古田史学会報
2001年 6月 6日 No.44

古田史学会報

四十四号/P>

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


 銅鏡の軍事的意義ーー考古学者の回答を求めるーー 古田武彦


古代の佐賀平野と有明海

川崎市 下山昌孝

 佐賀県の古代史は、華々しい筑紫古代史の陰に隠れて、何となく影が薄いという印象であったが、古田武彦氏が「九州の吉野」として、又「白村江へ出発する軍事基地」として、佐賀県を取り上げてから俄然注目されるようになった。私も昨年本会の仲間と共に、二度佐賀県に行き各地の調査を行ってきたが、今回はその報告である

一、「古筑紫海」の形成

 縄文前期を中心に、いわゆる縄文海進期には、筑後川周辺の筑紫平野(佐賀市を中心にする平野を含む)は、有明海が深く湾入して「古筑紫海」が形成されていた。図1は、「久留米市史第一巻」に掲載されている「筑紫平野生成過程図」(注1)である。これによると、約一万年前(縄文海進期を想定している)の古筑紫海は、現在の小郡市の辺りまで湾入しており、佐賀市全域を含む佐賀平野はほとんど海であった。更に約二千年前の弥生時代中期に至っても、古筑紫海は久留米市近くまで湾入しており、佐賀平野側の佐賀市や千代田町・諸富町などは海の中にあったとされている。佐賀県史にも、筑後川右岸の佐賀県側しか表示していないが、ほぼ同様の古代海岸線が示されている。
 しかし、この図は昭和三・四十年代における、日本地理学会の研究水準を示しているものと考えねばならないだろう。古代の海岸線を復元する試みは、東京湾・大阪湾・博多湾など各地で試みられている。多くは、現在の標高・三メートル、五メートル、十メートルなどの等高線を基準として、海進期の海を想定し、これに縄文時代・弥生時代の貝塚や遺跡を重ね合わせて、各時代の海岸線を描いている。古代から現代に至る長い時間の間には、土地が隆起した所もあれば沈下した所もある。現在の等高線だけで、古代の海を復元できない事は自明の理である。
 図2は「佐賀県の旧石器・縄文時代の遺跡分布図」(注2)であるが、これを見ると確かに筑後川周辺にはこの時代の遺跡は全く見当らず、図1に示された「古筑紫海」の存在を示唆しているように見える。ところが、図3「弥生時代の遺跡分布図」(注2)を見ると筑後川周辺は遺跡密集地となり、南は現在の諸富町辺りまで弥生遺跡が分布している。こうして見ると、図1が示す弥生時代の海岸線は、弥生遺跡の存在を無視して現在の等高線だけを頼りに、余りにも安易に描かれてしまったと考えざるを得ない。
(福永晋三氏が提唱する「弥生・古墳時代の古遠賀湾」も全く同様の問題を含んでおり、遠賀川の川沿いに多数の弥生遺跡が分布している事から見ても、その時代に遠賀川流域が内海であったという説は全く成り立たない)

 

二、弥生時代以降の佐賀平野

縄文時代前・中期には「古筑紫海」が大きく広がっていたが、後期から弥生時代にかけて筑後川周辺の陸地化はかなり進んだ様である。図4は、佐賀県教育委員会編集「吉野ケ里遺跡」(二〇〇〇年二月発行)に示された「吉野ヶ里を中心とした集落(弥生時代後期)」である。これを見ると、現諸富町の辺りが筑後川の河口になっていて、多数の「環濠をもたない集落」遺跡が分布している。そして吉野ヶ里を中心とする「国」の構成を説明した一節に「(弥生)終末期から古墳時代初頭に属する諸富町の三重檪ノ木遺跡や土師本村遺跡など当時の海辺の遺跡からは、東海地方以西の系統の土器が多く出土することから、吉野ヶ里集落など山麓部の拠点的な集落のための港であった可能性が高い」と記されている。最近の考古学的調査結果を反映した、佐賀県教育委員会による説明を見れば、諸富町の津は弥生時代に既に港として機能していたことは明白である。
 私は前に、現諸富町の寺井津(旧新北(にきた)村)の辺りが、万葉集八番歌に歌われた「熟田津」の地に最もふさわしい、との仮説を提出した(多元三六号「にぎたつ考」)。それは「ニキタ」という地名の一致だけではなく、有明海が日本でも最も干満の差の大きい海であり(干満の差は通常五メートルほどあるとの事である)、「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな」という情景にぴったりである、と考えたからである。 私の友人で佐賀県出身(大学卒業まで佐賀市に住んでおられた)の中野俊一氏の説明によると、「有明海周辺の漁船は、満潮から引き潮になるタイミングを見て船出する。こうすると船は一気に沖合いに出ることが出来、帰りは上潮の時に戻ってくる。」との事であった。「熟田津に・・・」の歌のように、潮を見て船出するのは、有明海沿岸では現在も行なわれている常識であったようである。

