古田史学会報
1999年 6月 1日 No.32

古田史学会報

三十二号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫

古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録(文責 編集部)

二つの確証について−− 九州王朝の貨幣と正倉院文書−−


石切神社の神宝の鏡

茨木市 藤田友治

 石切神社は正式には石切劔箭(いしきりつるぎや)神社といい、式内社です。近鉄奈良線の石切駅を下車し、西南西へ七百メートル歩き、東大阪市東石切町一丁目一番一号に本社があります。物部氏の祖神の饒速日命(にぎはやひのみこと)と可美手命(うましまでのみこと)を祭神としています。市民の参拝者が多く、有名です。“神宝”として古代より伝承した三角縁神獣鏡や環頭太刀柄頭があります。
 鏡は三角縁神獣鏡という種類の鏡で、縁の断面が三角形になっているところからその名がつけられています。一枚目は三角縁唐草文帯二神二獣鏡で、三角縁の次に鏡の特徴を表現し、唐草文様が入っているのと神仙思想の東王父の仙人が二神、口に斧をくわえている獣が二獣の鏡というものです。東王父の側に旌飾(せいしょく)という「笠松形」が描かれています。大きさは二四¥〇センチメートルもあります。又、同じ名称の鏡ですが、やや小さい(二一・四センチメートル)の三角縁唐草文帯二神二獣鏡があり、銘文(文字が刻まれていること)といて、「天」「王」「日」「月」が入った鏡があります。この銘文は神仙思想でよく出現する文字です。
 さて、最も注目に価するのは、三角縁獣帯四神四獣鏡です。四神とは東王父と西王母の男女神の一組が二セット、つまり四神あります。神像のすべては三山冠という冠をかぶっています。獣形も一組が二セットとなり、四獣いますが、一組は巨(さしがね)をくわえ、もう一組は環頭太刀をくわえています。銘文は「天王日月」の銘が六組、鈕に対して内向きに刻んであります。経は二二三センチメートルです。
 同型鏡といって、同じ文様、銘文の兄弟、姉妹鏡があり、一枚は京都府相楽郡山城町の椿井大塚山古墳から出土した十二号鏡です。また、もう一枚は最近発見された奈良県天理市柳本町の黒塚古墳から出土した二八号鏡と同じです。
 三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳から三六面以上、黒塚古墳から三三面も発掘調査によって出土しています。古墳時代の前期(三世紀後半から四世紀)の「前方後円墳」(壷形古墳)から出土する三角縁神獣鏡は中国の魏が倭(古代の日本の呼称)の卑弥呼に与えた鏡であると考えられてきました。魏の国の尚方という朝廷の直属の機関で製作された鏡が卑弥呼の派遣した使者とともに日本に持ち帰った品とみるわけです。『三国志』魏志倭人伝には卑弥呼は銅鏡百枚もらったとあります。今日、日本で発見された三角縁神獣鏡は約四百枚以上もあり、中国では一枚も発見されていないのです。ここから、三角縁神獣鏡は中国の魏からもらった鏡だろうかという問題があります。
 柏原市の国分神社にある鏡に「吾作明竟大好、浮由天下<不明>四海、用青同至海東」があります。意味は鏡を作った「吾(われ)」は青銅を用いて「海東」に至ったということになります(古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社参照)。この「吾」とは一体誰でしょうか。中国の研究者の王仲殊は魏ではなく呉の国の工人だといいます(古田氏の指摘の方が早い。編集部)。平縁の神獣鏡と三角縁の画像鏡から合成して、呉の国の工人が日本に渡来して製作した鏡が、三角縁神獣鏡だというのです。これで、本国の中国から一枚も出土しない理由もよく納得できます。
 もとより、三角縁神獣鏡は日本だけで製作したという見方は正しくなく、魏鏡説、呉の 工人渡来による国産説も含め、外国人の文化や技術を受容したことは間違いのない事実です。東大阪市の石切神社周辺の古墳に眠る人物と、椿井大塚山古墳、黒塚古墳に埋葬された人物が、同型鏡の三角縁神獣鏡を頭の側に置いていたことに、文化の交流が証明されたことになります。
 石切神社の宝物館には十二面の鏡が(破片を含む)あり、中国鏡(呉鏡)そのものの吾作銘画文帯神獣鏡があり、四方に神仙を配し、神獣を置き、「吾作明竟自有紀 令人長命宣孫子」とあり、子孫の繁栄、長寿を希願する文章が刻まれています。
 古代から東大阪の地に渡来した人々の足跡を今日に伝えてくれる“宝物”は貴重で、春と秋の石切神社の大祭期間中、一般に公開されています。


