古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼 -- 日本国はいつ始まったか』ミネルヴァ書房)2011年9月刊行

1987年10月作成

インターネット事務局注記 2006.2.28
 これは論文のコピーです。あくまでも参考です。本来は縦書きの文書を横書きにしております。表示は正確に努めておりますが、困難なところがあります。論証には直接影響ありませんが、誤解を招くこともある表示しかHTML版では出来ません。ですから、これを元にして史料批判はおやめ下さい。古田氏の書籍から史料批判をお願いします。
 また本論文を掲載したのは、新しい古田氏の卑弥呼・筑後風土記中の甕依姫の理解の一助です。


第四篇 卑弥呼(ひみか)の比定
ーー「甕依姫」説の新展開 一〜五

〈解題〉
一見、迷路に入ったかに見える「邪馬台国」論争には、一個の重大な盲点があった。それは、卑弥呼(ひみか)の比定問題である。神功皇后・倭跡跡日百襲姫命・天照大神等があげられたが、いずれも「同定」の基本要件において不適合である。これに対して筆者はかつて筑後風土記中の甕依姫をあげたが、ここでも、あまりにも重要な「原文改定」の手が加えられ、「定本」化されてきていた。それが晦冥の原因だったのである。(未発表)


    一

 邪馬壹国(いわゆる「邪馬台国」)論争において、その重要性にもかかわらず、意外に研究の乏しかった分野、その一は、「卑弥呼、比定」の問題である。すなわち、“三国志の魏志倭人伝中に現われる卑弥呼、それは日本の文献中の誰人に当るか”。この問題である。
 確かに、あれほど海外の文献に鮮明な姿を現わしている人物、しかも「倭国の女王」と呼ばれる、日本列島内の一権力中枢者だった女性が、日本側の文献に全く姿を現わさないはずはない。このように、思料することは、決して不当ではなく、むしろ自然なる思惟のおもむくところであろう。
 この問題に関して、筆者はすでに、一試案を提出した。『古代は輝いていた』第一巻末の一節がそれであった。
 しかるに最近、従来、知られていた文面(筑後国風土記逸文)に重大な錯認の存在していたことを見出すに至った。そしてそれによって問題は一挙に大いなる前進を見たのである。
 本稿においては、この問題について報告したいと思う。


    二

 先ず、この「卑弥呼」の読みについて、すでに論じたところを左に要約してみよう。
 第一。倭人伝において、対海国・一大国の「大官」が「卑狗」と記せられている。これは「ヒコ」(=彦)であろうから、「卑」は「ヒ」の表音に用いられていると考えてあやまりないであろう。
 第二。同じく、投馬国の「大官」は「弥弥」、「副官」は「弥弥那利」と記せられている。「天之忍穂(おしほ)命」(古事記、神代巻)、「毛受(もず)上原」(右事記、仁徳記)など、この「ミミ」は、神名・人名や地名等に頻出するもの、と見られる。したがって「弥」は「ミ」でいいであろう(したがって「ヒコ」の読みは妥当でない)。
 第三。問題は「呼」である。この文字には「コ」と「力」の両音がある。前者は「吸」などの場合。後者は「神に捧げる犠牲に加えた切り傷(きず)」を指す場合である。
 このいずれの音か。この吟味が従来欠けていたのである。
 先に述べたごとく、「コ」の表音に「狗」の文字を用いている(この「狗」にも、「コウ」「ク」の両音があるが、「卑狗」が「彦」に当ると見られる点から、「コウ」系列の音に用いられているものと見られる)。
 したがって「呼」もまた、「コ」の音の表記に用いられているとは、考えがたい。すなわち、もう一方の音、「カ」の方の表音である可能性が高いのである。
 しかも、この音の場合、右にのべたような、きわめて宗教的色彩の濃い用法であるから、「以兎道衆」とされた、この倭国の女王の人名表記に用いられたとすれば、きわめて適切である。なぜなら、中国の尨大な文字群の中で、一定の「音」をしめすべき文字は、常に数個ないし多数存在する。それゆえ、その中のいずれの文字をえらんで、そのさいの表音文字として使用するかは、その文字のもつ「意味」ないし「イメージ」による他はない。その点、「呼(カ)」、は、まことにこの倭国の女王のイメージにふさわしいからである(「コ」の場合も、「狗」は“卑字”だから、中国の夷蛮伝の中の表音文字として、そのイメージにふさわしいのである)。(1)
 右の吟味によって「卑弥呼」の「呼は、「コ」より「力」音に用いられた可能性の高いことが判明する。
 以上「卑弥呼」の読みは、通説に反し、「ヒミカ」と見なすべき可能性が高い。