 

三、嘉瀬川の流路変遷

 嘉瀬川は「肥前国風土記」には、佐嘉川と記されているが、古田武彦氏は古代のある時期には「吉野川」と呼ばれていたという仮説を提案されている(多元三六号「人麿原歌」)。背振山脈の山懐の源から流れ出て、山岳地帯に深い谷を刻みながら佐賀平野におどり出てくる。佐賀平野に出た後、現在の嘉瀬川は佐賀市の西側を流れて、有明海にそそいでいるが、このように流れるようになったのは江戸時代初頭の事である。佐賀藩の大土木家・成富兵庫茂安(注3)が、佐賀城下町を建設する為に、石井樋(いしいび)という制水ダムを築造して、嘉瀬川の流れを変えたからである。それ以前の嘉瀬川は平野に出た後、東方に流れていたようである。
 図5は、「佐賀県史(上巻)」が示す「嘉瀬川河道変遷図」である。奈良時代の嘉瀬川は、肥前国府があった大和町総座から東南流して、佐賀市兵庫町の辺りで現巨勢(こせ)川に流れ込んで南へ、更に現佐賀江を東に流れて筑後川に注いでいた(佐賀江は諸富町の北境を流れている)。佐賀県史には「国府が内陸にある場合、近くの海岸に国府津をおき大津と称した。諸富町の大津はそれとおもわれ、これと国府間は佐嘉川の舟運によって結ばれたであろう。」と記している。奈良時代においても、諸富町の津は国府の玄関であり、極めて重要な港として機能していたようである。七世紀の「白村江の戦い」においても、重要な役割をはたした事は疑い得ない。
 嘉瀬川源流部の三瀬村には、大字藤原(ふじばる)字「吉野山」(現在は「吉野山キャンプ場」がある)があり、下流部の佐賀市兵庫町若宮(現巨勢川・奈良時代の嘉瀬川流域)に字「吉野」が遺存している。嘉瀬川が古くは「吉野川」と呼ばれた可能性は、かなり高いと云わねばならない。
 その後、嘉瀬川本流は時代と共に西へ移動し、鎌倉時代には佐賀市街地東南部から南流する八田江が本流となり、更に戦国時代には佐賀市街地の西南部から南流する本庄江を流れたようである。そして江戸時代初頭に、現在の流路が定まった。

 

四、徐福伝説

 「史記・始皇本紀」の始皇帝二八年(紀元前二一九年)の条に「斉人の徐苻*(じょふつ)らが上書して、『海中に三つの神山があり、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛(えい)洲と申して、僊人が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、僊人(せんにん)を探したいと思います』と言った。そこで徐苻*(じょふつ)をやり、童男童女数千人を出して海上に僊人を求めさせた。」(ちくま学芸文庫「史記」〈小竹文夫・小竹武夫訳〉)と記されている。