多利思北孤の瀬戸内巡幸 『豫章記』の史料批判 京都市 古賀達也


古田史学の会ホームページ「新・古代学の扉」報告

インターネットと古代史

東大阪市 横田幸男

一、新古代学の扉

 私達の会のホームページの閲覧者は五月一日現在英語版三千名、日本語版五千名です。(七割位が実人数と推定しています。)七月一日に掲載すれば、昨年を上回る数になると思います。目標は英語版を閲覧する人が、日本語版と同一の数にすることです。誤植訂正や改訂を行ない、その後でヨーロッパの大学や研究機関にリンクを要請したいと思います。今でも時折リンクの連絡が届きます。ですから少しずつ増えているのはその為ではないかと思っています。閲覧する人を増やすには、定期的に英語版を必ず挙げることが大事だと考えています。その為翻訳にも御協力ください。よろしくお願い致します。具体的には万葉集や紀記の歌謡の古田氏の見解を英語で紹介することを提起します。(万葉集一¥二巻と他の巻の有名な歌、古今和歌集、紀記歌謡の一部のみですが、ほとんどそれでカバー出来ます。)それは千九百数十年代(明治時代)に一度訳された作品があるからです。著作(複製)権が切れていて、原作と原作者さえ明示すれば改訂が可能です。初めから翻訳を行なわなくとも可能です。なお最近の英語に関しては著作権問題を起こさないために、画像データの形で引用して、当然ながら翻訳者を明示しています。
 古田史学の会の主催するインターネットのホームページは丸二年近くになり、英語版の質と量は海外からも注目され、確実な情報源として広く理解されています。
 又古田武彦研究年譜¥古田武彦著作索引(目次集)¥歴史探報(リンク集)を英語版も一緒に改訂して最新のものに変えたいと思っていますが、なかなか出来ません。六月末には完了したいと思っております。又希望としては古田氏の講演集をPDF(ポータブル電子ホーマット)の形で出せたらと思っています。これはインターネットでは、古田氏の見解を見解として伝えることが難しい(データの保持に問題があり)。最終的にはやはり印刷物の形で確認できる事が必要だと判断しています。
 九九年一月には、「仲麿の命運」を掲載しました。七月一日には「君が代の源流(仮題)Inside Kimigayo」を掲載したいと思っています。理論的には仲麿の歌と同様、元歌の改編があり簡単ですが、状況から万葉集の後が良いと思っていたのですが、昨今の「君が代」論議から早く掲載しようと考えました(私の能力からは直ぐには出来ない)。時流に媚びず、流されず、冷静に世界に伝えたいものです。今後とも御協力をよろしくお願い致します。


二、インターネットの利用について


 次に不十分では有りますが、筆者の知りうる範囲内で、インターネットの利用について述べさせて頂きます。私としては、インターネットで得た資料を提起的(定期的)に、関係者と思われる方にお送りしています。必要と思われた方は、御連絡下されば、出来るだけの協力をしたいと思っています。なお私がまとめた歴史探報というリンク集が、ホームージに有りますので参考にして下さい。インペターネットやパソコン通信で手にいれた資料が研究に役立てば幸いです。

その1 古代史関係のホームページについて

 考古学を中心に多くのホームページが有りますが、ほとんどが個人の熱意で運営されています。担当者の努力に負うところが大です。私の推薦できるところは青森遺跡探訪です。十三湊発掘報告書(PDF)、青森県遺跡台帳(四千ヶ所)など、たくさんの資料を公開しています。これらを元に『東日流外三郡誌』の新しい展開を、会員が行なうことが切に望まれます。又注目の遺跡(青森三内丸山、新潟奥三面〔おくみおもて〕、大阪安満宮山古墳、鹿児島上野原)の遺跡説明会のテキストデータは、ほとんどインターネットで手に入れることが出来ます。従い考古学者の一般向け見解はほとんど手に入れることは可能です。逆に言えば、それがインタネット・パソコン通信の限界です。そこで『十三湊発掘報告書』のように、丸ごと発掘調査報告書を PDFの形で保存しようとする動きが有ります。
 正直に申し上げて、インターネットのホームページなどの情報はどれが正確か信頼性に不安があります。すべて自分の責任で選んで下さい。無責任な情報も流すことが可能です。

