古田史学会報
1999年 8月 8日 No.33

古田史学会報

三十三号

発行 古田史学の会 代表 水野孝夫


>「日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について 古田武彦


『「君が代」は九州王朝の讃歌』古田武彦著

本会より政治家・マスコミに贈呈

古田史学の会 事務局長 古賀達也

 「君が代」の法制化が国会で進んでいる最中、古田史学の学問的成果を広く宣伝し、また「君が代」のルーツを知ってもらおうと、この度、「古田史学の会」では、事業の一環として、『「君が代」は九州王朝の讃歌』古田武彦著(新泉社)八〇冊を、政党・国会議員・文部省・記者クラブ・テレビ局・新聞社政治部・有名テレビキャスター・日教組などに贈呈しました。
 古田史学の宣伝・顕彰は本会の目的の一つですが、これまでも本会発行書籍を全国の図書館に寄贈してきました。今回は「君が代」が大きな政治問題となり、国民的関心が集まっていることなどから、急遽、『「君が代」は九州王朝の讃歌』を政党やマスコミに贈呈することにしました。小渕総理をはじめ管直人氏や小沢一郎氏など政党云首等に郵送するという初めての経験でしたが、この影響が将来どのような形で現れてくるか、大変楽しみです。
 すでに八月二日の産経新聞朝刊に、同書の紹介が書評欄に掲載されると言うマスコミからの反応が現れました。同紙書評ではかなり好意的で正確に紹介されましたことも、注目されるところです。また。TBSニュースキャスターの筑紫哲也氏から丁寧な礼状が本会に送られてきたことも報告しておきます。
 古田先生による「君が代」の研究はさらに進展を見せており、その一端を本郷に寄稿していただきました。また、「君が代」に関する著書の執筆も進められているそうです。本郷は通常の倍の一千部印刷し、会外にも広く配布される予定です。これからも、本会は、古田先生の研究活動を応援し、古田史学の宣伝・顕彰事業を進めていく所存です。会員の皆様の物心両面のご協力に心より感謝申し上げるとともに、今後ともよろしくお願いいたします。
 最後に、今回の著書贈呈事業に対し、ご協力いただいた、新泉社、多元・関東、東京古田会に御礼申し上げます。


プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信) 古田武彦


プロジェクト「貨幣研究」第2報 『秘庫器録』の史料批判(1) 古賀達也


古田先生の講演

筑後国府跡の曲水の宴遺構 筑後国正税帳から白玉、紺玉のこと

池田市 平谷照子

 今年、四月例会においての古田先生の講演の中で、久留米市の筑後国府跡から「曲水の宴」遺構らしいものが発掘されているということ、また、同じ筑後国正税帳の断簡が正倉院に残っていて、それに関しての話をされたのですが、この二件について、思い出すことがありました。
 かつて、曲水の宴に興味があって、少々、調べてみたのですが、調べるといっても、家の在庫本をのぞいたに過ぎません。この曲水の宴は、誰もが知るように、中国からの輸入であり、古代中国で三月上巳(陰暦三月の初の巳の日)に流れる水に盃を流し、不祥を祓除する祭りに由来するといわれます。これをもって上巳曲水ともいうそうです。
 不吉なことがあらわれています。このままでは必ず悪いことが起ります。祓い清めの祭りをするのがよろしい。流れる盃には不幸が満載されて、いづこかへ流し去ってくれたのでしょうか。上巳曲水は巫術に重きをおいていた初期の道教からでた祭りではなかったかと思います。
 東晋の永和九年(三五三)三月、当時の一流の文士であった王義之、謝安ら四一人は、会稽郊外の蘭亭(紹興県西南)に集い、森や竹林の下を、まがりくねって行く流れに觴(さかづき)を浮かべ、即興の詩を詠じては酒を飲み楽しんだと、中国史に伝わっています。王氏たちは上巳曲水にヒントを得てこの風流な遊びを思いついたのでしょうか。王氏をはじめ東晋の貴族たちの多くは、道術師の信者が沢山いたということです。
 文人たちの風雅な宴が、時を経て、次の宋の時代になると、天子のお声がかりの宴になるのです。

 古詩源(沈徳潜選・一七一九)の宋詩の中に、顔延之の詩があります。
「詔に応ず、曲水に讌せしとき作りし詩八章」
と題して、
 宋略に云う、宋の文帝の元嘉十一年(四三四)三月丙申、楽遊苑に禊飲し、会する者は詩を賦う。