インターネット事務局2004.6.20
徐苻*(じょふつ)の苻*(ふつ)は、草冠に市。

 徐福渡来伝説は、和歌山を始めとして各地に伝えられているが(八丈島にもある)、佐賀平野にも徐福伝説が色濃く残されている。「佐賀県の歴史散歩」(山川出版社)によると

 「佐賀平野の北方、背振山系の南に筑紫山系の小山群が立ちはだかっている。その主峰の一つが金立山(きんりゅうざん 標高五百一メートル)である。佐賀市金立町大門から山石が露出し屈折した小道を登ると一時間ほどで山頂にたどりつく。頂上の近くに明治末年に再建された石造の金立神社上宮がある。祭神は保食(うけもち)神(穀物の神)・罔象売女(みずはめ)命(水の神)と徐福(金立権現)である。神社の後ろには湧出御宝石という頂部に常に水をたたえた石がある。神社のご神体はこの巨石で、元来農耕神を祀っていたが、徐福伝説と結びついて徐福も祀るようになった。徐福は秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊草を求めて海路来日して有明海に入り、寺井津(佐賀郡諸富町)に着いた。寺井の搦(からめ)集落には浮盃(ぶはい)という地名があるが、徐福が上陸地点を求めて杯を浮かべ、それが漂着した所という。徐福は金立山に分け入り、弁財天の加護で不老不死の薬草を手に入れた。しかし、なぜか故国に帰らず、この地にとどまり一生を終えたと伝える。」

 昭和の初めに、新北村(現諸富町)役場が編集した「新北村史蹟」という小冊子をみると、「浮盃の由来」という一文があり、

「肥陽古跡記ニ云。『佐嘉郡金立雲上寺ハ孝霊天皇七十二年(下山注:紀元前二一九年)秦始皇第三皇子徐福太子垂迹シテ三社権現ト顕レ給フ。権現来朝之時金銀珠玉之錺(かざり)乗船童男童女七百人歌舞音楽 ヲ調ベ肥前國寺井津ニ御着船有リ浦人障ヲ奉リテ饗スルニ太子喜ンデ盃ヲ浮ベテ興サセ給フ其跡一ノ島トナル今ノ浮盃津是ナリ。』(又、浮盃の由来を解説して)『浮盃ノ南数丁ヲ距レテ搦ト云フ部落アリ、此處ニ権現ヲ祭リタル無格社金立神社アリシモ明治四十四年三月十八日郷社新北神社ニ合祀セラル。』など古来の伝承を伝えている。

 諸富町が発行した「夢路はるか一萬里─徐福村紀行─」という小冊子に、地元の郷土史家・原田角郎氏が「有明海と徐福伝説」と題して、地元の徐福伝承の数々を紹介しておられる。「上陸地といわれる所は、筑後川(旧千歳川)の河口にあって有明海と結びついている。地名は諸富町大字寺井津東搦、旧名を浮盃新津といった。ここにあった金立権現神社は、大正年間の初めに『宮寄せ』によって、西五十米の地に移転した。社の跡地には、徐福上陸地の石造の標識が立ち、南端に金立神社跡の記念碑がある。(中略)浮盃地区の古賀家に伝わる古絹地の徐福上陸絵図は、有明海に停泊中の大型の船と、上部に金立山の付近が描いてある。」

 諸富町の新北(にきた)神社には、樹齢二千二百年の「びゃくしん」の古木がある。日本では珍しい古木であり、現地には「徐福が中国の江南から持ってきた」という伝承が残っている。周囲は一面の水田で平地であるが、二千二百年前に既に陸地化していたことを示していると考えられる。 また原田氏は、諸富町の寺井津が天然の良港であると紹介した上で、明治後半から始まった有明海沿岸漁民による、朝鮮半島沿岸への遠洋漁業を紹介しておられる。「諸富町の遠洋漁業は大正時代に始まった。手漕ぎの和船に帆をつけた僅か五トン〜十トン位の船であった。後には発動機を着けた(下山注:昭和の初め)。コースは大立野(現佐賀市)—島原—野母崎—平戸—對馬と廻り、對馬を朝三時に発って、夕方には釜山に着いた。今日では、朝鮮半島や大陸への渡航に、手漕ぎの小帆船を用いるのは想像を絶する困難と危険が考えられるが、海で鍛錬した気象予知を、慎重に計算していたのではなかろうか。」と記されている。小さな帆をつけた手漕ぎの舟で、朝鮮半島沖合いまで出漁していたというのは(実際には片道十数日かかったようである)、全く驚きであるが、これは有明海の海人達の古い時代から続いていた、遠洋航海に対する心意気を示すものではないだろうか。