その2 文献データについて

 これは今まで、パソコン通信やインターネットで入手し、私が配布したテキストデータを紹介して報告に変えます。なお配布条件はいろいろ違っています。すべて漢字第二水準迄です。一部は外字の形でサポートしています。検索には便利ですが、逆に言えば現代人が使えるように元の写本を改訂しています。たとえば和歌の読み下し文は、三笠山はすべて御笠山となっています(水野氏より教えられました)。やはり岩波古典文学大系での確認、最終的には図書館に行って写本の印影本での確認が必要となります。
 〔日本書記(一部)、古事記(前田本)、万葉集(西本願寺本)、養老律令、古今和歌集、土佐日記、東夷伝、後遺和歌集、魏志倭人伝、金光明最勝王經、宇治拾遺物語、藤原家伝、日本後紀、上宮聖徳法王帝説〕

 次に 国文学研究資料館の日本古典文学本文データベース(実験版岩波書店刊行旧版全百巻全作品の全文データベースが対象 二千年三月迄)が試験公開を行っています。私も今後登録の手続きを行いたいと思っております。ただ物理的・資格的制限が厳しく利用できるか分かりません。
(平日夜九時まで、申告登録制で研究者学生に限ります。得たテキストデータは個人の利用のみ可能です。得た成果を申告する必要があります。)
 なにしろ十分手が回りませんが、他の利用方法について御意見がありましたら御連絡下さい。よろしくお願いいたします。それと英語版の翻訳もよろしく。


http://www.fururasigaku.jp
新古代学の扉インターネット事務局 
横田幸男

インターネット事務局注記2002.8.1
各ホームページのアドレスは移動しているため削除。


菅江真澄疑考 「日の本」の巻  「古田武彦顕彰会・奈良」主宰 太田齊二郎


◇◇ 連載小説 『 彩  神 (カリスマ) 』 第 七 話◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
   朱の踊り子(2)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美