 今回の講演で、この古詩源の顔延之の曲水を思い出しました。宋といえば、かの倭の五王の記事をのせた『宋書倭国伝』が連鎖的に浮かびます。『日本列島の大王たち』その中の「倭の五王の九州王朝」の項に、

 倭の五王全史料があります。その一つに、「文帝、元嘉十五年(四三八) 是の歳、武都王、河南王、高麗王、倭国、扶南国、林巴国並びに使を遣わして方物を献ず。」(珍)

 この記事は、文帝が曲水に讌した年の四年後のことです。
 宋国は、方物献上の答礼に各国の遣使をもてなし、王宮の楽遊苑にも招かれて、そこで曲水の讌のことも披露された。倭国の遣使一行の中に、その時の見聞録をしたためた人があって、持ち帰り、倭王珍に奉し出されたものが、九州王朝で保管されていた。想像の域を出ませんが。
 筑後国府跡の遣水遺構の年代の実相はわかりませんが、コピーされた筑後国府跡発掘調査に関しての中で、「幅が狭くなったり膨らんだりして、流れに澱みを設ける工夫がなされている点は、この遺構が園地に関係した遺構、すなわち遣水である可能性が極めて高い。」とあります。
 一九七五年(昭和五)奈良平城京左京三条工坊六坪から発掘された、八世紀に曲水を行ったとみられる蛇行した池がその後整備されて特別史跡になっています。私の知るところ、文武の七〇一年、聖武の七二八、七二九、七三〇年と四回、曲水の宴がおこなわれています。曲水の宴を詠んだ歌人は、奈良朝の人では大伴家持(新古今和歌集)のみ。

◇ ◇

 講演の中で、筑後国に関するものが、もう一つ、提示されました。正倉院文書として残っている筑後国正税帳です。コピーされたこの正税帳の中に、いくつかの玉のことが書かれていました。

依太政官天平十年七月十一日符 買白玉
壹伯壹拾参枚  直稲漆拾壹束壹把壹分
紺玉漆伯壹枚  直稲肆拾壹束壹把捌分
縹玉玖伯参拾参枚 直稲肆拾漆束漆把捌分

 これは、太政官に依る天平十年七月十一日付公文書でもって、白玉百十三枚を買上。その代価は稲七拾一束一把一分。紺玉七百一枚の代価は、稲四拾一束一把八分。縹玉九百三拾三枚の代価は、稲四拾七束七把八分。ということでしょうか。
 筑後国のどこに、このような「玉」があったのかと興味深いことです。
縹玉は講演の中で、ガラスのことだと聞きました。八世紀の頃、ガラスは金銀につぐ宝であったといいます。ガラスは透明なものと不透明なものがある中で、縹玉はそのどちらであったのでしょう。数量にして九百三十三枚というのです。
 白玉は、寧楽私史考(関根真隆氏)の中の、白玉と同じものではないかと思います。紺玉も同様。
白玉の産地は、唐の玄奘の『大唐西域記』に、ホータン国(今、ウイグル自治区)や、パミール高原の東麓、ヤルカンド国(今、シャーチョ〈莎車〉)であると記されているそうです。
 紺玉については、寧楽私史考から抄出しますと、紺玉は青金石とも称されて、ラピスラズリのことで、東洋での産地は、アフガニスタン東北部のパタフシャンだといわれています。藍青色の中に、ところどころ白い斑、または褐色鉄銹状の小斑点が入っていて、金色に光るところもあるという玉です。正倉院にはこの紺玉を用いた宝物が二点。その一点は紺玉帯と称する革帯で、その飾りである巡方、丸鞆としてこれが取り付けられています。もう一点は、犀角の如意の柄の端にこの石を取り付け、飾りにしています。製作は中国他。
 青金石(紺玉)のアフガニスタンでの産出、販路については、地理的位置からして、康国(サマルカンド)のソグド商人が深くかかわっていただろうと著者は想像されています。
 しかし、紺玉が筑後国にストックされていて、国府が中央の命令でそれを買上げたという、筑後国正税帳の記事には触れられていません。
 これは私の想像ですが、隋書倭国伝(岩波文庫)によりますと、倭国王は文帝の開皇二十年(六〇〇)に最初の使いを長安に送ります。
 次、大業三年(六〇七)かの「日出ずる処の天子云々」の国書をたづさえた二度目の使いが洛陽にむかい、煬帝の立腹をかっています。にもかかわらず、翌年、大業四年(六〇八)煬帝は、文林郎裴清を倭国に派遣しています。蛮夷の書無礼である。再びこのようなものを取りつぐな。といったものの、臆せず不躾な書状を送りつけたその蛮夷の国に、少なからず興味をもったのではないだろうか。こういうものにこそ、皇帝の威光を誇示するに最良の機会だと、裴清に随って答礼におもむいた倭国の使に、かの珠玉、白玉、紺玉、縹玉などを下賜した。結果、遥遥と西域の険路を旅してきた、東洋の珍材が隋から、筑後国へ。そして天平十年までそこで眠っていたのではないだろうかと。
 正税帳には、玉以外に簀竹工七人(簀は竹で編んだむしろ)、造轆轤雑工参人、講演中の、造銅竈工、鷹養人参十人、貢上したとある。筑後がもっていた技術は次々と大和朝廷に吸収されていったようです。

