〕

 この頃目につくこと、それはテレビの考古学番組や、歴史小説の中で、既成の学説が一種の崩壊現象を起こしていて、その隙間を埋めるように種々の説を発表する学者が多い中で、古田先生の所説が、目立たない形で取り入れられていることだ。参考にした学説として断られているのではなく、「このようなことは、多岐にわたっている学説のうちの一説を採用しているに過ぎない」と言わんばかりに、スルッと使っているのだ。長い間蔑視していた縄文時代の交易・社会機構・戦争(当然国家の存在)に、全くの新学説のように言及するなどもその一例だ。しかも「参考文献・学説」にも、一切古田先生の名前も書名も出すことなしに。
 このような現象は、古田学説の一大連峰を知っている我々にとって、その一角を齧り取って知らん顔をしているネズミの仕業のように見える。だからといって看過してよいものだろうか。
 一方、「多元」に掲載している会員の論文は、当然、古田先生の著書・論文・講演など、またその文字化されていない部分の片言隻句からも感化・示唆を受けていることを前提として一々断ることがない。
 しかしこれを外部の雑誌・紀要・談話などの形で発表する時には、必ず先生の発案・基礎的論文の敷衍・提唱された方法論の延長線上の結論などであることを、細心の注意をもって主張・注記すべきだ。なぜなら、古田学説を紹介することには脅威を覚える既成学界の学者も、無名の個人の学説を引用することは、なんら抵抗を覚えないであろうから、やみやみと古田学説の剽窃者に仕立て上げられて発表されてしまう恐れがあるからだ。
 従って、我々はそのような機会には、冒頭に「この論文は古田先生の学説に基づいている」旨を、明晰に述べるべきである。
 また、古田説の明確な剽窃を発見した時は、漠然と見過ごすことなく、当人・編集者・放送局などに注意するようにしたい(放送局・出版社などには個人からの投書が有効)。また内容・発表月日・番組名などを記録して、会宛てに通知していただきたい。会では友好各会に通知して注意を喚起し、このような傾向の広まるのを防止したいと考えている。
 (「多元的古代」研究会・関東 副会長)


古墳は小林、神様は西村

豊中市 木村賢司

 毎月第一土曜日に実施している「史跡めぐりハイキング」は早いもので、この六月で二十回目となる。いつの間にか、ずいぶん歩いたことになる。
 月平均参加人数が十名で、ハイキングとしては適当な数である。でも、最近参加者の顔ぶれが、やや固定化しつつある。リーダーの私としては、もっと、足の遅い新しい参加者の増加を願っている。私は一応リーダーと言う事になっているが、実態は皆んなの後をついて歩いている。
 私は心の臓が今一つの上、短足で太っているので、坂道が大の苦手である。リーダー勝手で坂道のきつい史跡は計画時から除いている。それでも、少しの坂道があると、どんどん遅れる。わたしはちょっとした坂道でも、その坂に向かってブーブーと毒づくが、健脚組は欲求不満解消になるのか、むしろ楽しそうである。
 さて、常連メンバーでは、いつしか「古墳は小林、神様は西村」が定着したようだ。関西のどこに、どのような古墳があるか、どう歩けばそこに行けるか、すべて知りつくしているのが、小林嘉朗さんである。いつも、ご案内戴く名ガイドである。彼は全国の古墳を歩きまわっているが、特に関西の古墳は、すみから、すみまで歩いているようだ。でも、本人はまだ、完ぺきでないのか、あと二年五十才まで歩き尽くすとのこと。私は詳細な古墳ガイドブックより、なお詳しい古墳の生字引とみている。
 生字引と言えば西村秀己さん。神様、仏様のことなら、なんでもござれである。彼の頭の中には、神様、仏様、古代の尊の系譜が正確にインプットされており、その神仏尊がどういう意味をもっているか知りつくしているようだ。神社の祭神はいわずもがな、たとえば、六地蔵や愛宕の意味など、ハイキング道でちょっとした疑問や知らないこと、感じたことを問うと、まあ、教えてもらえる。そして、私は、せっかく知ったのに、これも、まあ、すぐど忘れである。ワイワイ、ガヤガヤが私主義である。それでも門前の小僧的にちょっとは身体に残っているか それにしても、関西には古墳、神様、仏様の多いこと、、多いこと、まだまだ、当分「史跡めぐりハイキング」の行き先に困ることがない。