 ◇  ◇
(蛇〔じゃ〕の室〔むろ〕……!?)
 須世理(スセリ)は思わず父の顔を探り見たが、須佐之男は手酌で杯を口に運び、何の逡巡(しゅんじゅん)も感じられない。
 弟は八千矛の隣に座を占めてイノシシ狩りの話に熱中しており、肴(さかな)を突々くのも忘れている。明らかに、父の言葉は自分だけに聞こえたらしい。でも、なぜ……?
(八千矛様は、父上に救いを求めて来られたのですよ。なのに父上は、味方の振りをして実は自分の命を狙っている敵の密使だ、とでもおっしゃりたいのですか? 隠岐と戦っている間に、父上はそんなに人が信じられなくなっておしまいなの……!?)
 須世理は唇をかんだ。
が、いざという時は、家族を守って真っ先に敵と渡り合わねばならないだけに、家父長の命令は絶対である。須世理も八島士奴美(やしまじぬみ)も幼い頃から、生きたまま逆吊(さかづ)りにされて野獣の餌食に供されたり、火矢の的にされたり、頭から皮を剥がれて泥沼に投げ込まれたりといった、謀反人(むほんにん)に対する父の厳格な処罰を目の当たりにして来た。父に逆らえば、子供といえどもどんな目に会うか判らないのだ。たとえ自分は無事でも、弟や気に入りの侍女が見せしめにされるかもしれない。そうならない為には、やはり客人を「蛇の室」へ案内するしかないのか……
 須世理は眉間に皺を刻み、足取り重く廊下を辿った。
 やがて時到り、八千矛らが侍女達に導かれて来た。須世理は室の戸口で待ち受けていて、
「狭苦しい所で申し訳ございませんが…。」
 と、中を示した。仄かな光の輪に、隅々まで塵も留めず掃き清められた石室(いしむろ)と、毛皮や厚衣(あつぎぬ)を重ねた寝床(とこ)が二つ、浮かび上がっている。
「何の何の、野宿に比べたら、ここは金殿玉楼(きんでんぎょくろう)ですよ。」
 八千矛は眩(まばゆ)い程白い歯を見せ、さっそく衣服(きもの)を脱ぎ始めた。須世理が手伝おうとすると、
「私は洗面も着替えも、一人でやる事にしているのでね。爺(じい)の方を見てやって下さい。」
 八千矛は布津(フノヅ)老人を指さした。
「若、年寄扱いは御免ですぞ。」
 布津老人は口を尖(とが)らせ、自分も頭から上衣(うわぎ)を脱ぎ捨てた。
 どうやらこの主従は自分達がいては邪魔らしい、と女達は苦笑しながら外へ出た。  須世理だけは後に残って、戸締まりや火加減を確かめていたが、
「もし異常がありましたら、これを三度振ってくださいませ。」
 と、肩にはおっていた薄紅の紗の領布(ひれ)を、八千矛に渡した。
「ここには何か、曰(いわ)くがあるのですかな?」
 布津老人が目を光らせると、
「念を入れただけでございます。」
 須世理は、脅(おび)えたように引き退(さが)って行く。
「我々が丸腰同然なので、魔除けの護符(おまもり)をくれたのですよ、羽山戸様。御親切な姫君ではありませんか。」
 八千矛はほほえんだが、
「その名前は言わんで下され。」
 布津老人は不快気な顔をした。どんな時でも油断大敵、壁に耳あり、窓に目ありという鉄則が、まだ八千矛には判らないのか? 特に自分達は今、敵の本拠に乗り込んでいるのだ。須世理があんな事を言い置いて行ったからには、一見安全なこの室にも罠がしかけられているかもしれない。須世理の領布その物が、自分達を落し入れる小道具だったら…?
「そんなにお疑いなら、これは私がお預かり致しましょう。」
八千矛は幾分呆れたように言って、領布を右手に巻き付け、横になった。
 舶来の香を焚きしめてあるのか、それとも須世理の体臭か、甘やかな香りがかすかに漂って来る。レンゲの花の波を思わせる。赤みがかった薄紫の衣装を好んで身にまとった八上(やがみ)の姿が、八千矛の瞼(め)に浮かんだ。千代(せんだい)河口から木俣(くのまた)共々白日別(しらひわけ=北九州)の大屋彦の許へ逃れたというが、無事到着出来たろうか……? 聞けば、国立や岩根丸らもおのおのの船で、八上を追って行ったという。まさか自分が守(も)り役に化けた羽山戸の庇護下に、隠岐へかくまわれたとは思わなかったのだろう。大屋彦は大国(おおくに)の血を引いているだけに、以前から刺国(さしくに)とも親しかったが、うまく二人を庇(かば)い抜き、黒光らを防御してくれれば良いのだが…… (八上、木俣、どうか許しておくれ。傷を医やすのに二年もかかってしまい、そなたらの危難をどうしてやる事も出来なかった。しかし、羽山戸様のお手伝いがすみ次第、私は必ず迎えに行くよ。それまで達者でいておくれ。)
 遠い星のように脳裏に瞬(またた)く二人の姿に、祈るように手を合わせた八千矛の耳に、柔らかな布(きぬ)ずれめいた音が伝わって来た。須世理の領布が、角にこすれでもしたのだろうか……? 裾をたくし上げようと半身を起こし、八千矛は息を飲んだ。
 室の隅に巨大な影かとぐろを巻き、冷やかな青い目玉が二つ、こちらを睨(にら)んでいたのだ。
「大蛇だ!」
 布津老人が太刀を抜こうとするのを八千矛は抑え、須世理の領布を振りかざした。戸口の松明は、まだ衰えてはいない。化け物にも朱布(しゅぎぬ)の閃(ひらめ)きは見える筈だ。
 突然、蒸気が細管(ほそくだ)を抜けるような音がして鬼火は消え失せ、
「須佐之男め……!」
 布津老人は歯がみをした。
(続く)
〔後記〕お花見シーズンを迎えましたが、私の住んでいる所は文教地区なのに、桜ばかりか、戦前はこの辺を埋め尽くしていたという紅白取り混ぜての梅(九州王朝の紋所?)まで、毛虫が付く上にビタ一文にもならないから、との理由で殆ど切られてしまいました。深津

