縄文ストーンの公理

ー日英対照の論理ー

新泉社刊

新・古代学 第2集より

古田武彦

 一

 一九八六〜八八年、吉野ケ里遺跡の出現はわが国の考古学及び古代史学界と一般の人々を驚かせた。その理由の一つは、従来このような大規模の環濠集落は、日本はもとより世界においても知られていなかったからである。その二は、三国志の魏志倭人伝に記載されている「楼観」等に相当するかと思われる、高層木造建造物の柱穴が発見されたからである。
 ここに従来、世界の考古学史上、最大の環濠集落として著名であった、メイドゥン・カッスル(イギリス)との対比が学問的関心の光の中に立ち現われたのであった。




 一九八九年と一九九○年、わたしはメイドゥン・カッスルを訪れた。当遺跡はBC二五○・BC一五○・BC五○年、建造された。その問、六へクタール・一八へクタール・二三へクタールと増拡されている。ケルト人の、ドルトリッジ族の拠点と見なされている。
 もちろん、吉野ケ里遺跡とメイドゥン・カッスルとの間には、差異点も少なくない。たとえば、ガラス製品(管玉等)や絹製品は前者にあり、後者にはない。投石器と投石用のおびただしい石は前者では目立たないけれど、後者では著しい特色をなす。
 以上の差異にもかかわらず、両者の間には疑いえぬ共通性がある。その一は、銅・鉄器の時代であったこと。その二は、「弥生中期」を中心とする吉野ケ里遺跡はメイドゥン・カッスルと、時期的にほぽ共通の時代に属していること。その三は、同時期の一大環濠集落として、地球上の東西の島の上で双壁をなす存在であったこと。
 これらの共通点と類似性は、これを疑うことができない。




メイドゥン・カッスルには、その前史がある。次表はそれをしめす。

PERIODS OF CONSTRUCTION OF 

MAIDEN CASTLE

BY John Kemp

3000 BC

then

350 BC

eastern knoll with two concentric rings. Neolithic,steep sided,flat bottomed. bank barrow along northern crest of hill, 546m long, parallel ditches 18m apart. single rampart and ditch hillfort ringed eastern knoll following approximate course of Neolithic causewayed camp. Entrances at east and west ends.
250 BC massively extended by enclosing whole hill, western knoll making glacis rampart. Elaborated entrances.
150 BC again rebuilt; double ramparts on N end and treble at the S end. Inner rampart drops 15m vertical, back of the ramparts reinforced by sandstone slabs from within and upway. E and W ends, barbicans and sling platforms constructed.
100 BC redesigned eastern entrance.
44 AD Vespasian's Second Augustan Legion took the fort. Abandoned by 80 AD.
400 AD Anglo Roman temple with small houses built. Abandoned about 100 years later.

 すなわち、前三○○○年頃、すでに当地が利用され、簡単ながら環状立石の築かれた痕跡が存在する。
 これらの立石は、もとよりイギリス(大ブリテン島の南部に当る、イングランド・ウェールズ)の中で孤立した遺跡ではない。有名なストーン・へンジ(ソールスベリー)が前三○○○年から前一○○○年に至る、築造と改造の長い歴史をもつことが知られているように、これら巨大立石遺跡群の時期の後に当メイドゥン・カッスルも当っていたこと、およそこれを疑うことは困難である。
 上の状況は次のように簡約できるであろう。
 「メイドゥン・カッスルという世界最大の環濠集落(吉野ケ里出現以前)の出現は、それ以前、何千年にわたる一大土木事業の経験とその築工技術の蓄積の上に立っていた。」
 ローマは1日にして成らず、の格言はここでも真実なのである。




 では、吉野ケ里の場合は、いかに。

yosinogari.site

 これが本稿の中心をなす問い、真の問題提起である。
 当遺跡はメイドゥン・カッスルを上廻る規模をもつ。四十へクタールを越える領域をもつ。さらに近年、吉野ケ里の東西に、同類の環濠集落群が次々と発見された。あたかも、あのマジノ・ライン(フランス)のごとく、東西に連結された、一大軍事防衛線の様相が現れている。
 これらの、メイドゥン・カッスルをはるかに上廻る一大環濠集落群は、何等の前史なく、すなわち土木事業の経験とノウハウの蓄積もなく、突如花開いたものであろうか。ある日、「弥生の一夜」に忽然と生れえたものであろうか。−一否。
 もし、万一弥生期における「一夜発生」説を肯定する論者があったならば、わたしたちは彼等に対し、「日本列島住民、超能力主義者」の称を呈せねぱならぬ。なぜなら彼等の主張は
 “イギリスの大ブリテン島では、二千年前後の前史を経て、ようやくメイドゥン・カッスルという世界最大(吉野ケ里出現以前)の一大環濠集落を造成しうるに至った。これ、土木事業に関する、歴史的発展の姿である。
 これに対し、日本列島の弥生期の住民は何等の「前史」なく、いきなり、メイドゥン・カッスルをはるかに凌篤する規模の、吉野ケ里を中心とする一大環濠集落を形成しえた。すなわち、凡庸なる大ブリテン島住民とは全く隔絶した「超能力的人問」こそ、日本列島弥生期の住民である”。
 という主張を、等の論者たちが望むと望まざるにかかわらず、その「(弥生期)一夜発生」論を含まざるをえぬこととなろう。−一誇大妄想の立場である。
 このような「独断」に陥ることを欲せぬ、理性ある人々が必然的に趣かねばならぬ立場、−一それは他にはない。「日本列島の縄文時代をもって、一大土木事業の継続と蓄積期と見なす」立場が、これである。