  月に一度のハイキング、
  ワイワイ主義の、足学問。

以上 (二〇〇二・五・五)


盤古の二倍年暦 向日市 西村秀己


薬師寺論争の向こう側

泉南郡 室伏志畔

 法隆寺論争について一家言を持つ九州王朝説の論客のことごとくが、こと薬師寺について、移建論争、移坐論争を含めて口をつぐんでいるのはどうしたことであろう。私に言わせればそれは白村江の敗戦後の天武天皇制の成立とその崩御後の変質について、内在的に九州王朝説を導入しきれないために、言葉を見失ったとしか思えない。
 私はすでに四年前に出した『法隆寺の向こう側』(三一書房)で、倭国仏教の精華の一切をミックスした架空の人物を、『日本書紀』は聖徳太子として大和飛鳥に登場させ、この列島最初の仏教文化は大和仏教に始まったとし、先在する九州仏教を隠したと書いた。それは倭国をかつての日本国のまたの名として隠した大和一元史観を取る限り当然といえよう。かくして倭国の名刹は移築され法隆寺となり、多利思北孤の遺品で埋められた。それは法興寺においても、その本尊は倭国の元興寺からの移坐であったため、金堂の納めるてんやわんやの話が残ったのである。おそらくそれは豊前の椿市廃寺からの移されたと私は『大和の向こう側』(五月書房)で幻視した。

 《薬師寺問題の背景
 ところで奈良の西の京にある薬師寺(以下、京薬師寺とする)の伽藍配置が、大和飛鳥に眠る薬師寺(以下、本薬師寺とする)のそれに重なることから、「移建・非移建論争」が起こり、またその本尊の納まった金堂の薬師三尊像が、本薬師寺の本尊であるかどうかを問う、「移坐・非移坐論争」が長く争われてきた。
 この薬師寺の由来について、『日本書紀』と京薬師寺東塔の擦銘は、それぞれこう書く。《皇后体不与したまふ。則ち皇后のために誓願で初めて薬師寺を興つ。仍て一百の僧を度せしむ。是によりて、安平を得たり。この日、罪びとを赦す。》
《維れ、清原宮にあめのしたしろしめす天皇(天武)、即位して八年、庚辰の歳の建子の月に、中宮(持統)の不悉なるを以て、此の伽藍を創む。而るに鋪金未だ遂げざるの龍駕謄仙したまえり、太上天皇(持統)、前緒に遵い奉り、遂に斯業を成したもう。先皇(天武)の弘誓を照し、後帝(持統)の玄功を光やかし、道は群生を済い、其の銘に曰く、巍巍蕩蕩たり、薬師如来、大いに誓願を発して、広く慈哀を運らしたもう。猗A聖王、瞑助を仰ぎ延い、爰に、霊宇を餝り、調御を荘嚴したもう。亭亭たる寶刹、寂寂たる法城、福は億劫に崇苦、慶は万齢に溢れん。》
 松山鉄夫は上記のように天皇、中宮、太上天皇、先皇、後帝を比定したが、「太上天皇」及び「後帝」については議論があるという。またこの擦銘は長安の西明寺のの梵鐘銘に倣ったもので、その撰文の主体は文武天皇とされ、現在の擦銘は本薬師寺のものではなく移建後に書き改められたもので、何行かの欠落が指摘されている。
 なぜ擦銘が書き改められ、欠落を生じたかは、天皇制の変質とパラレルなのであるが、論争はそこにまったく触れない。そのとき問題は「太上天皇」及び「後帝」というより、私は擦銘の「中宮」にあるとするほかない。というのは『日本書紀』は薬師寺は「皇后」の病気平癒を天武が発願したのに対し、縁起はそれを「中宮」とするからである。確かに中宮は次第に皇后の別称となったが、それは藤原氏がそうしたので、皇后と中宮には歴然たる差があった。しかし平安時代の一条天皇の皇后・定子に清少納言あれば、中宮・彰子に紫式部ありと競ったのは有名な話であるが、その皇后より中宮が羽振りがよかったのは、中宮の背後に藤原道長が控えていたからである。『広辞苑』が中宮を定義して、その?で「皇后と同資格の后。新しく立后したものを皇后と区別して言う称」としているが、それは藤原氏によって皇后と同じように扱われていった中宮の意味をよく伝えている。
 これを踏まえるとき、天武が病気平癒を願い、薬師寺建立の発願の契機になったのは皇后のためか、中宮ためかは突き詰められるべきであろう。しかし、通説は『日本書紀』の皇后と東塔の擦銘の中宮を同じとして、持統その人に重ねた。私は常識から見て天武は皇后の病気平癒を願い薬師寺の建立を決意したとし、その皇后を大田皇女としする。それを中宮の鵜野讃良皇女である持統に書き換えたのが、現在の擦銘とみたい。