 卑弥呼の三十国の地名比定(2)

朝鮮一国・九州二十七国・四国二国

香芝市 山崎仁礼男

(2)『魏志』の卑弥呼の三〇国の地名比定

 銅戈の出土は左にようになっています。細形銅戈の二四本のうち十一本が墳墓、中細形の四十四本うち十四本が墳墓から出土しています。細形の一括出土はなく、中細形では四カ所の十一本です。中細形から権力の象徴化して、「革命」による新権力が一括廃棄・埋納を指示したとみられます。中広形は十一カ所の百二十一本(全出土百五十四本中の七八%)が一括廃棄であり、明らかに新権力により強制的に廃棄されたことが推測されます。大阪湾形銅戈は二カ所十三本の一括出土ですが、摂津の一部は銅鐸と一括出土しており、銅鐸と同時の埋納とすると相当期間隠して伝世していたものとなります。大阪府の瓜生堂の大阪湾形銅戈は弥生式土器の中期後半とあり、私見では近畿の櫛画き文様の土器は四世紀(拙著『新騎馬民族征服王朝説』(注)参照)からですから、崇神王朝の滅亡の三九五年と一致します。
 さて、中広銅戈の出土地域を、九州第二王朝の支配地域と推定します。『魏志倭人伝』の卑弥呼の国の三十国のうち、朝鮮にあった狗邪韓国と鹿児島方面の投馬国、対馬¥壱岐、 末廬国、伊都国、奴国、不弥国、邪馬壱国の九国は確定しています。残りの二十一国は、銅戈の出土した筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の六国が中心ということです。このほか日向と土佐に出土します。この場合、肥前と筑後の中広形の少ないのは、多分新権力により集められて、一括埋納された春日市の中に含まれていると推測しています。補助的史料として、神籠石式山城・三角縁神獣鏡・『紀記』・『旧事紀』を使い、五つの史料によって比定していますので、まず間違いはないでしょう。
 『魏志』の残りの二十一国は、ある程度旧国の順番になっていると想定してみました。そして、(十)蘇奴国は熊襲の国と考えました。いわゆる天孫降臨の「襲国」です。従って、(十二)華奴蘇奴国は「火の熊襲の国」と推定します。この時代、既に倭人の一部は文字を知っており、何らかの原因で「火→華」に中国人が置き換えたと憶測してみたのです。投馬国と邪馬壱国は連合の関係にあったので、大隅の隼人の国とも友好連合の関係にあったとみれましょう。長崎県は壱岐・対馬を除いて銅戈の出土がないので比定しません。遠賀川流域に国があったこと確実ですが、これがよく分からない。鞍手郡若宮町、田川郡糸田町、嘉穂郡庄内町などの銅戈、また飯塚市の銅戈の鋳型の出土地などに複数の国があったと思われ、前記の表の左側の国名と思われるのですが、土地勘がないこともあってうまく比定できません。
 次は、土佐に銅戈の出土が六本と多い。ここに一国比定しようと考えました。これは銅矛の分析で分かるのですが、伊予の宇和町から四十八本の出土があり、ここから陸路で土佐に抜けるこのルートと思われる土佐の高岡 郡窪川町二十本近い銅矛が、また大量に出土しているのです。ですから土佐に一国あるとすれば、九州からの直近の港である伊予の宇和方面に足掛かりとなる支配地が不可欠とみられるのです。そこで『倭名抄』をみると、「伊予国宇和郡石野(伊波乃)¥石城(伊波岐)[()内は『倭名抄』の仮名表記]」とあります。(二)已百支国は「イハキ」と牧氏は読まれ、これに「近い音をもつ郡名郷名の類は九州に見当たらぬ」といわれるので、ここに間違いありますまい。
 このように確定すると、(三)伊邪国は土佐国となります。イ→トに変ったとする根拠はありませんが、イ→ウ変化は前記の「石城→宇和」の変化にみられるように発生します。高知県土佐市の南部に「宇佐」という漁港があり、旧の高岡郡宇佐町です。かくして、『魏志』の「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり。その南にあり。人の長三、四尺、女王国去る四千里」で、傍線行程の投馬国と奴国などと共に里程の書かれたところは、中国の使者の実査があったとみられますから、土佐まで来ていたと推定できます。そして、魏の使者はここで裸国・黒齒国に話を聞いたのです。