 わたしは一九九三年二月末より現在(一九九五年九月)に至る間、十四回にわたって足摺岬を訪れた。同地の巨石群(遺跡)を調査、研究するためである。
 その詳細は、本年度末までに報告書(土佐清水市教育委員会)として提出する予定であるが、今その要点を簡約しよう。

 1) 当地の巨石群は、一二○○〜一五○○へクタールに及ぶ広大な領域に、数多くのグループをもって分布している。
 2)それらは、当地の自然的立石を主柱もしくは主基盤としつつも、これに対し、人工をもって他の中石や大石を移動・集中し、全体として“人間の祭祀遺跡群”を構成している、という事実が確認された。
 3) 上の事実は、軽気球上からの撮影写真及び岩石学の専門家(加賀美教授)の岩石の節理調査等をもって、認識されるところとなった。
 4) また赤外線の専門家(岡本教授)や自然科学の技術者(坂木氏・中重氏等)によっても、貴重な先導・教示・助言を得て、上の成果を得ることとなった。
 5) さらに、他の自然科学上の調査・研究でもまた、上の成果が追証された。
 さらにわたしは、当地の郷土史家や研究者の導きをえて、次のような注目すべき現象を知ることとなった。
 6) 当地の遺跡には、各種の興味深いスタイル(「型」)をもつ岩石が分布している。たとえば
  1
 男女の性器の形をした巨石。中には、その前に、祠や鳥居をもつものもある。
  2
 鏡岩。その一面が平面をなし、太陽やぷの反射によって輝く。
  (南や東南方向、黒潮に向かっているものが多い。)
  3
 三列石。三つの石がワン・セットとなり、並立している。この形状はかなり多い。或は天然に、或は一部人工的に構成されていることが今回の研究調査で確認された。

 他にも存在するが、詳しくは報告書においてのべる。

 今の問題は、吉野ケ里の背後(北側)に存在する雷山の山頂に、巨大な三列石が存在することである。その一は鏡岩状をなし、その二は女性のシンボル、その三は男性のシンボルの形状をなしている。
 これらは山頂の平面上に配置されている。各石は相互に、ゆったりと絶妙のバランスをもって存在している。先にのべた足摺岬周辺の巨石群の中に見られる、複雑かつ多種にわたるスタイル「型」)が見事に、そして整然と、これ以上なしえぬ簡潔さをもって、いわば「集約」されているのである。明らかにここには、
 「足摺岬周辺の巨石群から雷山へ」
 という“文明様式の伝播”を認めざるをえないのである。少なくとも両地域が共通の古代文明様式の下に存在していること、それを疑うことは不可能である。この点もまた、雷山の下にある吉野ケ里遺跡の成立の背景に、たとえば足摺岬周辺のような一大上木事業の存在したことを示唆している。
 その足摺岬周辺の巨石群遺跡の成立は、縄文期に行われた可能性が高い。なぜなら

  1
 このような広汎、かつ奥深い一大土木事業は、多大の人口なしには成立しえない。 
  2
 この足摺岬周辺の領域(畑など)から出土する土器や鍍類は、縄文期に属するものが圧倒的に 多く、弥生期や古墳期(及びそれ以降)に属するものは激滅する。すなわち、形大な人口を擁していたのは、当地域においては、縄文期以外にこれを見出し難いからである。


 この点は、報告書において詳説されると共に、今後の考古学発掘調査を通じて、より明らかにされることと思われる。




 さらに、次の問題にふれておきたい。それは「渡来人」の件である。
 吉野ケ里遺跡の成立に対し、中国や朝鮮半島からの「渡来人」の影響を指摘する論者は少なくない。事実、先述の絹やガラス製品、さらに銅・鉄製品等、いずれも中国・朝鮮半島からの、人問の渡来をふくむ文明伝播の結果をしめしていること、疑いがない。この点、反論のない共通理解に属している、といえよう。では、この立場を押しすすめ、「吉野ケ里遺跡は渡来人の渡来、或は影響があったから、“縄文の前史”なしにでも、成立しえた」かのように説くことは、可能であろうか。一否。 なぜなら