    三

 では、この「ヒミカ」の意義いかん。これも要約して列記してみよう。
 まず、「ヒ」は「日」であり、太陽の義であろう。なぜなら、「卑狗=彦」の場合も、その原義は「日子」すなわち“太陽の男”を意味するもの、と考えられるからである。
 しかも、このさい、「日」と「子」との間には、「ノ」といった繋字がなく、しかも、“太陽男”という意味が表現されている。これが、古代日本語の一表現法だったのである。他にも、「ツシマ(対馬)」は「津島」であり、「津(浅茅(あそう)湾か)のある島」の意と思われる。 (2)(3) これも「AプラスB」と両者を直結する形であり、Aは“形容詞的用法“となっている。他にも、「山本」は“山もと”、「川口」は“川口”であるように、現代日本語にも、この形式の成語は数多いのである。
 次に、「ミカ」。これは「甕」であろう。

みか【甕】専ら酒を醸(かも)すに用いた大きなかめ。もたい。祝詞、新年祭「ーーの上(へ)高知り」〈広辞苑〉

 思うに、「カメ」と「ミカ」とは、語幹「カ」を共有している。これが実体をしめす、中枢語であろう。これに対し、後者はこれに「メ」という接尾辞が加わって成語となっている。一方、前者の場合、「ミ」という接頭辞が加わっている。「神(カ)」、「御(ミ)」等の「ミ」に当るものであろう。すなわち、“神聖なるかめ”これが「ミカ」の意味するところではあるまいか。
 以上によって、「ヒミカ」は“太陽の「ミカ」”の意義であり、その語幹をなすものは「ミカ」である。すなわち、「ヒ」は、いわば、美称であり、その人名の実体は「ミカ」にある。これが筆者の分析であった。

    四

 筑後国風土記の一節とされてきたものに、次の一文がある。

昔 此堺上 有鹿猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神 干時 筑紫君肥君等占之 8筑紫君等之祖甕依姫 為祝祭之 自爾以降 行路之人 不神害 是以曰筑紫神
〈読下し〉
昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と日ひき。時に、筑紫君・肥君等占(うら)へて、筑紫君等が祖(おや)甕依(みかより)姫を祝(はふり)と為して祭らしめき。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と日ふ。
 底「今」。新考によって訂す。岩波古典文学大系『風土記』五〇九ぺージ〉

 右の文中の「甕依姫」について、次の点が注目される。
 第一。「天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)」(古事記、神代巻)、「玉依毘売(たまよりひめ)」(同上)等のしめすごとく、「よりひめ」は、「憑(よ)り代(しろ)」をもって神に仕える、権威ある巫女”を意味する称号である(「狭手」は、漁具の一種のようである)。(4)
 したがって「甕依姫」の場合、「甕(みか)」が固有名詞(人名)部分、「依姫」は称号、そのように考えてあやまりないであろう。
 以上によって、「卑弥呼」と「依姫」との二者は、固有名詞(人名)部分の「みか」の一致していたことが判明する。
 第二。甕依姫が「甕」を“懸り代”としていた巫女であった、とすれば、いわゆる「甕棺」の盛行した、弥生時代の筑紫の巫女であったもの、と考えられる(考古学上では「カメカン」と言いならわされてきたけれども、“死者の死後を祈り、祀る”という、神聖な意義からすれば、「ミカカン」と呼ぶ方が正当であるものと思われる)。
 右の点から見ると、同じく弥生時代(三世紀)に属していた卑弥呼と同時代の人であった可能性が高い。
 第三。両者とも、呪術をもって神に仕える、すぐれた能力をもつ巫女であった。この点も共通している。
 第四。甕依姫は「筑紫君の祖」である、と記せられている。したがって彼女自身も「筑紫君」として、筑紫における中心権力者であった可能性が高い。この点も、「倭国の女王」として、中心権力者であった卑弥呼との間に存在する、重要な共通点である。
 以上の比較によって筆者は、次の帰結をしめした。「少なくとも卑弥呼と同類の性格をもつ、同世代の女王」の顔をもつ存在、それがこの「甕依姫」に他ならぬ、と。
 以上が筆者の従来の到達点であった。