 《大田皇女隠しの意味
 この皇后・大田皇女隠しの内に薬師寺の秘密もまた胚胎したのである。というのは大田皇女は決して天智の長女ではなく、天武天皇制を近畿大和に招き、立ち上げた物部系の大(多)氏の息女であったことに関わる。天武の発願に拘わらず、皇后・大田皇女は不帰の人となり、新たに中宮の鵜野讃良皇女が立后した。この中で六八六年に天武が崩御したことは、天武と物部の申し子である大津皇子の処刑事件を結果し、持統は称制を引いて天皇制を自らの血統の流れの中に導いた。その一方、天武崩御によって中挫していた薬師寺の造営を再開し完成させたと松山鉄夫はする。
 現在、薬師寺が天武と共に持統と大津皇子を祀る。宝物殿であったか、現代作家の筆に成る三人の肖像画が飾られていたが、この組合わせはまったく奇妙である。これはやはり大田皇后を斥け持統が割り込んだために起こった矛盾で、本来は天武─大田皇女─大津皇子であったことを語るものであろう。
 天武崩御後、天皇制は持統に流れた天智の血を尊ぶ天皇制に切り替わった。そのとき薬師寺の縁起が大田皇女のために発願されたままでは困るのである。そこで大田皇女が抹消し、持統が初めより皇后であったとする『日本書紀』は造作された。しかし問題は本薬師寺の東塔に擦銘があった。ここに奈良への移建が後の「藤原」天皇制にとって至上命題となった理由がある。様々な脅しと懐柔策を用意され、時を経てついに本薬師寺の本尊と東塔は京薬師寺に移り、擦銘は現在のように書き改められたのである。現存する東塔は三重塔だが、各層に裳階をもち、その軒の出入りが例のないリズムを奏でることから、「凍える音楽」と評されたことはつとに有名で、権勢にまかせ過去すら我が物とした歴史の営みを凍えるように眺めてきたのであるが、それはこの国の形そのものなのである。

 《薬師三尊像と女心
 私は、梅原猛が優しさと力強さの見事な合体とした金堂の薬師三尊像を眺めていた。金堂と断ったのは、実は薬師寺の講堂にもうひとつの薬師三尊像があるからである。私の薬師寺論をするきっかけは、この二つの薬師三尊像あると知ったことに関わる。一体、誰が同じような、もうひとつの薬師三尊像を造らせたのであろうか。
 鈴木治は薬師三尊像寺に触れて、金堂のそれは関野貞が「豊満優美で、写実にすぐれ、技巧優秀」な天平仏であるのに対し、講堂の薬師三尊像はその拙劣な模倣で、その耳の形から「白鳳期のものと同じ形式」とした。この鈴木治の論が画期的なのは、時代は白鳳から天平へと進んだが、この薬師三尊像においては「天平仏」から「白鳳仏」への順序で造像されたとし、そこに日唐関係を挟んだことに関わる。日唐関係は、天智十年(六七一年)の唐使・郭務宗の帰国から大宝二年(七〇一年)の遣唐使の派遣まで途絶し、その間に天武・持統時代は納まる。しかしと鈴木治は、白村江の戦いの戦勝国たる唐からは時々、便船(LST)が訪れ、当時一流の仏師がそのとき東院堂の聖観音を唐からもたらし、それを元に金堂の薬師三尊像は造られたとし、講堂のそれは日本の仏師がそれを模したが、白鳳臭さは抜けなかったとした。
 その上で金堂の薬師三尊像の成立について、鈴木治は六九七年に持統によって鋳造されたとし、講堂のそれは奈良の西の京において鋳造されたとした。もちろん、金堂と講堂の薬師三尊像の製作順序を、その時代的特徴に従って逆とする意見も多い。しかし彼らはそこに天皇制の変質という政治的契機を挟むことをしないため、「移坐・非移坐論争」は「移建、非移建論争」と同じく定まらないのである。私はその大津皇子の処刑である丙戌の変を入れて、今、それを幻視してみたい。