 

五、佐賀県の稲佐山

 神武歌謡(久米歌)の「楯並めて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行きまもらひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒(とも) 今助けに来ね」も、前から気になる歌の一つであった。イナサはアイヌ語のイナウサンで「イナウ(神に奉げる木幣)を並べる祭壇」を意味しており、多くは神南備山の前に設ける。
 奈良県の宇陀で八咫烏神社へ行くと、正面(真東)に伊那佐山が有る。海抜六三七メートルの富士山型の秀麗な山で、恐らく古代人(縄文人)が神の在ます山として、祀っていた山に間違いないとの思いを強くした。しかし、この歌の伊那佐山は別だろうと考えた。古田武彦氏が既に「神武歌謡は糸島カラオケと考えればリアルである」と発表され、私も眼から鱗が落ちるような思いで「そのとおり!」との思いを抱いていた。現に「嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね」と云っているのは、福岡県の糸島半島の鵜飼漁法の集団に救援を求めていると考えられる。古田氏は以前に「この伊那佐山は出雲の稲佐の浜の後ろの山、即ち出雲大社の周辺の山を指すのではないか」との試案を提示されている。
 しかし、糸島カラオケとすると、伊那佐山も北九州に在った方が、よりぴったりすると考えていた。それで、だいぶ前に「長崎市にも稲佐山が有ります」と古田氏に電話で説明した。長崎の稲佐山は、市の中心部(出島の辺り)から湾を挟んだ対岸に在り、海抜三四〇メートルの独立峰で、富士山型の秀麗な山容であり、これも古代人が神を祀った山としてふさわしいと感じていた。
 ところが、佐賀県の地名や神社を調べていて気がついたのだが、杵島郡有明町に稲佐神社があった。武雄市の東南7メートル位の所で、万葉集の歌垣で有名な杵島山のすぐ東側にある。祭神は天神、女神、五十猛命と百済の聖明王及び阿佐太子であり、「日本三代実録(貞観三年八月二十四日)」にも記されて、歴史の古い神社である。神社の背後(西側)には海抜二七〇メートルの山があり、稲佐山と呼ばれている。
 昨年の夏、多元の会の仲間数人と「肥前の国の史跡を巡る旅」を実施して、稲佐神社も訪れた。東側(有明海側)から見ると、背後に杵島連峰がつながっているが、その前に三角形の秀麗な山があった。稲佐神社を訪ねて、宮司の笠原光博氏にお話を聞く事が出来たが、それによると「度々の火災にあって、古文書は全く残っていない」との事であった。しかし、神社の下の方に古墳が有ったが、町の運動公園を造る為に削られてしまった事、また山麓部に山を囲むように土塁が残っており、古代には山城であった可能性がある事などを教えて頂いた。
 もしこの神武歌謡が佐賀県の稲佐山で歌われたものだとすると、北九州に上陸した「天国軍」が、「火の国」の先住民(縄 文人)と戦った記録なのかも知れない。

 

(注1)「筑紫平野生成過程図」。原典は九大教養部地質研究報告第4集(昭和三二 年)。

(注2)山川出版社「佐賀県の歴史」(杉谷昭等著、平成十年四月発行)

(注3)成富兵庫茂安は、佐賀城下町を造成するために、嘉瀬川の流路変更を行なった外、筑後川右岸(佐賀藩側)の堤防を整備した。佐賀市兵庫町や三養基郡北茂安町などは、彼の業績を記念した地名である。