(九九・六・二二)


古田先生と「三前」を行く 京都市 古賀達也

『歴代鎮西要略』に見る九州年号

香芝市 山崎仁礼男

 古本屋で『歴代鎮西要略』という本を見つけたので、買って内容をみたのですが、九州年号が、分注の方式で書いてありましたので報告させていただきます。丸山晋司氏の『古代逸年号の謎』にも、『市民の古代』十一号にも、この本の名前は載っていませんので、新史料と思われます。
 本の解題によると、『歴代鎮西要略』は要略とあるように『歴代鎮西志』(全十五冊、写本。東京大学史料編纂所架蔵)が底本で、若干の要略が見られるだけであるという『歴代鎮西志』の末尾に「明治十八年華族鍋島直大蔵書ヲ写ス」とあり、原本は佐賀藩において継続して編纂されたものと考えられるという。『史籍集覧』の最初の本の明治十四年から十八年にかけての近藤瓶城氏の刊行本にあるという。『改定史籍集覧』や『続史籍集覧』には未収録となっているということです。
 九州年号は『歴代鎮西要略』の巻一上にあります。巻一上の大部分は『書紀』を節略したような文章で、この巻の史料的価値は乏しい。この中に、時々上記の様な分注方式で九州年号が通しで書かれています。
 建記・貴示・慶縄・造貴・光交などは、一字相違のものですが、本書が初見です。
 朱鳥・(丙戌の)大化の年号は本文となっている。大化は二回書かれています。いずれも本文ですから矛盾します。大長の年号がありません。白鳳は分注と本文とにあって、本文は天武元年となっています。
 巻一上は四〇頁ほどのものですから、必要な方はお電話下さい。コピーをお送りします。

『歴代鎮西要略』に見る九州年号<


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室伏氏の幻想史学の方法について

札幌市 吉森政博

 古田史学の会発足以来、室伏氏の活躍は目覚ましいものがあり、殊に古田史学がおかれている状況や本質に関わる部分を語る時、その論理力・文章力ともあいまって、他の追随を許さぬ鋭さを感じさせられていた。最近では『伊勢神宮の向こう側』『法隆寺の向こう側』(以後、第一書・第二書と略す)と続けて上梓され、各方面からの評価を得ていることは、同じ会に所属するものとして嬉しい限りである。
 ただ以前から、古代史の探求におけるアプローチの仕方や方法論に関しては若干の疑問を感じてはいたのであるが、第二書および古田史学会報三〇号「『記紀』分析の危機」を拝読させていただき、室伏氏にとっても読者にとってもここで一言言及する必要を感じたものである。もとより浅学・非才の身にとって、かなりの困難を伴う無謀な試みであるかもしれないが、でき得る限り私の真意を伝えるための努力を試みてみたい。