六八〇年 天武は大田皇后の病気平癒を    願い、薬師寺建立を発願
六八六年 天武崩御と丙戌の変(大津皇    子の処刑)
六八八年 天武天皇の無遮大会を持統が    行う
六九七年 薬師如来の鋳造完成
六九八年 本薬師寺の完成

 問題は六八八年の意味である。梅原猛はこの時を本薬師寺の完成と見たが、鈴木治は「完成していなかった」と書く。これは無遮大会をどう見るかに関わる。それは平たく言えば二年前に崩御した天武の国民追悼式である。薬師寺の伽藍はまだ完成していなかったが、本尊がないままにこの式が薬師寺で行われたとは思えない。それは寺院行事としては沙汰の限りであろう。天武崩御に続く丙戌の変をもって次期天皇と思われた大津皇子を除いた持統一派は、薬師寺を天武が大田皇后のために発願したのではなく、持統のためになされたとするために、持統によって薬師寺において国民追悼式を取り仕切る必要があった。とするとき、このときまでに金堂の薬師三尊像は完成し鎮座していたとしなければなるまい。つまり無遮大会は、天武の遺志を受け継ぐのは持統であることを示すことによって、薬師寺は持統のための寺となったのだ。この縁起の書き換えは、持統朝にとって必要不可欠な共同幻想の書き換え作業であることを持統はよくわきまえていた。しかし、天武の愛情を取り合った大田皇后の病気平癒を願って天武が鋳造したこの本尊を拝むことに、持統はどうしても慣れなかった。この沈着冷静な持統の中にも哀しい女の性があったというべきであろう。次第に持統の体力も限界が近づいたとき、これはあの本尊の祟りではないかと持統はふと思ったにちがいない。そこで持統はせめて天武の菩提を弔い、自分の病気平癒のためにも、納得する薬師三尊像をもちたくなったのである。こうして鋳造されたのが、持統十一年(六九七年)の薬師三尊像で、それはいま講堂にあるというわけだ。

 《凍える音楽の哀しみ》
 しかしその新たな薬師三尊像の鋳造者は、かつての唐の仏師ではなかった。彼らは完成まもなく帰国していなかった。持統の要請の下に集められた仏師は、白鳳期の、つまり九州王朝・倭国の仏像彫刻の流れを組む仏師であった。ここに金堂の豊満優美な作品を、「古拙で生硬な」白鳳技術で模倣した講堂の作品が生まれたのである。しかし持統が崩御後、奈良に都が移り、本薬師寺に重なるように京薬師寺の伽藍は引かれ、移建の折衝は始まったが、話は進まない中で金堂の建立が始まったのは、その本尊に持統の鋳造した講堂の薬師三尊像を納めることで、双方の合意がついたからである。
 しかし天平二年(七三〇年)頃には、世代交代に加え、藤原京は目を覆いたくなるような没落の中にあり、平城京は今を盛りと奏でるようにあった。平安末期成立の叡山の僧・皇円が記した『扶桑略記』の天平二年(七三〇年)三月二十九日の条に「始メテ薬師寺ノ東塔ヲ立ツ」の記事が現れるが、それは本薬師寺も時代に抗しがたくなったことを語るように思えてならない。このとき金堂はともかく、東塔は移建されたのではあるまいか。平安中期にできた長和四年(一〇一五年)の『薬師寺縁起』に「古老云フ、件ノ仏ハ本寺ヨリ七日ニシテ迎エ奉ル」とあるが、それがこのときのことを伝えたものかどうかは解らないが、本尊もまた移坐したのである。
 とする京薬師寺の金堂にあった持統が鋳造した薬師三尊像は、このとき講堂に移ったのであろうか。しかし、昨日まで京薬師寺の僧侶によって崇められたこの本尊は、本来の本尊を迎えると無用の長物となり、一度はは土中に廃棄される悲哀を味わったらしい。というのは郡山付近から掘り出されたという噂があり、その後、転々とし、ようやく現在の講堂に戻されたが、この講堂も長らく明かずの御堂であったという。
 今も京薬師寺の金堂にある天武が皇后のために鋳造した薬師三尊像は、持統の女心に関係なく、持統のためにそれは造られたと喧伝されてあるのは、我々のもつ歴史の悲劇の構造とまったくパラレルなのであり、日本の知は今もそこに凍ったままなのだ。(H一四.六.一四)