平成十三年二月四日

〔編集部〕本稿は「多元」 四二号(二〇〇一・四)より転載させていただいたものです。筆者は「多元的古代」研究会・関東の事務局長。


法隆寺の研究 奈良市 飯田満麿


学問の方法と倫理八 続・変節の論理<略> 京都市 古賀達也


筑後地方の九州年号 京都市 古賀達也


二〇〇一年四月十二日 浙江大学日本文化研究所訪問記念「講演要旨」 古田武彦


二〇〇一年四月十六日 北京外国語大学日本学研究センター訪問記念「講演要旨」 古田武彦


黄河の断流について

              多元の会 下山昌孝

 「古田史学会報」四三号の「事務局だより」に、古賀達也氏が「中国第二の大河、黄河の水が枯れて深刻な水不足らしい。聞けば、下流の泰山付近では京都の鴨川より水量が少ないらしい。」と書いていますが、これはいささか誤解をまねく表現であるように思われますので、最近の知見をふまえて現状を報告します。
 四月中旬に、「古田武彦氏とゆく中国古代史の旅」で、江南から華北まで約二千kmの旅をしました。途中、泰山山頂に宿泊して、古代の帝王が封禅の儀式を行なった場所に立ち、筑紫の君・薩野馬も参列したであろう「唐・高宗の封禅」を想い、荘厳なご来光を観賞しました。泰山を下りて、五十km程北へ走ると、現代の黄河河畔にある済南市につきます。北京へ向う飛行機で済南空港から離陸すると、まもなく眼下に黄河の流れが見えてきます。黄色い大河がゆったりと蛇行しながら流れています。その流れは、決して京都の鴨川のような細流ではなく、筑後川や遠賀川の河口付近よりもさらに河幅も広く、水量も豊かな流れでした。
 確かに「黄河の断流」とそれに付随する「華北の砂漠化」は、近年の大問題であり、辻康吾氏の報告(「しにか」二〇〇一年一月号)では次のように述べています。「孫孫*らのテレビ・シナリオ『重読大黄河』は次のように述べている。『黄河の断流は、七二年以来続いていたが九六年、断流は百三十三日にも及び、その上端は河南省蘭考に達した。からからに乾いた黄河の河原が河北の大平原に横たわったとき、人々は未曾有の喪失感に襲われ(中略)人々は自分の目を信じることができなかった。黄河というこんなにも巨大な生命が衰退するとは。』
インターネット事務局2004.6.20
 孫*は草冠に孫。
 地球温暖化、西北・華北の乾燥化、取水の増大など、黄河断流の原因は多々あるが、黄河が半ば内陸河になると同時に深刻な汚染が進行している。今年(二〇〇〇年)は降雨が多く黄河に水は流れているが、華北の砂漠化は容赦なく進行している。」
 「黄河の断流」(河口まで水が届かない)は、多くの中国人にとって「中華文明の危機」とさえ考えられている大問題ですが、だからといって黄河の河水が年中枯れているわけでないのです。今までに最長百三十三日の断流が記録されていますが、昨年は年間を通して黄河の河水は河口に届いていたのです。
 古賀氏が「泰山付近では京都の鴨川より水量が少ない」と云われたのは、特別な年と時期によってはありうる事でしょうが、普段の状況を示しているとは考えられません。先日我々が見た泰山付近(済南市)の黄河は、黄色い泥流がゆったりと流れる大河の趣を見せていた事を報告します。
二〇〇一年四月二九日


□事務局だより□□□□□
▼この度の古田先生の訪中は大きな成果が得られたようだ。学問的発見はもとより、浙江大学・北京大学・北京外語大学での講演会等も意義深いものとなった。そして、中国社会科学院では歴史教科書問題を巡り、数時間の対談が行われ、終了時には双方は固い握手と抱擁を交わされた。これは歴史的出来事だ。
▼十月には「邪馬台国」はなかった発刊三十周年記念講演会を東京で行う。こちらも歴史的イベントとなろう。
▼『古代に真実を求めて』4集の発行が七月にずれ込む模様。今暫くお待ち下さい。また、前号で紹介した執筆者の一人洞田氏のお名前が「大洞」となっていました。お詫びいたします。
▼古田先生の新刊『古代史の十字路─万葉批判』が好評である。既に続編も執筆されたご様子。古田万葉学の発展には、当分目が離せない。請う、ご期待。koga


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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