    五

 新たに生じた問題点、それは筑後国風土記逸文の「改定」問題であった。
 先ず、従来の文面(冒頭に掲げたもの)の内容について、考えてみよう。その大要は、次のごとくである。
 〈その一〉昔、此の堺(基山を指す)の上に“荒ぶる神”がいた。往来の人々に多くの死者が出た。そこで「人の命尽くしの神」と言った。(5)
 〈その二〉その時、筑紫君・肥君等が占いをして、筑紫君等の祖先である甕依姫を「祝」(はふり 神を祭る司祭者)として、彼女に祭らせた。
 〈その三〉それ以後、路行く人が「神害」をこうむることがなくなった。そこで「筑紫の神」というのである。
 右で、問題は、〈その二〉である。不分明な文脈ながら、この文章を率直に理解すれば、次頁の表のようになろう。
 すなわち、“過去の一時点において、「半死半生」事件があり、筑紫君・肥君等は、その収拾に手を焼いた。そこで占いをした結果、自分たちの先祖の甕依姫(さらに過去の、いわば「大過去」の人)の「亡霊」を呼び出して、これを「祝」として、祭りを行った結果、成功。「半死半生」事件は解決した”、と。

 

 いかにも、奇怪な経緯であるが、基本的な不審がある。それは「祝」の用例である。
 日本書紀には、数多くの「祝」の事例が現われている。

   1) 時に中臣の遠祖天児屋命、則ち神祝(かむほぎ)を以て祝(いは)いき。〈神代上、第七段、第二、一書〉
   2) 即ち熱田の祝(はふり) 部(べ)の掌る所の神、是なり。(草薙剣)〈神代上、第八段、第二、一書〉
   3) 是の時、天照大神、手に宝鏡を持ち、天忍穂耳尊に授けて之を祝いて曰く……。(天孫降臨)〈神代上、第九段、第二、一書〉
   4) 和珂(わに 奈良県天理市和珂)の坂下(さかもと)に、居勢(こせ)の祝(はふり)という者あり。〈神武紀、即位前紀、己未年二月〉
   5) 臍見(ほそみ 御所市名柄か)の長柄丘岬(ながらのおか)に、猪祝(ゐのはふり)という者有り。〈同右〉
   6) 天皇(仲哀)、則ち[示擣]祈(のみの)みし、挟抄(かじとり)者倭国の菟田(うだ)の人伊賀彦を以て祝(はふり)として祭らしむ。〈仲哀紀、八年正月〉

[示擣]は、示編に擣で、木なし、JIS第3水準 ユニコード79B1
      ただし現代は、示編は、禾編で表示

 以上、いずれをとってみても、「祝」に当る人物は、その時点における現実の人物である。過去の人たる祖先、いわば「亡霊」を招いて「祝」とする、などという例はない。ことに、 6) のケースは、

天皇則[示擣]祈之、以挟抄者倭国菟田人伊賀彦祝令

であるから、今問題の筑後国風土記逸文の場合とよく似ている。この場合も、「祝」となったとされる「伊賀彦」は、仲哀天皇時点の現実の人、とされていること、言うまでもない。
 そこで、当の文面を再検討してみると、そこには重大な「改定」が行われていた事実を見出したのである。
 先の文面を熟視すると、「令」の一字が、原古写本(底本。今井似閑採択。「筑紫風土記」か)では、実は「今」であること、上欄の注()に明記されている。この「改訂」の創案者は、井上通泰の『西海道風土記逸文』であり、岩波古典文学大系の校訂者(秋本吉郎氏)がこれに従ったのである。
 通泰の『新考』では、次のようにのべられている。