 なお、須崎市¥伊野町¥葉山町などの細型の銅剣が出土しており、渡来人系ですから、土佐でも最初にこの地が開けたと分かります。これが高岡郡と幡多郡方面に中心地が移動したのでしょう。というのも、卑弥呼の後継王朝とみている崇神王朝は『旧事紀』で土佐の波多国造を任命しています。これは幡多郡ですから、今日の足摺岬方面であって、窪川町は高岡郡の郡境にありますから、上古は同じ地方とみてよいしょう。
 このほかに、神籠石式山城の存在したところに国があったと考えられるのですが、そうすると武雄市・久留米市・佐賀市・頴田町の近辺にあったことになるのです。それらしきものを比定してみましたが、これがよく分かりません。
 「次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり」ですから、大分県の大野郡の南は日向国となります。このように比定すると奴国は『紀記』の記載と一致します。応神紀の日向の髪長媛の説話、景行紀に日向髪長大田根が日向襲津彦皇子を生むとあります。『旧事紀』には応神天皇の日向国造の任命があります。日向国の全部ではないが、大部分が狗奴国王朝の支配下にあったのでしょう。このように解すると『紀記』の応神天皇以前の記述の一部は、実は狗奴国王朝の歴史書の盗作と分かるのです。烏奴国は航路を溯って豊前の宇佐に比定しました。
 なお、三角縁神獣鏡は崇神王朝が、その配下の豪族に下賜したものと考えていますが、九州の出土のものは、あるいは一部卑弥呼・壱与の時代のものかとも思われるのです。(二〇)烏奴国の豊前の宇佐は赤塚古墳、(十九)支惟国の豊前の城井は刈田町の石塚山古墳、(十一)呼邑国の日向国の児湯郡は西都原と高鍋町の古墳、末廬国は浜玉町の谷口古墳です。糸島郡の二丈町田中の一貴山銚子塚古墳は、怡土郡と志摩郡の境目にありますが、(一)斯馬国のものでしょうか、これは疑問が残ります。三角縁神獣鏡は崇神王朝が卑弥呼・壱与の後継王朝であったと推定できる物的な証拠が考えています。
 以上卑弥呼の三十国を銅戈の出土地を中心に比定してみました。あまり地名比定は、個別的に当てにはなりませんが、大枠として、四国に二国を比定し、これは間違いない。そして蘇奴国を熊襲国として比定すると、九州本島が二十五国となります。朝鮮一国、島が二国となります。これを見ると、邪馬壱国は福岡平野全般と甘木市や朝倉郡を含んだ地域となります。七万戸の約三十万の人口ということですが、妥当なところでしょう。(完)

旧国別銅戈出土数、卑弥呼の三十国の地名比定の一覧 
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□□ 事務局だより □□
▼古田先生と高田かつ子さん(多元の会¥関東会長)と信州高森町出土の富本銭を見に行った。同町歴史民俗資料館のご好意により、手に取って観察できた。また、当地出土の中国貨幣「開元通寶」も見せて頂いた。
▼高森町がある伊那谷は地図の印象とは異なり、天竜川沿いに開けた風光名媚な地。雪も少なく、暖かいとのこと。
▼お隣の飯田市では和同開珎銀銭を特別に拝観できた。この地方は古墳から馬具が多数出土する、国内でも有数の地。現地を案内していただいた、浅野さんらのおかげで手際よく、見てまわることができ、感 謝に絶えない。
▼在庫切れになっていた『古代に真実を求めて』1集が明石書店より再刊された。一般書店でも、お買い求めいただける。明石書店に感謝。
▼今月は会員総会や古田先生の講演会が目白押し。会員の皆様の御出席をお願いいたします。事業報告・決算報告、それに人事の年にあたります。
▼本会初の福岡講演も行います。福岡地区の会員の御協力で準備も着々と進んでいます。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜三集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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