青丹よし

熊本市 平野雅曠

 本年四月以降、熊本日々新聞紙上に、「古今夢」と題する小欄が設けられ、元筑波大学教授井上辰雄氏が執筆を続けられている。本題は、五月十二日付の記事である。

 奈良の平城京を、小野老は、
「青丹よし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の
 にほふがごとく 今盛りなり」
     (『万葉集』巻三─三二八)

と讃美している。
 当時、奈良の枕詞に、「青丹よし」を用いているが、『袖中抄』では、「奈良坂に、昔、青き土があったことを、その理由にあげており、『万葉集』研究の大家、沢瀉(おもだか)久孝先生も、アヲニ(緑青)の産出説を支持されている。まさにその通りであろうが、それと共に青と丹(赤)は、五行説に従えば、春と夏に配される色であることを考慮すべきであろう。春と夏は一年の「陽」の時期、換言すれば、創生から発展にかけての季節に当たる。

 だから中国では宮殿の柱は赤く彩られ、屋根には青(緑)色瓦が葺(ふ)かれていたのである。
 日本の奈良の都も唐風の官衙が立ち並び、青赤の壮大な宮廷が繁栄を如実に示すよう建てられていたのである。それ故、奈良はあくまで「青丹よし」でなければならなかったのである。

 と記している。
 そこで、レプチャ語研究の大家安田徳太郎博士の『万葉集の謎』を見ると、全く違って、鉱物の青丹とは縁もゆかりもない。次の通りである。
 レプチャ語で、ア・ヴォン、ア・ヴォニは「人間や家畜の集団」、ヨル、ヨシは「集まる」となっている。そうすると、アヲニ(たくさんの人)がヨシ(集まる)奈良の都となって判きり筋が通っている。
 つまり、奈良はその時代、日本一の都であったため、たくさんの人が住み、且つ地方からのお上りさんも往来も多かったため、当時の人々は「ア・ヲニ・ヨシ」という生のレプチャ語で奈良の姿を説明したのである。但しこの枕詞は奈良だけのものではなく

 あおによし 国内ことごと (巻五)

というように、国の枕詞ともなっていたのである。
(平成十四年五月 記)


古田史学の会

第8回会員総会のご報告

 七月二八日、大阪天満研修センターにて、古田史学の会第八回会員総会が開催され、二〇〇一年度事業報告・決算報告、二〇〇二年度予算案が承認されました。人事は任期中間年のため審議はありませんでした。

二〇〇〇年度事業報告
1.「古田史学会報」6回発行(担当古賀)

2.会員論集『古代に真実を求めて』四集発行(担当 鈴木、北海道の会)

3.古田武彦氏講演会等
 本部行事として会員総会当日(大阪、7/1)と『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年記念講演会(東京、10/8)、同追加講演(東京、10/9)を東京古田会、多元的古代研究会・関東と共催。この他、九州の会(福岡、7/8)・北海道の会(札幌、8/4-5)・仙台の会(仙台、12/8)・関西の会(大阪、1/19)で開催。

4.古田武彦氏調査活動の協力
 熊野猪垣調査(12月、関西の会)?糸島半島調査(7月、力石)
5.第3回古代武器研究会(滋賀県立大学・彦根、1/13)古田武彦氏ポスターセッションに協力。

6.インターネットホームページ『新・古代学の扉』(担当横田)
 独自ドメインを取得

7.遺跡めぐりハイキング(関西の会)毎月開催(担当木村)

8.『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫)十冊、『古代に真実を求めて1集』をセットで中国の各研究機関に贈呈。
※中国社会科学院、北京大学、北京外国語大学日本学研究センター、浙江大学日本文化研究所。

9.各地の例会活動
北海道の会(札幌市)、仙台の会(仙台市)、東海の会(名古屋市)、関西の会(大阪市)

(決算・予算報告はインターネット上は省略)


□□ 事務局だより □□
▼本号の発行日〈八月八日〉、古田先生は津軽で七六歳を迎えられる。お元気で成よりだが、重い荷物を引きずって旅行される先生のサポート態勢を整えたい。お手伝いしていただける会員は事務局まで御一報を。
▼古田先生を狙い撃ちにした悪質な偽作キャンペーンがまた始まった。学問の範疇を越えた卑劣な人格攻撃を許さない。学問と真実の為に本会報は紙面を提供していきたい。
▼その一方で真実を愛する人々により、古田先生は各地に招かれている。私の郷里、久留米からも講演要請が届いた。四国や九州からも会員が増えている。
▼暑中お見舞い申し上げます。@koga

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

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