幻想史学とは

 室伏氏は最近「幻想史学の会」を名乗っておられるようである。そのこと自体は個人の自由であるが、第一書・第二書からの流れでこれを考えてみれば、文献に対する実証的な分析よりも幻視による分析の優位性を主張されているかに見える。これは記紀に限定したものなのかどうかははっきりと読み取ることはできないが、少なくとも記紀の分析において、文献史学の方法の限界、もしくは危険性を考えておられるようだ。
 確かに記紀における「盗用・歴史の改竄」は、当初古田武彦氏が『盗まれた神話』での分析で示した以上に、広範囲かつ徹底したものがありそうだということは、最近の古田氏・古賀達也氏・福永晋三氏らの研究から、色濃く感じさせられている。室伏氏が「記紀は単なる歴史書としてではなく高度の思想書としての達成があった」といわれるのも充分理解し得るものである。ウッカリ触れると、記紀編者の術中や陥穽に陥るかもしれない。
しかし「だから幻想史学・・・」とはならないような気がする。少なくとも古田史学を学んでいる学徒としてのとるべき方向ではないように思う。室伏氏のいわれる「幻視」「幻想史学」の用語の意味合いを充分理解していないとの反論を予期しながらも、敢て言えば「幻視」とは「想像」、「幻想史学」とは「想像による歴史ロマン」に、すぐさま堕ちてしまう可能性の高い方法としか思えない。第一書・第二書においても鋭い論考が多々あるものの、肝心要の部分ではよく「幻視」という言葉の壁にぶち当たってしまった。その部分に疑問があったとしても「これは私の幻視です」と言われれば、批判の仕様もなくなってしまうのではないだろうか。そうして素通りした「幻視」による成果が、次からは「(幻想史学により)既に論証されたもの」として一人歩きするようになったとすれば、これはもはや学問といえるものではない。人一倍の力量を持つ室伏氏だけに惜しまざるを得ない。


倭国の主神は月読か

 幻視に幻視で応じても、これは「思う」合戦になって、かみ合うことはないのではないかと恐れるものの、室伏氏が出した結論以外にも、違う結論が「私なりの幻視(思い付きと幾つかの証拠らしきものと想像の産物)」によってならば幾らでも可能だということを一例に示したい。
 室伏氏は、古田武彦氏の、出雲王朝→倭国→大和朝廷という複線的な「古田歴史論」と対比して、「古田神話論」は出雲神話→倭国神話=記紀神話と単線的であり著しい後退だと批判、自らは出雲大神→倭国大神(月読命)→天照大神という構造を想定し、倭国の主神を近畿天皇家によってその存在を抹殺された月読命だとする。その構造としての着想自体は評価し得るものである。しかしそこには重大な見落としがあるように思えてならない。すなわち考古学出土物との対応である。
 倭国の女王として余りにも著名な卑弥呼の好物は鏡であったらしい。事実倭国= 九州王朝の中枢地域である博多湾岸およびその周辺から出土する漢式鏡・後漢式鏡は夥しい数に及ぶ。これらは何のために必要だったかと言えば、私などが言うまでもなく、太陽信仰・太陽崇拝に関わることだということは誰もが知っていることと思う。すなわち倭国において日神の位置の重大性は格段のものがあると言わねばならない。室伏氏の神社の祭神やニニギの分析などから導き出された「幻視」による「倭国の主神月読論」にも一理はあるとしても、倭国の月神が日神を凌ぐ存在であった痕跡は私には感じられない。それが近畿天皇家による巧妙な徹底した存在の隠蔽・抹殺によるものだと言うなら、不存在が逆説的な最高神の証明だと言うならば、他にも葦の船で流されてしまった不具の「ヒルコ」という存在がある。
倭国の主神はヒルコ?
 これは私の作業仮説とも呼べない程度の思い付きにすぎないが、ヒルコが倭国の主神であればヒルメ(私は大ヒルメ貴と天照大神が別人であるのと同様、大帯比売と神功皇后は別個の存在だと思っている)と並ぶ日神であって、倭国の鏡偏重とも矛盾しない。さらに主祭神の座を追われているところが多いとはいえ、ヒルコ大神を祭る神社は全国に多い。かつては広範囲の地域で尊崇の対象であったことを思わせる。ヒルコは蛭子とも書かれるが、蛭子はエビスとも読み得る。エビス信仰はおいべっさんとも呼ばれ庶民の間に浸透している。大和朝廷によりその直接的な崇拝を禁止されたヒルコ信仰は、大黒様となった大国主と共に庶民の間にエビス様として密かに生き残っていたとは考えられないだろうか(そして天照はお伊勢さんとして)。それでこそ、出雲大神(オオナムチ※)→倭国大神(ヒルコ大神)→大和大神(天照大神)となって、画期的な室伏主神論の構造に名実共に合致するのではあるまいか。(※ただし、オオナムチと大国主も別存在と思っているため、その辺の整合性に苦慮しているのだが)余分なことを一つ付け加えると、記紀における天照・月読・スサノオの三兄弟の話は、三種の神器のそれぞれ、鏡=日神=天照(実はヒルコ)、勾玉=月神=月読、剣=雷神?=スサノオを象徴する説話として置かれたものではないか。