「○今筑紫君等之祖甕依姫為祝祭之とある今は令の誤なり。肥前風土記姫社郷の下にも
昔此門(ト)之西有荒神行路之人多被殺害半凌半殺。干時卜求崇由兆云。令(△)三筑前国宗像郡人珂是胡祭吾社

とあり。今も占之とあれば兆に依りて祝を択びしにこそ。考証本に祝を祀に誤れり」

 右の一文では、「今は令の誤なり」と、はなはだ断言的にのべられている。しかし、その証拠とされるところ、意外に貧弱のようである。
 なぜなら、肥前風土記姫社郷の例には、確かに「令」が存在するけれども、それが果して当の、この一文の「今」が「令」である証拠になりうるだろうか。たとえば、先の 3) の例では、

是時、天照大神、手持宝鏡、授天忍穂耳尊、而之日、・・・。

のように、別段「令」をともなわないケースも多い。また、当の風土記でも、
  (イ)今、訛(よこなま)りて児饗(こふ)の石と謂(い)う。〈筑前国風土記、児饗石〉
  (ロ)昔、此の他に八(や)たりの土知朱(つちくも)ありき。・・・今、綾戸(あやべ)と云う、是なり。〈陸奥国風土記、八槻郷〉
  (ハ)仍(すなわ)ち神の社を定めき。今の俗、之を略して直に須美乃叡(すみのえ)と称す。〈摂津国風土記、住吉〉

 右のように、風土記中に「今」の文字の用いられた例は、あまりにも多い。その上、特に注目すべきは、(ロ)の例である。

昔・・・・・・今

という「呼応形」で用いられている。一種の慣用文形であろう。ところが、今問題の筑後国風土記逸文の場合も、同じく

、此堺上・・・・・・筑紫君等祖、甕依姫

といった形の「呼応形」となっているのである。この「今」だけを「令」に“変え”てしまったら、本来の文形はこわされてしまうのである。後代の注解者たる人々がそのような“暴挙”を行うこと、許されがたいところであろう。

 さて、本来の文形を左にかかげ、その読み下しをしるしてみよう。

時筑紫君肥君等占之。今筑紫君等之祖甕依姫為祝祭
〈読み下し〉
時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝と為りて祭る。

 この「今」には、副詞的用法(先の(イ)(ロ)の例)と形容詞的用法(先の(ハ)の例)があるが、ここは後者であろう。
 この場合、意味は次のようになろう。

「その時、筑紫君・肥君等が占いをした。(その結果)現在(筑後国風土記の成立時点)の筑紫君等の祖先に当る甕依姫が(招かれて)登場し、彼女が「祝」(司祭者)となって祭った(それが奏功し、「半死半生」事件は解決した)。」

 大略、右のごとき意となろう。その内容を表示すれば、次頁の表のようである。
 要するに、過去の一時点における“現実の巫女”たる甕依姫の活躍譚であって、何の不思議もないのである。
 ここで、ここに語られた内容を分析して、列記してみよう(先の第一〜第四につづく)。
 第五。「麁猛神」が「半死半生」事件をおこした、というのは、要するに“この神を祭る氏族による、大規模な反乱”をさすものであろう(「麁猛神」については、後記)。

 この大反乱に対し、筑紫君・肥君等は、これに対する術(すべ)を失った(「等」といっているから、他に豊君や日向君なども、含まれよう)。要するに、九州の北・中部を中心とする、大争乱だったのである。
 第六。そこで筑紫君等は、占いによって甕依姫をえらび出し、彼女にその解決をまかせた。彼女は「祝(はふり)」(司祭者)となって、「麁猛神」を祭り、この大争乱を鎮めることに成功した(おそらく、軍事・政治・宗教にわたる各面での施策の成功をふくむものであろう)。
 第七。そして注目すべきものは、次の点である。この大成功によって、以後、甕依姫の子孫が筑紫君となり、現在(六〜七世紀後述)に至っているのである。
 いいかえれば、この画期をなす事件以前の、筑紫君と、この事件より後の、甕依姫を祖とする筑紫君と、権力中心者の家の交替が生じた。このように語られているのである。