  1
  土木事業というような多大の人口を背景にした仕事は、若干の外来的影響は当然としても、それのみの上に、“成立”できるようなものではない。

  2
 イギリスの大ブリテン島の場合にも、たとえばストーン・へンジの巨石が土地の人々から「エジプト石」と呼ばれているように、先進文明地域からの渡来・伝播・影響の存在したこと、その事実を疑うことは不可能である。ドーバー海峡の南岸たる、ブルターニュ等のフランス方面にも、輝かしい巨石文明圏の存在したこと、あまりにも著名である。それらからの渡来や伝播や影響なしに、メイドウン・カッスルの一大土木事業の成立を考えようとするのは、あまりにも無謀であろう。

 その上、当メイドウン・カッスルに存在する銅・鉄器類等が大陸側(エジプト・トルコからフランスに至る)からの文明伝播の上に立っていること当然である。従ってわが吉野ケ里遺跡のみを「渡来人」問題を理由とする特殊現象とし、これを「縄文の伝統」から切り離そうとする立場は、やはり成立不可能なのである。




 一八六八年における明治維新は、わが国の歴史にとってまことに画期的なものであった。その点は、いくら強調されてもいいのであるけれど、反面、その一大革新を可能ならしめた背景、その歴史的基盤がすでに江戸時代に形成されていたこと、この事実は近年次々と明らかになってきた。
 たとえば、明治以後実施された義務教育制度は、世界で二番目の成立という画期的なものであるけれど、反面それは江戸時代に各藩で菩積された「武士の教養」と「寺小屋の普及」なしにはありえなかったのである。それは「義務教育における教師」の問題1つ考えてみても、疑いえないところである。 またそのような「江戸時代以前の受け皿」の存在を無視しては、なぜ日本人のみが他のアジア地域にぬきんでて西欧文明の移入に対して、すばやく対応し、受容を可能となしえたか、という根本問題に対する回答は不可能であろう。
 これと同じく、弥生期における外国(中国及び朝鮮半島)からの文明伝播や渡来人効果をいかに強調したとしても、それだけでは全く吉野ケ里とその東西領域にしめされたような、一大土木事業の成立に対する容観的な解説は不可能である。すなわち
 「日本列島の縄文期は、この列島内各地に分布する山地の巨石群を舞台とした一大土木事業の時代であった。」
 この事実を肯定する他はないのである。




 本稿を貫く研究思想は、論理的には平明かつ自然であり、いわば人問の常識に属する。しかるに従来、このような常識的見地が、わが国の古代史学上、また考古学上、採用されずに来たのは、なぜか。 その一因は、思うに、マルキシズムのわが国の古代史に対する“悪しき”或は“あやまった”適用にあろう。大正から昭和にわたる、一群の古代史・考古学上の学者たちは、この舶来の理論をもってわが国の歴史を分析し、解明しようとした。その結果、
 「縄文時代は、原始共産制の色濃き、共同体及び氏族制の時代であった。」
 と見なした。その後の弥生時代にはじめて、階級や国家が成立した、と称したのである。そのため、縄文時代における「共同的、統一的組織労働」の事実さえ、ほとんど否定的に取り扱われていたのである。
 これに対し、赤塚遺跡(茨城県)における、縄文(中期)土器の共同製作場(仕事場)の発掘により、すでに上のイデオロギー的理解は否定されたのであるけれども、なお上のような「縄文文明に対する軽視」の傾向は、わが国の古代史学界及び考古学界において、色濃く残存しているのである。
 そのため、あれほど(旧石器時代以来の)莫大な石器製作や地球上最古の工業文明たる、絢燗たる土器文明が、数十万年(石器)及び一万二千年(土器)つづいた日本列島において、この山地島嶼特有の岩石群の存在に対して何等の積極的な関心も、宗教的畏敬の一大遺跡も、土木事業的挑戦の様相も、一切、或はほとんど残さなかった、というような、むしろ一種の“奇矯な”歴史観を通念化したまま、現今に至っていたのではなかろうか。

 このような旧習を捨て、人間の平明な常識に帰る。これが本稿の唯一の主張点である。
 すでに賢人ののべたごとく、
 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところに至ろうとも。」
 これが学問の大海を導く、唯一の輝く灯台だからである。わたしもただ、一介の研究者として、この導きに従ったにすぎない。
 (昭和薬科大学「紀要」第30号より転載)


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制作 古田史学の会
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