楕円国家論について

 もう一点指摘させていただきたい。室伏氏の所説は、独特の文体ともあいまって、読者に鮮烈な印象と魅力を感じさせる。主神論における日月の対比も鮮やかでイメージとして非常に魅力的だ。その存在に不明な点が多い天武天皇= 大海人皇子を東宮として鮮やかな存在感で描き出した楕円国家論もその一つだ。
 しかしその論証において大芝氏の「難波津豊前説」を無批判に踏襲されたのはいかがかと思う。大芝氏の『九州の「難波津」発見』は、難波津= 大阪湾という固定観念のあった時点において、多元的な難波津を提起した意義は非常に大きいものがあったものの、その論証自体に説得力はやや欠けていた嫌いがあった。特に現地に難波津の残存地名を指摘できなかったことは致命的ともいえる。その後、九州の灰塚照明氏が筑前に難波の小字が存在していたことを発表したりと、いまだ確定を得られていない段階の論証であった筈である。室伏氏が自説の展開にとって都合がいいため「難波津豊前説」を安易に引用されたとは思わないが、「難波津豊前説」が否定されたとすれば、室伏氏の楕円国家論ははかなく瓦解する運命となる。事実最近、東京古田会の高木博氏や佐野郁夫氏が「難波津博多湾説」を展開されており、私には後者の方により説得力を感じるのであるがいかがであろう。


 古田武彦氏の論証におけるイマジネーション

 もとより、私は歴史探求における想像力を否定するものではない。古田氏の学説にこれ程多くの人達が魅かれるのは、その徹底した資料批判や緻密な論理展開のみにあらず、むしろその豊かなイマジネーションに負うところ大と言わねばならない。しかしながらそれは単なる想像力と言い換えることはできない。親鸞研究の「大切の証文」の論証しかり、福沢諭吉の他の著作と「天は人の上に…」との思想性の齟齬の論証しかり、柿本人磨呂しかり、文献に現れる対象の人間性・思想性に肉迫せんと資料と文字通り格闘するかのような経過を踏まえて始めて、読者の我々がそこに魅きこまれるほどの迫真性を持ちえたのではあるまいか。
 以前私は古田氏に「歴史研究というのは、事実の積み重ねも大事なんでしょうけれど、それと同時に感覚的なセンスというのが大切なんではないでしょうか」と問うたことがある。大家といわれる人達の論文や古田の学問の方法と称した無味乾燥な論証にお目にかかった時に感じたことである。その時古田氏は「そう、そう、その通りです」と首肯された。
 私は、室伏氏に論証力とともに豊かなセンスをも感じるものである。それだけに安易に「幻視」だの「幻想史学」だのという曖昧な用語に頼ったり、八卦を持ち出したり、資料不信に逃げ込まないでいただきたい。幾ら結論が古田史学の範疇にとどまったとしても、それは似て非なるものに成り下がってしまう。想像の翼を自由自在に広げた歴史ふう物語は、古田氏以前に食傷するほどお目にかかっていて(以後にも相変わらず多いのであるが)、初めて本物に巡り合ったという思いがこうした会に結集する人達の心底にある筈である。その中から、古賀達也氏や福永晋三氏、上城誠氏、高木博氏などなど、心強い研究者も生まれてきている。室伏氏ももちろんその一人である。それだけに今一度徹底した論証を望む。一冊の本にまとめることを優先するために論証を急ぐことなかれと願う。