 以上の記事の内容と、倭人伝にしめされた卑弥呼の事績とを比較してみよう。

 〈第五' 〉「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」右の有名な一節のように、卑弥呼の登場以前に、一大争乱があり、従来の権力者間で解決不可能の事態となったことが記せられている。この点、〈その一〉と状況が一致している。

 〈第六' 〉「乃ち共に一女子を立てて王となす。」

 この漢文は「乃一女子王」であり、卑弥呼は、人々から「共立」された、という。その「人々」とは、倭人伝の用語では「大人」であろう。この点、“筑紫君・肥君等の占いによって登場させられた”という甕依姫のケースと一致している。

 〈第七' 〉「更に男王を立てしも、国中服せず。更々*相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」

々*は、同義、別字。本来は、ユニコード201D。

 ここには、卑弥呼の「宗女」(一族の娘)である壱与が、「倭国の女王」となったことがのべられている。すなわち、卑弥呼は一代で終らず、その「血縁の娘」が後継者となった、というのである。してみると、最初に、

「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七・八十年。」

とあった、その「倭国の王権」が断絶し、「倭国の女王の王統」に交替した、という王家の交替が記録されていることとなろう。

 以上は、いずれも異常な事態である。その錯綜、かつ画期的な状況が、右の、
〈第五〉ーー〈第五' 〉
〈第六〉ーー〈第六' 〉
〈第七〉ーー〈第七' 〉

と、いずれも奇しき一致をしめしているのである。
 先の〈第一〜第四〉の一致に加え、この〈第五〜第七〉の一致が見出された。ここまで一致すれば、卑弥呼と甕依姫、この両者の一致度はきわめて高い、と称して過言ではないであろう。もはや、かつて(『古代は輝いていた』第一巻)のように、「少なくとも卑弥呼と同類の性格をもつ、同時代の女王」などと、“遠慮”すべき段階ではない。わたしにはそのように思われるのである。


(1)古田『「邪馬台国」はなかった』および「邪馬国の諸問題ーー尾崎雄二郎・牧健二氏に答う」『邪馬壹国の論理』所収、参照。
(2)「対馬」の字面は「馬韓に対する」の意であろう(尾崎雄二郎氏の御教示による)。とすれば、倭国側で作られた字面である。
(3)朝鮮語音の転化として解く説もあるが、採用しがたい。なぜなら、倭人の住む島には、本来、「倭語地名」のあること、当然だからである。
(4)筆者は出雲の隠岐島の郷土資料館等においてこれを実見した(同行の毛利一郎氏等の御教示をえた。朝日トラベル社主催「古代史の旅」)。
(5)岩波古典文学大系『風土記』五〇九ぺージ、上欄注二一による。

後記
「麁猛神」は、岩波古典文学大系本では「あらぶるかみ」と訓ぜられているが、肥前国風土記の基肄郡の項で「有荒神(荒ぶる神ありて)」(三八二〜三八三ぺージ)とあって、表記を異にしている。したがって「麁猛神」は「荒神」とは異なり、「ソタケルノカミ」もしくは「ソノタケルノカミ」と訓じて、固有名詞なのではあるまいか。神社名鑑(神社本庁刊。八四八ぺージ、福岡県〈一三四〉)によると、
筑紫神社 旧県社
   筑紫郡筑紫野町原田 鹿児島本線原田駅より   〇・三粁
〈祭神〉 白日別尊 田村大神 八十猛尊 宝満大神
〈由緒沿革〉…もと城山の頂上にあったが後山麓に移さる。…

右の「八十猛尊」に当るものではあるまいか。素菱鳴尊の子とされる「五十猛神」(日本書紀、神代巻、第八段、第四、一書)との関係が注目される。


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制作 古田史学の会