 吉本隆明氏の言語論における達成は古田史学に必要不可欠か

 私は吉本氏の著作はほとんど読んでいない。 つい数年前、古田氏とは対照的な難解な(回りくどい)言い回しに難渋しながら『共同幻想論』をやっとの思いで読んだ程度である。その私がこの問題で発言する資格はないかもしれないし、北海道の会にも居る吉本氏に深い思い入れを抱いている仲間からもきつい叱責を受けそうである。しかし私と同様な印象を持っている人達は意外と多いのではないかという妙な自信もあるので、最後に敢て一言語らせていただきたい。
 吉本氏には古田氏と同様に外部からは信者と称されるような熱烈な支持者が多い。吉本氏もある種の本物なのだとは思う。北海道の会の山本氏が古田氏を「時代と格闘する数少ない思索家」と規定したのと同様、吉本氏もその一人であったと思う。しかし(これは私の印象にすぎないが)吉本氏の論説は、所詮古田以前の学問の上に到達した最高点にすぎないのではないかと思う。それだけに古田氏が築き上げた新たな歴史認識を踏まえた発言を待望していた。しかし今に至るまでそれはない。そのチャンスは何度かあったにもかかわらず。私はそれを逃げているのだと思う。古田氏の新たな歴史認識の上に上部構造を構築することが困難なのか、自らの論説を修正せざるを得ないことを厭うてのことなのかは知らないが、それは古田氏の論説と吉本氏の論説が互いに必要不可欠なほど連関したものではないことを意味する。ともあれ、私たちは古田氏の「子供にも解る」明快な論理展開に魅かれてここまで来た。古田氏が「子供には理解不能と思われる」吉本氏の「達成」を踏まえなければ、あの新たな歴史認識に到達できなかったとは到底思えない。
 室伏氏が自己の思想的・人間的成長過程において、右手に古田の方法を、左手に吉本の方法を、という独特の方法を有効と判断されるに至るいかなる経過があったかは、私には解らないが、それを普遍的な歴史研究の場においても、古田史学の場においても適用せよというのであれば、それは違うと言いたい。
私の幼稚な用語や言い回しでは、充分意図を伝えられたかどうか自信はないが、私の力量ではこれが精一杯であった。何とか私の真意を汲んでいただければ幸いである。


「万葉集」に 天照大神がいた!

札幌市 和田高明

 数年前から、(地図の上ですが)自分でも九州の「天の香具山」探しをしながら杳として見つからず、半ば諦めかけていたところ、最近になってようやくその所在が明らかになり、長年の胸の閊えが一気に取れた思いがします。香具山探しに地道に取り組み、現地調査までした方々、そして古田先生に頭が下がります。万葉集二番歌の先生の明確な解釈には快哉を叫びました。

 さて、問題は一番歌です。世上流布されている冒頭の歌は何と皮相的で陳腐なものなのか、珠玉の歌集として長年月に亘って日本人に愛され、又、学者によって研究の対象となってきた「万葉集」の最初の歌とは、何と無邪気なものなのかと思っていたのは、私一人だけの偏見だったのでしょうか。いくら古代の人はおおらかにして開けっ広げであったとしても、勅撰に匹敵するほどの歌集の筆頭が、いや、「雑歌」「相聞歌」「挽歌」と分類があるにも拘らず、「雑歌」の冒頭がどうしてこのように軟弱でたわけた、ナンパの歌でなければならないのかと感じていながら、古代の人とはそういうものだったと自分に言い聞かせて、実際は逃げていたのです。

 ところが、ようやくにして「天香具山」の正体が明らかになり、二番歌の歌意が明確になったところで、放置していた疑問がにわかに疑惑となって広がってきたのでした。

 しかしながら、「万葉集」の劈頭歌は、当然二番歌に引けを取らぬ堂々とした内容のものであるはずだ、という確信が先に立つばかりで、またしても原文を睨んで、いたずらに時間ばかりが経過していきました。

 ところが、四六時中一番歌のことを考えているうちに浮かび上がってきたのは「岳」という文字です。「岳」はどう調べても「山」の意味でしかない。筑紫で「山」というだけで通じる山は、神聖なる山、高千穂の峰か串振岳しかないはず。これが外れていたとしても残るは雷山しかないであろう。串振岳の串と掘串の串とは関係がないのか。従来の解釈のように丘なら判るが、若い女の子がなぜ山の上に菜を摘みに行くのだ等々、疑念が疑念を生み、浅学菲才の頭の中は収拾のつかない様相を呈してきましたが、原文と辞書を睨み続けているうちに、思いもよらぬ世界が浮かび上がってきたのです。

 こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち
●籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持
 【籠】「かご」の他に、「箙えびら・靫ゆき、ゆぎ」の意味があります。
 【掘串】土を掘る道具ということですが、ここでは「石器」や「青銅器」製の武器を揶揄してこう表現したのではないでしょうか。
 こ     こも   ふくし   ぶくしも
 ○籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち
「そなた達は、箙をそれも立派な箙を持っているなあ、鉾も良い鉾を持っているではないか。(なかなか勇ましい。しかし、そんなものを振りかざしても、我々の鉄の武器には叶わないのだよ。)」
自ら鉄器を独占して国譲りを成し遂げ、筑紫上陸を果たし、他を睥睨する満々たる自信が吐露されているのです。

 このやまに なづますこ いへきかん なのらさね
●此岳爾  菜採須兒  家吉閑 名告紗根
【岳】人を抑えつけるような、険しい聳え立つ山
【泥む】行き悩む。進行が妨げられて難渋する。
【兒】「子供」の意味の他「兵士」や「弱々しい小人」を表すので、敵将を侮ってこう言ったものと思われます。
【家】「一族」や「国家」の意味があります。

   やま なづ こ いへき  なの
 ○この岳に 泥ます兒 家聞かん 名告らさね
「この山で(包囲されて)行き悩んでいる兵士よ、お前の(服属している)国はどこなんだ、名を言ってみなさい」
 海人族の筑紫占領直後で、まだ心底から従っていない部族の不穏な動きを制圧せんがための軍事行動です。大人しく従わないと命はないとの脅しでもあるのです。
「兒」とは族長のことをいっているかもしれません。

そらみつ やまとのくには おうなとて われこそをれ
●虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居
 【虚】「大きい丘」をさすので「串振岳」乃至「高千穂の峰」のことでしょう。又、「串振岳」にかけて「掘串」と表現したと考えた方が理に叶っています。
 【見津】深読みすると「船の出入りが見える」
 【山跡】吉武高木のある地名「山跡」をさす
 【媼】老女
 【とて】逆接「…としても、…でも」

     やまとくに おうな われ を
○そらみつ 山跡の国は 媼とて 吾こそ居れ
「(海までも見渡せるこの高地に抱かれた)山跡を中心とする国〔筑紫〕は、(年老いた)女ながら私が治めているのだが」
海人族にとって筑紫制圧の拠点にして聖地とも言うべき串振岳での、優越感に溢れた余裕ある態度です。
 「串振岳」でも「高千穂の峰」でも、決して高い山ではなく、雷山などと比べると丘というに等しいものですが、あくまで山で、福岡平野や前原まえばるの平原から見るといかにも聳え立つ山であり、大きな丘ということになります。

しきなべて われこそいます われこせば のらめ いへをもなをも
●師吉名倍手  吾己曾座 我許背歯 告目 家呼毛名雄母
【越す・超す】勝る
【ば】已然形について順接の確定条件を表す「…ので、…から」

      われ いま われこ  の  いへ な
○しきなべて 吾こそ座す 我越せば 告らめ家をも名をも
「筑紫一帯を治めているのはこの私である。私には叶わないのであるから、(覚悟して)言ってくれるであろうな、お前が従う国とお前の名を」

 出雲の王者に迫って「国譲り」、つまりクーデターを成し遂げて、穀倉地帯である筑紫上陸を果たし、更に筑紫北部から領地を広げていく頃の作と思われます。野心と自信の満ち溢れた新しい支配者としての、堂々たる領土宣言にして、心の昂まりが感じられ、万葉集冒頭歌としての重みもあり、光彩を放っているとは思えないでしょうか。

 これであれば二番歌との釣合いもとれ、「筑紫万葉集」にあったものと考えてもおかしくはない内容のものです。
 そして、新しい支配者として乗り込んできた年老いた女性とは、天照その人以外にはおりません。この歌は「天照大神」の歌ということになるのです。
 自分たちの先祖ではあっても、分家の身では、王朝本家の始祖をあからさまに載せることは憚られて、大和王家としては、雄略天皇の歌ということにしたものと思われます。全く我ながら愕いた結果となりました。


◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』  第七話◇◇◇◇◇◇
   朱の踊り子 (3)
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
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今回は掲載せず

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六月二七日 第五回 会員総会の報告

代表挨拶 水野孝夫

 代表の水野です。本日は、会員総会にご出席いただき有り難うございます。昨九八年度を総括いたしますと、会費収入は九七年度に比べて増加いたしました。長老の今井久順さんを喪いましたが、会員数は増加しております。又一般会員から維持会員へ変更された方が多かったことが、会費収入増加に寄与しております。会員論集「古代に真実を求めて・第2集」を古田武彦古希記念特集として九八/十/三十付で発行でき、市販ルートに載せたことがプラスに働いたと考えます。この第2集がでますと、「なぜ第1集がないのか」というお問い合わせが多くなり、第1集の再編集版の明石書店からの発行に結びつきました。また第2集も第1版は売り切れとなって、第2版が印刷され流通しております。
 九七年度会員にお約束の本をお届けできなかった代償に、「古田武彦講演集九八」を発行しましたところ幸いにも好評を頂きました。これらの寄与もあり、書籍販売収入は、前回に比べて大幅に増加しました。従来書籍等の編集に当たっての必要費用は、事務用品や郵送費など目に見える費用は支出して来ましたが、テープおこしのような作業及び費用が明確に算出できない通信費(電話とファックス)は担当者の勤労奉仕ないし自己負担をお願いしてきました。今後これらの作業を行われた方々に対し、謝礼ないし実費を支給する基準を作って、実行したいと考えます。
 規約上、役員改選の年であります。人事について後ほどご提案しますので審議をお願いいたします。
 さて、昨年度の事業実績詳細については、後に事務局長から報告がありますが、計画に従って進めて参りました。会報や講演集の発行、インターネットホームページの充実、会の旗の作成、古田講演会の開催などです。ほかに古田先生が確認されたい現地の見学会や資料の入手協力を行ってきました。まあまあ順調であったと考えますが、金ばかり残しても仕方がないので、もっと急速な古田説の普及に注力せよとのご意見があるかと存じます。これには熱心な活動家が多数必要です。先生の話にヒントを得て、歴史の研究を進めようとする方々、研究は苦手でも編集とか、旅行案内(運転)とか、本の販売とかの労務提供なら協力したい方々、双方面とも活動的な方々の参加が必要です。活動しようという方は会報に投稿して下さい。事務局に意見を寄せてください。インターネットに書込んでください。会員の皆様におかれましては、今後とも一層のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

九八年度事業報告
(1)「古田史学会報」6回発行(古賀達也)
(2)『古代に真実を求めて』2集
       編集(吉森政博古田史学の会・北海道)
(3)『新・古代学』3集 編集(水野孝夫)
(4)『古田武彦講演集九八』(水野孝夫)
(5)古田武彦講演会(大阪) 1回開催
(6)インターネット・ホームページ
   「新・古代学の扉」 担当(横田幸男)
(6)書籍・ビデオ贈呈(図書館・団体・個人等)
   『古新・古代学』3集、『古代に真実を求めて』2集、『古田武彦講演集九八』衛星放送ビデオ『「邪馬台国」はなかった』、他(協力・不二井伸兵、木村賢司)

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九九~二〇〇〇年度役員

全国世話人

吉森政博(札幌市) 佐々木広堂(仙台市) 青田勝彦(原町市) 宮林勇一(相模原市) 上城誠(静岡市) 林俊彦(名古屋市) 古賀達也(京都市) 水野孝夫(奈良市) 山崎仁礼男(香芝市) 横田幸男(東大阪市) 木村賢司(豊中市) 前田博司(下関市)
 *横田・木村氏は新任。他は留任。

役員
代 表  水野孝夫
副代表  山崎仁礼男(会計兼務)
事務局長 古賀達也
会計監査 太田斉二郎

編集部 *規約により代表が任命
『古代に真実を求めて』 吉森政博
「古田史学会報」編集部 古賀達也

その他
『新・古代学』編集担当 水野孝夫
インターネット担当   横田幸男
書籍担当        木村賢司


六甲山系古代巨石文化研究会(仮称)設立に向けての呼掛け

 この度、古田先生の呼掛けにより、六甲山系に点在する巨石遺構の学問的調査研究を目的として研究会を設立することになりました。古田史学の会も同研究会設立に向けて、協力します。
 六甲山系には、注目すべき古代巨石遺構が各地に点在していますが、残念ながら学問的調査研究は、不十分なようです。一方、開発により調査もされないまま破壊が進んでいます。こうした遺構の保存を行政に訴えていくためにも、総合的な調査研究とそのための団体が必要です。会員の中で、こうした巨石遺構研究に参加希望される方を募集します。
 研究会の概要や運営方法などは今後、具体化されていきますが、興味のある方は本会事務局(古賀)まで御一報下さい。


□□事務局だより□□□□□□
▽会報の発行が予定より一週間ほど遅れた。パソコンのデータを記憶しているハードディスクが壊れてしまったからだ。何とか会員名簿は復旧させたが、ワープロソフトやデータベースソフトは動かない。一時は会報発行も危ぶまれた。
▽水野代表からは新しいパソコンを買えと言われるし、確かに今使っているのは十三年ほど昔の機種だ。それにFAX も壊れていて、受信は出来るが送信は出来ない。おかげで事務局機能は大幅に低下。
▽こうしたアクシデントもあり、和田喜八郎氏らの原稿掲載も遅れている。その点、ワープロ原稿(MS-DOS)のテキスト形式は有難い。古賀


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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